8月の1枚。なつのおわり。
おいっすー。夏のイベントが盛りだくさんだった8月も終わり、これから徐々に涼しくなろうかという季節、9月になりました。……とか期待しつつも、きっとまだしばらくは残暑が続くのでしょう。大学生はまだ夏休みでフィーバーしてるんだよね……いいなあ……。
さて、今月は『ブロガーズフェスティバル』なる大きなイベントが控えていますが、8月は『ブロガー大文化祭』という集まりがありました。いつもどおりに人見知りっぷりを発揮して隅っこでぷるぷると震えつつも、なぜかゲストとしてお呼ばれしてしまったこともあり、軽くお話もさせていただきまして……。その節はお世話になりました&ありがとうございました。
ただ、ひとつ心残りだったのが、「文章構成」の話について。あらかじめ質問内容はそれとなーく伺っていたものの、一口に「構成」と言ってもさまざま。自分のトークスキルではどうしても1、2分でまとめ上げることができず、何とも要領を得ない回答になってしまいました。
その後の懇親会で個人的に質問してくださった方に対しては、各々のブログジャンルに合わせてお答えすることができたのですが……それでも、中途半端であったことは間違いないと反省。自分の話を目的にしていた方がゼロだとしても、いくら自分が意識低いブログ管理人だからと言っても、不誠実であることに変わりはなく。申し訳ありませんでした。
そこで、もう1ヶ月も前の話になるので今更感はありますが……。今回は、イベント当日に話すことの叶わなかった「文章構成」の話をば。元も子もないことを言えば、「ブログによりけり!」な話題ではありますが、参考になりましたら幸いです。
前提:文章構成の基本は「作文」から
まず最初に、単純な「文章の作り方」という意味で「文章構成」を考えるのであれば、基本的には学校で習ってきた「作文の書き方」がそのまま使えると思います。――というか、無意識にそれを実践している人が大多数なのではないかしら。
そりゃあ中には、小中学校の国語で書かされた「作文」にはあまり良い思い出がない人もいるでしょう。行事のたびに感想を書かされ、長期休みには日記や読書感想文の提出を強要され、卒業時にも文集を書くように言われる。……ぶっちゃけ、めんどい。
しかし、それだけ繰り返していれば自然と「型」も備わろうというもの。僕らが日常的に書いている仕事上の書類やら、SNSへの取るに足らない投稿やらといった「文章」の根っこには、義務教育で培われた作文技術がある。それは、間違いないと思うのです。
仕事だろうが遊びだろうが、文中で取り上げるテーマや全体の文量に違いはあれど、その根幹を成す「文章」に大差はありません。文章を構成する主要素となるのは、筆者が観測した【事実】と、その事実に対して自身が抱いた【感想(意見)】。ざっくり大別すると、この2つだけです。
つまり、ものっそい単純化してしまえば、文章の多くは「このようなことがあった。【事実】それに対して、私はこう思った。【感想】」という「構成」になっていると言えます。
――と書くと、「そしたら、事実を報道するニュースメディアとか、個人の思考を書き連ねたエッセイはどないやねん」という話にもなりますが、それも程度の問題かと。思考を連ねるにはきっかけとなる【事実】が必須だし、現実に起きた出来事のみを淡々と取り上げているように見えるメディアにも、数多ある事象の中からそれを選んだという思惑――【意見】がかいま見える。
【事実】or【感想】のどちらかに特化したように見える文章にも、その背後に「筆者」の存在がある以上、少なからずはこれらの要素が混在している。なればこそ、両者のバランス配分が重要になってくると考えられます。それが筆者特有の文体となり、ひいてはブログのカラーとなる。
……ちょーっと我ながら説明が拙いようにも感じますが、とりあえず、「文章の作り方」の前提となる話として。そのうえで、2つの要素をどのような割合で文中に配置し、不要な部分を如何にして削ぎ落としていくか。それが、ブログにおける「文章構成」のミソとなるのではないかしら。
「ブログ」の性質によって構成も異なる
――ところがどっこい。そもそも「ブログ」なんてWebサイトの一種に過ぎず、「こうやって書くのが正解だよ☆」などと決まった「型」は存在しません。どこかの「ブログサービス」を使っていればそれだけで「ブログ」たりえるわけで、そこに何を書こうがその人の自由でござる。
