東京都墨田区…今月1日。
93年前に起きた関東大震災の犠牲者を慰霊する法要が行われました。
遺族ら600人が参列しました。
1923年9月1日に発生した大地震。
火災が東京・横浜などで広がりおよそ10万人が命を落としました。
公園の一角で祈りをささげる人たちがいました。
大震災の時に殺された朝鮮人を追悼する石碑。
当時流言誤った情報が広がり多くの朝鮮人が殺害されたのです。
9月1日になる度に一つしかない命を取られたその人たちの気持ちが自分がもしその時何も悪い事しないのにね「お前は朝鮮人」だって殺される瞬間どんな気持ちですか?人間だったらね…なぜ俺が殺されなくちゃなんない。
93年たっても亡くなられた方たちの本当に無念な思いいわれなく殺された方たちの無念な思いそれにきちんとこたえてない。
やっぱり日本人は伝えられなくても自分の方から知る努力も併せてしなきゃいけない。
震災の前の年東京には少なくとも5,000人ほどの朝鮮人が暮らしていました。
多くは朝鮮半島からの出稼ぎ労働者。
その朝鮮人に悲劇が起きたのです。
2009年国の中央防災会議が関東大震災に関する報告書を出しました。
震災の教訓をさまざまな観点からまとめたものです。
その中で国の組織として初めて朝鮮人殺傷事件について詳細に分析しました。
「軍警察市民ともに例外とは言い切れない規模で武力や暴力を行使した」。
朝鮮人に対する迫害という問題をですねちゃんと取り入れる事ができたというかしっかり政府の報告書にそれを書き込んで教訓の一つとして位置づける事ができたという点は大きいと思いますね。
報告書が朝鮮人殺傷の根拠としたのが当時の司法省の資料です。
立件された51件の朝鮮人殺傷事件。
いつどこでどのように殺害されたのか記されています。
なぜ殺害が起きたのか?中央防災会議の報告書は次のように分析しています。
国や県が誤った通達を出し流言を信じた人々が殺害をした事例もあります。
朝鮮人殺害の記憶を父親から聞いている人がいます。
この下の畑ちょうど玄関この辺ですね。
サツマイモのツルで足取られてそこを村人が襲撃したと。
たまたまなんだろうけどもうちの畑だったんですよね。
関東大震災から93年。
なぜ多くの朝鮮人が殺されたのか。
新たな資料や人々の証言から迫ります。
ここに朝鮮人殺傷事件を司法省がひそかにまとめた資料が残されていました。
こちらになります。
初めてテレビの撮影が許されました。
震災後に立件された刑事事件を司法省刑事局がまとめた調査書。
朝鮮人の殺傷事件について一つ一つ取り上げて報告されています。
調査書がまとめた殺傷事件で朝鮮人の死亡者は合わせて231人。
当時の政府が確認した殺害です。
中央防災会議の報告書を取りまとめた…司法省の調査書をもとに朝鮮人の殺傷事件を分析しました。
多くの朝鮮人を標的にした殺傷事件が起こったというその事自体をよく示している。
非常に貴重な資料ですね。
殺人とか殺人未遂とかあるんですが「鳶口金槌等を以て乱打したるも殺害するに至らず」というかなり乱暴な暴行が行われた事。
明らかに相手に抵抗する力がないと思われる者を集団で襲って虐殺という名前と言わざるをえないような事案というのも出てきます。
司法省の調査は犯人が検挙され刑事事件として立件されたものに限られています。
番組では調査書の51件の殺傷について場所と被害者の数を地図上に表しました。
震災の翌日9月2日東京府下で始まった殺傷事件。
3日にピークを迎え更に埼玉県千葉県と近県に広がっていきます。
9月6日までに231人が殺害されました。
なぜこうした殺傷事件が起きてしまったのでしょうか。
午前11時58分マグニチュード7.9の地震が関東地方を襲いました。
激しい揺れに加え東京・横浜を中心に発生した大火災が被害を大きくします。
10万人余りが命を失い東京だけで100万人以上が避難生活を強いられました。
警視庁も火災に見舞われました。
電信・電話など通信手段が壊滅。
警察は事態の把握ができなくなります。
そうした中人々の間で飛び交う流言が警察署に報告されます。
最初の流言は1日の午後1時。
