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第十九話
約束の日。
俺は指定の時刻より三十分早く到着した。事前に確認したいことがあったためだ。
喫茶店には、貸し切りの札が掛かっていた。元々、火曜日は定休日らしい。それを、千賀さんが貸し切り状態で開けてくれているみたいだった。
中に入ると、千賀さんが開店準備をしていた。
「──あれ? まだ時間あるよな?」
彼女は店の時計を見た。
「ああ。ちょっと確認したいことがあってさ」
「ん? ああ、ちょっと待ってくれないかな。すぐ終わるからさ」
彼女はテーブルを拭いていた。いつも手伝っているんだろうな。
やがて、彼女は布巾とバケツを片付けて戻ってきた。
「おまたせ。確認したいことって?」
彼女はカウンターの丸椅子にこちら向きに座った。いつぞやの光景。
「今日の面子と、何て言って召集かけたのか気になってさ」
「……ああ。裕美と小笠原さんと楠田さんには、『柊が九重家とトラブってつまんねーこと言い出したから話聞きに来い』って出欠確認したら、全員来るってさ。モテモテだねぇ」
自分もそこに含まれてるくせに、どういう神経なんだこいつは。ってそうじゃなくて。
「あと、九重先輩にも、『柊のことで火曜に集まるけど、申し開きがあるなら来てみれば』って出したけど出欠確認はしてない」
そういう言い方をされれば、彼女は来るしか無いだろう。それとも、気まず過ぎて逆に来れないか。どちらにせよ、俺が帰った後、九重家がどうなったのか俺には判らない。メールも貰ってないから、彼女が来れる状況にあるのか、何とも言えなかった。
十時ごろ。呼び出された三人が、恐る恐る外から店の中を窺っていた。
「お、来た来た」
千賀さんが彼女らを出迎える。
一番奥の席──四人席だった──の、一番奥に俺は座って待っていた。
千賀さんは、彼女らをそこに案内して。誰がどう座るのかをニヤニヤしながら見ていた。
彼女らは顔を見合わせて。躊躇して固まってしまう。
遊んでいても仕方が無いので、俺は席を立って、千賀さんを含めた四人で座るように促した。
「なんだよ、つまんねー」
千賀さんが文句を零す。遊ぶなよ。
俺は隣の席から椅子を持ってきて、通路側に座った。
「わざわざ集まってもらって申し訳ない」
ペコリと頭を下げる。千賀さん発案ではあったが、彼女は俺のために気を利かせてくれたのだ。
彼女らは、深刻そうに俺の言葉を待っていた。
「実は、俺、学校を辞めることにしたんだ」
彼女らの反応は、目を見開いたり細めたり。
「な? つまんねーだろ?」
千賀さんはワザとらしく、呆れた調子で肩を竦める。
「……何故?」
日高さんが続きを促す。
「九重さんのお父さんが、俺が彼女たちの傍にいると二人の精神状態に悪影響を与えるからと、二人とも転校させるなんて言い出してさ。そんなことをさせるくらいならと、俺が学校を辞めることにしたんだ。千賀さんには一昨日話をしたんだが、皆にも直接会って言いたかったんだ」
「……なんで……柊君がそんなことをしなければいけないのよ?」
小笠原さんは既に涙目だ。
「まぁ、ケジメというか。俺が、七年前に遙ちゃんを助けたことを、俺自身が後悔しないために」
「柊は真面目過ぎなんだよ」
日高さんも愚痴るように零す。
楠田さんは、何も言わずにため息を吐いた。
「楠田さん、ごめん。そんな訳で、楠田さんの夏休みデビューを手伝えない」
ペコリと頭を下げる。
「なんだよ、それ?」
場違いな言葉に、千賀さんから突っ込みが入る。
「楠田さんはさ、一学期は姿を偽ってただろ? 二学期から、イメチェンして夏休みデビュー? みたいなノリで行こうって話をしてたんだよ」
皆に見られ、楠田さんもペコリと頭を下げた。
