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最終話:黎明
「では王子、行って参る」
「ああ、しばしのお別れだな」
水平線の向こうに太陽が昇り始める頃、ミラノは、とある港に来ていた。ミラノだけではない。警備の者たちに厳重に包囲されたエンテと、その集団を引率するクマハチもだ。少し離れた場所には、その様子を見守るようにアルエも付き添いとして同席していた。
セレネが亡くなってから早半年、季節は早春を迎え、ヘリファルテに拘留されていたエンテへの判決が言い渡された。下された判決は、大陸からの追放である。
流刑先はいくつか候補があったが、エンテは刑期が終わるまでの数年間を、クマハチの母国でもある離島で暮らすことになった。その間、クマハチが監視役として目を光らせる事になる。今日はエンテの刑の執行日なのだ。
「ではエンテ王女、そろそろ出発の時間でござる」
「はい……」
エンテは抵抗する素振りを全く見せず、素直に頷いた。傍若無人な振る舞いは消え去り、ただ己の罪と自責の念に駆られているようで、以前より随分と小さく見える。
大陸中の民に多大な貢献をした、聖女セレネ=アークイラを殺害したというのに、この判決はあまりに甘い。極刑にすべきだという意見もかなり挙がったが、それを制止したのは、一番の被害者であるミラノであった。
エンテ王女がセレネ殺害のきっかけであることは事実だが、彼女の気持ちを踏み台にし、大陸を混沌に陥れようとした呪詛吐きのほうがより重罪であること。そして、その悪党には我ら人間ではなく、竜による断罪が既になされている。
何より、エンテ王女がセレネの殺害を企てたのは、自分自身がエンテ王女の想いをはぐらかし、国同士の体裁ばかり気にして、上辺だけの付き合いで逃げてきたからだ、というのがミラノの主張であった。
「ミラノ王子、こんな私に情けをかけていただき、ありがとうございます。私、刑期中に、呪いについて学ぼうと思うのです。もう二度と、私のような愚かな者や、被害者を出さないために……それが私に出来る、セレネ姫に対する償いになると思っています」
「そうか……」
「拙者が付いている以上、エンテ王女はしっかりと見張っておく。ご安心くだされ」
「色々手間を掛けさせて申し訳ないが、よろしく頼むぞ。クマハチ」
「御意」
クマハチもミラノも、部下の目の前ということもあり、エンテを罪人扱いしているが、実はそれほど心配はしていなかった。日除蟲に襲われて以来、エンテは、すっかり貞淑な乙女になってしまった。こう言っては何だが、エンテはお芝居を長く続けられるほどの役者ではないのだ。
「なぁに、拙者もそろそろ里帰りをする予定だったのでござる。文字通り、渡りに船でござるよ。王子、拙者がいない間、鍛錬をさぼってはならぬぞ」
「馬鹿な事を言うな。お前がいなくとも、鍛錬相手はギィがしてくれるさ」
「はは、それもそうでござるな。ギィ殿はかなりの手練でござるからなぁ。では、拙者も負けずに修行を続けるとしよう」
数年は会えなくなるだろうが、二人にとって物理的な距離はさほど問題ではない。お互い、そんなに浅い付き合いではないのだから。ミラノとクマハチの会話が終わり、エンテは船に乗り込もうとしていたが、突如ミラノの方を振り向いた。
「ミラノ王子っ!」
エンテが大声を上げたので、周りの兵士は警戒態勢を取る。だが、ミラノは微動だにせず、泣き出しそうなエンテの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「いつか……私の罪が償い終わったら、セレネ姫のお墓参りに行ってもよいでしょうか?」
縋るようなエンテの声に、ミラノは少し間を置き、口を開く。
「ああ、きっと彼女も喜ぶだろう。その時は是非、僕を誘ってもらいたいものだ」
ミラノが柔和な笑みでそう答えると、エンテはほっと安堵のため息を漏らした。
「ありがとうございます。さようなら、私の愛しいお方……」
エンテは小さくそう呟くと、ミラノに背を向け、そのまま船へと乗り込んでいった。その足取りに、もはや迷いは感じられない。自らの罪と真正面から向かい合い、前に向かって歩く決意が、エンテの背中から感じ取れた。
そうして船の錨が取り外され、クマハチとエンテを乗せた船は、徐々に港を離れていく。朝焼けの光を反射し、船は輝く海原へと旅立っていく。他に誰も見送りのいない静寂の港に、ミラノとアルエだけが取り残された。