それこそ、日頃の上司への鬱憤を晴らすべく愚痴を書き連ねるもよし、大好きなアニメの感想を書き連ねるもよし。同じアニメブログだって、ニュースサイトならば文章は簡潔明瞭が求められるだろうし、レビューサイトならば内容を分析する知識と論理性が必要となってくるでしょう。
一口に「ブログ」と言っても、情報サイトだったり個人的な日記だったりと、そのジャンルは多種多彩。まとめブログがあれば企業ブログもあり、お金稼ぎを目的に運営する人がいれば、セルフブランディングに注視する人もいる。ゆえに、「ブログの文章構成」も十人十色が必然。
テーマやジャンルで区別するか、広告の有無を基準とするか、ブログサービス別に切り分けるか――などなど、「ブログ」の分類にも多彩な視点がある。そんななか、ここではブログの基準のひとつとして、「日記」or「メディア」という考え方を一例に挙げてみようと思います。
ざっくりと言えば、自己表現あるいは日々の記録の要素が強いのが「日記」としてのブログであり、特定の情報を発信したり、他者と交流したり、お金を稼いだりといった点を重要視するのが「メディア」としてのブログである――と。これも、かなり曖昧な区分ではありますが。
もうちょい噛み砕いて言い換えると、前者は「書きたい!」という思いが、後者は「伝えたい!」という思いが、それぞれ先立つブログといった形。己が内から湧き出る欲求ありきか、外へと向かう目的ありきか。根ざした思いが異なれば、求められる“文章力”も変わってきます。
「書きたい!」に根ざした前者は、自己完結型。読者は主に、ブログ筆者の文章や切り口が好きな人に限定されるため、自由気ままに、自分の好き勝手に運営することができます。自己完結しているので必要な能力はありませんが、人気のある人は“語彙力”や“表現力”が優れている印象。
「伝えたい!」が先立つ後者は、双方向型。的確に相手へと伝わる文章が大前提であり、時には読者とやり取りする場合もあるため、簡潔にして明快、さらに論理も伴った「わかりやすさ」が重要になってくる。読者目線を徹底し、伝わる文章として再構成する“編集力”が必要だと言えます。
このように、ブログの文章構成を考えるに当たっては、まず眼前にある自分の「ブログ」がどういったものかを再確認するところから始めると良いのではないかしら。どういった運営方針で、自分が何を「書きたい!」「伝えたい!」と考えているのか。――イメージ、たいせつ。
そうすることで初めて、十人十色の「ブログの文章構成」に関して、自分自身の適切な「色」を加えられるようになるのではないかと。自分がブログで表現したい、伝えたい欲求の所在を知ることで、文章の方向性が自ずと明らかになり、その構成も検討できるようになる……はずです。
論理的な説得力を持つ文章の基本は「明晰かつ判明」であること
ところで、ここまでは割と「作文」的な視点で文章云々を考えてきたわけですが、社会・科学・学術分野の情報や主張を発信する「論文」となると、また話は別です。前提として上で挙げた文章の要素【事実】と【感想】も、論文に当てはめると違和感ありありですし。
「論文」の基本構造は【問題】と【解決】、2つの要素から成り立ちます。これまた、高校の小論文や大学の卒業論文で特訓した人もいるのではないかと。何らかの【問題】提起に始まり、先行研究や参考文献を引用しつつ論理を組み立て根拠とし、【解決】へと結びつける形っすね。
「論文の書き方」や「論文作法」は、本来、書き方や約束事の説明に留まるものではなく、そもそも論理的に考えるとはどういうことなのか、どういう手順を踏んだら、その伝達が明晰になるか、どうすれば理解できるか、その方法を明らかにしているものと考えた方がよい。逆に言えば、「明晰かつ判明」("clear and distinct" デカルトの言葉)に考え、言葉にする方法であるのです。
この辺は、あーだこーだとここで書くよりも参考書を読んだほうが確実なので、「文章に説得力を持たせるには、論文の手法が役に立つよ!」という形でざっくりと述べるに留めておきまする。
「論文」と聞くと先ほどの「日記」的なブログとは無縁であるようにも感じますが、実はそうでもなく。多くの人気ブログや有識者のネット上での発言を読むと、一見してそれがネット・ブログ的な文体に則っていても、その構成は「論文」の形式を取っていることが結構あるんですよね。
