川端康成と広島での平和運動の関わり示す手紙発見

川端康成と広島での平和運動の関わり示す手紙発見
ノーベル文学賞を受賞した作家の川端康成が、広島県出身の文筆家からの強い働きかけで被爆地・広島での平和運動に関わっていたことを示す手紙が見つかりました。手紙は、文筆家が川端に宛てたおよそ50通で、川端の平和運動のいきさつを知るうえで貴重な資料として注目されています。
この手紙は、広島県出身の文筆家で、被爆者の福祉施設「広島憩いの家」の運営にも携わった田邊耕一郎から川端康成に送られたもので、神奈川県鎌倉市にある川端の自宅におよそ50通が残されていました。

戦後、昭和23年から「日本ペンクラブ」の会長を務めていた川端は、翌年初めて広島を訪問し、次の年にも再度訪れて、ほかの文学者と共に「日本ペンクラブ広島の会」を開催して被爆の現状を文章で伝え、平和を訴えました。
昭和24年に田邊から川端に送られた複数のはがきには、自分が案内をするので爆心地を見に来てほしいという要望や、訪問を快諾した川端に対する感謝の言葉などが記され、川端の広島訪問が田邊の働きかけで実現したことを示す詳細なやり取りが明らかになりました。

また、一連の手紙からは、「広島憩いの家」に関連して、昭和32年の完成時に見学をお願いしたり、その後、川端が販売用の色紙を寄贈していたことなどがわかり、川端が「憩いの家」の運営を気にかけていたことがうかがえます。

川端文学の研究者で、川端康成学会特任理事の森本穫さんは、「被爆地・広島からの訴えが、平和運動や国際交流に深く関わっていく川端の後押しをしたことがわかる資料だ」と評価しています。
見つかった手紙は、広島市の「ひろしま美術館」で3日から公開されます。

広島訪問の背景には文筆家との交流

川端康成の昭和24年の広島訪問は、公式には広島市の招待を受けたものとなっていますが、なぜ招待されたのか詳しい経緯は知られていませんでした。

その背景について、川端に関する資料の保存に当たっている「川端康成記念会」が調査したところ、田邊耕一郎が運営していた「広島憩いの家」の年報の題字を川端が書くなど、川端と田邊の間に交流があったことが分かりました。
そして、川端の自宅に残されている書簡を調べたところ、田邊からの手紙が大量に見つかったということです。
川端は「日本ペンクラブ」の会長として文筆活動を通じた平和運動や国際交流に力を入れ、昭和25年、「国際ペンクラブ」の大会に代表を派遣した際には広島の被害を記録したアルバムを託し、世界の作家に対して原子爆弾による被害のむごさを訴えました。
また、昭和32年には国際ペンクラブの大会の日本開催を実現させ、海外の作家が日本を訪れるきっかけを作りました。
こうした一連の活動によって海外の作家の支援が得られたことが、「広島憩いの家」の建設につながったということです。

調査に当たった川端康成記念会の水原園博理事は「戦争体験を経た川端の平和を求める情熱がどのように形づくられていったのかが感じ取れる」と話しています。