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夜伽の国の月光姫 作者:青野海鳥

【第一部】夜伽の国の月光姫

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第3話:楽園

 日課の脱獄を成功させたセレネは、気持ちが段々と落ち着くのを感じていた。静謐(せいひつ)な森を歩いているうちに思考が纏まり、愛する姉が性王子の餌食になる可能性は極めて低いという考えに至ったからだ。

 アルエがたまに差し入れをしてくれる本は、教育を受けられないセレネのために、簡素な地図や歴史などが載っている絵本が多かった。子供向けの嗜好品から得られる知識などたかが知れているが、それでもこの大陸の、ある程度の情報は引き出せた。

 与えられた書物からセレネが気付いたのは、偉そうに大陸で幅を利かせている王子の国に対し、アークイラ王国が、大陸の南端に申し訳程度に記されているという事だった。簡単に言ってしまえば、彼女が住んでいる国はド田舎だったのだ。

 セレネにとって、アルエは慈愛の大天使であったが、諸国の綺麗どころを物色している放蕩王子が、小国の素朴なアルエを相手に選ぶとは到底思えない。スーパーカーを何台も持つ大都会の若社長が、限界集落まで来てスーパーカブを買う事などないだろう。そう結論付けると気が楽になり、セレネは軽い足取りで目的地を目指す。

 夜の森を少女一人、月明かりのみを頼りに歩く行為は危険極まりないと思うかもしれないが、セレネは全く怯えていない。何故なら彼女の周りには、大量のネズミたちが付き従っているからだ。

 バトラーの部下である彼らは、森の熟練者であり、同時にセレネの護衛兼先導役であった。彼らはその数の多さを最大限に活かしたネットワークで、セレネに危害が及ばないよう、危険な生物や、触れたらかぶれてしまう毒のある植物などを逐一セレネに教えてくれる。お陰でセレネは、目をつむっていても、鬱蒼(うっそう)とした森の中を悠々と歩く事ができるほどだ。

「ついた」

 そうして暫く歩き続け、王宮の人間すら滅多に近寄らない森の奥、セレネは足を止めた。

 木々が乱立する森の中で、ここだけは青々とした丈の低い草地が広がり、色とりどりの花が咲き乱れている。その中心部には小さな池があり、静かな水面には満月の姿が浮かんでいた。この小さな箱庭のような空間こそ、セレネが「楽園」と呼んでいる場所だった。

「ええと、種、種」

 セレネはポケットに手を突っ込み、丸い小さな粒――植物の種を取り出した。食事の際、野菜や果物の種を見つけると、セレネはそれをこっそり保存しておいた。そのままセレネは適当な場所を見繕い、ふかふかの土を両手で掘り返し、その種を放り込んでいく。

 過去世から、セレネは植物や動物を育てる事が好きであったが、ベランダすらないアパートの一室では碌に出来ず、小さな鉢植えを申し訳程度に並べておく事が精一杯だった。しかし今は、夜中限定ではあるものの、広大な土地を好き勝手に弄れるのだ。そういう意味でも、今の境遇はセレネにとってまさに楽園であった。

 少女一人で全て管理出来るわけもなく、単に穴を掘って種を埋めるだけ。リスと同レベルのいい加減さではあるが、肥沃な土と南方の気候のお陰で、植物達はどんどん成長してくれた。倉庫に監禁されてから数年の歳月をかけ、セレネは秘密の花園を作り上げたのだ。

「おわり。しゅぎょう、始め」

 用意してきた種を全て撒き終わると、セレネは次の日課へと移る。池のほとりに移動し、目を閉じ、祈りを捧げるように(ひざまず)く。これはセレネが勝手に考えた、自己流の魔術の特訓である。せっかく魔力という存在があるのだから、やはり自分も使ってみたい。けれど、誰もその方法は教えてくれないので、セレネは独自で何とかしようと考えた。

「ラーメン、ソーメン、コペンハーゲン……」

 知っている魔法っぽい単語を適当に並べつつ、セレネはぶつぶつと勝手な呪文を詠唱する。
 何かこう、集中して祈りを捧げれば、大地の力とか、スピリチュアルパワーとか、そういった類の物で唐突にパワーが覚醒するのでは、そんな淡い期待を胸に、セレネは今日も無駄な努力に勤しむのだ。

 ただ、数年続けて効果が出たことは全く無く、途中で面倒くさくなるので、いつも大体三分くらいでやめる。今日もそのトレーニングを終えた後、バトラーのために活きの良いバッタでも捕まえ、いつも通り帰還するつもりだった。

「何をそんなに祈っている? それともそれは何かの歌かな? 麗しき月の精霊よ」

 唐突に背後から掛けられた声にセレネはびくりと体を震わせ、慌てて後ろを振り向き、さらに衝撃を受けた。

 セレネが自己流の祈りに集中している間に、近くに一人の男が立っていたのだ。まだ青年と呼ぶべき年齢だろうか。すらりとした長身、月光の下でなお鮮やかに映えるプラチナブロンドの髪、それと同じ色の黄金の鷲の刺繍をあしらった、見るからに上質な素材で出来た、純白の礼服に身を包んでいた。

 だが、その顔立ちの美しさと比べれば、身に付けている諸々の装飾など霞んでしまう。それほどの美丈夫であった。セレネを怖がらせないためだろうか、青年は柔らかな笑みを浮かべ、ゆったりとセレネに近づいてくる。

「いきなり話しかけた非礼は詫びよう。君の事をどうしても間近で見たくなってしまってな」

 詩人が歌うような声でそう言いながら、青年は形のいい唇を緩めた。女性であればその動作一つで、心まで(とろ)かされてしまう魅惑的な笑みだ。

 ――女性であったならば、だ。

「キライ!」

 セレネは大声で拒絶の言葉を浴びせ、脱兎の如く駆け出した。
 少女の言動が予想外だったのか、青年はきょとんとした表情を見せたが、少女が背を向けて走りだしたのを見て我に返り、慌てて手を伸ばす。しかし、一瞬先に動いていたセレネは、青年の手が触れる寸前に素早く身を(ひるがえ)し、茂みへと飛び込んだ。

「待ってくれ!」

 セレネの背後から懇願するような青年の声が聞こえ、追いかけてくる気配を感じる。けれどセレネは決して振り返らない。一心不乱に茂みの中を駆け抜け、美青年の追撃を振りほどこうと必死だった。

 ここが平地で、昼間であったなら、体力の無い少女は簡単に追いつかれてしまっていただろう。だが既に視界は闇に塗りつぶされていたのと、セレネにとってこの森は庭のようなものだ。さして苦労することもなく、セレネは青年を撒く事に成功した。それでも足は止まらない、心臓が爆発しそうになりながら全力で倉庫まで駆け戻り、鬼気迫る勢いで蔦を昇る。

『おお、姫! 随分とお早いお帰りで……』

 窓のところで主の帰りをずっと待っていたバトラーは仰天した。主はいつも鼻歌交じりで帰ってきて、留守を守っていたバトラーや鼠たちに土産を持ち帰り、優しく労ってくれるのだ。

 だが、今日の主はそうではない。ぜえぜえと荒い息を吐き、服も髪も乱れに乱れていた。そのまま力尽きたようにベッドへ倒れこむと、セレネの身代わりになっていた鼠たちが慌てて飛びのく。

『姫! 一体どうなされたのですか!?』
「もう、なにもかも、おしまいだ……」
『何事です!? 一体、何があったと言うのですかっ!?』

 森ネズミ達は驚いて窓から出て行ってしまったが、バトラーは当惑しながらも、うつ伏せになった主人の枕元に駆け寄った。これほどまでに取り乱す主人を見たことがなく、バトラーは、ベッドに突っ伏したセレネの周りを心配そうに歩き回る。

