恥ずかしいことに、経済学という学問の重要性は知りつつも、体系的に学ぶことなくここまでやってきました。

 もちろん、金融の仕事がメインですから、必要な知識を得るためにも、またいま起きていることがどうであるかを認識し、自分の中で整合を取るためにも、乱読に近い感じで、経済関連の本は読んできました。自分で言うのもなんですけど、たぶん、そこいらの人よりは質・量共に目を通してきた、という自負はあります。
 ただ、経済学というパラダイムの私の使い方は、ほかの金融屋と同じく、どちらかというと「いまこうだから、経済学的にはこのような解釈になっているのだろう」とか「こういう事情だと、経済学ではこう捉えるはずだ」というような、現実面を学識に当てはめて把握する、という方法論になってしまいます。

 つまり、現実のメカニズムや数字に表れた現象ありきで、そうなった過程について経済学の雑駁な知識から敷衍して推論を立てる、という方法ですね。

 最近「あれ、おかしいな」と感じ始めたのは、GMショックでアメリカ政府が立ち居振舞った内容を、金融や市場の側から見たのと、政策論争における「べき論」で語られる内容から感じたのと、随分隔たりがあるなあと思ったところからであります。要は、現実にGMが立ち逝かなくなったことそのものは、徹底的にミクロの話であって、むしろアメリカ固有の社会経済の延長線上でそれこそ90年代より前からGMなんてレガシーコスト高すぎてやってらんないよね、でもアメリカは社会としてそれを抱擁し続けるだろう的なもんもありつつ、二十年ぐらいかけてここで調節が入りましたと、そういう話。

 一方、市場はセンチメンタルで心理的なものも含むから、アメリカ経済のフラッグシップであるGMの破綻を認めることは、アメリカ市場への信認が揺らぐものとしてその救済方法については議論がありました。もちろん、あんなものは国家財政が支えるほどのものでもないから潰してしまえ、という両論併記のものではあるけれども、とにかくそれだけ論争が百出したんです。

 でも、経済について論じても、それが経済「学」としてはどういう位置づけだったんだろうね、と考察を深めようとするところで立ち止まる。私には分からない。なぜなら、それがどういうバックボーンで、学術上どのような解釈に対する議論があって、それがどのような評価なり解釈なりで落ち着いたのか、分からないからなんです。いろんな本を読んで、あるいは経済記事や論文を読んで、分かった風の態度は取れたとしても、所詮それは付け焼刃であって、次にGMショックやそれへの対処なみの大きい論争が起きたとき、じゃあ私はどっちの論述の立場でどんな態度を取れば良いのか分からない、だからそれに関する経済「学」的な論争が出揃うまで態度が取れないと、そういうことなのであります。

 どうでもいいじゃないか、それが商売の種になるわけではないし、と軽率に判断する奴は死ね。なぜオバマ政権がGM破綻という明確な危機的事案に対して決断を下しそれが功を奏したのか、あるいはGMというのは亡霊であって、その亡霊を退治しても実のところ元からそれほどの影響はなかったのかもしれないと考えるのか、どういう立場や解釈であったとしても、それに対するメジャーというか尺度というか、パラダイムが確立していなければ、物事に対する適正な判断を下し続けることはできない、と思うわけです。

 その一助が経済「学」であるか、という論争は起き得ます。一種の進学のようなもので、自然科学のように再現性があって法則化されうるものではないとは分かっているけれども、いままでどういう立場で自分が経済「学」に接してきたのかなあと思い返すと、論述された中身そのものよりも、論じている人とそのレコード、つまりクルーグマンなら「クルーグマンの論調は、このようなポジションであるから、誰々があのような反論をして議論としてはこの辺が争点として提示されるだろう」みたいなことは予測つくわけですね。

 でも、それは論じられた内容から推論を立てているのではなくて、クルーグマンのパッケージに対してどれだけの信認を置いているかに過ぎない。それがイエレンだったらどう、バーナンキだったらどう、という、ラベルに対する理解だ。それじゃあ駄目なんだよなあ、と頭では理解していても、結構根っこのところ、そもそも論からして、実はたいして理解してないんじゃないか、という自分の知性に対する疑いがありまして。

 といって、経済学の入門書とか読めば良いのか、と言われるとそういうものでもなさそうで… いや、一から勉強しなおすつもりでやりゃあいいんだろうけれども。そもそもそんなことをブログに書くなと言われればそれまでですけど。まあいろいろと悩みがちな時期ということで。ひとつ。