「王子、エンテ王女を簡単に許してしまっていいのですか?」
「許してなどいないさ」
ミラノは悲しげな瞳で、既に豆粒ほどの大きさになり、徐々に海の向こうへ消えてゆく船を眺め、そう呟く。
ミラノもアルエも、最愛のセレネを殺したエンテを完全に許したわけではない。頭で判断を下しても、人間である以上、感情がそれを納得しないという事もある。
だが、自分達は王族であり、民の模範となるべき存在だ。怒りの感情に駆られるまま、目には目を、歯には歯をではいけない。それは、別の悲劇を生み出すことになってしまう。
「エンテ王女を殺した所で、セレネが生き返るわけではない。彼女を処刑すれば、彼女の家族に我々と同じ気持ちを味わわせる事になる。憎しみの連鎖は、どこかで断ち切らねばならない」
「そう、ですね……きっと、あの子もそう言うと思います」
「はい。セレネなら、きっと許したことでしょう」
ミラノは、ヴァルベールでエンテとセレネが楽しく会話していた事を思い出す。それが例え偽りであり、エンテの本性を知ったとしても、あの心優しく聡明な少女なら、きっと許したであろう。
「アルエ姫、僕は今、ここで誓いを立てたい。聞いてもらえるでしょうか?」
「私でよろしければ、喜んで」
「……僕は、太陽のような王になろうと思うのです」
「太陽……ですか?」
ミラノの言わんとする意味がよく分からず、アルエは思わず聞き返す。無論、ミラノは冗談を言っている風ではなく、表情は真剣そのものだ。
「天文学者の話では、月というものは、太陽の光によって輝いているそうです。月光姫セレネの功績を輝かせるため、彼女の愛したこの大陸を、あまねく全てを照らす。そんな王になりたいのです」
ミラノは決意する。王子である自分自身の責務を果たすためだけではなく、遥か月へと帰ってしまったセレネ――彼女の名を永遠に地上に留めるため、自らを磨き、ヘリファルテを、いや、全ての民を光り輝く道へと導くのだ。
「やはり、子供じみた馬鹿げた考えだと笑うでしょうか?」
「いいえ! 素晴らしいと思います。私も力及ばずながら、精一杯学び、ご協力させていただきます」
「ありがとうございます。アルエ姫にご協力いただけるのならば、これほど心強いことはありません」
「私に出来ることがあれば何なりと。それが、あの子の遺言でもありますから……」
「姉様と一緒に……ですね」
姉様と一緒に、それがセレネの残した遺言だ。死にゆく自分の代わりに、血を分けたアルエ姫と、平和な世界を作って欲しい。それこそが、セレネが自分達に託したかった願いなのだろう。
それからしばらくの間、ミラノとアルエは無言で凪いだ海を眺めていた。すると、遥か彼方から、赤竜が飛んでくるのが見えた。赤竜は空中で制止すると、空高くからミラノとアルエに対し、じっと視線を向けていた。
「セレネの使者よ、どうか僕達の行く先を見守っていてくれ」
まるで自分達の様子を窺うかのような赤竜に対し、ミラノは願いを籠めて宣言する。すると、それに呼応するかのように、一枚の布きれが赤竜の背から落ちて来るのが見えた。布切れはミラノの目の前にひらひらと舞い降り、思わずミラノはその布を掴む。
「なんだこれは? 何か書いてあるようだが……?」
布切れには奇妙な模様が描かれており、ミラノは怪訝な表情をする。横からそれを覗き込んだアルエは、驚愕に目を瞠る。
「こ、これ……!? セレネ文字です!」
「セレネ文字?」
聞きなれない単語にミラノは首を傾げるが、アルエは興奮しながらも、なんとかその奇妙な模様について説明をした。セレネが監禁される前、彼女はどこの国の物でもない、恐らくは、自分で考えた文字のようなものを書くことがあったらしい。この模様は、それに酷似しているという。つまり、これを書いた人物は……。
「セレネ……なのか!?」
ミラノとアルエが慌てて上空に顔を向けた頃には、赤竜は遥か高みへと上昇し、身を翻して北の空へと飛び去ろうとしていた。
『本当に竜峰に行ってよいのか? 折角ここまで足を伸ばしてやったというのに』
「うん」
竜の背の上に跨る少女は、絹糸のような純白の髪を肩の辺りで綺麗に揃え、肌は真珠のように滑らか。神の愛を一身に受けたような類稀な美貌には、ルビーをはめ込んだような双眸が輝いている。
――紛れもなく、セレネ=アークイラであった。
