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2歳の記憶、胸に抱き…遺族代表、追悼の辞

戦死した父の瀬川寿さんの肖像画を手に全国戦没者追悼式の会場に向かう小西照枝さん=東京都千代田区で2016年8月15日午前10時37分、長谷川直亮撮影

 71回目の終戦記念日を迎えた。日本が平和を享受してきた71年間は、いとしい肉親や家族を戦争に奪われた人たちにとっては、苦労や悲しみとともに生き抜いた長い時間でもある。優しかった夫、一家を支え続けた父……。記憶や思い出を紡ぎながら、今年も遺族たちが追悼式会場の日本武道館(東京都千代田区)に集った。

 遺族代表で追悼の辞を読んだ東広島市の小西照枝さん(74)は、フィリピンの戦地で父を亡くした。男手を失った一家は戦後、大変な苦労を味わう。父と最後に会った2歳の時の記憶を胸に抱く小西さんは「戦争で親を亡くす経験は、どんな子供にもさせたくない。将来の世代が戦争で苦しまないように」との思いを込め、壇上に立った。

 父の瀬川寿(ひさし)さんが1944年3月に召集されるまで、両親と祖母、7歳上の兄の5人で暮らしていた。当時は父35歳、母28歳。米や麦を作る農家だった。父は母に「母と子どもをよろしく」と言い残して出征した。

 その年の夏、父がいる佐賀に家族で会いに行った。小西さんは当時2歳。大きな河原に出掛け、梅入りのおむすびとゆで卵を皆で食べた。70年以上たった今でも回想する。「父に抱っこされ、卵を食べさせてもらいながら、私は『たまも(卵)、たまも』と言っていたそうです」。家族の最後のひとときだった。以来、卵やおむすびを見ると、父のことを考えるようになった。

 父の死を告げる公報は47年11月1日付。母は黒の紋付きの着物で街に位牌(いはい)を取りに行った。5歳の小西さんは自宅近くのバス停に母を迎えに行き、位牌の入った白木の箱を持った母が泣いていたのを覚えている。子供心に「現実なんだ」と感じた。父は陸軍独立有線第120中隊に所属し、45年8月14日にフィリピン・ルソン島ラグナ州サンタマリアで戦死したと知らされたが、それ以上は分からない。

 戦後、祖母と母は必死で田んぼで働いた。兄は中学生になると仕事を手伝い、小西さんは家事を担って家族を支えた。父に関して残っているものは、出征前に描かれた肖像画と、母が保管していた髪の毛と爪だけ。遺骨も戻らない。面影もはっきりしないが、父への思いは消えない。

 後に元日本兵だった横井庄一さん、小野田寛郎さんの生存が確認され、日本に戻ってきた時は、祖母は「(息子が)生きておれば、家の財産を全部売ってでも迎えに行きたい」と話した。「父がいかに大事だったか、私も子どもを持って親になり、祖母の気持ちを理解することができた」

 この日の小西さんは薄紫色の和装。「父と一緒に楽しく過ごした時のことが何度も思い浮かびました」。父の肖像画を胸に抱え、夫(77)、長男(52)と会場に入った。【竹下理子、野田武】

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