当初は無難なスピーチに終始すると思われていた8月26日の「ジャクソンホール会合」でのジャネット・イエレンFRB議長の講演だったが、ハト派の期待を見事に裏切り、「米雇用が改善し、追加利上げの条件は整ってきた」という、かなり踏み込んだタカ派的内容となった。
その後も、スタンレー・フィッシャーFRB副議長が、利上げに前向きな発言を繰り返すなど、ここ数日の間に、市場では、9月利上げの思惑が急速に台頭しつつある。
とはいってもイエレン議長をはじめとするFRB高官は、すでに9月利上げを決めているわけではなく、あくまでも9月2日発表予定の8月雇用統計の結果次第ということになろう。
8月雇用統計で、特に非農業部門の雇用者数が景気拡大局面の目安である年率20万人増以上のペースで拡大を続けていることが確認できれば、9月20、21日のFOMCで追加利上げを決定するのではないかと考える。
6月時点で発表されたFOMCメンバー、及び地区連銀総裁による経済見通しによれば、2016年12月末時点でのFFレート予想の中心値は0.9%で、現時点の実効FFレートは0.35~0.40%程度なので、追加利上げによって、実効FFレートは0.60%~0.65%程度になると予想される。
さらにいえば、9月に利上げが実施されれば、FRBは、年末までにさらにもう1回、利上げの機会を模索することになるのではなかろうか。
繰り返しになるが、利上げ実施の有無は経済指標、特に雇用関連指標の結果に依存しており、「初めに利上げありき」ではない。そこは、2006年の日本の出口政策失敗の教訓をよく学んでおり、ここまでもかなり慎重に進めてきたし、今後もかなり慎重に検討していくことであろう。
したがって、8月雇用統計の結果が思わしくなければ、当然、利上げは見送られるだろう。
ところで、米国経済の現状については、見方が大きく分かれている。
個人消費や住宅投資といった家計行動にフォーカスすると、米国経済は堅調に推移しており、昨年12月の利上げの影響もうまく吸収できているという解釈となる。
一方、設備投資や生産といった企業活動にフォーカスすると、IT投資を中心に設備投資が半年以上、減少を続けており、さらには生産も大きく減少している(もっとも、生産の減少はシェールガス等の鉱業部門の減少によるものであり、製造業部門の生産は増えている。ただし、生産の伸び率は鈍化している)。
企業活動の減速は、原油価格の低下によるシェールガスの採算性悪化と生産減、及び、ドル高による輸出の低迷によるものであり、これは、FRBの量的緩和政策の縮小・停止(いわゆる「テーパリング」)をきっかけに起こったと考えてよいだろう。
したがって、このような企業活動の不振はFRBも十分に覚悟の上で金融政策を行っているはずだ。そのため、企業活動の不振、及び、これにともなう経済全体の成長率の悪化を理由に利上げ路線を転換させるとは思えない。
つまり現時点では、いわゆる「長期停滞論」的な考えがFRBの金融政策に大きな影響を与えるとは考えにくい。もし、FRBが利上げ路線を転換させるとすれば、それは個人消費や雇用環境の悪化が顕著になった時点であろう。
その一方で、利上げを実施する根拠はいくつかある。まずは、「フィリップス曲線」の変動パターンの変化である。
「フィリップス曲線」とは、縦軸にインフレ率、横軸に完全失業率をとり、インフレと雇用の関係を図示したものである(図表1)。アメリカのフィリップス曲線は安定性に欠ける側面があるが、それでも、金融政策面で大きなインプリケーションを有すると考える。
そこで、2011年1月以降の「フィリップス曲線」を描いてみると、2015年9月までは「左下方」にシフトしていた様子がみてとれる。「フィリップス曲線の左下方へのシフト」とは、完全失業率とインフレ率(ここではコアPCEデフレーターの対前年比上昇率)がともに低下する局面を意味している。
通常、景気が回復する局面では、雇用環境の改善が賃金上昇へ波及することが多いため、インフレ率も上昇し始める。
だが、企業部門で何らかのプロセスによって「(全要素)生産性」が高まると、賃金がある程度上昇しても企業利益も拡大するため、企業はそれほど急激に販売製品・サービスの価格を引き上げる必要はない。