日除蟲に襲われ、命を落としたかに見えたセレネであったが、蟲はセレネを食い尽くす事はできなかった。蟲自身が弱っていたこともあるが、最大の理由はバトラーにあった。
セレネが棺に入れられ、霊廟に安置された後も、バトラーはセレネの体にずっと寄り添い、主から受け取り、自身に蓄えていた魔力を返し続けていた。
日除蟲の力は、先日食べたムカデに何故か似ており、免疫が出来ていた事も時間を稼ぐ大きな助けとなった。バトラーが放出する魔力を障壁とし、日除蟲がセレネを喰うことを必死に食い止めていたのだ。
だが、それも一時しのぎに過ぎない。赤竜が姿を現さねば、セレネもバトラーも共倒れになっていただろう。とはいえ、事は簡単には進まない。ササクレは破壊力こそ凄まじいが、細かい作業は極めて苦手なのだ。
人間の子供であるセレネに、膨大な竜の魔力を一気に流し込んでしまうと、セレネの身体が壊れてしまう。そのため、ササクレは聖セレネ霊廟に通いつめ、体内に食い込んだガラス片を摘出するように、細心の注意を払い、セレネに巣食う日除蟲を少しずつ取り除いていった。
完全にセレネから蟲を取り除くまでに、数ヶ月も掛かってしまった。そして、昨夜、仮死状態から復活したセレネは、夜中のうちにB級ゾンビ映画のように棺から這い出した。
セレネ霊廟は絶賛建て増し中であるが、肝心の棺はもぬけの殻だ。だからセレネの墓前で泣かないでください。そこにセレネはいません。竜に乗って大空を舞っています。
『何故帰らん? 人が過ごすのは人の中が一番良いと言っていたではないか』
『赤竜様、そう簡単にはいかないのです』
セレネの肩から顔を出したのは、彼女の親友であり、頼れる鼠の執事バトラーだ。連日の疲労により少し痩せていたが、その瞳には生命力が満ち満ちている。バトラーは、よく通るバリトンの声で、人間の事情などまるで分からぬササクレに現状を説明する。
『今、人間たちの国々は、姫の死により非常に不安定になっております。もし安易に姫が姿を現せれば、ヘリファルテに迷惑が掛かる可能性があるのです』
『つまり……どういうことだ?』
セレネが蘇った事を告げれば、ヘリファルテ国民は多いに歓喜するだろう。だが、他国がそうとは限らない。下手をすると、月光姫セレネの奇跡の力をより高め、ヘリファルテの国力をさらに上げるための自作自演だと難癖を付けてくる国もあるだろう。
『姫とて一刻も早く帰りたいのです。ですが、姫は気高きお方。自分の身よりも、国のためを思い、身を引いているのです。もう少し情勢が落ち着くまでは、身を潜めておいた方がよいでしょうな』
『ううむ……なんだかよく分からんが、人間と言うものは面倒だな』
バトラーの説明を聞いても、ササクレにはいまいち理解できなかった。だが、セレネが同属を思い、身を引かざるを得ない状況であることくらいは把握できた。
『ふぅむ、まだ幼い個体だというのに、なかなか見所のある娘ではないか』
ササクレにとって、セレネはあくまで武器に過ぎない。ヴァルベールの年老いた人間を怒りに任せて襲撃したのも、自分の道具を勝手に壊されて激怒しただけだ。だが、今の話を聞いて、ササクレはセレネという人間そのものに、少しだけ興味を持った。
「かんぱいだ」
『乾杯、か……』
未来の同胞達に乾杯、祝福の言葉を捧げるセレネに、ササクレは敬意の念を持つ。幼体であるにも関わらず、種族全体の利益を考えられるということは、群れの長たる風格を既に持っているということだ。
――無論、セレネがそんな事を考えているわけがない。バトラーとササクレの会話など聞いちゃおらず、セレネは敗北感に打ちひしがれていた。
完敗だ。セレネはミラノに対し、事実上の敗北宣言をせざるを得なかった。確実に仕留めたと思ったのに、罠に絡め取られたのは自分だったのだ。
あの優男、涼しげな見た目とは裏腹に、腹の中は真っ黒だと思っていたが、まさか本当に真っ黒な怪物を飼っているとは誰が予想できようか。いや、想像力を働かせるべきだったのだ。
自分とて喋る鼠の執事をこっそり飼っているのだから、優れた能力を持つ大国の王子なら、護身用の化け物の一匹や二匹、体内に飼っていてもおかしくはないではないか。
バトラーとササクレのお陰でなんとか一命は取り留めたが、本当に紙一重だった。そして、自分が目覚めた時には、全てが手遅れだった。
ササクレを促し、王子を慌てて追いかけたセレネが目にしたのは、親友であるエンテ王女とクマハチが揃って船に乗せられ、どこかへ送られていく場面だった。
