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可愛い大家さんと新しい住居、苦しい私
住居への道すがら、アストラ様はずっと声を聞かせてくださった。
過ぎる窓の外の光景を指差し、美味しいお菓子の店、中央通への抜け道、それに穴場の散歩道など、情景豊かに。身分の高い方だとは思うのだけれど、随分と街の隅々に馴染んだ方。そんな印象を受けた。
鮮やかに移り変わる情景もさながらに、アストラ様の弾んだ声が、胸を躍らせてくれた。
「抜け道はできるだけ使わないように」
と、途中、父様のような表情のオクリース様に注意されつつ、馬車は進んだ。
静かな住宅街に入ると、アストラ様が地図を広げた。遠慮がちに、しかしながら、押さえきれない好奇心をともに、膝を覗き込む。細かな文字で書き込みがされている。
「このあたりの治安は良いが、中心地から外れるとお世辞にも行儀が良いと言えぬ輩が集まっている場所もある。あと――」
アストラ様の膝上にある地図。そこを滑る指を目で追っていたのだが、突然ぴたりと止まった。爪先が止まった箇所は、今しがた柄が良くないと称された地域から、わずかにだけ離れた一角だった。
はてと首を傾げてみたが、アストラ様は後頭部を搔くだけで、口を噤んだままでいる。言いにくい所なのだろうか。秘密組織とか!
ちょっぴりのわくわくを込めて目を細め、覗き込んでみる。と、横からオクリース様の溜め息が聞こえてきた。
「ヴィッテ。ここが夢のような花の都とは言っても、夢の都ではありません。アストラが指差している地域はいわゆる、花街です」
「花の都の、花街ですか」
文字面だけ見ると、最も美しい光景が浮かんでくるが……。オクリース様からの無言の圧力が否定してくる。はい、わかってます。
いわゆる、女性が春を売る斡旋所。娼館街だろう。わずかにだとは思うが、頬が熱くなった。男性二人と密室で話題にするのは、やはり、恥ずかしい。つい、ちゃかしたような口調になってしまったのは、仕方がないでしょ?
「ヴィッテ」
「はい」
心の中の言い訳も虚しく。馬車の空気を揺らした厳しい声色に、思わず、両手を膝に置き姿勢を正した。学院の先生を髣髴とさせる声色だ。
目の前に座するオクリース様は、無表情。
けっ決して、都会を侮っての発言ではないのです。ただただ、色々想像してしまった未熟者の照れ隠しなのですよ。音にはならないので、全く意味がない弁解だ。
がたんと馬車が揺れた拍子に、体がぐらついてしまった。さっとアストラ様が支えてくださったのだけれど。こんな話をしている時に触れられると、変に意識してしまって……。
「あっありがとう、ございます! 車輪が石でも踏んだのでしょうかね!」
「いや。壁にぶつからずに、よかった」
うわずったお礼だけを投げ、早々に離れた。服越しだが、アストラ様に触れられた部分が、どうしてか熱をあげてくる。焼けるように、焦れている。
というか、横目で見たアストラ様が、視線を逸らして手を開閉していて。余計に気恥ずかしくなってしまった。アストラ様のようなお人柄や容姿ならば、女性慣れもしていましょうに! とは突っ込めなかった。まぁなと返されるのが、怖かった。何故か。
「貴女のように異国から来訪したばかり、しかも年若くぼんやりした娘は、人買いにも花買いにも、標的になりすいのです。加えて、女性の一人暮らし。言葉巧みに陥れられる可能性もあります」
「私、ぼんやりして見えるのですね……気をつけはしますけれど、別に、私みたいな色気のないのを、わざわざ選ばなくとも」
「なにを言うか! ヴィッテは可愛いし、人をひきつけるものを持っている。内面から溢れる魅力は隠せないからな。むろん、容姿も可愛いが。俺はヴィッテの悲しみも喜びも灯している瞳が好きだぞ?」
オクリース様、申し訳ございませんでした。貴方様のご忠告、私にはあんまり関係ないかなとか捉えてしまって。いえね、警戒心は抱いてしかるべきだとは承知しております。
が、だがしかし。お隣の、実際が伴っていない誉め殺しよりは、断然、オクリース様のご忠告の方が現実味あってありがたい!
