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【スポーツ】

チャスラフスカさん死去 信念貫いた名花 日本に励まされ、支えられ

東京五輪で平均台の演技をするベラ・チャスラフスカさん=1964年10月、東京体育館で

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 三十日に亡くなった体操女子選手チャスラフスカさんは1964年の東京五輪で、日本人を華麗な演技で魅了して「五輪の名花」「東京の恋人」と愛された。自身はその後、日本に励まされ、支えられながら、信念を貫く人生を送った。

 東京五輪では3つの金メダルを獲得したが、段違い平行棒でまさかの落下となった。選手村を訪れた熱烈なファンの男性から、家宝という日本刀を贈られた。「私は22歳。サムライの歴史も知りません。でも日本のことを学び、『刀には魂がある』と知りました」

 刀を受け取った4年後、激動の人生が始まる。68年のメキシコ五輪を前に、母国チェコスロバキア(現チェコ)の民主化運動「プラハの春」をソ連軍の戦車が踏みにじった。民主化勢力が作った「二千語宣言」に署名し、当局は「署名を撤回しても公表しない」と巧みに翻意を誘ったが、応じなかった。

 メキシコ大会で着用した黒いレオタードは抗議の証し。表彰台でソ連選手と並び、ソ連国歌が流れると、そっぽを向いた。

 信念を貫く代償として、掃除の仕事で糧を得るなど、不遇の時代は長く続く。冷戦の象徴「ベルリンの壁」が崩壊した89年末、母国の共産主義体制がビロード革命で崩壊。革命の中心地だったプラハのバーツラフ広場で、民主化の立役者で後に大統領となる劇作家、故ハベル氏と群衆の前に立った。「その時沸き起こった拍手を忘れません。生涯で最もうれしい瞬間でした」

 大統領顧問やチェコ五輪委員会会長を歴任した。「sakura1964@…」のメールアドレスが示すように、常に温かく支えてくれた体操関係者やファン、その精神文化も含め、日本と日本人をこよなく愛した。2011年の来日時には、刀の贈り主の遺族と都内で面会。東日本大震災の復興支援で被災地も訪問した。その際「東京五輪の開かれた幸せな時期を思い、それに支えられた。共産主義体制下でも日本から力を得ていた」と語った。

 東京で2度目となる五輪開催が決まった1カ月後の13年10月5日、プラハ郊外にある自宅近くのレストランで聞いてみた。共産党の独裁体制が終わる保証などなかった時代、なぜ意志を貫けたのか。

 「自分では正しいと信じていたから」。窓から差す陽光を受けながら言葉を返すたたずまいは、はっとするほど美しかった。 (前ベルリン支局長・宮本隆彦、滝沢学)

 

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