一年に一度だけ会う友達がいる。九州から年に一度上京してくる人だ。インターネット経由で知り合った人で、ブログはたぶん十年近く読んでいるのに、会ったことは数回という不思議な感じの関係で、上京してきたときに他の友達や、彼の奥さんと一緒に会う、というのがここ数年の習慣になりかけている。
今年も同じように、会うことになったのだが、そのときにこんなことを言われた。
「今年の雨宮さんは、勢いすごいですね。買い物もたくさんしてるし、地方の取材も自腹でバンバン行ってるし、やっぱり東京で生き残っていく人って、そういうパワフルなところがある人なんだなぁって感じしますね」
違う違う、そうじゃ、そうじゃない! と思わずミラーサングラスをかけて鈴木雅之を歌いそうになる気持ちをぐっとこらえた。
確かに今年に入ってからの私の金遣いの荒さは尋常じゃなかった。生まれて初めてハイブランドのバッグを買うぞ! と決めてGUCCIのバッグを買ったり、自腹取材で軍艦島行ったり、取材なのか趣味なのかわからないけどプロレス観に遠征したり、服も「そのドレスどこに着ていくんですか?」みたいなのをバンバン買っていた。いや、いる。現在も続いている。
もともとが小心者なので、そこまで高いものを後先考えずにバンバン買うというところまではいかないものの、口座の残高は減りに減り、カードの引き落とし口座はついにマイナス表示が出る始末で、「ああ、人はこうやって、まだ大丈夫、まだ大丈夫、取り返しがつくって思いながら、どうにもならないところまで堕ちていくものなんだろうなぁ」と他人事のように思ったりもした。
その金遣いの荒さというのは、見栄を張りたいというのとも、生活レベルを上げたいとかいうのとも、ちょっとした贅沢をしたいというのとも、どこか違っていた。そういうことじゃなかった。
去年、私は仕事的にわりといい状況にあった。でも、こんな好景気が続くのは今だけだ、という気持ちもあって、今年はとにかく、赤字でもなんでもいいから好きなことをやりたい、自腹切ってでも書きたいことを書かないと先はない、と思った。自腹切って取材ができる余裕があるのも、今だけかもしれないとも思った。だからそこには躊躇はなかった。
でも、それに洋服とかバッグとかは関係ない。関係ないけど、私の中ではつながっていて、同じことだった。
一生に一度でいい、ワンシーズンだけでもいい、私は私の欲望に、言い訳をしない一年が欲しかった。「本当はあれが欲しかったけど」とか、「本当はあれを書きたかったけど」とか、そういう「本当は」の一切ない世界を生きてみたかった。本当に着たい服を着て、本当に持ちたいバッグを持って、本当に行きたいところに行って、後先なんか考えないで、ただ、今、自分が楽しいこと、夢中になれること、それだけにまっすぐ打ち込むような、あとから考えたら無駄かもしれないようなことでも、今したければそれをする一年を過ごしてみたかった。
刹那的な一年でいい。どうせ、大きく道を踏み外すなんて、自分はできない。もともと真面目で小心者なんだし。だったら、その自分がしたいことぐらい、やったっていいじゃないか。そのくらいで踏み外すような人生なら、もともとそういう器だってことで、踏み外す時期が多少早いか遅いかの違いしかないはずだ。破綻するなら早いほうがいい。立ち直りも若いほうが早いんだから。いや、破綻なんてもうどうでもいいと思っていた。それぐらい、目の前のことが大事で、楽しい日に何を着るかが大事になった。
「雨宮さんにとって、欲望が神なんですね」と、むかし人に言われたことがある。でも、そのときも私の中では欲望の神に正直になっている度合いは全然足りてなくて、こんなんじゃない、こんなもんじゃない、と思いながら、我慢ばっかりして、苦しくて、たまにこのくらいなら許されるだろうっていう程度の欲望を満たしてごまかして、そういう感じでやってきていて、年々、ごまかすことばかり上手になって、「本当は」とは違うことをやることばかり上手になって、でもだんだん、それがごまかしきれなくなった。
欲望のないところに、快楽はないからだ。書くことに快楽がなくなったら、と想像するとぞっとした。たとえそこに、愛する人がいたり、家庭があったり、お金があったりしても、書くことに快楽がなかったら、死んでるのと同じようなもんじゃないか。
怖くなった。焦った。本当に思ってることを書かないと。力が足りなかろうが、求められてなかろうが、書かないと。必要だろうが必要じゃなかろうが、したいことをしないと。欲しいものを欲しいと言わないと。手を伸ばさないと。無駄だろうが、馬鹿げていようが、愚かなことであろうが、それをしないと、私は自分の人生をちゃんと生きていると言えない、と強く思った。
それは、別に「今年40歳になるから」ということがきっかけではなかったと思う。単に仕事について考えることが増えて、そこから、自分自身はいったい何なのか、みたいなことまで考えるようになったことが大きかった。去年好きになったばかりの女子プロレスで、いちばん好きな里村明衣子選手という女性が、あまりにもかっこよく、その人自身を生きている姿を見てしまったことも、とても大きなきっかけだったと思う。女は年齢じゃない、人間は年齢じゃない、志と生き方と姿勢で、いつまでも気高くいられる。そういうことを初めて、きれいごとじゃなく心の底から感じて、自分も自分自身で輝きたい、里村さんほどにはなれなくても、何かああいうオーラのようなものを放って、自分に酔いしれることができるようになりたいと思った。里村さんを知って、私は目標というものを得て、少しばかり無茶をしてみたくなったのだ。
結果、今年ほど楽しく、今年ほど苦しく、大変な一年はないという一年になりつつある。ここでハイブランドの服に手を出したりしないあたりが自分の、しっかりしてるところでもあり、思い切りが足りないところでもあるが、もうそんなことはどうでもいい。限界が知りたいわけじゃない。楽しめればそれでいい。安くても好きな服、着たい服を着るだけだし、高くても好きな舞台やプロレスを観に行くし、今年のこの程度の無茶は、すぐに帳尻合わせてやるよ、という気力だけはある。
その気力が、去年はなかった。ぜんぜんなかった。つまらない女を卒業した、という思いを、今年初めて味わっている。