アストラ様、勘弁してください。ヴィッテは、自分の存在が申し訳なくなって、小刻みに身震えてしまいます。分不相応とはこのことですぜ。
「アストラ様のお世辞、贔屓目、社交辞令は置いておきまして! オクリース様のご心配ご配慮は心に刻んでおきます! なるべく、その地域へは立ち寄らないようにします!」
荷物をよけるがごとく、両手を動かし。声高に宣言していた。
横で「お世辞じゃないもん」とか唇を尖らせているあほの子アストラ様は無視である。全力で視界から外す。なんですか、もんて。二十も過ぎた男性が口にする言葉ですかい。しかしながら、アストラ様から発せられると可愛いとすら思えるから卑怯だ。ずるい。
逃げるようにオクリース様に向けて腕を伸ばした。てっきり良い心がけと誉めてもらえると思ったのに。深く微笑まれてしまった。
「……なるべくではなく、絶対です。絶対服従、ヴィッテは、約束、必ず、守ります」
「よろしい」
無表情で頷いたオクリース様。美しいほどに、無表情だ。瞳の色はともかく。
おぉぉ。よかった。これでまた回答を外したら、どうなっていたことか。片言になったのは、見逃して欲しい。あの威圧感を前に正気を保っていたのを誉めて欲しいくらいだ。隣で「オクリースはずるい」なんて腕を組んで文句をたれているアストラ様が、おかしいのだ。
「さて、着いたようですよ」
やはり丁寧な停車だった。
カーテンを開けたままの窓からは、ほんのわずかに建物が見えた。三段ほどの階段を上がった所にある扉は、とても綺麗だ。アパートだから共通口だろう。青を基調としたステンドグラスが蝶を形づくっている。赤みのあるガラスは、チューリップだろうか。
きらきらと光を散らしているのは、魔法効果なのかと思うくらい美しい。私に小難しい理屈はわからないけれど、とにかく、石階段に落ちている色影に心を奪われた。
両脇を飾っているプランターの花たちが、風にそよいでいる。
「ここがヴィッテの新居だぞ。三階の角部屋だ」
抱えようとした荷物は、手を伸ばした瞬間にはすでに、アストラ様の腕の中にあった。慌てて奪い返そうとした私などもろともせず、お二人はあっという間に馬車から降りていた。遅れをとってはと、私もひとまず馬車の臨時階段を駆け下りた。
そして。大変、申し訳ないが。アストラ様が小脇に抱えてくださっている荷物よりも。アパートの可愛さに目を奪われてしまったのだ。
「わぁ! どの部屋の小ベランダにも花があるんですね! というか、アパート全体に蔦が絡んでいて、すごく雰囲気があります! よくよく見たら、レンガのひとつひとつに模様が刻まれているし。すごい!」
「ヴィッテなら気に入ってくれると思っていたぞ」
「フィオーレは、街の取決めで建物の外観について縛りがあるのです。花飾りだったり、建物の高さだったり、諸々と」
感嘆の溜め息が落ちた。
一見、普通のレンガ作りのアパートに思えるけれど、よくよく眺めると細工が施されている。
壁に張り付いて、へぇとかはぁとか呟いている私を、お二人が手招きした。と、共通口が開き女性が姿を現した
「アストラにオクリース。待ちわびたわ」
若草色のロングスカートを揺らし、シンプルな白いシャツの上に薄い黄色のストールを羽織っている。歩く度、青みがかった灰色の髪が肩下でふわふわと踊る。
「スウィン、悪いな。例の娘――ヴィッテを連れて来た」
「こっちこそ助かったわ。家具まで入れたのに、新婚さんにぶっちされて、どうしようかと思い悩んでいたのよ」
「相変わらず、詰めが甘いですね」
アストラ様やオクリース様と並んでいても、とても絵になる女性だ。
見とれる私を見つけたお姉さんは、お二人の肩を押して踏み出してきた。
「貴女がヴィッテちゃんね? わたし、ここの大家をしているスウィンていうの。よろしくね!」
「はっはい! えと、異国から来たばかりですが、大家さんにはなるべくご迷惑をおかけしないようにしますので」
