樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑
碑文
「太平洋戦争末期の昭和二十年八8、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。恵須取町大平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難した。炭鉱病院看護婦二十三人も夕刻になって避難を始めたが、途中の武道沢でソ連軍に退路を断たれ、最悪の事態を予測した高橋婦長らは、十七日未明に集団自決を図り六人が絶命した。あまりにも悲しい事件であった。以来、四十七年。殉難者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、ゆかりに人たちや王子製紙・十條製紙・本州製紙神崎製紙の旧王子製紙系四社、その他関係団体の協力でこの碑を建立した。ここに六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の限りない平和を祈念する。
平成四年七月十一日
樺太大平炭鉱病院
殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会
真岡郵便電信局事件に比べますと、あまりにも情報が少ない事件なので、調べてまとめてみることにしました。この事件は、樺太の戦いの最中の、塔路上陸作戦時の出来事です。
大平炭鉱病院の看護婦23人の集団自決(内6人死亡)
1945年8月9日 ソ連軍は、条約を無視して日本に対して牙を剥いて来ました。11日には樺太へ侵攻、 樺太はソ連軍の突然の侵攻作戦で大混乱に陥ります。日本軍は、数十万人の民間人の撤退を支援しながらの過酷な戦闘へ突入しなければならなかったのです。
ソ連軍は、第2期作戦の一環として、南樺太第2の都市である恵須取町に近い塔路上陸作戦を計画していたため8月10日以降、当初より恵須取港と塔路港はソ連北太平洋艦隊航空隊の攻撃目標とされていました。13日には偵察が行われ、ほとんど守備兵力はないと判断、アンドレエフ北太平洋艦隊司令官は好機と考え、16日の上陸を独断で決めました。
恵須取町・塔路町付近 日本軍は正規歩兵2個中隊を恵須取市街から内陸の上恵須取へ続く隘路に配備して防衛線を張り、特設警備第301中隊のうち1個小隊を塔路飛行場の破壊と塔路港守備に充て、残りは住民避難の援護のため恵須取市街に置いた。住民の多くは上恵須取方面へ避難に移り、塔路ではソ連軍上陸時に約20%だけが残っていた。なお、日本軍は13日のソ連軍偵察隊を本格上陸と誤認し、特設警備中隊の射撃で撃退に成功したと考えていた。
8月15日 ソ連軍出撃。16日早朝、第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が、艦砲射撃と海軍機の援護下で塔路港に上陸を開始した。塔路の町は焼失し、守備の1個小隊は壊滅した。阿部庄松塔路町長(義勇戦闘隊長も兼務)らは、恵須取支庁から終戦と抵抗中止を通知されてソ連海軍歩兵との停戦交渉に向かったが、武装解除と住民の呼び戻しを要求されて人質に取られ、まもなく処刑された。上恵須取へ避難する民間人は、無差別な機銃掃射を受けて死傷者が続出した。
日本の特設警備第301中隊(中垣重男大尉)は、塔路から続く道の恵須取の山市街入口に布陣し、避難民の援護にあたった。中垣隊は、塔路から南下侵攻してきたソ連海軍歩兵2個中隊を阻止したうえ、逆襲に転じて敗走させ、王子製紙工場付近まで追撃した。その後、中垣隊は恵須取支庁長以下400名の避難民の後衛を務め、翌17日午前3時頃には上恵須取へ到着した。ソ連軍は17日午前7時~8時30分に恵須取山市街を占領、午前10時30分頃に恵須取港から上陸した独立機関銃中隊とともに浜市街を占領した。ソ連側記録によると17日にも恵須取で市街戦があったことになっているが、実際には日本側の部隊は残っていなかった。
話を16日に戻します。樺太北部にある恵須取町太平地区も16日未明に空襲を受け、戦闘に巻き込まれた住民は一斉に避難を開始します。その時、大平炭鉱病院では、医師が不在、若い看護婦だけで一線から送られてきた傷兵たちの手当てをしていました。
