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遅ればせながら「シン・ゴジラ」を見てきました。

はじめに、「シン・ゴジラ」には神の意も込められているという通り現代の神話となっていましたね。
理系ではないのでそっち方面のお話は全くできないのですが、日本の神話が好きな者の端くれとしてその角度からのお話をします。


神話が好きだというと、「でも作り話なんでしょ?」とよく云われます。

確かに神話に描かれている内容はとても実際に起きたとは思えませんが、かといって「虚構=無意味」ではないんですよね。

例えばゴジラはこの時代背景と今の日本の精神性があるからこそ出てきた物語なわけで、虚構でありながら立派に現実を反映しています。

そこで、何故わざわざ虚構を作り上げたのか?何故その虚構が必要とされたのか?ということを考えるとその当時その国・民族に何があったのか、何を考え生きていたのかということがよくわかります。

かつて宗教と神話は古代の人にとって、自分たちはなぜ生まれ死ぬのか?自分たちを脅かす災厄は一体何が原因で起きるのか…という不安や恐怖の正体を解明し、解消する為のものでした。
その役割が現代は科学にバトンタッチしたのだと思います。
昔の人が神を信じたように我々は科学を信じてますよね。
この世界の仕組みを説明してくれるもの、自分たちの人生を保障してくれるものが代わっただけなんです。

故に、ゴジラは科学時代の核や放射能という恐怖を具現化した神であり、それに科学で打ち勝つ神話が求められたんだろうなと感じました。
そんなわけで、科学時代の神話としての「シン・ゴジラ」の感想です。


まず、神話が好きな方々がシン・ゴジラを見ていて思わず「おっ!」と思ったのはもちろん「ヤシオリ作戦」そして「アメノハバキリ」だと思います。

ヤシオリ作戦とアメノハバキリは日本神話の中のスサノオノミコトの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治に関連する用語です。

八岐大蛇退治は絵本にもなっているよく知られたエピソードですのでご存知の方は読み飛ばしていただきたいのですが、むかしむかし八岐大蛇という恐ろしい神が地上で暴れまわっており、その神を倒すのに一役買ったのがスサノオという神様でした。
スサノオは八塩折酒(ヤシオリノサケ)というものを用意して、八岐大蛇に飲ませ、大蛇が酔って寝ている間に天羽羽斬(アメノハバキリ)という剣でズタズタに切り刻んで退治してしまった…という筋書きです。

ちなみに八塩折酒は何回も醸したアルコール度数の高いお酒という意味です。天羽羽斬は十握剣(トツカノツルギ)とも言われているので、こちらの方が有名かもしれません。

つまり、「ヤシオリ作戦」は神話の再現となっています。
いざなぎ景気とか神武景気とかいう用語もあるので決して浮世離れした作戦名でもない感じでリアリティと夢が融合した感じ、いいですね。


さて当のヤシオリ作戦についてですが、ゴジラに血液凝固剤を注入して動きを止める、眠らせてしまうというのはまさに八岐大蛇に酒を飲ませて眠らせてしまう神話そのものといえます。
日本神話の英雄は相手を酔わせて殺すとか、女装して宴に紛れ込んでから殺すとかそういうちょっと狡い手で勝つ面があるんですけど、ゴジラにも知恵の絞りあいで勝ってますね。
ある圧倒的な力を前にした時、正面切っては勝てないから、機転を利かせて勝つということをこの国の人たちは太古の昔から知ってたのかもな、と感じました。

今回のゴジラは大怪獣とのドンパチを望んでいた人にとっては地味に見えたそうですが、作中でもはっきりとアメリカなどの大国との差が描かれているように、日本にはそういったことが出来ないんですよね。
日本はアメリカの様にはなれず、そしてもう二度とこの国に核を落としたくはないと考えている。
では、この国は、自分たちはどう戦うのか?ということに人々が考えを尽くし、答えを出したところにこの映画の価値があると思います。
仮にヤシオリ作戦が失敗に終わっていたとしても、きっと価値のあることだったのだろうなと。

また、国を蹂躙した言葉も力も通用しないゴジラという圧倒的な存在、荒ぶる神との決着が「共存」という答えなあたり、「らしさ」を感じますね。
実際としてこの国の歴史上に自分達と相容れない存在を排除した事実がなかったかというとそうではないと思いますが、少なくともこの国には絶対的な排除を好まない傾向があると思います。