がばっと。勢いよく頭を下げる。家賃は馬車内で伺っていた。纏めて二ヶ月分はおさめられる金額だ。が、私が危惧するご迷惑とは、田舎物ゆえにトラブルを持ち込まないという意味合いだ。身元保証人がアストラ様とはいえ、異国の、しかも小娘に貸し出すには不安もあろう。
強張った頬のまま顔をあげると。大家さんは、美貌に似つかわしくない様子で、愛らしく、くすくすと笑いを零された。
「あら、やだ。妹よりも年下の女の子に頼られるなんて、大家冥利につきるのよ? アストラやオクリースが連れてくるといったものだから、女の子なんて信じられなかったの。さぞかし、むさくるしい騎士見習をつれてくるかと思っていただけれど。まさか、本当に可愛い女の子だったなんて」
「スウィンの賃貸に、男を紹介するはずないでしょう」
「そうだぞ。大体、俺が女性と知らせていたのを信じていなかったのか?」
オクリース様もアストラ様も、随分とくだけた態度だ。階段上の三人を見上げて、えもいわれぬ寂しさが過ぎった。
やだ。私、なんて身の程知らずな、感情を抱いているんだろう。
寂しさを自覚した途端、泣きたくなった。これは嫉妬だ。醜い嫉妬のほかならない。この街で――いや、母様との別離以来、はじめて心を開けた人たち。そのお二方が、やけに遠く感じられたから。けれど、それは当たり前。当然。
私が寂しいと思うことの方が、おかしいのだ。ヴィッテ、間違っちゃいけない。人との距離を、ちゃんと見定めて。今度こそ、ちゃんと、やり直すんだから。考えて、見定めて。だれも傷つけないように、迷惑をかけないようにって。
「やーね。アストラから魔法通信が来た時、しかも女の子の世話だって聞いた際は、とても信じられなかったけれど。ちゃーんと、ご希望の物件は用意したつもりよ?」
「あぁ。スウィンだから頼んだのだ。真意としては、我が屋敷に住んで欲しかったのだ。けれど、それはヴィッテ本人が、快しとしないのは感じ取っていたのでな」
アストラ様の軽口は、本心でなくても全部嬉しいの。口調から冗談半分なのは重々承知しているけれど。それでも、ありがとうございますって感謝しちゃう私を許してください。
出会ってまだ一日ちょっと。大丈夫。私は一人。一人なのに、今こうしてあたたかさに触れられていること自体が奇跡であって、感謝すべきことなのだから。
なんとなく。三人に近寄り難くて。手持ち無沙汰に、レンガを撫でた。指の腹に感じたレンガの感触は、想像以上に滑らかだった。ひんやりとした温度に、物悲しくなった。
「ヴィッテちゃんは、ちょっとお疲れみたい。まったく、二人とも女の子の扱いがなってないわよ? さぁ、いらっしゃいな。ヴィッテちゃんに気に入ってもらえるといいのだけど」
柔らかい微笑みで手を伸ばされ。自分の汚さに、泣きたくなった。勘違いもはなはだしい。ちょっと優しくされたからって、自分の存在を受け止めて貰いたいなんて、重いよ。私はここに居ます、忘れないでなんて、どの口が言えるのか。
ぐっと唇を噛んだ。大家さん――スウィンさんの笑顔は、どこまでも優しい。
違うのです。貴女の気遣いを正面から受け止める資格なんて、私にはないの。見当違いな焼きもちを妬いているの。
綺麗な手。私なんかが触れていいのかなと戸惑ったものの。恐る恐る重ねた手は、思いの外強く握られた。
「さっ。いこ? うちは壁に防音魔法をかけているからね。安心して」
「依頼した通り、隣は空室、もしくは女性だろうな?」
「えぇ。空室というよりも、ホールになっているの。あいにくと同じ階にある一部屋は男性だけれども、身元もご本人もしっかりなさっているから、安心しなさいな」
スウィンさん、お姉様って呼んで良いですか。握られた手は、実の姉に触れられたよりも、お姉さんという感じがした。私より断然柔らかい肌。なのに、大きくてあったかくて。無責任に、縋りたくなってしまった。
駄目だよ、ヴィッテ。頼っちゃ駄目。他人に迷惑をかけちゃ、駄目。感謝こそすれ、依存なんてもってのほか。
「ヴィッテちゃんも、隣人を遠慮なく頼るといいわ。博識で、それでいてユニークな方ですもの」
「ヴィッテ、あまり近づくな。そいつには」