「おそかった……」
セレネは苦渋に満ちた表情で小さく呟く。あの王子は、ついに利用価値のなくなった邪魔な存在を、次から次へと排斥し始めたのだろう。
「おのれぇ……」
本当は今すぐにでも舞い降り、せめてアルエだけでも取り返したい。だが、あんなおぞましい怪物を飼っている輩だ。他にどんな得体の知れない異形や、卑劣な罠を仕掛けているとも限らない。
エルフに助けを求めようにも、彼らは既にヘリファルテに懐柔されている。つまり、自分は今、完全に孤立無援なのだ。今の状態で飛び込むのはあまりにも無謀。セレネはそう認めざるを得なかった。囚われのアルエを救い出すためには、それ相応の力を手にしなければならない。
――そう、竜の力だ。
ミラノ王子がどれだけ策を巡らせようが、どうすることも出来ないほどに圧倒的な力を手にしたとき、もう一度勝負を挑もう。だから、セレネは布切れにある文字をしたため、騎士が手袋を投げるように宣戦布告をしたのだ。
「あの子、いっつも心配かける子なんだから……」
そう言いながらも、アルエは歓喜の涙を浮かべ、澄み渡る空を飛び去っていく竜を見送った。
常識的に考えれば、死人が生き返るなどありえない。だが、そのありえないことをやってのけるのが、セレネという人間なのだ。ミラノとアルエは、狐につままれたような、だが、同時に今までの鬱屈した空気を吹き飛ばすような、何とも晴れ晴れとした気分で、薄紫から徐々に青く輝いていく空を眺める。
「ところで、その布に書いてある言葉は、何という意味なのですか? セレネ文字というのだから、何か意味があるのですよね」
「それが……私にもさっぱり。多分、あの子にしか分からないです」
「そうか……」
内容が分からないのが少し残念だ。そもそも、この紙がセレネが書いたものだという確証もない。だが、そこには確かな希望があった。
――その布には、ひらがなでこう記されている。
「あいるびーばっく!」
私は必ず戻ってくる。風を切り、一直線に竜峰を目指すササクレの背の上で、セレネはそう呟いた。
アークイラからヘリファルテに連れていかれた時も、自分は少しずつ勢力を拡大し、エルフとの交流を結び、王子に刃を突き立てるまでに至ったのだ。
ならば、どれだけ無茶だろうが、竜峰とやらに殴りこみ、竜共を従えてやろうではないか。圧倒的な武力を手にして王子を倒し、囚われのアルエを救い出す。そして、セレネによる、セレネのための百合の花園を築くのだ。
『姫、これからしばらく困難な道が続くでしょう。ですが、この私、バトラーは姫の執事にございます。いついかなる時も、私は姫の味方でございますぞ』
「うん! がんばる!」
『その意気でございます! 姫に乗り越えられない試練はございませぬ。微力ながら、このバトラーもお力添えさせていただきます。どうぞご安心くだされ!』
肩の上に乗ったバトラーの顎を、セレネは指で軽く撫でると、バトラーは気持ちよさげに目を細めた。
ミラノ王子よ、今は束の間の平和を味わっているがよい。だが、このセレネ=アークイラは、お前が思っているほど軟弱な存在ではないのだ。地獄の底から這い上がり、再びお前の元へ姿を現す。その時を、首を洗って待っているがよい。
「ねえさま、まってて!」
セレネは一度だけ後ろを振り向いた。もう随分と遠くまで来てしまったので、アルエもミラノも見えない。セレネは迷いを振り切るように、真っ直ぐに前を見る。
黎明の光の中、セレネを乗せた赤竜の姿は、やがて空に吸い込まれるように小さく消えていった。
こうして朝日は昇り、月はその姿を消す事になる。だが、人の目に見えない位置にあるだけで、月そのものが消えたわけではない。明けない夜が無いように、沈まぬ太陽も無い。太陽に再び闇が忍び寄る頃、月は光を増し、再び姿を現すであろう。
太陽王ミラノ=ヘリファルテと、それと対をなす月光姫セレネ=アークイラの物語は、この瞬間から幕を開ける。だが、それに気付くものは、まだ誰一人としていなかった。
これにて本編は完結となります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
なお、この度書籍化することとなりました。
今後の活動方針を含め、詳細は活動報告に記載してあります。
興味のある方は是非ご覧下さい。
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