京都というのは言わずと知れた観光都市である。
私が住んでいる家など、歩いてすぐのところに金閣寺がある。あの金閣寺である。みなさんが想像されたとおりの金閣寺。足利義満の道楽の産物。あれが徒歩5分の距離にある。感覚としてはコンビニくらいの距離感である。
しかしそれで嬉しいかと言えばそうでもない。よく言われることだが、京都在住の人間にとっちゃ京都は日常的な場所でしかなく、観光地でも何でもないのである。徒歩5分の金閣寺はもはや金閣寺としてのオーラを消失している。あれは近所にある金色の建造物である。水色の建造物(ローソン)のおともだちである。
私のウォーキングコースには紫式部の墓があって、毎日のように前を通るが、これも完全に無視している。汗だくで腕を振りながら紫式部を完全シカトである。源義経出立の地とかいうのもある。それも「フーン」で済ませている。怖るべき無関心ぶりである。いちいち歴史に思いを馳せていると生活できたもんじゃないということか。とにかく京都というのは、三歩歩けば歴史につまずく街だから。
大学時代のアパートは、歩いてすぐのところに「一乗寺下り松」があった。宮本武蔵の決闘の地として有名な場所である。バガボンドを読んでいたら唐突に近所の地名が出てきたから強烈に覚えている。物語世界に没入していたはずが、いつのまにか徒歩5分の場所の話。「は?ツタヤの近くの?」となっていた。
「武蔵、ツタヤ北白川店の近くで決闘すんの?」
武蔵が一乗寺下り松で吉岡一門総勢七十余名との斬り合いを続ける間も、私はなんとなくツタヤ北白川店のことを考えていた。少し歩くとココイチもある。吉岡一門を倒した後は、さぞかしトッピングも豪勢になることだろう。
うちの近くには大きな空き地があって、草がぼうぼうに生えているんだが、「これがマチュピチュだったら俺マチュピチュに行きたがるのかな」とたまに思う。私は以前からマチュピチュに憧れているんだが、はたして近所にマチュピチュがあっても憧れることはできるのか。
「遠さ」というのは憧れの重要なポイントであって、気軽には行けないほど遠くにあり、写真や伝聞でのみ存在を知っている時に、もっとも憧れは強くなるのだろう。
しかしネットを見ていると「京都観光で絶対に行きたい場所」とか「京都の魅力を味わいつくそう!」という記事が定期的にあがってきて、反射的に「京都っていいところだなー」と思う自分にビックリする。住んでるのに。ほんとうにこれはもう無茶苦茶で、京都に住みながら京都に憧れている。京都在住のくせに魅力的な京都のイメージをむさぼっている。日常としての京都と幻想としての京都は、別腹だということか。