見た目や文体は「随筆」=「感想文」の形式を持ったブログ文章も、その文章構成を分析すると、「論文」の構造と論理的な説得力を見出すことができる。先ほど引用した本でも、実際のブログ記事を事例に出しつつ、そういった説明がされていました。
少なくないブログに「論文」のスタイルを見ることができる以上、それはまったく無縁の要素ではありませんし、むしろ社会・オピニオン系のブログを書いている人にとっては必須要件だとも言えます。文章に説得力を持たせるだけでなく、わかりやすい型としてひとつの「文章構成」を会得することにもつながる。きっと、ブログ運営の役に立つはずです。
「個人の日記」であるブログの強みは「感情」を織り込める点にある
では逆に、そういった「論文」の構造を強く持たない、「随筆」としての色が強いブログの魅力はどこにあるのでしょうか。そこでまず思い出したいのが、情報コンテンツの消費速度が速いインターネット上では、そもそも長文を読まない人が少なくない割合でいるということです。
論文形式に則り、どれだけ論理的で正しい文章を発信しようが、読まれなければ意味はありません。淡白でつまらない文章に飽き飽きしている読者の興味を惹き、最後まで読ませるためのスパイスとなるのが、その人の「感情」や「体験」を織り込んだエッセイ文体だと言えるでしょう。
ネット上では、既存の研究や専門知識に裏打ちされた論文よりも、その筆者個人の等身大の「体験談」が共感を集めることも珍しくない。……というかむしろそれが普通ですらあるし、「ブログとはそういうもんだ!」と話す人も多いように思います。
こうしたエッセイに関しては、前半部分で書いた【事実】と【感想】の2要素の取り扱いが重要なポイント。その場にいない人にもわかるように【事実】を描写しながら、自分の言葉を【感想】として言語化し書き出す。語彙力・表現力が重要になってくると言えますね。
ただ、一言で「エッセイ」と言っても、書き方はそりゃあ多岐にわたります。自分の【感想】は最小限に、でも淡々とした文体ながら極彩色の語彙力でもって情景と感情が伝わるような、アートの如き文章を描き出す人もいれば、【事実】は冒頭で簡潔に触れるだけながら、目まぐるしく移り変わる自分の気持ちをテンポ良く、とんでもない勢いで書き連ねる人もいる。千差万別でござる。
で、こっからは(ここまでも)自分のイメージになりますが、そのように魅力的な文章を書く人たちって、得てして好奇心旺盛に見えるんですよね。語彙力が豊富なだけでなく、普段からいろいろな文章・作品・コンテンツに触れており、ありとあらゆるものを吸収しているような。
それも、刺激を受けた対象をただコピーするのではなく、自分なりに咀嚼して自身の表に落としこむことのできる、言わば「変換力」が高い印象。自身の感情を言語化する作業に慣れており、論理的かどうかはともかく、相手に「伝わる」文章が書ける。――思うに、よく言われる「文章力が高い」人って、こういう能力を指しているんじゃないかしら。
たとえパッと見たかぎりでは論理的でない、個人の感情本位の文章だとしても、そこに説得力があるからこそ多くの人に読まれ、大きな共感を集めるのでしょう。筆者の体験に裏打ちされた説明などによって文章に説得力が生まれ、読者を納得させていると考えられます。
しかし他方では、本当にノリと勢いだけで欠片も論理性がなく、読者に共感を促すような【感想】やまとまった【事実】も書かれていない――そんな文章が、たびたびブログ界隈で炎上しているようにも見受けられます。整合性がなければ読者は疑念を抱きますし、その文中で感情的な、強い表現を使っていれば、そこに反応する形で批判が巻き起こっても不思議ではありません。感情の使いどころは、結構難しい。
なればこそ、他者へ向けた強い主張をブログで発信をしていこうと言うのなら、まずは「論文」の文章構成を学ぶところから始めるのが無難だと思います。文章に説得力があれば、たとえ賛否両論になっても誹謗中傷の嵐は起こりにくいでしょうし、自分でも納得しながら書けるので。
あと、せっかくなので付け加えておくと、忘れちゃいけないのは、画面の先にいるのは他人であり、基本的にネットは「伝わらない」メディアであるということ。ただでさえ日常でも人間関係の軋轢があるのに、文字と画像だけのコミュニケーションで自分の考えが伝わるはずがないんです。
