「あの村に行ったら、必ず謎の病で死んでしまう…」。全世界を今も恐怖させる『地方病』と、それを唯一根絶した日本の戦い

hand-984170_640

「あの村へ嫁に行きたくない…もしも行けば、必ず謎の病気になって死んでしまう…行くならば、お経を彫った鎧と棺桶を持っていく…」

数百年も前から、村人たちにこのように噂される、『謎の病気』が蔓延する村がありました。

山梨県甲府盆地―――――――

この地域の村にいるものは、次々と謎の病気にかかり、お腹がふくれ、歩くこともできなくなって死んでいく…。

病気の感染率は、なんと驚愕の55%。

死亡率は100%で、この病気にかかると治療することが出来ず、必ず死ぬ。

この病気は山梨県だけのものではなく、なんと世界中の人々を恐怖に陥れていた不治の病でした。

しかし日本が世界で最初にこの病気の原因を特定し、今もなお続く世界の恐怖の中で、唯一この病気を『完全に根絶』した国として、今も讃えられています。

今回の記事は、長く『地方病』といわれ恐れられてきた謎の奇病と、数百年にも及ぶ人間との激しい戦いについて紹介いたします。

スポンサーリンク

歴史に残っている最古の犠牲者は、1579年の武将

1582年…山梨県甲府市の甲斐善光寺。

武田軍の武将である小幡豊後守昌盛が、武田勝頼のもとに現れました。

小幡豊後守昌盛の腹部はぱんぱんに膨れ上がり、もはや自分では歩くことが出来ないほどで、かごにかつがれながら、武田勝頼にこう願ったのです。

「2年前から、このような病に冒されました。もはや殿の役には立てそうにもございません。わたしにお暇をくださいませぬか…」

武田勝頼は涙を流しながら、病気を治すことに専念せよと伝えます。

この3日後、小幡豊後守昌盛は亡くなりました。

腹部がふくれあがって死ぬこの病状は、明らかに甲府全体を絶望に陥れていた『地方病』です。

名のある武将が病に冒されたため偶然記録に残ることになりましたが、実際にはこの武将よりもずっと以前から病がはびこっていたはずで、正確な時期は誰にも分かりません。

その後現代医学が発展するまで、およそ400年近くもの間、人口の半分を確実に死に至らしめる謎の病が猛威をふるうことになります。

何もかもを壊す病

大人でも子どもでもお構いなし…。

山梨県甲府盆地周辺では、大人でも子どもでも、男性でも女性でも、まったく何の区別もなく突然病が襲いかかり、一度発病すると確実に死亡する恐怖に、村人は震え上がっていました。

何人も何人も死んでいく中で、村人達は、死んでいく者にある法則性があることに気づいたのです。

●病気になる村人たちは、農作業や水浴びなどで水の中に入った際、かぶれたような赤みを発症する

●その後、高熱と下痢が続く。人によっては、まれにここで回復するものもいる。

●高熱がおさまったあと、腹部が異常にふくれあがり始める。この時にはもう絶対に助からない。

●これらの病気は盆地で貧しい農業を行う自分たちだけに起こり、身分の高い者が住む高地にはこんな病気が起こらない。

多くの人びとの死から、これだけのことが分かっていても、当時の村人達には為す術もありません。

現代医学などこの時にはかけらもなく、また、農業以外に仕事もありません。

「水の中に入ってかぶれれば、命が助からない…」

そう分かっていても、農業以外を選ぶことは出来ないのです。

また、当時の日本では、先祖代々の土地を捨てることなど許されていませんでした。

村人達は、誰もが死の危険に怯えながら、それでも同じ生活を続けるほかなかったのです。

こうして数百年もの間、謎の病は次から次へと村人の命を奪っていきました。

逃げることもできず、ただただ、村人は恐怖と戦っていたのです。

助けてくれ!!

1881年(明治14年)になって、村役人の田中武平太から山梨県令に嘆願書が届けられます。

この嘆願書は、次々に家族を失い続ける村人達からの、助けを求める壮絶な叫び声でした。

「ある特定の地域にのみ、延々と病による死亡者が出続ける!!