 そんなバトラーに気を配る余裕が無いほど、セレネは憔悴しきっていた。
 原因はただ一つ、森の中で出会ったあの青年である。あれが例の聖王子だという事は、噂でしか聞いたことのないセレネにもすぐに分かった。何故あの場所に居たかは不明だが、そんなことはどうでもいい。

「うう! インチキ! ずるい! えこひいき!」

 枕に顔を埋めながら、セレネは呪詛の言葉を吐く。一体あれは何なのだ。あれではまるで王子様ではないか。いや、実際に王子様なのだが、あんな乙女ゲームからハサミで切り抜いたような馬鹿げた存在が許されるのか。否、断じて許されてはならない。

 噂には尾ひれ背びれが付くものだ。聖王子などという噂は、誇張表現だとセレネは高をくくっていた。しかし、目の当たりにした彼奴(きゃつ)は、まさにその二つ名に相応しい男だった。姉のアルエは貞淑な天使であると信じているが、あんな美男子に言い寄られては、石で作られた女神像だって惚れてしまうかもしれない。

『姫、落ち着いてくだされ。森で何があったと言うのです? このバトラーでよろしければ、相談に乗りますぞ?』

 気遣わしげなバトラーの声もセレネの耳には入らない。今のセレネの脳内には、過去の光景が浮かんでいた。それは、過去のセレネが好んでやっていた類のゲームの内容だ。

 美しい満月の下、穏やかな空気、年頃の姫様と王子様――はっきり言って出来すぎたシチュエーションだ。そうして二人は唇を重ね、十八歳未満には見せられない行為に――

「うわああぁぁぁぁあぁあああぁああああっっっ!!」
『ひ、姫! お気を確かに!』

 セレネは脳内で想定される最悪のシチュエーションに身悶えし、髪を掻き毟りながら号泣する。ああ、自分が大きくなったら、アルエ姉様と禁断の恋に落ちようと思っていたのに。横から来たトンビが油揚げを掻っ攫ってしまったのだ。

「セレネ! どうしたの!? セレネッ!」

 その声にセレネははっと顔を上げる。封印の紋様が輝きドアが開け放たれると、セレネにとって初恋の人、アルエが慌てて飛び込んできた。宴の最中なのに、何故彼女がここに居るのか理解出来ず、セレネは困惑し、バトラーは慌ててベッドの下に身を隠す。

「ねえさま、なんで……?」
「それは、その……それよりセレネ、その格好、一体どうしたの!?」
「……なんでもない」
「何でもないわけないでしょ!」

 髪はくしゃくしゃ、服はよれよれ、セレネの様子は尋常ではない。そう判断したアルエは慌てて駆け寄り、セレネの頬に手を伸ばし、目を見開いた。何故なら、セレネの頬は涙で濡れていたからだ。母に見捨てられても平然としていた妹の涙を見るのは、これが初めてだった。

「泣いて、いたのね……」
「……うん」

 仕方なくセレネは肯定した。貴方の痴態を想像して泣いていましたと答えるのはさすがに問題がありすぎたし、泣いていないと言い逃れできる状況でもない。理由を聞かれる前に、セレネは何とか話を逸らそうと口を開く。

「その、王子さまと、どうしたの?」

 王子への憎しみで頭が一杯だったので、今のセレネにはそのくらいしか話題が出せなかった。苦し紛れに紡いだ言葉に対し、アルエは沈痛な面持ちで口を開く。

「駄目だった……王子様は、私なんかに見向きもしなかったわ……」
「えっ」
「ごめんなさい……あんなに頑張るって言ったのに。お姉ちゃん、色仕掛け失敗しちゃった……」

 まるで叱られる前の幼子のように、アルエは俯きながら呟いた。
 夕方、あれだけ大見栄を切り、捨て身の覚悟で王子に挑んだのに、アルエは色々やらかしてしまったのだ。そしてそれは、セレネにとって救いの糸が断たれることを意味している。その事実が、どれだけ妹を落胆させる事になるか。

