★対談者紹介★
▲山下泰春
『アレ』の編集長。高校時代から『道徳形而上学原論』なんかを読んでいた。
◆永井光暁
『アレ』の副編集長。あまり哲学書を読まない人。一番最初に読んだ哲学書は『方法序説』。
日常をベースにした哲学
▲山下
先日、理系の友人から「哲学って、物体を取り扱ってないから難しいんだよ」って言われたんですよ。多分ですけど、理系に限らず、哲学に触れたことがない人には、哲学って「とにかく分かりにくくて、何を言っているのかよく分からないモノ」という感じに思われているんでしょうね。
ということで、今回から永井さんと一緒に、ドイツの大哲学者ヘーゲルの『精神現象学』という哲学書を、一番読みやすいと言われている長谷川宏氏の訳で読んでみようと思います。哲学が何について話しているのかが分かれば、哲学はぐっと身近なものになりますし、内容が分かれば、結構面白いものだと思っていただけるハズです。
◆永井
また随分と唐突な。ってか俺、本を読むこと自体がそんなに好きじゃないんだけど……まぁ、頼まれた以上、付き合うよ。で、何故にヘーゲルの『精神現象学』なの?一応、『精神現象学』はドイツに限らず、全ての哲学書の中でも最も難しいモノの一つだってよく言われているけれど、ホントに大丈夫かい山下君?
▲山下
勿論です。まぁ、流石に「簡単だよ」とまでは言いませんが、『精神現象学』は哲学書の中でも珍しく、私たちの「日常」をベースに哲学をスタートしている本です。なので、この本なら「哲学は抽象的なことしか言っていないじゃないか!」っていう誤解を解けるかなと思いまして。まぁ、早速「まえがき」(P.1~P.48)を読んでいきましょう。
一巻の書物のはじめに「まえがき」なるものを置き、その書物で著者のねらいとする目的がどこにあり、また、同じ対象をあつかう前代や同時代の作品にどう刺激を受け、どう新境地を開いたかを説明するのが慣例のようになっているが、そうした説明は、哲学書の場合、不必要であるばかりか、事柄の性質上、不適当で不都合であるとさえ思える。(P.1)
◆永井
初っ端からヘンテコな文章っすね。でも、ヘーゲルがこれまでの哲学書についての反省を踏まえて話を進めようとしているのは分かる。つまり、一般的な本の「まえがき」の部分では、「前の時代や同時代の作品から斯々然々の影響を受けました!」みたいなことが書かれていることが多いけれど、哲学書の場合、そういうことを書くのはナンセンスで、ぶっちゃけ邪魔だ、ってことね。あぁ、だからヘーゲルは続けて下のようなことを書いているワケか。
人は哲学体系のちがいを真理の発展段階のちがいとしてとらえることなく、ちがうものはどちらか一方にしか真理はないと考える。それはちょうど、つぼみがなくなって花が開くとき、つぼみは花によって反駁される、というようなもので、それにならえば、実がなれば花は偽の存在だということになるし、植物の真理は花から実へ映ったことになる。それぞれの形は、たがいに異なるだけでなく、両立しえないものとしてたがいに排除しあう関係にあるわけだ。(P.2)
▲山下
そういうことです。今までの哲学体系は、「花に真理がある!」と言ったり、はたまた「実は種に真理がある!」と言ったりしていて、ちゃんと「花」を「植物」として捉えてはいない、という皮肉ですね。植物は種があり、種が芽吹いて花になり、そして種を落として……というのを繰り返す。つまりヘーゲルは、「哲学の体系は、こうした流れを全部捉えないと、本当に哲学をしたことにはならないんだよ!」と言ってるんですね。
◆永井
なるほど。まぁ、推測だけど、当時の哲学者たちの乳繰り合いみたいなのがイヤだったんだろうね。実際、『精神現象学』を書いていた当時のヘーゲルは、カントという哲学者の正当な後継者争いに、間接的にだけど巻き込まれて、相当に気が滅入っていたらしいしね。
話を戻すけど、どうして哲学の体系が流れを全部捉えないといけないのかについて、ヘーゲルは次のように言っているね。
なぜなら、事柄は[……]展開過程のうちに汲みつくされるものであり、したがって、結論ではなく、結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなすのだから。(P.3)
▲山下
この言に従えば、つまり哲学は、最初の前提から、どういう論が述べられていて、どういう結論に行きつくかという、三つの過程全てが大事ということですね。この前提があって、初めて哲学を始めることができるんですね。さっきの花の例で言うなら、まず種があって、栄養や水をあげた結果、芽が出る。その後、そこからさらに栄養やら水やら日光やらを得て、花が咲く。そして、花はいずれは枯れるけれど、種を落として、その種がまた……というのを繰り返す。ヘーゲルによれば、ここまで言って、初めて植物の哲学をすることができる、ということです。
とはいえ、これだけだとまだ何も言っていない感じがしますよね。これまでの哲学者に対するヘーゲルの怒りみたいなものは感じられますけど。
弁証法を使って考えよう!