「富士山が大噴火している」「大津波が襲来する」。
午後3時には初めて朝鮮人に関する流言が報告されます。
1日の午後流言を聞いて荒川に架かる鉄橋に避難した男性の証言が残されています。
「津波だ〜」って言う。
「津波だとよ〜」って。
「津波だ〜」って言うわけよ。
いつまでたっても一向津波なんか来やしないんだよ。
何だよって言って…それでそれ〜っていう事で今度はにわかにね殺気立っちゃったわけだこっちがね。
我々は。
農家だからありますよね。
竹ざおぐらいはね。
だから「誰だ〜誰だ〜」っていたずらに空をつついて。
社会学者の佐藤健二さんは中央防災会議の報告書の中で東京の警察署が記録した流言を分析しました。
流言のおよそ8割が朝鮮人に関するものでした。
…暴行至らざるところなし」。
1日の夕方報告が始まった朝鮮人に関する流言。
震災翌日一気に増え東京全域に広がっていきます。
まだラジオがなかった当時人々の情報源は新聞でした。
しかし新聞社が火災に遭いほとんどの新聞が発行できなくなっていました。
唯一のマスメディアである新聞が途絶えた。
その事によって情報の空白の状態みたいなものっていうのの中で人々がやっぱり不安を感じたという事は大きいと。
情報を確かめるという事が非常に難しかった。
そうするとだから街頭に出て人に聞いてみるとか何かそういうような事。
でもその街頭には避難した人たちとか何か見知らない人たちもたくさんいていろんな情報っていうふうなものを流していく。
でそれに頼らざるをえない。
猜疑が猜疑を生み不安が更なる不安を生み出しっていうような事が流言をやっぱり押し広げていく非常に大きな力になってしまった。
9月2日になっても東京では火災が広がり続けていました。
食べ物や水を得る事も困難な避難生活。
安全な居場所を求め千葉・埼玉など近県に逃れる人も多くいました。
流言は2日午後東京の東現在の千葉県船橋市にも広がっていました。
千葉県内で起きた朝鮮人殺傷事件について40年ほど前から調べてきた人々がいます。
元高校教師の平形千惠子さんたちは流言を聞いたという人の証言を記録していました。
震災後情報収集に努めていました。
向こうから電話でね…これが一番先だよ入ってきたのは。
驚きましたなその時には。
交戦中だって。
えらい事になっちゃったわい。
どうしたこったい。
そんな事が起こるかなというような気持ちがあったわけだよ。
9月2日午後政府は人々の混乱を収めるためにある決断をしました。
戒厳令を適用したのです。
警察が機能を失った中軍隊が東京の治安維持に乗り出しました。
当時…戒厳令の適用に踏み切った震災翌日の閣議を回想しています。
関東地方では9月中旬までにおよそ5万の兵力が集結。
軍隊は警備やけが人の救護復旧活動も行いました。
軍自体は治安維持だったりとか救護活動に出るためにそういうものをやってるわけなんですけども結局軍が銃剣を持って町に出るっていう事はやっぱり見る人によってはそれが朝鮮人が暴動を起こしてるんだっていうふうに思うようになった可能性はありますね。
司法省の調査書によれば朝鮮人の殺傷事件が9月2日夕方から発生しています。
調査書によれば2日の朝鮮人殺傷事件は8件。
いずれも現在の東京都内で1か所で16人が殺傷された事件も報告されています。
なぜ朝鮮人殺害が起きたのか?司法省の資料には人々が自衛のために殺傷を行ったとあります。
9月2日の午後までに流言を信じた人々は自警団を作り町を守ろうとしていました。
自警団は銃をはじめ鳶口鍬玄能熊手鎌鋸などで武装しました。
朝鮮人を見つけるために見慣れない人を捕まえて「15円50銭」「ぱぴぷぺぽ」などと言わせました。
朝鮮人にとって発音しにくい言葉です。
演出家や俳優として活躍した千田是也さんは震災当時自警団に取り囲まれ尋問された経験があります。
2日の夜大学生だった千田さんは朝鮮人が大挙して日本人を襲うという噂を聞きました。
千駄ヶ谷でコリアンではないかと疑われた事から「千田是也」という芸名を名乗るようになりました。
「私も被害者ではなく加害者になっていたかもしれない」という思いからでした。