その後大平神社の横穴式防空壕に、8人の重症患者を伴って高椅婦長以下23名の看護婦が移動することになります。踏みとどまって息を潜めていたが、午後になってソ連軍が間近に迫っていることを察知する。婦長は看護婦と相談、避難することを決心します。この時、重傷者たちは足手まといとなる自分たちを残して、一刻も早く避難するように進言、看護婦たちは後ろ髪をひかれる思いであったが、患者たちに投薬を済ませ、食料と薬を渡して、夕刻になってから避難を始める。しかし、このとき既に、中垣隊は恵須取支庁長以下400名の避難民の後衛を務め上恵須取へ向かっています。
中垣隊に遅れ、上恵須取への道程約24km のうち10km地点で、ソ連軍と遭遇(発見)したと考えられます。南に向かっていた彼女たちは、完全に包囲されたことに気がつきました。この後、葡萄沢まで辿り着きますが、その時点では四方八方にソ連軍、南下することも、太平に戻ることも不可能となってしまったのです。※中垣隊は翌17日に上恵須取へ到着しているため、別行動であった事が確認できる。
一命を取り留めた看護婦の方によると「この先どうなるか分からないが、避難する時は、みんな婦長と一緒に行動する、という覚悟でした」と振り返る。
高橋婦長と二人の副婦長が相談の上、自決を決断。婦長はもう逃げ切れないこと、敵に捕まり悲惨な目に遭うかもしれないこと、婦長として皆を守り親元に帰せないことを詫び、病院から持ち出した劇薬を飲んだ。途中瓶が割れ、致死量に達しないものは、手術用のメスで手首を切った。
一命を取り留めた看護婦の方によると、飲んだ薬については「劇薬」との記述が多いが、「睡眠薬かなにかではなかったかしら」と言い、「量が少なくそれでは死ねないので、メスで手首を切った。メスが入る感触を今でも覚えている」と生々しい記憶を語った。「死」は「全員の暗黙の了解だった」といい、「あの世にいったら、みんなに会える、と抵抗感はなかった」と当時の心境を語っている。
死に場所に選んだ小高い丘の上の大きなハルニレの木に集まり、「君が代」「山桜の歌」などを唱和し別れを告げたが、実際に亡くなったのは婦長ら18歳から32歳までの6人。後の17人は近くの造材部の人たちに助けられ、一命を取り留めました。
この日、婦長が思ったのは若い看護婦を預かっている責任であった事でしょう。無事に親元に返すことができないならば、死を選ぶしかないという事だった。「婦長は『私がいたらないために』『ごめんね、ごめんね』と何度も言っていた」その気待ちはみんなにも伝わったことと思います。
その後の上恵須取
上恵須取の町は8月17日午後に空襲を受けて焼失し、疎開する中で特設警備隊や義勇戦闘隊は隊員が家族のもとに戻って解散状態となって行く。恵須取方面総指揮官 吉野貞吾少佐によって停戦交渉も行われたが、ソ連側が要求する住民の帰還を避難民らが拒み、武装解除にも応じず妥結に至らなかった。恵須取支庁長や吉野少佐は日本兵の士気が高く戦闘拡大のおそれがあると判断し、避難民や軍部隊をまとめ、内路恵須取線を東進してソ連軍から離れることにした。内路付近まで達した24日に、師団司令部から連絡将校が到着して投降命令が伝達され、部隊は武装解除を受け入れた。
なぜ当時の樺太では、自決が多かったのか?
恵須取町には、尼港事件(赤軍パルチザンによる歴史的な大虐殺事件)を生き抜いた方が移り住んでいました。そのため、事前にソ連人の残虐非道さを看護婦たちは聞き及んでいたものと思われます。
尼港事件(にこうじけん) ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザン(非正規軍)による大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクをパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。 ※虐殺事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真。グートマンによる総括によれば、パルチザンが最初に襲った日本人居留民は、花街の娼妓たちだった。「残酷な獣の手で見つけ出された不幸な婦人に降りかかった災難については、話す言葉もない。泣きながら、後生だからと婦人は、拷問者と殺人者に容赦を嘆願し、膝を落とした。しかし、誰も恐ろしい運命から救うことはできなかった。別の婦人は、かろうじて着物を着て通りを駆け出し、その場でパルチザンに銃剣で突かれた。通りは、血の海と化し、婦人の死体が散乱した」 また、即座に殺されなかった女性と子供についても、運命は過酷だった。「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた