誰でも書けるのに書く人が少ないクリエイティブで面白い文章の秘訣
どうも千日です。誰でもブログなどで自分の考えを発信出来る時代です。著名人でなくても創造的で興味深い文章を公開すれば多くの人に支持されます。
それを読んだ人が「なるほど」と感心したり「これは自分に向けて書かれている」と感じて、その文章をきっかけとして具体的な行動に及ぶような文章です。
そんな文章を書くのには「天から授かった才能」が必要だというのが定説です。
そうかも知れません。しかし「その根拠は?」と問われたら、誰もが黙らざるを得ないでしょうね。誰もが納得するその根拠を示せたら十分に非凡な人だからです。
そこで今回のブログで千日が提唱したいのは「誰もが書けるが、その訓練をしていないから書けない」というモノです。
- 普段我々がどうやって文章を書いているか
- なぜそれが面白くないのか
- ならばどうすればいいか
という話を2分位にまとめたいと思います。
目次
読書感想文を上手に書く方法
昨日見たテレビ番組の林先生が驚く初耳学!でメインの林修先生が「読書感想文が上手に書けるワザ」を紹介していました。
我々がどうやって文章を書いているかを理解する良い例ですし、ある種の文章の書き方としてそれ自体が良い方法なのでご紹介しますね。
事実認識と価値判断
現実認識は基本的に「事実認識」と「価値判断」の2つから構成されます。
本についての自分の認識を書くのが読書感想文です。自分の認識を整理し、論理立てて書くことで読書感想文の文体になります。
- まず「事実認識」として本の一文を書く
- 次に「価値判断」としてどう思ったかを書く
- そして「理由付け」としてなぜそう思ったかを書く
事実認識は「〜である」と表現できます。価値判断は「〜すべき」と表現できます。理由付けは「なぜなら〜」に続く表現です。
これだけで10行、20行は埋まります。
上記の構成がワンセット出来ると、これに更に自分の体験と比較します。
- 似た状況と比較する「類否」
- 反対の状況と比較する「対比」
これを幾つか作ることで読書感想文が書けてしまいます。
哲学の認識論と論理の肝
この方法は哲学の認識論の基礎を利用した手法です。認識論とは知識や真理の性質や起源、人が理解出来る限界などについて考察するものです。
林先生に近い論理ではイギリスの哲学者スティーブン・トゥールミン(1922〜2009)が論理の構造を分かりやすく図式化したトゥールミンモデルがあります。
データ=事実認識、主張=価値判断とすればトゥールミンモデルそのままです。
つまり、林先生の「読書感想文が上手に書けるワザ」とは、論理的な文章を書く為に自分の認識を整理する方法という事です。
この方法によって、読書感想文を書くと先生が及第点をくれる最低限のクオリティのモノが出来上がるという訳です。
だって、読書感想文ですからね。
その本について読んだ当人の認識が論理的に書かれている訳ですから。どんな代物でも絶対に書き直しを命じられるような事はありません。
どんな人でも確実に及第点を取る読書感想文の書き方としては、おそらくこれ以上の方法は無いでしょう。
読み手に対する愛と敬意はあるか?
しかし、この方法は誰でもギリギリ及第点を取る為の方法です。賭けても良いですが確実に「上手だけどつまらない読書感想文」になるでしょう。
林先生も「面白い読書感想文の書き方」とは言ってません。ズルいです。
何でか?