朝鮮人に間違えられて日本人も殺されました。
司法省の調査書ではその数59人。
中には地方出身者や聴覚に障害がある人もいました。
なぜ人々は流言を信じ朝鮮人を殺害してしまったのでしょうか?その背景には朝鮮半島に進出した日本の歩みが影を落としていました。
1910年の韓国併合により朝鮮半島は日本の植民地となりました。
軍の力を背景に朝鮮総督府が統治していました。
1919年日本の支配からの解放を求め3・1独立運動が起きます。
ソウル市内から始まり朝鮮半島全土に広がった運動。
日本は軍隊や警察を動員弾圧しました。
当時日本人が朝鮮人をどのように見ていたのか。
歴史学者の山田昭次さんは長年研究してきました。
3・1運動はそもそも非暴力運動として始まったんですよ。
ところが日本が暴力運動をやったからそれで朝鮮人も暴力で対抗するようになるんです。
で朝鮮人っていえばやたらむやみに暗殺を謀り陰謀する者だというふうに日本人の多くが思うようになっちゃったんですね。
1920年東京でも独立運動家の朝鮮人が逮捕されます。
要人暗殺のため爆弾を製造していたと報じられました。
こうした中新聞は朝鮮人を危険視する記事を掲載するようになります。
新聞の報道の影響もありますよね。
新聞がやたらね朝鮮人市内各所に出没して陰謀を謀る不正鮮人団って興味本位で朝鮮人ってのは恐ろしい連中だって報道をしばしばやってるんですよ。
それが一つとそれから警察の取締りが朝鮮人に対する取締りが厳しかったんですよね。
例えば朝鮮人に間借りさせてるとねその日本人を不逞鮮人を世話するというのはけしからんなんて脅かされたりねするんですね。
それから朝鮮人学生がねちょっと集まってるとね数人集まってるだけでもすぐ逮捕しちゃうとかそういう警察が厳しい取締りやるからどうしても朝鮮人は怖いっていう印象を日本人が持ったと思いますね。
朝鮮人に関する流言が広がっていく中治安維持を担う内務省はどう対応したのか?内務省警保局長の後藤文夫は誤った流言を事実と信じ動きました。
9月3日朝後藤は各県に宛てて次のような通達を発信します。
「東京付近の震災を利用し朝鮮人は各地に放火し不逞の目的を遂行せんとし現に爆弾を所持し石油を注ぎて放火するものあり。
鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加えられたし」。
警察の中でもひょっとしたらこんな時に朝鮮人の中から悪さをするような人間が出てくるかもしれないという警戒心が震災の前から既にあったので「あっほんとに起こってしまったんだ」というふうに思い込んで流言を信じてしまった。
あるいは流言を完全に否定する事ができなかったというふうに思われます。
内務省警保局からの通達は県から郡村を通じて各地区にまで伝えられる事になっていました。
この通達を受けた地域では何が起きたのでしょうか?さいたま市染谷です。
県を通じて村役場に指示が伝わりました。
「不逞の徒の襲来に備ふべく自警の方策を講ぜられたき旨通牒を発したる」。
この指示は3日染谷の地区長の家にまで届きました。
(取材者)こんにちは。
こんにちは。
農家の…
(橋)説明しますとこれが関東大震災の時に…祖父の吉三郎さんは指示に従って自警団を作りました。
その活動を示す記録が去年見つかりました。
(橋)「大正十二年第三区長殿」。
これは自警団に対して鮮人の件って書いてありますから朝鮮人の事件っていう意味だと思いますね。
自警団の活動は村の費用で賄われていました。
「大正十二年九月三日より夜警」というふうに書いてますから夜警をやった一つのに対するいろんなもろもろの費用がかかってる。
これは村から出たんだね。
蝋燭白米燃料石油「蓆三枚及戸板」って書いてあるんですね。
橋さんは父親や近所の人からこの地区で広がった流言について聞いています。
この井戸枠の上に蓋をしたって。
井戸がどこにあるか分からないようにカムフラージュをしたって。
毒を入れられないように。
この井戸も昔のまんま。
これをこうやっておくんだ。
竹とかこもで蓋したって言ってましたよね。