◆永井
またえらくド丁寧というか、クソ真面目というか……でも、哲学をするって、こういうことなんだろうね。高校の倫理の授業で聞いたことがある人もいるだろうけど、今の「花の例」は、いわゆる「弁証法」というヤツだよね。「ヘーゲルの哲学で重要なのは弁証法です」ってよく聞くけど、「弁証法」っていう言葉自体、普通に生きている限り、あんまり聞かないよね。
▲山下
確かにそうですね。でも、覚えておくと便利な考え方かもしれませんよ?というのも、「弁証法」は意外と色んな場面で使える考え方だからです。有名な例だと、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や武谷三男が「中間子」を発見したのは、弁証法を使って考えたからだ、という指摘があったりします。
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それに、弁証法の良い所は、日常経験で理解できることにあります。種が種でなくなって、芽も芽ではなくなって、そして花になってもまたすぐに種を落とす……こういう物事の移り変わりも、弁証法で考えれば、哲学の第一歩を踏み出したも同然です!
ただまぁ、それと同時にヘーゲルは、「日常生活それだけでもダメだよ!」と言ってたりもするんですけどね……。
日常の衣食住の生活をぬけだして教養へと一歩足を踏み出すには、一般的な原則と視点に立つ知識を獲得し、事柄一般を思考できるまでに訓練を重ね、根拠をあげて事柄の是非を判断し、具体的で内容ゆたかな対象を明晰にとらえ、きちんとことばにし、真剣に判断をくだせるのでなければならない。(P.3)
ただし、教養がはじまったばかりの時点では、日常生活の充足のなかで事柄そのものと真剣にとりくむ、という形の経験が重ねられる。その段階を経て、事柄の深層にある概念とのとりくみが真剣になされる場合でも、その水準での知識や評価を披露する場としては、日常会話こそが似合いの場というべきなのだ。(P.3)
◆永井
うーん、これも弁証法だなぁ。つまり、まず日常生活から「これは何だ?」と問い、そしてちゃんと考え抜いて結論を出して、最後に日常生活で結論を実践する、と。で、この過程そのものが弁証法ってことか。
でも、確かにメッチャ便利だけど、便利過ぎると、何か返って疑わしくなってくるねぇ。山下君、弁証法の欠点って、何か考えられるかい?
▲山下
うーん……弁証法は思考法の一種なので、あんまり思い浮かばないですね。ただ、流石に未来のことは何も言えない、ということは覚えておくといいかもしれません。何処かの誰かさんたちが、弁証法を悪用して、予言めいた発言を繰り返してきた歴史があるので……。これを「花の例」で言うなら、種に栄養と水をやれば芽が出てくる「だろう」、芽が栄養と水と日光を得れば花が咲く「だろう」、といった感じですかね。まぁ、これは花を例にしているので、多少変な感じがしますが。
……とりあえず、一文一文精読し始めて、ここまでで2時間かかったので、続きは次回にしましょう。
◆永井
2時間で3ページっすか、先は長いねぇ……。
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『精神現象学』その1。このブログで使っている本はコレ。最も平易な文章の訳。
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『精神現象学』その2。持ち運びに便利。
『精神現象学』その3。邦訳版『精神現象学』の始原にして頂点。最も難解だが、最も長い解説もついている。ただし分厚い。