尖閣諸島 漁民救助の感謝状には意味がない

2013.04.05


尖閣諸島が日本の領土だとする主張で、その証拠としてよく挙げられるのが、中華民国政府からの感謝状の中に「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」(和洋島は魚釣島のこと)と明記してある、というものです。


補記  和洋島という名称について   2016.08.31

琉球新報の記事本文は、漁民が漂着したのは「魚釣島」だとしています。しかし感謝状の写真では、漁民が漂着したのは「和洋島」だとなっています。明らかにおかしいわけですが、他に情報を持っていない私は、琉球新報をはじめとした沖縄の常識では「和洋島は魚釣島」で問題ないのだろうと考えました。

ところが2016.08.27に、浅見真規さんという方からメールで、当時も今も「和洋島」という名の島は存在しないとの指摘がありました。浅見氏の推理では、感謝状にこの呼称が書かれたのは、日本政府が意図的に中国政府を攪乱したためだということです。

浅見氏のサイト↓
魚釣島の事を「和洋島」という偽名で通知した日本政府


 下は、その感謝状が当時の石垣村長の遺品から見つかったことを報じる記事です。

http://www.ntt-i.net/kariyushi/yaeyama_kansha.html

2010年11月28日 琉球新報 





1919年冬、中華民国の漁民が東シナ海で遭難して魚釣島に漂着し、救助を求めていることを知った石垣島の漁民たちが、舟をこぎ出して彼らを救助して石垣島に連れ戻り、手厚く介護して、全員を無事に中国に帰国させました。

中華民国政府はそのことを深く感謝して、翌1920年に長崎駐在の領事の名で、救助者や石垣村長などの関係者に感謝状を送りました。

これが事の概要です。

その感謝状の中に、中国漁民が漂着した島の名を、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島の内の和洋島」と明記してあるので、これは中華民国政府が魚釣島を日本領と認めていた証拠だ、というのが、尖閣日本論者の主張です。

しかし、これは実に当たり前というか、馬鹿馬鹿しいというか、まったくその通りでしかないことで、当時は中華民国政府は尖閣諸島を日本領と認めていたのです。


ここで再度、前掲の図を下に示します。




1920年とは、日本が台湾を領有していた時代です。

これに対して中華民国は文句を言っていません。

もちろん中国から見れば、日清戦争に負けて台湾を日本に取られたという状態は、許しがたいことではあるでしょうが、それは日清講和条約で李鴻章がサインし、清国皇帝が認めたことですから、当時の帝国主義的国際社会にあっては、それに文句を言うことはありません。

そして、台湾本島ごと日本に取られている時に、その脇にあってその1万分の1にも満たない、人が住めない岩礁の領有権を、中華民国が主張することには、何の意味もありません。

だから、漂着した島は「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島の内の和洋島」でよいのです。


問題は、その後です。


1945年、今度は日清戦争とは逆に、日本が戦争に負けて、中華民国が戦勝国になり、米英中のカイロ宣言で、日本は日清戦争以後に中国から奪った領土をすべて中国に返せ、と連合国から要求されて、日本はそれを受け入れ、台湾本島を中華民国に返還しました。


つまり問題は、尖閣諸島が「日清戦争以後に日本が中国から奪った領土」かどうか、ということです。そこで日中の主張が食い違っているのです。

ですから、こんな感謝状を山ほど積んでも、今の議論には何の関係もありません。
どうも尖閣日本論者は頭が悪いようです。
頭が悪いついでに、もっと頭の悪い主張を紹介しましょう。


YOMIURI ON LINE に次の記事があります。

http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qaworld/20120920-OYT8T00823.htm



Q:尖閣諸島は日清戦争中に中国から奪ったのですか?


A:中国は「日本は戦勝に乗じて清国から盗み取った」と主張していますが、まったくのでたらめで、根も葉もない言いがかりです。


 中国は、日本政府が日清戦争末期の1895年1月の閣議で、尖閣諸島を日本の領土に組み入れたために、勝利間近の機に乗じて略取したなどと主張していますが、これは、領土問題を歴史問題にすり替えようとするためのでっち上げです。

 なぜなら、日本政府は尖閣諸島がどこの国にも属さず、しかも人が住んでいない、いわゆる国際法上の「無主の地」であることを調べ始めたのは、それより10年も前の1885年のことで、沖縄県が出雲丸という汽船を派遣し、現地調査したのがはじまりです。詳細な調査の結果、「無主の地」であることが判明したため、すぐに日本の領土とすればよかったのですが、当時はそれができない理由がありました。

 それは、当時の清国が日本より軍事的に強大だったからです。それが証拠に、1886年には、世界最強の軍艦である「定遠」と「鎮遠」など4隻の清国北洋艦隊が長崎沖に現れ、上陸した清国水兵は暴行や略奪を繰り返し、多くの日本人が死傷するという「長崎事件」を引き起こしました。圧倒的な軍事力を背景にわが物顔の清国の前に、明治政府はなすすべもなく、賠償金なども妥協しなければなりませんでした。時の井上馨外相は、清国と事を構えれば、沖縄を取られてしまう、という危機感があったといわれています。

 逆に言えば、当時、強大な清国が尖閣諸島を自国領だと言えば、誰も文句が言えなかった時代だったのです。尖閣諸島の調査後、沖縄県は同諸島周辺で漁業活動を続けていましたが、清国を含めどこからも、自国の領土主権を侵害しているという抗議がなかったことから、ようやく95年に正式に日本領としたのです。

 国際法上、国家が領土権を主張するには、単に「無主の地」の発見による領有意思の表明だけでは不十分で、実効支配が必要とされています。このため日本政府は、尖閣諸島に「国標」である標杭を建てることに続いて、様々な開拓事業をスタートさせました。毎年のように移民を送り込み、海産物やアホウドリの羽毛を採集し、太平洋戦争が始まるまでは、カツオ節の製造事業なども営まれていました。魚釣島付近で遭難した31人の中国漁民を救助したこともあり、1920年には,当時の中国の外交機関である中華民国駐長崎領事から感謝状が贈られ、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と明記し、尖閣諸島を日本領土として認めています。

 戦後は、米国の施政権下に置かれ、人の居住が制限され、米軍は射爆場などとして利用してきました。ところが、1969年5月に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が、尖閣諸島周辺海域に膨大な石油資源が埋蔵されているとの調査結果を公表、それを機に翌70年に台湾、そして71年に中国が正式に自国領だと主張し始めたのです。台湾、中国ともそれ以前には領有権を主張したことなどなく、日本政府は72年、沖縄返還直後の国連の場で「尖閣列島に対しては日本以外のいかなる国も主権を持っていない。中国の主張はまったく根拠がない」と毅然とした態度で反論しています。

 9月下旬には国連総会が開かれますが、中国政府から送られた1920年の感謝状を示しながら、日本の主張が正しいことを、日本政府は世界に発信しなければなりません。

 (調査研究本部主任研究員 勝股秀通)

(2012年9月20日 読売新聞)


初めは清国が怖くて領有できなかったのだが、清国海軍が滅んだので講和直前に閣議決定で領有した、しかし世界に対して「領有意思の表明」はしなかった。

読売新聞は、「これのどこが悪い?」 と国連で主張しろと言います。

しかしこれで裁判に勝てますか? これに日本の若者の命を賭けろと?

尖閣日本論者と原発推進論者とは、どうも重なっているようです。これは偶然ではなく、「自分の願望に負けて、事実を客観的に認識できない」という共通因子があるようです。

尖閣日本論者は、もっとまともな理屈を用意しないと、世界では通用しないでしょう。
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