わらで分かんないように。
当時染谷に朝鮮人の住民はいませんでした。
9月3日夜自警団が警戒している中一人の朝鮮人がこの村に迷い込んできました。
こう来てここまで逃げてきたんだけどここ崖下りてこの下の畑ちょうど玄関この辺ですね。
この辺の畑がサツマイモ栽培当時ね栽培しててそのサツマイモのツルで足取られて。
そこを村人が襲撃したと。
ただそのあとはみんなでめった刺しにしたっていう話は聞いてますけど。
たまたまなんだろうけどもうちの畑だったんですよね。
田んぼがあって畑があって作ってるのは…お貸ししてたと。
地主だからね。
(取材者)橋さんちの畑だった?そうです。
この染谷での事件は司法省の調査書にも記されていました。
「被害者姜大興」。
加害者であり被害者でありという両方あったんじゃないですかね。
要するに流言飛語でね。
井戸に毒を入れるなんて話はもとはなかったわけだからね。
この染谷村に。
なかったのが持ち込まれてきたわけだからそういう意味では被害者だよね。
それで通知で秘密文書が来て結束して自警団組織して自警しなさいって言われたわけだからね。
だからほんとにそのやった当時の人はいつも話出るけど初めはね不逞朝鮮人の輩をやっつけたというので手柄でね。
警察で褒美もらえると勲章もらえるんじゃないかって言って「私がやりました私がやりました」って言ったつうんだから初めは。
内務省の通達が伝えられた埼玉県では9月4日から6日の間に94人の朝鮮人が殺傷されたと記録されています。
24人30人38人と1か所で多くの朝鮮人が被害に遭った事件が目立ちます。
確かに政府がそういう内務省警保局という今の警察庁的な役所が朝鮮人がこの機に乗じて悪い事をするから警戒しろって情報を流してそれが殺傷事件の背景になった面というのも確かにあります。
だからそれは政府が悪い面もあるんだけれども実は別に彼らも警保局も噂に普通にどうも巻き込まれていただけであるらしい。
あるいは軍隊が殺傷した事案も多いけれども軍隊自体もどうも全部ではないですけどね一部の部隊は噂にまさに巻き込まれて多くの市民と同じようにそれを信じていたという事。
内務省だけではなく軍の中にも流言を信じ増幅してしまった事例があります。
千葉県船橋市にあった海軍の無線電信所船橋送信所です。
震災により使用できなくなった東京の無線施設に代わって船橋の送信所は全国に情報を発信する重要な場所となっていました。
この送信所の所長だった海軍の大森良三大尉が震災後の処置を記した報告書です。
4日午前7時大森所長のもとを地元の自警団が訪ねてきました。
そこである噂を聞きます。
「只今鮮人の一隊電信所を襲撃する」。
大森所長は送信所が襲撃されると聞き無線を通じて全国に助けを求めます。
「SOS援兵たのむ船橋」。
「鮮人300船橋に上陸。
危急迫る」。
間違った情報を全国に打電したのです。
大森所長は送信所を守るために自警団にも協力を求めました。
それを物語る証言テープが残されています。
司法省の調査書によればこの事件の被害者は氏名不詳16名。
聞き取り調査を進めてきた…殺された朝鮮人の事を僅かに知る事ができました。
この殺害事件はその後裁判になります。
被告は殺害が大森所長の命令によるものだと述べます。
大森所長は次のように反論しました。
「絶対に殺してもよいとはいう筈がなく襲撃してくる朝鮮人は殺してもよいといったにすぎない」。
結局大森所長は「殺人教唆と認め難し」として責任を問われる事はありませんでした。
内務省が朝鮮人への警戒を全国に発信した9月3日警視庁は流言の誤りに気付いていました。
その前夜の事を当時警視庁の幹部だった正力松太郎は回想しています。
9月3日午後6時には警視庁は市民に対して次のような公告を発します。
「一部不逞鮮人の妄動ありたるも大部分は順良にして何等兇行を演ずる者に之無し」。
大部分の朝鮮人は従順で善良なので迫害しないように呼びかけたのです。
政府は朝鮮人を保護する方針を打ち出します。
千葉県習志野の陸軍の収容所などに朝鮮人を集め保護したのです。