「まあその件は別に考えるとして。話を戻すけどさ。柊のやつ、学校は辞めるけど、みんなが望むならまた会えるから、なんて言ってるんだけどさ。──どうしてくれようか?」
千賀さんは、さらっと険悪な声色に変えて、皆を煽る。
だが、三人はそれに乗って来ず、黙り込んでしまった。
「なんだよ……何か言ってくれよ……」
千賀さんも、皆に引きずられた様に沈んだ調子になってしまった。
ドアベルが鳴った。
そのとき俺達は無言のまま、通夜みたいな状態で俯いていた。
入り口を見やると、翠さんが立っていた。
いつの間にか、外は雨が降っていて。翠さんは、どうやら傘も差さずに歩いてきた様子で、髪が顔に張り付いて、雫を滴らせていた。
「翠さん……」
入り口に立ったまま呆然として動けずにいる翠さんを、俺が出迎えた。
彼女は俺にしがみ付いて、嗚咽を漏らし始めた。
「翠さん、来てくれてありがとう」
彼女を抱きしめる。
彼女は俺を見上げて。
「……私も学校を辞めるから……あなたの傍に居させて……」
思いつめた様子で、俺に懇願してきた。
「そんなことを言わないで。家族を悲しませないで下さい」
「──家族ですって!?」
彼女は急にヒステリックに声を上げた。
「あんな不誠実な家族なんて、直人君が気にする必要なんて無い! うちの父が、あの後何て言ったと思う? 直人君が学校を辞めようが何をしようが、あたし達を転校させるって聞かないの。それに何の意味があるって言うのよ? 直人君に諌められて、意固地になってしまって。自分の娘の命を助けて貰っておいて、お礼すら出来ないあの人のことなんて。直人君は考えなくていいのよ……」
「翠さんは、俺のことなんて気にしなくていいんですよ」
努めて優しく、宥めるように声を掛けたのだが、
「どうしてそんなことを言うのよ!?」
それが彼女の癇に障ったらしい。
「やっぱり柊には、女心は判らないみたいだな」
背後から、千賀さんが割り込んだ。
見ると、全員俺の傍まで来て、俺達を見守ってくれていた。
「九重先輩は、別に同情や義務感でお前の傍にいる訳じゃないんだよ。そこは、判ってやれよな」
翠さんは、千賀さんの言葉に大きく頷いて見せた。
先日の、プールで翠さんが俺に言おうとしていたことなんだろうか。彼女は、そう思ってくれていたんだな。
「それでも俺は、翠さんに学校を辞めて欲しくは無いです。そんなことをさせてしまっては、俺は自分が許せなくなってしまう」
それは俺のエゴなんだろう。だけど、そう思ってしまうのはどうしようもなかった。
「遙はこの件を知っているんですか?」
小笠原さんが問う。それは、俺も思っていた疑問。
「判らない……この前、みんなが遙の見舞いに来てくれた日から……私、遙とは殆ど話をしていないの」
俺のせいで、未だに気まずい状態だったのか。
「お母様はこのことをどう考えてるんですか?」
日高さんの問いに、
「あの人は、父には逆らえないから。意見なんて元々無いのよ……」
翠さんは悲しげに首を振った。
家族の中ですら意思の疎通が図れていないのか。だけど、それは俺のせいに他ならない。それが念頭にあるため、俺は何も言えなかった。
皆が沈黙してしまう中、
「あの、一つ確認したいことがあるんですが」
それまでずっと沈黙していた楠田さんが、静寂を破った。
彼女の瞳は、翠さんを捕らえていた。
「何……かしら?」
自分に向けての質問と気付いた翠さんは、楠田さんと向き合った。
「遙さんが抱えているトラウマについて、です。そのことを、私はあまり詳しく聞いていませんが、遙さんは、事件の何かに恐怖しているんですよね?」
「……ええ、そうだけど……?」
楠田さんの質問の意図が見えず、翠さんは怪訝そうに頷く。
「では、その恐怖なんですが。具体的には、何を指しているのでしょう?」
