ここ10年ほどで、幹細胞を用いた再生医療や、人工器官を体内に埋め込むバイオニック医療の研究が進み、全盲の人が多少なりとも視力を回復した事例が出てきた。幹細胞は未分化の細胞で、さまざまな組織や器官に分化できる。網膜の損傷は失明につながることが多いが、幹細胞を使って、傷んだ細胞の置き換えや再生を行う治療で有望な結果が出始めている。バイオニック医療では第1世代の人工網膜が開発され、長年視力を失っていた患者が手術でマイクロチップを目に埋め込むことで、ぼんやりとだが物が見えるようになった事例が報告されている。
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こうした進歩を背景に、ほんの10年か20年前には考えられなかった構想が語られ始めた。人類がかつて天然痘を根絶したのと同じように、失明をも克服しようというのだ。
クリスチャン・ガーディノが生まれてすぐ、母親のエリザベスは異常に気づいた。授乳中も母親の顔ではなく、一番明るい光の方向…すなわち室内なら電球、屋外なら太陽を見つめている。
クリスチャンの目を最初に調べた医師は厳しい表情になり、専門医の受診を勧めた。専門医では網膜電図をとることになった。特殊なコンタクトレンズを装着し、光を照射して網膜の反応を調べる検査だ。正常な網膜は光に反応して視神経に電気信号を送る。測定装置はこのときに生じる電位変化をとらえて波形のグラフを描き出すが、クリスチャンの網膜ははっきりした反応を示さず、グラフの振幅はわずかだった。
診断された病名は、レーバー先天性黒内障。視力はすでにかなり悪く、今後も大幅な改善は望めない。治療法はない。大きくなってもクリスチャンの目はわずかしか見えず、白い杖が手放せないだろう。医師はそう宣告した。
その言葉通り2012年、12歳のとき初めて米ペンシルベニア大学シェイエ眼科研究所付属のクリニックを訪れたクリスチャンは杖をつき、母親に手を引かれていた。ところが2016年1月、私が目にしたのは研究所を杖なしで歩く彼の姿だった。冗談を飛ばし、おしゃべりしながら、少年は研究スタッフの一団の先頭に立って、広々としたロビーを歩いていく。
クリスチャンは目が見えるようになったのだ。「信じられないでしょう?」と、母親のエリザベスが言った。クリスチャンは前を歩き、隣には遺伝子治療の臨床試験を行った研究チームの責任者ジーン・ベネットがいる。「まさか、あんなに早く効果が出るなんて」。最初に片方の目を治療してから3日後に、クリスチャンは彼女の顔が見えるようになった。「この子は母親の顔を知らずに育つのかと思っていました。それが今では…」。エリザベスは、助けなしに歩いている息子を指し示した。「まるで奇跡です」
クリスチャンの目に起きた奇跡は、20年に及ぶ地道な研究の成果だ。ベネットらはクリスチャンの網膜で問題を引き起こしている遺伝子の変異を特定し、正常な遺伝子のコピーを導入する方法を探った。臨床試験を始めた段階では、改善の兆しがみられれば十分だとベネットは考えていた。それから9年。予想以上の手応えに、当のベネットも驚いている。
目には「免疫特権」と呼ばれる性質があり、異物が侵入しても激しい拒絶反応を起こさない。そのため遺伝子治療など、ほかの臓器ではリスクを伴う治療も比較的安全に試せる利点がある。目と同様に免疫特権をもつ部位としては脳があり、目で成功した治療は、脳や脊髄にも応用しやすいと考えられる。
目のこうした利点を生かして現在、遺伝子治療や再生医療、バイオニック医療などの研究が集中的に進められている。そうした成果は、将来ほかの器官や臓器でも大いに役立つ可能性がある。「目は心の窓」というが、それだけではない。先端医療の可能性と限界を探るうえでも、目は格好の窓となってくれるのだ。
(ナショナル ジオグラフィック2016年9月号特集「失明治療 見えてきた光」より)
David Dobbs/National Geographic