しかし政府が流言を否定したあとも朝鮮人の殺害は続きました。
司法省の調査書によれば9月2日東京府下で始まった殺傷事件は近県に広がり6日まで続きました。
現在の群馬県藤岡市や栃木県那須塩原市でも起こり殺された朝鮮人は231人に上っています。
調査書には留学や出稼ぎで来ていた中国人の殺傷も記されています。
そして日本人の社会主義者が軍隊により殺害された事件も報告されています。
朝鮮人の殺害が収まったあと政府はこの問題にどう向き合おうとしたのでしょうか?殺された朝鮮人の遺体をどのように処理するか当時の政府の方針が朝鮮総督府の文書に記されていました。
遺骨が日本人か朝鮮人か分からないようにする。
「鮮人に被害あるものは速やかにその遺骨を不明の程度に始末すること」。
被害に遭った朝鮮人の遺骨は誰のものか分からないようにする。
遺体の処理に関わったと証言しています。
ひどいもんですよくさい事。
被害の全容が見えない中東大教授吉野作造は朝鮮人留学生と共にその年秋に実態調査を行い雑誌で訴えました。
震災の年の12月。
帝国議会で朝鮮人殺傷事件が議論となりました。
衆議院議員永井柳太郎は政府の責任を問いました。
時の首相山本権兵衛は答えます。
その後政府の調査結果が発表される事はありませんでした。
朝鮮人の殺害を司法はどのように裁いたのでしょうか?事件後362人が起訴されました。
現在の足立区で起きた事件の記録が近年発見されました。
なぜ殺人を犯したのか11人の詳細な供述が記されています。
資料を発見し分析したのは大正時代の民衆史を研究してきた…訴訟記録の中で一番重要だと思うのは加害者の自身の供述を読み取る事ができると直接に殺害の動機であったり経緯を知る事ができるわけです。
殺害に加わった23歳の男性の供述書です。
殺意を抱いたきっかけは土手で殺された朝鮮人の死体を見た事でした。
その時朝鮮人が悪い事をしたから殺されたのだと考えたといいます。
男性は数十人の人々と共に朝鮮人労働者の長屋を襲い7人を殺害しました。
殺害が終わると居合わせた人から「万歳」という声が上がったといいます。
藤野さんが注目したのは被告の職業です。
河川工事を行う…そして日雇いなど収入が不安定な仕事に就いている人が目立つと言います。
不安定な職業低賃金の職業には当時朝鮮から流入してきた労働者がたくさん入っていく事になります。
そうすると日本人の労働者にとっては…日頃から存在する…それで虐殺へと人々が向かっていったんだろうと。
この足立区で起きた事件は当時の新聞によれば懲役2年から3年の判決が下されました。
そのほとんどが執行猶予付きだったと伝えています。
内務省の通達を受けて自警団を組織朝鮮人1人を殺害した…地域の人々は事件をどう受け止めたのでしょうか?染谷では5人が起訴されました。
判決は懲役1年半から2年。
執行猶予が付いたため収監されませんでした。
村でどうしようかっていうんで相談合議のうえに被告5人を選出してそれでご苦労だけど行ってきてくれって区長はうちのおじいさんなんかはそういう事を言ったんだと思いますけどね。
その後だから嘆願運動をやったってよく聞きましたよ。
噂デマで惑わされてやっちゃったんだから悪気がないんだと。
だから罪軽くして出してくれという嘆願運動を村の人みんな署名集めてそれで警察へ陳情したんだよね。
全面的にね自分たちが悪くて殺人を犯してるから悪い事なんだけどそれよりも政府なり役人さんの言う事を聞いたっていうのがそれでだってもらい下げ運動をやるって事は悪い事したと思わないっていう事だよね。
仮にやっちゃったとしてもそれは間違った噂によって動いちゃったんだっていう事だから。
染谷では震災から間もなく村人たちが亡くなった朝鮮人の墓を寺の墓地に建てました。
殺害を行った地域の住民が墓を作った例は数えるほどしかありません。
(橋)お墓は…自身は「朝鮮人姜大興墓」って書いてあって。
もう小学生の低学年からは来てますね。
何も分かんないぐらいの時から朝鮮の方のお墓だとお線香をあげるようにというんで親から言われてあげてましたね。