 セレネは王子に媚を売らなくていいと言ってくれたが、それは、セレネの強がりであるとアルエは考えていた。その証拠にセレネは今、この部屋で泣いていたではないか。普段は悠然とした態度で自分に接してくれる妹は、きっと毎晩こうして辛さに悶えているのだろう。それなのに、自分は何もしてやれない。アルエの胸中は、悲しみに打ちひしがれているであろう妹への申し訳無さと、自責の念で一杯であった。

 こんな情けない姉を妹はどう思うだろう。あれだけ偉そうな事を言ったのに、結局何も出来ないではないか、そう激しく糾弾されても仕方ない。アルエはそう身構えていた。

 だが、そうはならなかった。セレネは不甲斐ない姉を糾弾するどころか、何故か満足げ頬を綻ばせたのだ。そのままセレネは体勢を立て直し、ベッドの上に腰掛けた。

「ねえさま、しゃがんで」
「え……? こ、こうでいいかしら?」

 セレネの指示通りアルエが床にしゃがみ込むと、ベッドに腰掛けているセレネとアルエの視線が合った。そして、セレネはアルエの首に手を回し、ぎゅっと抱きつく。

「ど、どうしたの? セレネ?」
「じっとしてて」

 有無を言わさぬ口調で、セレネはアルエの首に巻きつくようにしがみ付く。セレネの温かな体温が、緊張し、強張ったアルエの体に心地よく染みこんでいく。お互い無言のまま暫くそうしていたが、不意にセレネはアルエの耳元でこう囁いた。

「よしよし」

 その言葉を聞いた途端、アルエの胸に閉じ込めていた感情がどっと溢れ出す。セレネは、こんな不出来な姉に対し、幼子をあやすように「よしよし」と優しく声を掛けてくれた。セレネは言葉を喋る事が苦手だ、だから、行動で気持ちを表す事が多い。罵声を浴びせられて当然の自分を、それでもセレネは抱きしめ、許してくれたのだ。なんと慈悲深い妹だろう。アルエの目元に大粒の涙が浮かぶ。

「セレネ、ああ、セレネ……! 私、まだ諦めないわ……貴方のために、もっともっと頑張るから!」
「がんばらないで、おねがい」
「気を遣わないでいいのよ。私達、たった二人の姉妹じゃない。泣きたい時は、泣いてもいいのよ」

 窮屈な社交辞令、慣れない男性の相手、疲れきっていたアルエにとって、心優しき妹の抱擁はとてつもない安堵感をアルエにもたらした。これではまるで、姉である自分のほうが年下のようではないか、そう思いつつも、アルエは(セレネ)の前でだけ、王女でなくなることが出来る。それがたまらなく嬉しいのだ。

 一方で、違う意味でセレネも安堵していた。子供のセレネに対し、アルエが大人の情事を済ませていて内緒にしているのではないか。それを確認するため、セレネはアルエの首元に抱きつき、柔肌を堪能しつつ、うなじや首元を入念にチェックした。そして、キスマーク――王子の痕跡が確かに無い事を確認し、セレネは満足げにこう呟いたのだ。

 「良し良し」と。

 アルエとセレネ、月光の細明かりが差し込む部屋で、仲睦まじい二人の姫君が抱き合う美しき姉妹愛を、バトラーはベッドの下から微笑ましげに見上げていた。

『ううむ、しかし、一体何が起こっていたのだ?』

 人間のように顎に前足を当て、バトラーは考えるが、今夜の出来事は彼の想像の範疇を超えていた。しかし、何はともあれ主は心の平穏を取り戻したのだ。ならばそれで良いではないか。そう考え、バトラーは己を納得させた。主の心の領域をむやみに詮索しない事も、執事たる自分には必要なのだ。

 さて、何故、パーティーに参加しているはずの王子が森の中に居たのか、アルエの身に一体何があったのか。話は少し巻き戻る――。
 
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