だから、自分の意図していなかった反応に対して、「ネガコメ乙」「アンチはクソ」などと返すのはあまり良い対応だとは思えません。むしろ、明確に意図を伝えきれなかった自分の力不足を省みて、文章力の向上に結び付けられるチャンスなんじゃないかしら。誹謗中傷は論外だけど、「ネガコメ」の多くは正当な批判である場合が多いし、ついでに「アンチ」と呼称できるほど相手は興味を持っていないと思うよ……。
その動機が高邁だろうが低劣だろうが、自分が招いた批判や反論には少なくとも誠実に耳を傾けるのが「言葉で武装する」批判者としての最低限の責任であり、《言論の自由》たるものの基本的ルールというものだ。
(山崎浩一著『危険な文章講座』より)
自己批判も含めた「複数視点」によって全体のバランスを取る
とは言え、堅苦しい論文形式の文章ばかり書くのも疲れるし、論理性だけを意識し続けるのもどうかというところ。よほどの硬派な社会派ブログ、論壇ブログならばともかく、元来の「ウェブログ」としてのブログは気軽に書いてなんぼだと、自分としては考えております。
ここまで長々と“それっぽい”ことを書き連ねてきましたが、そもそも僕自身、そんな普段から「論文」を意識して記事を書いているわけではございませぬ。その日の日記、本の感想、訪れた飲食店のレポート、気になるアニメのメモ――などなど、記事の内容によって文章構成を変えており、中でも「論文」スタイルの記事は少数派。ほとんど書くことはありません。
じゃあどういったことを意識して文章を組み立てているのかと言えば、「視点をひとつに限定しない」という点がひとつ挙げられます。特に主張の強いオピニオン系の記事や、ある話題に言及・ツッコミを入れる内容でも、なるべく複数の視点を盛り込むように心掛けている形。
というか、もともと優柔不断な性格なので、物事を「こうだ!」とひとつに決めるのが苦手なんです。その瞬間は「それは違うよ!」と思って自分の考えを書き出してみるのだけれど、しばらくしてから読み返してみると、「でも改めて考えてみると、こういう見方もあるよね……」なんて、別の切り口や正反対の主張が浮かんでしまうという。お前はコウモリか。
「わかりやすさ」を重視したブログの場合は当然、そういった「別視点」は余計な要素として削ぎ落とされることも少なくありません。主張は曇りなく一点に集約し、反対意見は考慮しても無理に盛り込む必要はない。コメントで指摘された段階で、その是非を検討すればいいわけですしね。
ただ、自分の場合は「無理に主張を絞らなくてもええやん?」と思っているし、ネット上で自身の意見を無理に通す必要もないと感じているので、たとえ一言でも思いついた視点は付け加えるようにしています。それによって「読みにくいわ!」と離れていく人も相当数いるでしょうが、他方では「それがいい」と言ってくださる方もいらっしゃるようなので、じゃあそれでもいっかーと。
けれど、こういったスタンスは、よく話される「ブログ」の文脈からは外れたところにあるようにも思います。――わかりやすいテーマを取り扱うブログは注目されやすいし、PVや収益もガンガン伸びていく傾向にある。だのに、どうしてわざわざ読みにくく冗長な文章を書くのか、と。
端的に言えば、それはこのブログを「個人の日記」として書いているから。規模の拡大や収益の最大化を目指す「メディア」としてではなく、自身の考えや行動を記録する場所として使っているという前提があることに起因します。「日記」だから、無理に拡散して読まれる必要もない。
とは言っても、完全に自己完結した「日記」として書いているかと問われると、そうだと断言はできないんですよね……。自分が書いたものがどこかの誰かの参考になればいい、興味のある人の元に届けばいいとは考えているし、たくさんの人に読まれればそりゃあ嬉しい。なので、まったく知らない人が読んでも理解できる破綻のない文章とするべく、最低限の「読者目線」は意識しているつもりです。
そのうえで意識的にやっていることとしては、記事によって、あえて読者を選別するために設けている「ハードル」の存在があります。興味のない人の目に誤って入らないよう記事タイトルは単純にしたり、記事冒頭で「回れ右」するような文章を盛り込んだり。この記事がまさにそれ。
冒頭の文章からして冗長だし、特定のイベント名を記載することで、「知らないイベントだ」とか「互助会乙」などと感じて、関心のない人には“そっ閉じ”してもらうことを意図した……つもり。ここまで約8,000字、さすがに興味のない人は離脱しているでしょう。
――と、いい加減に長くなってきたのでそろそろまとめに入りたい! ゲームしなきゃ!
