2歳の記憶、胸に抱き…遺族代表、追悼の辞
71回目の終戦記念日を迎えた。日本が平和を享受してきた71年間は、いとしい肉親や家族を戦争に奪われた人たちにとっては、苦労や悲しみとともに生き抜いた長い時間でもある。優しかった夫、一家を支え続けた父……。記憶や思い出を紡ぎながら、今年も遺族たちが追悼式会場の日本武道館(東京都千代田区)に集った。
遺族代表で追悼の辞を読んだ東広島市の小西照枝さん(74)は、フィリピンの戦地で父を亡くした。男手を失った一家は戦後、大変な苦労を味わう。父と最後に会った2歳の時の記憶を胸に抱く小西さんは「戦争で親を亡くす経験は、どんな子供にもさせたくない。将来の世代が戦争で苦しまないように」との思いを込め、壇上に立った。
父の瀬川寿(ひさし)さんが1944年3月に召集されるまで、両親と祖母、7歳上の兄の5人で暮らしていた。当時は父35歳、母28歳。米や麦を作る農家だった。父は母に「母と子どもをよろしく」と言い残して出征した。
その年の夏、父がいる佐賀に家族で会いに行った。小西さんは当時2歳。大きな河原に出掛け、梅入りのおむすびとゆで卵を皆で食べた。70年以上たった今でも回想する。「父に抱っこされ、卵を食べさせてもらいながら、私は『たまも(卵)、たまも』と言っていたそうです」。家族の最後のひとときだった。以来、卵やおむすびを見ると、父のことを考えるようになった。
父の死を告げる公報は47年11月1日付。母は黒の紋付きの着物で街に位牌(いはい)を取りに行った。5歳の小西さんは自宅近くのバス停に母を迎えに行き、位牌の入った白木の箱を持った母が泣いていたのを覚えている。子供心に「現実なんだ」と感じた。父は陸軍独立有線第120中隊に所属し、45年8月14日にフィリピン・ルソン島ラグナ州サンタマリアで戦死したと知らされたが、それ以上は分からない。
戦後、祖母と母は必死で田んぼで働いた。兄は中学生になると仕事を手伝い、小西さんは家事を担って家族を支えた。父に関して残っているものは、出征前に描かれた肖像画と、母が保管していた髪の毛と爪だけ。遺骨も戻らない。面影もはっきりしないが、父への思いは消えない。
後に元日本兵だった横井庄一さん、小野田寛郎さんの生存が確認され、日本に戻ってきた時は、祖母は「(息子が)生きておれば、家の財産を全部売ってでも迎えに行きたい」と話した。「父がいかに大事だったか、私も子どもを持って親になり、祖母の気持ちを理解することができた」
この日の小西さんは薄紫色の和装。「父と一緒に楽しく過ごした時のことが何度も思い浮かびました」。父の肖像画を胸に抱え、夫(77)、長男(52)と会場に入った。【竹下理子、野田武】