駆け上がる階段にも、木漏れ日が降り注いでいる。甘いけれど自然な香りが、心臓を静めてくれる気がした。
後ろをついてくるアストラ様が苦々しく放った声が、やけに響いた。
そうか。隣人さんは男性なのか。引越しのご挨拶は何をお持ちしたら喜ばれるだろうか。私はそんなことばかり考えていた。にんまりと、意味深に口の端をあげたスウィンさんを見ない振りして。
「はい、鍵よ」
「私があけても、よいのですか?」
「もちろん。今日からここは貴女の住まいですもの」
どくんどくんと、心臓が胸から飛び出そうだ。スウィンさんから手渡された小さな鍵。クローバーを模した鍵が、ずしりと掌にのしかかって来る。
ここが、今日から私のお城。フィオーレで、私が帰る家なのだと思うと、息が詰まった。震える手で、鍵をまわす。かちりと、硬い音が響いた。少し重たい扉を引く。
まず現れたのは、白い壁だった。玄関と思わしき小さな空間がある。
「移住の方によっては、外出靴と室内靴を分けたいとおっしゃる方もいるの。そのような方のために、一段、差をつけているの」
スウィンさんのおっしゃるように、扉からすぐ正方形の空間があった。踝ほどの高低差があり、可愛らしい模様の木で飾られている。続いて、右手に伸びている短い廊下。
一応と、段差でブーツを脱いでおいた。備付けの室内靴に足を入れる。柔らかい綿が詰められているのだろう。女性向けの色をした慎ましやかな靴が、足に馴染んだ。
「フローリングもブラウンだ」
「東洋の作りを参考にしたの。外観はフィオーレにそわないといけないけれど」
外観がレンガ作りなのに、部屋の床は木の素材だ。嬉しい。木の素材の部屋って憧れだったのだ。うちの屋敷は普通に石や大理石の作りだった。きしっと心地の良い軋みが耳に入ってきた。これは素足でも気持ち良さそうだ!
壁を伝って曲がると。広いキッチンとダイニングがあった。吹いてきた風に髪を押さえる。足元を涼やかな空気が撫でてくれた。
「キッチンの横にある窓はね、花のプランターを置く決まりになっているの。好きな花を買ってきたら、あれは玄関先に置いておいてくれればいいから」
「素敵! 向かいの家とも道を挟んで開けているし、風通りもいいのですね!」
「間取り以上に、素晴らしい物件でしたね」
オクリース様のおっしゃるように、間取りも凄い。キッチンとダイニングの部屋の他に、もうワンフロアとロフトがある。ちなみに、トイレとお風呂も別についている!
お風呂やトイレは共同も覚悟していたので、殊更、感動の声があがってしまった! だって、とっても綺麗だ! 最新式の蛇口や魔法口もついてるじゃないか!
「すごいです! お風呂も綺麗だし! ベッドも鏡台もある! これ、本当に使っても良いのですか?!」
「もちろんよ。というか、使ってもらえると嬉しいの。別れた新婚さんが予約してた住居なんて、なかなか入ってもらえないのよね」
「噂が立ちやすいのも、難儀だな」
なるほど。それで訳アリ物件か。私は全く気にしないどころか、ありがたいけどね。
広々とした部屋に心は躍るばかりだ。この広さであの家賃となれば、逆に破格だと思う。くるくるとまわっていた足を止め、ガマグチポーチを押さえた。
「あの。この物件で、あの家賃はさすがに安すぎませんか?」
「いいのよ。アストラはお得意様だし、私としては別段破格でもないのよ。入居率の方が実は重要だったりするしね」
お得意様、という言葉に過剰に反応してしまった自覚はある。半目でアストラ様を見てしまっていたから。私に、そんな資格もないし、そもそも邪推も良いところだ。
が、アストラ様は大慌てで、スウィンさんと距離をとった。
「スウィンは友人の妹でな! 両親を亡くしてから、遺産を引き継いで生計を立てていて。つい応援したくなるというか、兄心というか」
兄心ですが。末弟なのに。なんだろう、このくすぶった気持ちは。
浮かんできた不明な色を掻き消したくて。窓際に立って、綺麗な空気を吸い込んだ。
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