例えば、「シン・ゴジラ」はスサノオの八岐大蛇退治を踏襲している部分がありますが、スサノオが大蛇のを切り裂いているときに尻尾から剣がでてきました。これが三種の神器のひとつの草薙剣です。

そしてその八岐大蛇の尾から見出した神剣を引き継いだ英雄がヤマトタケルですね。

ヤマトタケルはその武力で各地を平定するんですけど、父である天皇に言われていたのは、あくまで「言向け和平せ(異民族を説得して従わせなさい」なんですね。
実際にはヤマトタケルに代表される日本建国の英雄たちが異民族を全く排除をしなかったかと言われるとそうではないとは思いますが、表向きは穏便にしなさいよ、という。
「表向きでしょ」って思われるかも知れないんですが、冒頭でも述べた通り、わざわざ虚構や嘘・建前を用意するということは、何らかの意図があるわけで、ここでは単純に和平して共存する方が当時の人的には良いことだと思われていたからなんでしょうね。

ヤマトタケル以前の神話である出雲の国譲りでも最初は言葉による交渉がありました。
そのあと出雲側の抵抗があり高天原と出雲の神々との交戦がありますが、最終的に高天原が勝ちました。でも、出雲の神様も消されずに現代まで残ってるという。
今の我々にとっては高天原の神様も出雲の神様もみんなありがたい神様として信仰されていますね。
そんなわけで、荒ぶる神であるゴジラに対する答えが共存であるのはいかにも神代の時代から続く日本の処世術のようなものなんだろうなと感じました。


話が逸れましたが、ゴジラが八岐大蛇に見立てられているという点についてお話を進めたいと思います。

日本最古の歴史書と言われている日本書紀・古事記に八岐大蛇は登場しますが、その描写はかなりゴジラに似通っています。
「腹は赤い血でただれており、背には松やヒノキが生えている」というその姿は、海から上陸して腹ばいになりながら血を撒き散らし背には大きなヒレの連なるゴジラに重なるものがあります。
第一形態、 第二形態のゴジラは 手足の萎えた状態で、まるで蛇のような姿ですね。

また、第二形態までのゴジラについてはヒルコという神の姿も重ねられているのでは?と感じました。
ヒルコという神様はイザナギとイザナミが最初に生んだ神でしたが、手足がなくヒルのような姿をしていたため、海に棄てられた神です。

ずいぶん身勝手な話ですが、そんなヒルコと同じようにゴジラもまた、人間が勝手に生み出し自分たちの都合で海に捨てたものが海からやってくる神になるというイメージに於いて、イザナギとイザナミが産んですぐ海に棄てたヒルコ神のイメージを多分に含んでいるかなと思います。

ヒルコ神は小舟に乗せて棄てられましたので、冒頭のボートも示唆的ですね。

海に棄てられた放射性物質によって生まれ、海から現れ、自立が出来ず手足が未発達で這いずる第二形態の様子はヒルコという神様の姿も多分に重ね合わされていると思います。

ヒルコ神といわれてもあまり馴染みがないかもしれませんが、いわゆるヱビスビールのえべっさんです。
蛭子能収さんが蛭子とかいてエビスと読むように両者は同一視されてます。
とても馴染みのあるめでたい福の神ですよね、今では商売の神様なんですけど、古くは海からやってくる漂流物を神格化したものだそうです。

海から漂着する思いがけない資源を、恵みをもたらしてくる神として信仰したのが海に棄てられたヒルコ=エビス神なんですね。

ゴジラが海に棄てられたものから生まれ、海から現れて国を破壊する一方、未知のテクノロジーをもたらす存在であるのは、いい面と悪い面を併せ持つ日本の神々に連なるものを感じます。

神というと良いイメージが強いですけど、日本にはジャイアンみたいな神様も多くて、機嫌を損ねるとボコボコにされるんですけど機嫌がいいと頼りになってくれる神様が多いんですね。
十円玉が表裏どちらを向いていても十円であるように、いい面と悪い面の両方を持った神様が日本には多いんです。
そのためにジャイアンみたいな神様のご機嫌をとるためにお祭りが開かれます。(リサイタルショーかな?)(真顔
雑な言い方をするとそれが祇園祭だったり天神祭だったりしますね。夏祭りは疫病が流行る夏に疫病神を鎮める目的があります。

そんなわけで劇中でゴジラが恐怖の対象でありながら神という扱いをされているのは日本人の感性的に十分に理解ができ、かつあの荒ぶる神と共存していこうという結論もまた少なからず受け入れられるものなのだと思います。

そして神話ではスサノオがヤマタノオロチの尾に新たな力を見出したことと、ゴジラのあのラストシーンは対応していると考えられます。

ここからは更に話が飛躍しまして神話を参考に、ゴジラ以降の日本がどうなるのかという私の妄想を展開します。妄想なので読み飛ばしてください。笑

ではまず、神話では八岐大蛇退治のお話のあとはどうなっていくのでしょうか?