受験技術として文章を書くときは「どう書けば採点者が喜ぶか」ということが最優先されるからです。
- 自分が「本当に言いたいこと」にどうやって出会うか。
- 自分に固有の文体をどうやって発見するか。
こういうことは、範疇に無いんですよ。
内田樹氏は著書の中でこのように書いています。
どうせこんなことを書いておけば採点者は喜ぶんだろうという「採点者を見下したような視線」で答案を書いていた。
たまに自分の本当に思っていることを書くと、点数が悪い。正直に書くよりも、思ってもいないことを作文すると点数が高い。だから、よけいに採点者を見下すようになった。
でも、今では、ものを書くときに読み手の知性を見下して書くということほど不毛なことはないと僕は思っています。
(街場の文体論 内田樹著より引用)
千日もいわゆる受験秀才でしたので、この一連のくだりはきつい一言でした。見下してはいなくても「こういう感じで書いとけば良いかな」的な姿勢を言ってるんですよ。
- こういう感じで書いとけば良い。
これは「こういう感じで書くことが良い」というのとは意味が全く違います。
- 書きたくないけど、こういう感じで書けば最低限だいじょうぶ。
そんなニュアンスですよね。こういう姿勢は、林先生の「読書感想文が上手に書けるワザ」に通じるところがあるのですよ。
これだけで10行、20行は埋まります。
これを幾つか作ることで読書感想文が書けてしまいます。
まさに…ですよね。
私たちの多くは学校教育や受験教育「どっぷり浸かって「文章の書き方」というものを身に着けて来たんですよ。
ですから、多くの人がつまらない文章しか書けないのは自明の理です。そういう訓練を全くしていないからなんです。
ただし、業務報告書を書いたり社内稟議書を書いたりするのには役立っているとは言えます。
クリエイティブで面白い文章を書くために必要なこと
ここまで読んで「こういう風に書いとけばクリエイティブで面白い文章が書ける」わけではないということがお分かりいただければ幸いです。
読み始めた時には「どういう風に書いとけば良いのかな?」という気分で読み進めていた方が「ああ、いまのこの姿勢から変えないと…」という認識になっていただければ、まず、このエントリーの目的は果たされたことになります。
情理を尽くして語る。僕はこの「情理を尽くして」という態度が読み手に対する敬意の表現であり、同時に、言語における創造性の実質だと思うんです。
(街場の文体論 内田樹著より引用)
山本幡生氏の遺書
この「情理を尽くして」書かれた文章の例として山本幡生(やまもとはたお)氏の遺書をご紹介したいと思います。
山本幡生(1908~1954)氏 は第二次世界大戦終結後に旧ソ連によるシベリア抑留を経験した日本人の一人で、日本への帰国が絶望的な状況で、強制収容所内の日本人捕虜たちに日本の文化と帰国への希望を広めました。
句会なども秘密裡に開いていたそうです。強制収容所内では日本語のメモを持っていることはすなわちスパイ行為とみなされ、懲罰対象となったので非常に危険な行為であったそうです。
自身は帰国の夢がかなわず収容所内で病死しました。1954年、当時の日本は敗戦後の高度成長期の真っ只中であり「もう戦後ではない」が流行語となっていた時代です。
幡生氏は同志の強い勧めから家族宛ての遺書を書きました。日本語で書かれたその遺書を密告者やソ連兵に見つからずに日本に持ち帰るため、その文面を手分けして暗記することですべての遺書が日本の遺族に伝えられたといいます。
遺書を暗記して持ち帰った同志たちは遺族に対し、一様に幡生氏に感謝しているといったそうです。
- 遺書を暗記して持って帰ること
- 暗記する遺書の文面そのもの
これが、彼らの生きる動機になったというのです。
幡生氏の遺書には日本に残された遺族への「情理を尽くして」伝えたいことが余すところなく記されていたからにほかならない、と千日は思います。
まとめ
いかがでしたでしょうか。なぜ、幡生氏の遺書がすべて日本に届いたのか?興味のある方は検索して読んでみてください。
創造というのは、「何か突拍子もなく新しいこと」を言葉で表現するということではありません。
言語における創造性は読み手に対する懇請の強度の関数です。どれくらい強く読み手に言葉が届くことを願っているか。その願いの強さが、言語表現における創造を駆動している。
(街場の文体論 内田樹著より引用)
自分に文章の才能があるかどうかは分かりません。しかし、才能の問題ではないと思います。
- 響く言葉
- 届く言葉
- 身体に触れる言葉
どういうものかについて、考えながら文章を書いていきたいと思います。
以上、千日のブログでした。
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