FEDウォッチングはアートです。

僕の場合、1988年から、これをやっています。

その奥義に接する最初の機会は、突然、しかも身に余る光栄のカタチでやってきました。

1987年は個人的にいろいろなことが起きた年でした。その夏、ワイフと結婚しました。ところが秋にはニューヨーク株式市場の大暴落があったし、ワイフの父が急死し、その関係もあってワイフが「大学院に戻りたい」と言いだしました。それでヘッドハンターに電話して、ニューヨークで日本人を探している投資銀行を探してもらいました。その時、「ここはどうかね?」と提案されたのが英国のSGウォーバーグでした。

当時のSGウォーバーグはアメリカに橋頭保を築く最中で、大物を招き入れ、バイサイドのトップとリレーションシップをこしらえる努力をしていました。元ニューヨーク連銀のトニー・ソロモン総裁を副会長としてスカウトしたのは、そのためです。

トニーの仕事は、毎月1回、SGウォーバーグの入居していた52丁目と7番街に建ったばかりのエクイタブル・タワーの最上階のエグゼクティブ・ダイニング・ルームで、「お食事会」を開催することでした。壁画やウッドパネリングでデカダントに装飾されたフロアは、全てボードルームから構成されており、うやうやしい執事も就いて、およそ浮世離れした世界です。

そこに1ダースほどのトップ機関投資家のチーフ・エコノミストたちを集め、昼食なのにカクテルを飲んで、米国経済や金融政策について放談する……そういう企画でした。僕が仰せつかったのは、「トニーの世話人をしろ!」ということです。招待状を出したり、出席者のネームプレートを用意したり、メニューを確認する、、、そういう下っ端の仕事を任されたというわけです。

そのお蔭で、当時のアメリカのバイサイドを代表する、トップ・エコノミストたちと毎月、会うことが出来たし、彼らがオフレコでトニーを囲んで、それぞれの持論をぶつけ合うという、誠に興味深い光景を目にすることが出来ました。

トニーは、ちょっとオオカミ、それもワーナー・ブラザーズのドタバタ漫画に出てきそうなコミカルなオオカミを連想させる風貌で、一見すると怖い感じなのだけど、冗談ばかり言って、兎に角、お茶目な人でした。

ニューヨーク連銀はウォール街の中心に位置している関係で、「FRBのウォール街番」だと言われています。また公開市場デスクと呼ばれる、市場に直接働きかけ、金融政策を実行してゆくチームが居る場所でもあり、隠然たる存在感を出していました。1929年の大暴落以前は、ニューヨーク連銀の方がFRBよりも権力を持っていました。それは初代ニューヨーク連銀総裁、ベンジャミン・ストロングの強烈な存在感に依るところが大きかったです。しかしストロングの死後、ニューヨーク連銀とFRBとの間で権力抗争が起き、ニューヨーク連銀はこれに負けます。

トニーはポール・ボルカーがFRB議長になったとき、その後任としてニューヨーク連銀総裁になりました。そしてその地位をリタイアした後は、ジェラルド・コリガンが継ぎました。

当時の米国の経済に対しては「アメリカは斜陽の大国だ」という懐疑論がとても多く、またウォール街自身も、1987年のブラックマンデーの大暴落の直後で、少し物音がしても飛び上がるほど怖気づいていたし、9/11やリーマンショックなどの世の中が変わる大事件が襲った直後に出現する、なにか放心したような、モヤモヤ意識が混濁したような混沌の中を手探りで歩いてゆく……そういうムードでした。

よく「リーマンショック以降は、ニューノーマルの世の中だから、同じ論理は通用しない!」という人が多いけど、僕にしてみれば、こういう経験は過去に何度かしているわけだから、「今回だけは、違う!」という主張は、大幅に割り引いて聞く態度が身につきました。

さて、トニーのお食事会の話に戻ると、カクテル片手に雑談した後、皆が着席し、前菜が出始めると、トニーは出席者のひとりひとりに「いまの経済を、どう思う?」と順番に訊いて回りました。これはいまから考えると連邦公開市場委員会(FOMC)の際の「エコノミック・ゴー・ラウンド」と呼ばれるメンバーの意見聴収の時間を真似したやり方でした。「エコノミック・ゴー・ラウンド」では、ひとり4分の持ち時間が与えられます。

そうやって経済のデータに対する、各人の解釈を意見交換した後で、「それじゃ政策金利はどうすべきかね?」というディスカッションに移るわけです。これはFOMCでは「ポリシー・ゴー・ラウンド」と呼ばれる局面です。