なにが悪いのか? 水か? 土か? 体か? 分からない…! この苦しみにはもう耐えられない!!」

こうして山梨県から医師が派遣されるも、なにを調べても、どこをどう見ても、原因はなにひとつとして分かりませんでした。

当時やっと使われ始めた糞便検査を行うと、村人達の便の中に、小さな卵のようなものがあるのが見つかります。しかし、これも病気と関連があるのかすら分かりません。

わからないものに手を出すことが出来ず、ことさら熱心でもなかった役人達…。

ただただ時間だけが過ぎ去っていき、そして数年後の1886年。

日本軍の軍医が徴兵を行った際に、この地方の若者たちが小学生ほどの身長しかなく、顔は青白くやせ細り、腹部がぱんぱんに膨れ上がっていることを知って驚愕しました。

こうして軍部から山梨県に対し、病気の原因を究明するよう迫られたことで、ようやく本格的な調査が始まるのです。

Map_attached_to_the_petition_of_1881

参照:wikipedia

実際の嘆願書に添えられた地図。中央部の地域に病が蔓延していた。現代の甲府市にあたる地域で病気がひどく、200キロほどの広大な面積にわたって病人が続出していたという。

原因はなんなんだ?

この謎の病を究明するために最初に立ち上がった医師・吉岡順作は、村に伝わる奇妙な言い伝えを耳にします。

「ホタルを捕まえようとすれば腹が膨れて死ぬ」…

「水鳥を捕まえようとすれば腹が膨れて死ぬ」…

また、川にそった地域に異常に病人が多いことから、この病気には『水』が深く関係しているはずだと突き止めます。

しかしどのように調べても原因はわからず、死んだ病人の死体を解剖する以外、究明は不可能だと思える状況にさしかかります。

迷信深かったこの時代、体にメスを入れたり、死後に解剖されるということはとてつもなく恐ろしい行為であり、大の男でも絶対に拒否することが当たり前で、山梨県で解剖されたケースは一件もないという状態でした。

そんな中、吉岡順作が治療していた患者の1人、54歳の農婦である杉山なかが、自らの解剖を申し出たのです。

「原因も治療方法も分からない病気、なぜこんなに甲府の者が苦しめられるのか…。死後わたしの体を解剖して原因を突き止めて欲しい…」

いまだかつて、日本で誰ひとりとして声を上げたことのない解剖の願いに、吉岡医師は涙を流します。

こうして死亡した杉山なかの解剖が行われ、新聞は騒ぎ、60名近い医師が見守る中、誰も知ることのなかった奇病にメスが入れられることになります。

原因があると思われていた肝臓には…

いままで誰も見たことのない虫の卵がびっしりと植え付けられ、肝臓の血管をふさいでいたのです。

未知の寄生虫

この解剖結果から、医師達はこの病気が未知の寄生虫によってもたらされていると確信します。

しかし当時の医学はまだ幼く、従来の寄生虫は腸の中に住むとされていたものの、この新たな寄生虫は下剤を使用しても卵しか下りてこず、本体がいっこうに見つからないことなど、当時の知識では解決しない謎だらけでした。

医師である桂田富士郎と三神三朗は、塞がれていた肝臓の血管に寄生虫がいるのではと推測し、病にかかった猫を解剖します。

その結果、猫の肝臓の血管から、体長1~2センチほどの謎の生きた寄生虫が32体も見つかったのです。

これらは日本で初めて発見された寄生虫で、日本住血吸虫(Schistosoma japonicum)と名付けられました。

これこそが村人たちを苦しめ続けた病の原因だと確信した医師達でしたが、こんな誰も見たことのない寄生虫が『どこから』生まれたのか、皆目見当もつきません。

そして、人間も動物もお構いなしに巣食っていく『方法』とはなんなのか、当時の医学では極めて難しい謎に直面することになります。

Schistosoma_japonicum_parasites_and_eggs_sketches_by_Katsurada_Dr._1904

参照:wikipedia

日本住血吸虫と卵のスケッチ。

その寄生虫はどこから来るのか

当時の医学の常識では、寄生虫は水を飲むことによって体内に入り、そこから人体を巣食っていくのだと考えられていました。

新種である日本住血吸虫に対しても、同じ方法で体内に巣食うと考えた医師の土屋を始め、大半の医師がこれに賛同し、甲府盆地では「生水は絶対に飲まず、必ず沸騰させてから飲むこと」が義務付けられたのです。

