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【ボクの思い出STADIUM】

大阪球場

2016年8月31日 紙面から

 大阪ミナミの超一等地に、大阪球場はあった。南海ホークスとファンの喜怒哀楽に満ちた人情スタジアム。あまりにも有名な「江夏の21球」も、ここが舞台だった。 (文中敬称略)

ミナミの超一等地

大阪球場で破れ太鼓を真ん中に声援を送る南海ホークスの私設応援団

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 まだ戦争の傷痕が街に残る1950(昭和25)年9月。大阪随一の繁華街として知られるミナミの超一等地に大阪球場は開場した。南海電鉄のターミナル難波駅の隣。野村克也、杉浦忠らがファンを熱狂させた南海ホークスの本拠地だった。

 70年代の南海を支えた藤原満(69)=西日本スポーツ評論家=は「紙飛行機がよく飛んどったけど、これが落ちてこんのや」と振り返る。「すり鉢状やから、上昇気流が起きるわけ」。超一等地ゆえに敷地は狭く、スタンドは急傾斜だから声もよく響く。しかも選手は「すぐそこ」。笑いが好きな大阪人の本能をくすぐる球場だった。

 藤井寺の近鉄、西宮の阪急。80年代までのパ・リーグは電鉄系の3球団が選手だけでなくファンのヤジや応援でもしのぎを削った。

 地元の近大OBの藤原に「あの店に大学時代のツケは払うたか」。飲みに出た翌日は「あれからどこいったん?」。監督兼任の野村がグラウンドに姿を見せると、すぐさま「きのう、藤原が悪口言うとったで」。もちろんネタだった。

 親会社のカラーが濃厚な「鉄道ネタ」も鉄板だった。阪急ファンから「悔しかったら(阪急沿線で高級住宅地の)箕面に住んでみい!」。ミスをした選手への「やった〜、やった〜、またやった〜、○○電車ではよ帰れ〜」の合唱も有名だ。

 70年代後半には、阪急ファンから「野球、おもろいか〜? わしらはおもろいぞ〜」。当時の阪急は75年から3年連続日本一に輝くなど、黄金時代の真っ最中。藤原は「あのころの南海は、何でもやられっぱなしやったなあ」と頭をかく。

 海千山千の浪速っ子がだみ声の「応援合戦」に熱を入れた理由には、大阪球場の立地も影響しているだろう。お笑いの吉本興業の劇場や移転前の新歌舞伎座もすぐ近く。芸人もよく姿を見せていたという。

 南海関係の著書も多い永井良和は「ホークスの70年」(ソフトバンク クリエイティブ)に記す。「かつてのプロ野球の応援は、ヤジが中心だった。これは、芝居見物の常連が演者に声をかけるのと同じ系譜のものだといえる」。選手はひいきの役者でもあった。

街との距離も近い

 「練習と試合の合間に、先輩によく『鶏そぼろ飯』を買いに行かされたな。練習の後に横断歩道を渡ってな」。84年に南海に入団し、85年に本拠地で初本塁打を放った佐々木誠(50)=現ソフトバンク3軍打撃コーチ=は愛着ある球場を振り返る。選手と街の距離も驚くほど近かった。

 「娯楽の殿堂」でもあった。これは南海電鉄が85年に発行した「南海沿線百年誌」に詳しい。開場翌年の51年に開設された「文化会館」には土井勝料理学校などの各種文化教室があり、球場併設の卓球場、ボウリング場、アイススケート場、プール、レストランなどもにぎわった。

 63年開設の場外馬券発売所は特に人気を集めたようだ。前述の百年誌は「ギャンブル熱の上昇から次々増設を重ねたほどで、土・日・祝日にはこの辺りは交通整理のガードマンが立つほど人、人、人の波でいっばいになる」と記している。