そのため、完全失業率とインフレ率の同時低下が実現することがある。2011年1月から2015年9月にかけての米国では、まさにこれが起きていた可能性がある(ちなみに、この傾向は1990年代半ばから後半にかけての「ITブーム」の際にもみられた)。
だが、2015年10月以降、この「左下方へのシフト」は終わりを告げ、フィリップス曲線は左上方へシフトし始めるようになる。これは、完全失業率の低下と同時にインフレ率が上昇することを意味する。
要するに、景気過熱によって雇用が逼迫し、賃金上昇圧力が高まってきて、企業収益を圧迫し始めている状態である。これは将来のインフレ圧力につながりかねない状況なので、一般的にはFRBによる利上げをサポートすることになる。
このような米国の雇用環境の変化を別の指標でみてみると、労働分配率の上昇という形で表現できる。「労働分配率」は企業が生み出した付加価値のうち、賃金等で雇用者に分配される割合を指す。労働分配率の上昇は、雇用の逼迫で賃金上昇圧力が高まり、企業収益が圧迫されていることを意味する。
最近の米国の労働分配率の動きをみると、リーマンショック以降、企業による雇用削減の影響から極めて低水準で推移していたが、2015年10-12月期以降、急上昇している。これは、前述の「フィリップス曲線の左上方シフト」とほぼ同じタイミングである。
これらの指標は、米国では、様々な構造問題(例えば、労働参加率の低下など)を抱えながらも、雇用が逼迫し、将来的にインフレ率が上昇する可能性が出始めたことを意味している。
すなわち、金融危機を克服し、「フォワード・ルッキング」で考えてもよい局面では、FRBが利上げを実施してもよい環境になりつつあることを示していると筆者は考える。
もちろん、リーマンショック後の米国の成長トレンドがリーマンショック以前よりも緩やかであるという中長期的問題は残されているが、それはFRBの取り扱う問題ではないということなのであろう(フィッシャー副議長は、経済の正常化プロセスの中で生産性のトレンド回復によって長期停滞はやがて克服されるであろうとみなしているようであるが)。
ところで、この労働生産性は米国の株式市場や債券市場の行方を占う上でも重要な指標になりうる。例えば、労働分配率の上昇局面では、株価指数の上昇率は鈍化する傾向にある(図表2)。
これは、労働分配率の上昇は、逆にみれば、資本分配率(配当や企業成長のための内部留保への分配の割合)が低下することを意味するので、ある意味当然である。
さらにいえば、労働分配率の上昇局面では、米国のイールドスプレッドが低下する傾向がある(図表3)。
ここでは、「イールドスプレッド」を「株式の益利回りから長期金利(10年物国債利回り)を引いたもの」と定義している。「株式の益利回り」とは、「1株当たり利益」を株価で割ったものであり、PER(株価収益率)の逆数(すなわち、1/PER×100%)に等しい。
現在、米国のイールドスプレッドは約2%強で推移している。ただし、労働分配率の上昇と比較すると、その水準は幾分高いことがわかる。すなわち、両者の関係が今後も成立すると仮定すれば、イールドスプレッドはさらに低下する可能性が高いということになる。
イールドスプレッドが低下するためには、株式の益利回りが低下するか、長期金利が上昇する必要がある。そのうち、株式の益利回りが低下するということはPERが上昇するため、通常の場合では、株価が上昇することを意味する。ところが、労働分配率と株価上昇率の関係を考えると、株価が加速度的に上昇するとは考えにくい(両者は逆に動くことが多いため)。
したがって、イールドスプレッドの低下が実現すると仮定すれば、米国の長期国債が今後、上昇する可能性があるということになる。
ここのところ、世界的な低金利が話題になっているが、マーケットではそれを「構造的」なものとして考え始めているような気がする。だが、低金利を「半永久的なもの」とみなし始めると、得てして金利が反転し始めるというのもまたマーケットの「ならわし」である。
米国では、グリーンスパン元FRB議長が、「米国長期金利反転上昇懸念」を唱える数少ない識者のようだが、米国の長期金利が意外と上昇するリスクを考えておくべき状況かもしれない。