しかし、村人がこれを守っても、どれだけ徹底しても、次から次へと死んでいく者達は跡を絶ちません。

村人たちは経験的に、寄生虫感染の原因は飲み水ではないのではないかと疑い始めました。

何度何度も村人が感染する中で知った、感染する村人に共通する『泥かぶれ』…

田んぼや川の中で体が赤くかぶれたものが、必ず病気を発症する…。

村人たちからの疑惑の声が高まった中、ついに動物を使った実験が行われます。

他県から健康な牛を用意し、これらを

●水を飲むグループ

●水に浸かるグループ

に分け、甲府盆地の水でどのように感染するのかテストを行ったのです。

その結果、水を飲んでも牛はまったく寄生虫に感染せず、水に浸かった牛だけが病気を発症していくことが分かりました。

これは当時の医学の常識をくつがえす信じられない事実であり、飲んだ水から感染するものだと信じて疑わない医師たちは、その実験結果を疑いました。

ついに京都大学の松浦医師が、『甲府盆地で採取した水』に自分の腕を浸して感染するかどうか試すという決死の実験を行った結果、松浦医師は感染してしまったのです。

それでも水につかっただけで感染するという事実を信じられない医師たちは、動物実験を再度行いますが、これもまた同じ結果が出てしまい、ついに『水に浸かるだけで感染してしまう』という事実を認めます。

そしてこの事実は、感染予防がとてつもなく困難であるということを示していました。

澄んで綺麗な美しい水が流れる甲府盆地。

この水の中に眼に見えないような小さな悪魔がおり、触れただけで皮膚を食い破って中に入ってくるなど想像もできません。

しかも当時、各家庭にはお風呂もなく水道もひかれておらず、甲府盆地は全国有数の蒸し暑い地域。農業や水浴びどころか、手も洗うことのできない生活を誰が考えられるでしょうか?

謎に満ちた寄生虫の生態

その後の研究の結果、寄生虫は人間の体の中で卵を産み、卵は便から流れ、川で幼虫として孵化することが分かりました。

しかしこの幼虫は、孵化しても動物や人間の体に寄生することは出来ず、すぐに死んでしまうことも同時に分かったのです。

寄生できずに死んでしまうのに、人間に寄生してくる???

この謎が医師たちを大いに苦しめましたが、謎の寄生虫に対して、ある仮説が立てられました。

「寄生虫は卵から孵化した後、いきなり動物や人間に寄生するわけではない。他の何らかの生き物に寄生し、十分に体を育ててから、動物や人間に寄生していくのではないか?」

こうした調査の結果、最悪の存在を中間宿主としていることが分かりました。

その名は貝の一種である、ミヤイリガイ。

この時初めて、誰も気に留めていなかったこの貝が、世界で初めて発見される新種の貝であり、膨大な数の寄生虫の巣窟になっていることが分かりました。

ミヤイリガイはとてつもない繁殖力を持ち、水の中だけでなく陸の上でもどこにでも存在し、どれだけ駆除してもほんの少し残っていればまた莫大に増殖する、恐ろしいほど生命力の強い貝だったのです。

寄生虫はミヤイリガイなくしては成長せず、人間に寄生することも出来ない。

ミヤイリガイさえ駆除できれば、この謎の病気の歴史も終わる!

しかし、今も全世界各地でこの病気が猛威を振るっていることからも分かるように、この中間宿主の駆除こそが、とてつもなく険しい茨の道だったのです。

1280px-Oncomelania_hupensis_nosophora_A

参照:wikipedia

採取されたミヤイリガイと、サイズ比較用のタバコ。非常に小さな貝であることがわかる。

病気の撲滅へ

長い長い病気の歴史で苦しみ続けていた村人たち。

調査の結果、20000ヘクタール(1億平方メートル)というとてつもない広範囲にわたってミヤイリガイは生息し、病気に関してもその周辺に発症していることが分かりました。

病気が起きるサイクルは、ミヤイリガイの中で育った寄生虫が、水に触れた人間の体の中に寄生し、体の中で産卵し、便から排出された卵から孵化した幼虫が、またミヤイリガイに寄生する…という繰り返し。

