正直に言えば先生の知識は(昔の)漫画のエッセンスに活かせればよい、といった程度でとても表面的だった。
しかしそこに出てくる構想はとても面白かったし、着眼点がやはり世間的ではない印象を受けた。
知識を集積してそれを武器として使う人がいる。多くは自分自身の自我を強く見せるためだ。
そこには知りたいという思いより、あるいは思いと併存して――でしゃばりな自己が存在する。
単なる能力のことだけを言えば、Wkipediaの情報量に個人が敵うことはほとんどのケースでないといえる。
一応ここまでがメンタルの理由だが、もう一点重要な部分として自我のために、あるいは負けないために知識を集積する者達のオリジナルティのなさだ。
彼らは基本的に知識を溜め込めば溜め込むほどノーマライズされて平坦化してくる。
発想よりも教科書に習って正しい知識で先輩面することを望んでいるので正確性のほうが重視される。
まさに楳図さんが感じていらした科学者の発想力に対する態度そのものだろう。
上記態度を「学者的」と形容することも間違っていないし、慎重だということもできるだろう。しかしそれはメンタルの話には基本含まれない。
勝つため、あるいは偉ぶるために集積された人間Wikipediaは、知ることもしくは勝つこと、マウントすること自体が目的なのでそこから希望や発想をふくらませることが出来ない。
自分の中にいる裁判官が持つ批判精神が出てくるという可能性は0ではないにしろ、このような人種は産むことに対してとても鈍感だ。
それは目的が違うからだろう。目的が焦り続けるエゴの充足であればあるほど他人は楽しめない。そして心中嫌がられこそすれ尊敬もされない。
もし敬っている態度をとっているとすれば、恐れによるものか一般的な空気に合わせてそう発言したに過ぎない。
正しいだけを求めて集積された知識が役に立つことが演繹的に創造に繋がることはあっても、それ自体は部品でしかなく今後のAIにもWikipediaにもかなわないし面白くなりようがない。
人は聞くときに知識集積庫のWEBを探れば良いだけだし、書店で本を買い漁って保管すれば良いだけだ。もっともそれが死蔵につながらないことが大切だと考える。