「何を指して……?」
「ええ。ナイフを持った暴漢に襲われたことなのか。柊君が彼女を庇ってケガをしたことなのか。柊君のケガが酷かったことなのか。要は、それが判れば、遙さんはそれを克服出来るかもしれない。そう思ったのです」
問題の具体化、か。それは問題解決の技法なんだろうけど。
「それは……遙本人に聞いても、判るかどうか怪しいわ……。だって、忘れているんですもの」
そう。彼女は、事件そのものを忘れている。この前、少しは思い出せたみたいだったが、それについて詳しく聞くこと自体が憚られた。
「そうですか。では、私の推測を聞いてくれますか?」
彼女には、何かが見えているのだろうか。
この中で、この件について一番事情に疎い彼女だったが、逆に客観的に見えたことがあるのかもしれない。
落ち着いた彼女の表情に、当てずっぽうなどとは思えなかった。
それを翠さんも感じたのだろう。静かに頷いた。
「遙さんは、柊君を見て、ナイフを持った暴漢に襲われたことを事実と認識したみたいですが、それ以前から、夢でそういう場面を何度も繰り返し見ていたそうですよね?」
その件は詳しく彼女に言った覚えは無かったが、この中の誰かから聞いたのだろう。
「遙は、そう言っていたわね」
翠さんはそのことを知らなかったみたいだが、代わりに小笠原さんが肯定した。
「ならば、ナイフを持った暴漢に襲われたこと自体は、彼女のトラウマでは無いのでしょう。だって、既に思い出しているのだから。そして、柊君を見て、それに至って、それを不安に感じているということは。彼女は柊君の素性を認識していませんが、無意識下では柊君が何者か理解している筈です。だから、彼女のトラウマは、やはり柊君なんでしょう」
……え?
一瞬、彼女が言っていることを勘違いしてしまう。だけど、彼女は構わず話を続けた。
「柊君が自分のせいでケガをしてしまったこと、なのか、柊君が大ケガを負ってしまったこと、なのか。或いはその両方なのかもしれませんが。もしそうであるなら、彼女のトラウマは解消できる筈なんです。だって、ケガからすっかり回復した当人がここにいるんですから」
楠田さんの発言に、ショックを受けた。それは、俺だけではなかった。皆、目を見開いて驚いている様子だった。
「他に要因が無いか、部外者の私には判りません。だけど、もし柊君が要因であるなら。彼が傍にいることが、彼女には一番の薬になるはず。それが、私の推測です」
ここまで弁が立つ人だと、知らなかった。いつも、自分を表に出さない人だったから。俺は感心するとともに、すっかり彼女の弁に説得されていた。素人考えなのかもしれない。だけど、それを否定する要素は何も思いつかなかった。そしてそれは、翠さんも同じみたいだった。
「……ありがとう。私、もう家族とは向き合えないと思っていた。だけど、あなたの話を聞いて、希望が見えてきたわ」
翠さんは意気込んで帰って行った。
「楠田さん、ありがとう。俺、遙ちゃんの心の傷を、これまでちゃんと見れずにいたんだ。そのことに気付かせて貰えただけでも救われた気がするよ」
「よしてよ。推測が当たっていればいいのだけど」
「いやー、楠田さんすげーよ。どうしようもなかった袋小路に、穴あけちゃったよ」
一昨日、俺が言った言葉に準えて、千賀さんが楠田さんを賞賛した。
「あら、手放しで喜んでいいの? 私の推測が当たっていたとすれば、ライバルが一人増えてしまうのよ?」
「へっ。望むところじゃん」
無邪気に喜んでみせる千賀さんを他所に、俺はあることを思い出した。
「……俺、もう退学届け出しちゃってるんだよね……」
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