このことから医師や関係者たちは、頭を捻って対応策を考えました。

まずこれ以上の寄生虫を繁殖させないため、卵が含まれた人間の排泄物を使っている肥料に着目し、寄生虫の卵が腐るほどの期間を置いてから使用することの徹底。

しかし人間はともかく、動物たちが排泄するフンはどうにもなりません。ここにも莫大な寄生虫が巣食っているのです。

県を挙げてノネズミなどを駆除し、垂れ流しになっていた牛や馬のフンを集めましたが、野鳥の憩いの場であり村人たちが愛する広大な臼井沼にも寄生虫は巣食っており、後年になって埋め立てざるを得なくなりました。

また、農作業を行う村人たちには肌を守るための防具を着用させるなど、農作業に関しても感染予防を徹底。

さらに子どもたちには、決していたずらに水に近づかないよう、当時としては革新的であったパンフレットを作成して学校などで周知させました。

このパンフレット、『わしは地方病博士だ』にはわかりやすく病気の予防方法が描かれており、敗戦後に日本に来たGHQが、「素晴らしい完成度だ」と舌を巻いたという記録が残っています。

800px-Endemic_Yamanashi_I'm_Dr._schistosomiasis_japonica

参照:wikipedia

『わしは地方病博士だ』表紙

しかしこれほどまでしても、広がる病気を食い止めることは出来なかったのです。

ミヤイリガイの生命力と繁殖力はとてつもなく、1メートル四方に100匹以上生息していることもまれではない上、家の窓枠や屋根にもびっしりと生息していたり、草むらの中などにも数えきれないほどの数が生息していました。

ほうきでごっそりと掃いてしまえるほど、ミヤイリガイが埋め尽くされていることもあったそうです。

これほど繁殖しているミヤイリガイが、水たまりの中やほんのわずかな水滴に触れただけでも、その水から人にまた感染する…。

まさに草むらを歩いただけでも、わずかな雨の水滴などから感染する可能性があり、しかもミヤイリガイ1匹から生まれる寄生虫の幼虫は数千匹。

駆除に至ることも、感染の危険への恐怖も、薄れることがなかったのです。

駆除にかける村人たちの思い

村人たちは、ミヤイリガイが病気を撒き散らしていることを知ってから、総出でミヤイリガイを箸で集めて処分するなど、限りない努力を続けましたが、ミヤイリガイを駆除することは出来ませんでした。

しかし研究の結果、生石灰の粉末をまくことにより90%以上のミヤイリガイを死に至らしめることが分かったのです。

広島県の片山地区という小さな地域では、2000トン近い生石灰の粉末をまくことにより、ミヤイリガイを繁殖できなくするという成果を上げました。

甲府盆地は片山地区の16倍の面積ですが、希望にすがる村人たちの活動が始まり、石灰や薬剤など、数多くの道具がミヤイリガイ駆除に向けて使われました。

そんな中、ミヤイリガイについての研究の中から、ミヤイリガイは早い水の流れの中では卵が流されて水草などに固定できず、繁殖そのものが不可能であることも分かってきたのです。

甲府盆地に存在するすべての川をコンクリートの用水路に変えるべく、とてつもない期間をかけて工事が行われました。

この工事は、1985年にその費用が100億円を突破するほどの大規模なもので、作られた用水路の長さは2109キロ。北海道から沖縄まで届くほどの長さであり、どれだけこの甲府盆地で願いを込めた工事が行われたのかわかります。

こうした涙ぐましい努力の結果、少しずつ感染したミヤイリガイは山梨県から姿を消していったのです。

時代の変化がミヤイリガイを滅ぼした

感染したミヤイリガイが甲府盆地からいなくなった理由は、多くの村人たちの活動もさることながら、時代の変化によるものも大きな要因でした。

1960年代から急速に数を減らしたミヤイリガイは、明らかに家庭による『合成洗剤の垂れ流し』の影響を受けていました。このような環境で生きられる生き物はいないのです。