やっぱり一つの事件としてそういう事は繰り返されてはいけないっていう考えはあったんでしょうね。
墓には「施主染谷一般」と刻まれています。
地区一同で墓を作ったのです。
「関東地方大震災の節当字に於て死亡」。
朝鮮人がこの地で命を落とした事が記されています。
しかし橋さんは「死亡」という記述に違和感を持ってきました。
あれだよね死亡っていう事だけだから真実を正確には伝わってないよね。
やっぱり殺したっていう事自体は犯罪ですからね。
ですからそれを隠す意味があるんじゃないですかね。
正確に言うと。
だから虐殺とは書けないんだろうけど何か表現のしかたあったかと思うけどね。
死亡になってますね。
死亡じゃ病気で死んでも死亡だし。
そういう事になりますよね。
関東大震災。
それは将来の大規模災害に備える私たちにどのような教訓を残したのでしょうか?中央防災会議は2年にわたってこの問題に取り組んできました。
消防や医療などさまざまな観点から大震災を分析。
朝鮮人殺傷事件についても国の組織として初めて検証を行いました。
歴史をやっぱり忘れてはいけないと思います。
今後同じ事を絶対に繰り返すというつもりは全然ないんだけど絶対に繰り返してはいけない。
繰り返すとしたら我々は何も反省していなかった事になるし。
普段は常識の枠で常識的判断で抑えられているものがですね何かのきっかけでたがが外れるというかそうなった時にそういうなじみの薄い日本国内における少数者に対して我々が牙をむいてしまうという事はやっぱりありうるんじゃないかって。
あるいはそれをありうるんだって思って警戒し続ける事こそが震災の時の殺傷事件で犠牲になった方々…犠牲を無駄にしない道なんじゃないかと思います。
さいたま市染谷。
父親から朝鮮人殺害の事実を伝え聞いている橋隆亮さんです。
お盆の日。
かつて父と共に参った墓に橋さんは孫たちを連れてやって来ました。
じゃあお参りしながらねおじいちゃんの話聞いて下さい。
ここにあるのはね朝鮮人の姜大興さんって当時24歳の方のお墓なんですけど今から93年前関東大震災がありましてその時に…流言飛語って知ってっかな?大きい子は知ってるけど。
デマで井戸に毒を朝鮮人が毒を入れるとかあるいは火をつけるとかいうのを流されて自警団を組織してね警戒あたれって言うんでそこのサツマ畑があったんだけどそこで倒れて村の人がなぎなたとか万能とか鍬とかでみんなでかかって亡くなっちゃった。
そういう不幸な事件があったんです。
えっ?誰が殺されたの?
(橋)朝鮮の青年。
近所に暮らす橋さんの8人の孫たち。
この日初めて事件について詳しい話を聞きました。
やっぱり子どもたちに伝えるのも分かんなくなっちゃうからね。
代がかわっていくと。
確かに染谷の人にしてみれば恥だったんだと思いますけど我々はそれ乗り越えていかなくちゃいけないんじゃないかなっていうふうに思います。
関東大震災から93年。
朝鮮人を襲った悲劇の記憶が薄れゆく中事実を伝えようとする試みが今も続けられています。
(セミの鳴き声)2016/09/03(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「関東大震災と朝鮮人 悲劇はなぜ起きたのか」[字]
1923年の関東大震災。混乱のなか流言が広がり、多くの朝鮮人が殺害された。悲劇はなぜ起きたのか。司法省の一次資料や残された証言記録を基に事件の社会的背景を探る。
詳細情報
番組内容
1923年の関東大震災。混乱のなか流言が広がり、多くの朝鮮人が殺害された。悲劇はなぜ起きたのか。中央防災会議は2009年に国の機関として初めて事件を分析、報告書にまとめた。それによると軍や警察、新聞も一時は流言の伝達に関与していた。また裁判記録の研究が進み、自警団などが殺害に至った経緯も明らかになってきた。番組では、司法省の一次資料や民間の聞き取り調査などをもとに事件の社会的背景を探っていく。
出演者
【語り】濱中博久
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0x0808)
EventID:7887(0x1ECF)