なんだかんだと言いつつも、実際にはソーシャルで拡散されることを意図した記事も投稿しているし、そこで「読まれる」ために意識してレビューを書くことも少なくありません。ただ、同時に「読まれない」ための言い回しや文章構成を試行錯誤することによって、自分の望む形でブログ運営を続けられている側面も間違いなくあります。
変に悪目立ちせず、精神的に疲弊せず、好き勝手に文章を書き連ねることができている現状。それを維持するために、前述の「読まれない」ための「読者目線」と、逆に「読んでくれる」人のための「読者目線」を同時に意識している感じ。結果として、炎上らしい炎上は今のところ経験していない……と自分では思うので、そこそこ効果はあるんじゃないかしら。
そういえば、途中から当初の「文章構成」の話が半分くらいどっかにすっ飛んじゃってましたが……。まあ「ブログ」ひとつ取ってもジャンルに運営方針にと考え方はいろいろだし、記事単位で個別に構成を変えることもざらにあるわけで。「型」は「型」として学びつつ、日頃のブログ運営であれこれと試行錯誤していくのがベストなんじゃないかと個人的には考えています。
このブログだって、初期と比べれば文章があっちゃこっちゃにブレまくってるし、まとめ記事やお約束ネタを除いて、特定の「構成」「書き方」は決めておりません。順序を変えてみたり、冒頭でポエムをこねくり回してみたり、いろいろやってみるのは楽しい。そうしていると自然と読まれる記事・読まれない記事が出てくるので、それらを分析して運営に活かすのもひとつの考え方としてはありなんじゃないかしら。
自分で自由に「枠」を選択できるブログだからこそ、「ブログ」の方を「自分の枠」に合わせることだってできるんじゃないかしら。「ブログ」の形式やお約束に自分を当てはめていくんじゃなくて、「自分」の表現方法や考え方のサイズにブログを最適化していく感じ。
先人の知識を参考にしつつも、長く続けるためには自分なりの「型」が必要になってくるはず。せっかくの自由な遊び場、存分に楽しく活用するため、いろいろやりながら遊んでみましょ。
※余談
ところで、これまでもたびたびご相談を受ける機会はあったのですが、この手の「文章」や「書き方」について考えるコミュニティ・勉強会とか、需要あります?
「サロン」として運営するほどにお金稼ぎには興味がない……もとい運営がダルいし、「ブログ」をメインに据えると収益化やPV増の視点も必然的に入ってきて、結局は既存のブロガーコミュニティとの差別化ができなさそうだったので、これまでは漠然と「おもしろいことできないかなー」程度に考えていたのですが。
複数人で一緒に文章やら何やらを学べたら楽しいんじゃないかとたびたび考えていたものの、「じゃあ具体的に何すんやねん」と言われると、うまい方法が思い浮かばず。収益化とは別視点のブロガーコミュニティがあったらいいなーと思いつつ、思うだけに留まっていたのでした。
すぐにどうこうという話じゃないし、言うだけ言って何もしない可能性もあるけれど、もしも興味のある方がいたら、それとなーくTwitterあたりで「興味あるよー(小声)」などと意思表示してくださったら嬉しいです。あと、ひさしぶりにブログの添削とかもやってみたい。