また、時代が進むことにより、多くのものが機械化され、昔のように田んぼの中に入って米を植えるようなことはなくなりました。

さらに山梨県で先祖代々続いていた米作りでしたが、病気から決別するために、桃、ぶどう、さくらんぼなどへの果樹栽培へと土地の使い方を一変させたのです。

これにより田んぼの存在がなくなり、ミヤイリガイの住処そのものがなくなっていきました。

1978年以降、感染した人間は見つからず、1983年にノネズミに感染した例が見つかったものの、それ以降には動物にすら感染が確認されていません。

そして1995年、「再流行する原因はほとんどない」と地方病終息宣言がなされたのです。

1881年に田中武平太から「助けてくれ!!」と嘆願書が出されてから、115年目の出来事でした。

現在のミヤイリガイ

現在も甲府盆地西部にはミヤイリガイの生息地が残っていますが、感染しているミヤイリガイはおらず、今後も輸入ペットなどから再流行が起きないよう、入念に調査と監視が行われています。

日本では撲滅に成功した日本住血吸虫症ですが、世界では今もその恐怖が続いており、輸入ペットなどから新たに再流行が起こる危険性も指摘されています。輸入ペットなどに厳しくチェックが入れられているのは、このような理由にもよると言えるでしょう。

また、千葉、広島、福岡、佐賀などの一部地域でもミヤイリガイがおり、かつて日本住血吸虫症が流行していたことも確認されましたが、現在ではミヤイリガイ自体が絶滅された地域が多く、感染の危険性はありません。

こうして日本での日本住血吸虫症は撲滅されましたが、ミヤイリガイは今も日本各地の大学や研究機関で、寄生虫である日本住血吸虫とともに育てられ、ネズミなども合わせて飼育することで過去の甲府盆地の環境を再現し、日本住血吸虫が絶滅することのないように配慮されています。

万が一この病気が再流行した場合、本体がいなければ診断のための抗原を作ることも出来ないために、危険であっても寄生虫本体の絶滅を避けるようにされているのです。

ミヤイリガイが限られた地域でしか繁殖しなかったため、この病気が全国に広がることは避けられましたが、ミヤイリガイが限られた地域でしか生息できない理由については、科学が進んだ今でも謎のままです。

 日本の戦いの経験を世界へ

1955年、日本と中国が国交を正常化する前。

中国を訪れた日本の医師団に、政務院総理であった周恩来から会談が持ちかけられました。

本日、私は日本からお越しの皆様に、どうしてもお聞きしたいのです。その病気はシーチチュン(血吸虫病)といい、中国人民の健康を損なっている最大の敵であります。今回の会談はそれを力点に置きたいと思います

この話に医師団は驚きました。これは山梨県の人々を苦しめた地方病、日本住血吸虫症のことでした。

さらに周恩来はつづけます。

発見者の名前をとってミヤイリガイ……この貝が中間宿主です」。

国交が正常化していない中国が、これほど日本での研究結果に関心を寄せているということは、中国でどれだけこの病気が猛威を振るっているかの証明でもありました。

こうして国交正常化を待たずして、日本側から駆除方法や治療方法、用水路コンクリート化の技術援助など、協力関係が続いていくことになるのです。

また、アジアでもうひとつの流行地であるフィリピンでも、日本からの技術援助や支援が行われています。

特にフィリピンに治療薬を送るための募金活動には、甲府病院から8445万円もの募金が集まりました。

長い間苦しんできた甲府の人々が、同じように今も苦しんでいるフィリピンの病人たちに自分を重ね、莫大な寄付が集まったのです。

現在フィリピンでの日本住血吸虫症の発症率は半減し、甲府病院の林医師にはフィリピンから感謝状が贈られています。

恐ろしい日本住血吸虫症ですが、1970年代にはようやく効果のある治療薬、『プラジカンテル』も開発され、世界的にも生命の危険が少しずつ少なくなってきています。

しかし、現在でも住血吸虫症の流行国は77カ国もあり、感染リスクの高い国はそのうち52カ国。推定感染者数はなんと約2億4,300万人にものぼります。

特にサハラ砂漠以南のアフリカ諸国では、現在も年間20万人以上が住血吸虫症によって死亡しているという報告があります。

日本が発見し、唯一根絶に成功した日本住血吸虫症。

いまでも多くの医師や研究者が、寄生虫対策のために世界各地へ出向き、治療や対策などの活動を積極的に行っています。

長い長い苦しみの歴史を超え、ついにこの病気を救う側に立った日本は、世界からその経験を後世に伝えるよう期待されているのです。

スポンサーリンク

シェアしていただけると励みになります

フォローする