このようにFOMCで実際にやっていることを「再現」することで、出席者それぞれが考えていることが全員にわかってしまうし、そのグループの中での自分の立ち位置も明快になるというわけです。

僕がよく引用する「FRBストリッパー理論」や「凧揚げ理論」などは、いずれもこのお食事会で聞いた事です。FRBの仕組みも勿論、勉強になったけど、それより貴重だなと思ったのは、連銀の連中が何を恐れ、どういう動機に突き動かされて金融政策を決めているか? という「楽屋ネタ」がポンポン飛び出したことでした。

トニーが後任者のコリガンを遠回しにdisっていたのは当然として(笑)、過去の著名な議長のエピソードやウンチクを聞けたことも、自分としてはためになりました。当時のFRB議長はアラン・グリーンスパンだったけれど、着任早々、ブラックマンデーが起きたので、その手腕に対しては懐疑的な見方をする市場関係者が多かったです。

なお日本ではFRB(連邦準備制度理事会)をアメリカの中央銀行だと位置付けていますが、実際にはFED(Federal Reserve System=連邦準備制度)がアメリカの中央銀行だと思います。

現在のFRB(=理事会)は定員が7名で、このうち2名は欠員のままとなっています。イエレン、フィッシャー、ブレイナード、タルーロ、パウエルがメンバーです。彼らは大統領が指名し、上院が承認します。各人の任期は4年です。

これらの理事たちは皆、FOMCでの投票権を持っています。

それからニューヨーク連銀総裁も特別パワフルな地位なので(=NY連銀の準備金は、連邦準備制度全体の準備金の約50%を占めます)、常にFOMCでの投票権を持ちます。

米国には12の連邦準備銀行があり、ニューヨーク連銀を除く残りの11連銀は地方連銀と呼ばれます。その11連銀総裁のうち4名が、毎年、持ち回りでFOMCでの投票権を持ちます。

このシステムを確立したのは1950年代から1970年代にかけてFRB議長を務めたウイリアム・マーチンJr.です。彼はあらゆる意味で「こんにちのFRBの役目を定義し、オペレーティング・ルールを決めた功労者」と言えるでしょう。

「ドルの守護神」と言われた、ポール・ボルカー議長は、ウイリアム・マーチンJr.こそがFRB議長のお手本だと考えました。

ウイリアム・マーチンJr.は場立ちからFRB議長になった異才です。

1928年にセントルイスの地場証券、AGエドワーズに入社、調査部を創設した後、AGエドワーズの場立ちとしてNYSEに詰めます。そして大恐慌時代にNYSE会長を務めたウィットニーが、顧客資産の使い込み事件で辞任に追い込まれた際、わずか31歳という若さでNYSE会長に推挙されます。

第二次世界大戦がはじまるとレンドリース法でソ連に武器を送るオペレーションの総責任者になります。そのときの腕前を買われて、戦後は輸出入銀行の頭取として国際通貨基金(IMF)の政策の実行部隊を務めるわけです。

1951年にFRB議長になりますが、当時、FRBは第二次大戦時に敷かれた挙国一致体制(=「アコード」と呼ばれました)により米国財務省に実質的な権限を全て委譲しており、独立性はありませんでした。戦争遂行のための資金調達のために、財務省はどんどん国債を出し、その「ゴミ箱」としてFRBがそれを買い入れたのです。その時の金利は1.5%に固定され(「ペッグ」と呼ばれました)、FRBのバランスシートは800%も膨張します。

この財務省への従属を断ち切った人がウイリアム・マーチンJr.というわけです。

ウイリアム・マーチンJr.は、有名は「FEDはパーティーが最高潮になったころにこっそりパンチボウルを下げ始めなければいけない」ということを言った人です。

彼が着任したときは、中央銀行の独立性は確立されておらず、大統領が金利政策にあからさまに介入することが常でした。そういうホワイトハウスからの圧力に抗し、FEDの独立性を打ち立てた人がマーチンというわけです。

マーチン時代のFEDは、インフレとの戦いの連続でした。なぜならその前にちょうど現代とおなじような、長い低インフレ、低金利の時代が続き、インフレ圧力が静かに蓄積していたからです。

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こんにちFRBが置かれている経済の状況は、朝鮮動乱後のデフレ局面の状況と共通点が多いです。だからマーチン時代のFRBは、研究する価値が大いにあると思います。