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バカが観る『シン・ゴジラ』

映画
シン・ゴジラ』、公開から1ヶ月ぐらい経って、もう既に色んな有識者っぽい人が一通り批評が出ましたよ。
で、自分も観に行ったはずなんだけど、なんか批評がみんな有識すぎて難しくて私には何言ってるのかよく分かんないわけですよ。すごいよね、同じ映画観に行ってるのにこうも受け取れる情報量が違うのかと。同じ1800円払ってるのに、脳みそキャパシティに見合ったお土産しかくれないからバカは損する仕組みなんだよ映画って!バカ割引とかないもんね!げげっ!
だから自分がなんか書けることももう特にねーなーとかって思ってたんですけどね、でも逆に考えたら超無識者から見たシンゴジラの感想ってあんまり見ないじゃん?じゃあそう銘打っておけば書いてもいいかな〜いいよね〜いいとも〜と思って書きます。
私がどれだけ無☆識かというと、ゴジラ過去作も全くわからんし、エヴァも最初の方までしか見たことないし、政治の事とか記憶喪失になった池上彰ぐらい分からないし、生物学とか道端の棒にうんちくっつけて遊んでる小学生のほうがまだ詳しいんじゃないかってレベルだし、特撮とか電車とかミリタリとかの趣味も一切ないもうほんとまっさら、赤ちゃん状態、ママシネマに連れられてきた赤ちゃんぐらいの知識量、で『シン・ゴジラ』を見たということです。
そういう私でもけっこう楽しめました『シン・ゴジラ』は。
え?なんで?バカなのに?話たいして分かんないのに楽しいのなんで?って思うと不思議ですよね〜。不思議だ…。本当に不思議だったから、なんで楽しいと思ったのか考えてみようと思いました。
 
■はやい!
まず、この映画は、みんながわりと早口めで喋るし、話もとんとん進んでいきますよね。
だから、こっちとしても、話についてかなきゃ!と思って、いや話についていく以前に、何と言ってるのか聞き取らなきゃ、と思って、集中して見るわけです。
そうすると、脳が働くわけです、脳が働くと、脳汁が出るわけです。脳汁が出ると、気持ちいいわけです。
多分こういうことだと思うんですよね。知らんけど。
いや、でもね適当に言ってると思うでしょうが、ジェシーアイゼンバーグが海外で洋画で活躍しているのを見るにですね、これは全世界的に、みんな「早いの気持ちいい」って思ってるんですよ。
『フリースタイルダンジョン』だって、みんな好きだけど、あれもBPMが1ぐらいでやったら普通の喧嘩になってしまうわけじゃないですか。
つまりどんなものもスピードを上げていけばエンターテイメントになるんですよ。発見だね!
 
■こわい!
めっちゃこわいよぉ。生活圏が破壊される描写めっちゃこわいよぉ。おしっこちびった。
でもねえなんか、ツイッター読んでたら、「人が死ぬ描写が足りなかった」って言ってた人も居たんだって。ってことは、その人は見ててあんまり怖かったり絶望的な気分にならなかったんだなって。
怖かった人と、怖くなかった人、これは一体、何が違ったのかなーと思ってたんですけど、傾向的に、オタクとされる人間の方が感じやすいってのはあるのかもしれない。
なんでかっていうと、オタクって自分のこと「その他大勢」だと思ってるっしょ?
だからモブが逃げまどってる映像みて「自分もこの中の一人かもしれない!!」って感じる訓練があらかじめできているのかもしれない。
逆に自分ってものをそこまで客観的に感じていない人からすると、もっと感情移入できる主人公キャラとかの恋人や友人が死ぬシーンとかがないとあんまり身に迫ってこないのかもしれない。しれない。
 

■にほん!

でもこの映画の主人公って誰やねんって考えた時に、もちろん矢口とかがメインキャラだと思うんだけど、なんか個人的には、主人公は「日本」ってものの性質そのもの、っていうか、日本の擬人化をやってるのかなあとか思ったわけなんですよ。

日本の性格を擬人化しようとしたら、それは「個人」じゃなくて「集団」になるよなあ。ってことなのかなあとか思って。

ジャパンくんのインサイドヘッドの中にはめっちゃいっぱい人がいるんだよね。ジャパンくんの気質として、頭の中に常に他人の目があるんだと思う。意思決定のプロセスにもそれが絡んでくる。

って考えると、なんか一人だけアニメキャラっぽいカヨコ・アン・パターソンさんも、あれひとつの人格ってよりは、ジャパンくんが内面化しているアメリカっていうものなのかなあという考え方もあるかもしれない。

ところどころルー英語っぽいじゃん?日本人が考えるバイリンガルのイメージって感じがする。(本当にああいう感じのバイリンガルもいるとは思うけど)

 

■かまた!

蒲田くん、すごい人気あるよね。わたしは普通にきもいとおもう。