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- 元「ジュリ」が、沖縄戦時「慰安婦」と日本兵らとの共同生活を証言
- 「ジュリ」は、那覇市辻などの遊郭で要人をもてなしていた女性のこと
- 「ジュリ」本人が旧日本軍の第32軍壕にいたと名乗り出るのは初めて
那覇市の辻(つじ)遊郭の元「ジュリ」だった女性が沖縄戦時、「慰安婦」とされたほかの「ジュリ」とともに、首里にあった旧日本軍の第32軍司令部壕に移動し、兵隊らと共同生活をしたと自身の手記で明らかにしていることが1日までに分かった。関係者によると、「ジュリ」の女性本人が司令部壕内にいたと名乗り出るのは初めて。(学芸部・与儀武秀)
当時の状況を明らかにしたのは、米アリゾナ州に住む今帰仁村出身の正子・ロビンズ・サマーズさん(88)=旧姓・新城。
正子さんは1928年、父親の仕事先の大阪で出生後、家族で今帰仁に帰郷。貧困の中、3~4歳で辻遊郭に売られた。沖縄戦の戦禍を逃れ、終戦後は米兵と結婚。52年に渡米し、画家として活動した後、現在は米国に滞在している。発刊に向け準備中の自身の手記で、戦前の辻に身売りされた過去や沖縄戦時の体験をつづっている。
手記では沖縄戦前の44年、「若い女性は軍隊と行動を一緒にする」との命令が出され、「軍部の命令に従わざるを得なかった」として、先輩の「ジュリ」たちとともに辻から浦添へ移動したと説明。自身は将校の接待や踊りに従事し、性の提供は求められなかったが、順番待ちをする兵隊の性の相手をする女性たちを間近に見て「地獄のような状態であったに違いない」と記している。
その後「私達全員が、万が一の場合に備えての補助看護婦としての勉強をさせられた」「性の提供を強制されることはなくなった」としながら、「首里城の麓にある防空壕へ移動した」と記述。印象を「規模の大きさ、照明がついた長い長い通廊、さらに台所、女性用の大きな部屋、沢山の寝台の備った多くの部屋等の設備には、防空壕の中とはとても思えなかった」と書いている。
壕内では「私達女性は全員で20人余りであった」としつつ、「私たちの部屋は閉鎖され将校用の宿舎に変えられてしまった」と共同生活の様子を述べている。
「ジュリ」は、辻などの遊郭で要人らをもてなす女性として従事していた。