ナインが一人ずつ去ったグラウンドで、最後に残った杉浦忠監督は両手を上げてファンに別れのあいさつ=1988年10月15日、大阪球場で

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 浪速のファンに愛された大阪球場だが、南海の成績低迷とともに空席が目立つようになった。電鉄会社の経営環境も厳しさを増し「持っていることがステータス」とされた球団にも、いつしか逆風が吹き始めた。

今は複合商業施設

 88年に南海の名物オーナーだった川勝伝が死去すると、同年9月にダイエーへの球団売却が発表された。10月15日の南海の大阪球場ラストゲームは超満員となり、6−4で近鉄に勝利。監督だった杉浦の「行って参ります」というあいさつを最後に福岡へ旅立った。

 最後のプロ野球公式戦は90年8月2日の近鉄−オリックス戦。その後は住宅展示場として使われミュージカル「キャッツ」も上演された。98年のさよならイベント後に解体。88年の南海ラストゲームで本塁打を放った佐々木はしみじみと話す。

 「自分の中に映像が残っている。心に刻んでいる球場。(球場内の)がんこ寿司の看板(の似顔絵)は阪急の今井雄太郎さんにそっくりやったなあ」

 跡地に建つ複合商業施設「なんばパークス」には、往時をしのぶ「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設けられている。 (相島聡司)

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【アラカルト】大阪球場

▼開閉場 1950年9月12日〜98年11月

▼夢の跡 住宅展示場などを経て、現在は大型商業施設「なんばパークス」に。2階コンコースにホームベースの位置を示すタイルが残っている

▼所在地 大阪市浪速区難波中2−8−110

▼規模 両翼91.5メートル、中堅115.8メートル、収容3万1379人

(左)本拠地球団のホークスが福岡に移転することが決まった大阪球場=1988年、本社ヘリ「わかづる」から撮影 (右)大阪球場跡地にオープンした大型複合商業施設「なんばパークス」=完成直後の2003年に撮影

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▼転落 内野スタンドの傾斜は大倉山ジャンプ場よりきつい37度。酔客の転落は風物詩

▼本拠球団 南海ホークス(開場〜88年)、近鉄パールス(開場〜57年)、大洋松竹ロビンス(53〜54年)

▼ナイター設備 51年7月18日に完成。甲子園に同施設ができる56年までは阪神主催のナイターも行われていた

▼伝説 63年10月17日、野村克也のシーズン52本塁打。他にも54年の阪神・藤村富美男の退場事件、79年は近鉄−広島の日本シリーズでの「江夏の21球」の舞台ともなった

【回想録】「江夏の21球」目撃の元記者

9回裏無死満塁のピンチを切り抜け日本一を勝ちとり江夏豊(中)に向かって飛び出す歓喜の広島ナイン=1979年11月4日、大阪球場で

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 今なお野球ファンに語り継がれる「江夏の21球」は、1979(昭和54)年11月4日。近鉄−広島の日本シリーズ第7戦だ。当時、近鉄が本拠地としていた藤井寺、日生の両球場には収容能力やナイター設備がないなどの問題があり、大阪球場で開催された。

 1点差の9回。自分が招いたとはいえ無死満塁を切り抜けた江夏の投球を、現場で取材したのが元中日新聞記者の井倉逸彦(80)だ。翌5日付の中日スポーツには、署名入りで江夏の記事を書いている。

 「当時の私は近鉄の番記者というわけではなかったのですが、応援でかり出されたことを覚えています。そう。大阪球場でしたね。江夏がスクイズをとっさに変化球で外して、得点を許さなかったことも」

 井倉は南海番を皮切りに、プロ野球取材歴は30年を超える。ただ、このシーンがこれほどまでに長くファンの心に留まるとは思わなかったようだ。

 「強く記憶に残っているかと言われると、そうでもないですね。私自身も江夏とは顔見知り程度の間柄でしたし、細かい部分は覚えていないですから」

 テレビで取り上げられ、江夏が詳細に語り、スポーツノンフィクションが確立した。井倉の言うように、それは少し後からの物語なのかもしれない。

(次回は9月13日掲載)

 

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