スサノオは高天原からやってきた神でしたが、クシナダ姫という地上の女性と結婚しています。神と人間の婚姻ですね。それから神話の舞台は地上つまり人間たちの世界に徐々にシフトされていきます。(個人的に矢口さんがスサノオ、カヨコさんはクシナダ姫かな?と単純に考えているんですが

その後、スサノオ以降に大国主という神様が現れ、地上で国づくりが進められていきます。

大国主という神様は最初はオオナムヂという名前でしたが、兄たちに意地悪をされて殺されてしまいます。ですが女神たちの助けを得て二度三度と復活をします。そしてその度に出世魚のように名前を変え、最後は大国主という立派な名前を持った神様へと成長していきます。

作中でスクラップ&ビルドという言葉がありますが、大国主も殺されては復活する神でした。エジプト神話などではオシリス神に近いものを感じますね。サイヤ人のように、一度生命の危機に瀕して復活することでさらに強く立派になっていくんですね。

これは穀物が実って(つまり一度死んで)その実からさらにたくさんの穀物が実るイメージが反映されている、と言われています。これは稲作などをしている国に割と共通して見られる思想であるそうですね。

そして先に触れた出雲の国譲りを経て、現在は出雲大社に祀られているのがこの神様です。

また、八岐大蛇の尾に現れた新たな武器である草薙剣はスサノオ以降、かなり時代が降ってヤマトタケルという英雄に引き継がれます。

これもかなり有名なお話なので割愛しますが、日本各地に遠征してまつろわぬ神を平らげた建国神話の英雄ですね。

更に、直接は関係のない話ですが、記紀には敵の蛮族を讃える歌というものが出てきます。「蝦夷は一人で百人力だと聞くが、我々はそんな蝦夷をやっつけたのだ(つまり私たちにはそれだけの力があるのだ)」という内容です。

そう思うと、ゴジラは絶対的な恐怖の象徴ではありますが、それを乗り越えた後では希望の象徴になるのかなと感じました。

ゴジラは「日本はまだまだやれる」ということを確認させてくれた存在だということですね。

なので、荒ぶる神でありながらこの国の人に新たな可能性を見せてくれた存在でもあるという。恐怖の存在である一方で希望と可能性をもたらす神だったのかな、だからこそ「共存していこう」という結論に至ったのかなと。


以上のことから、八岐大蛇に見立てられたゴジラの尾に何らかの新たなテクノロジーが見出され、東京の復活、そしてゴジラの持っていた力によって新しい日本が再建されるのかなあ…とぼんやり妄想しました。

あくまでも私の妄想でしかないんですが、作中の流れが神話の流れに沿っているように思えたので、期待と想像を膨らませてみました。


そんなわけで、虚構のゴジラvs現実の日本は最終的に虚構と現実の共存という結論を迎えました。

日本がどうなっていくのか、どうやっていくべきなのか、という問題を虚構を介して現実に生きる我々に示してくれたのがこの映画なのかなという気がします。

虚構としての「シン・ゴジラ」はラストシーン以降どうなっていくのか?その続きは現実で、ということなのかもしれません。

長々となりましたが、以上で初見感想を終了します。二回目観に行きたいぞ!!明日いこう(即決


あとめっちゃ最後になりましたが、一番好きな登場人物は里見さんです!!(突然の主張

ゴジラが荒ぶる神、矢口さんが英雄なら里見さんは歴史だなと感じました

あらゆる時代あらゆる歴史の影にこういった人が在ったのかもしれないな、と思わされるとてもいいキャラクターでしたね、最高です。

補足ですが、文中の文字の太字部分は、検索してもらったらわかりやすいかな?という単語を強調させています。もし良かったら検索してみてくださいね。

私は好きに妄想した 君らも好きに妄想しろ

長文乱文失礼いたしました。

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