2か月ほど前にすでに公表された論文だそうですが、最近になって話題になっていましたので、読んでみました。中々面白い内容でしたので、この論文についての簡単な概説を書いてみようと思います。

 すでにご存じの方も多いと思いますが、論文のタイトルは以下のようなもので、発表されたジャーナルは Scientific Reports です。

「Acidic extracellular pH of tumors induces octamer-binding transcription factor 4 expression in murine fibroblasts in vitro and in vivo」
がん細胞が存在する周辺環境が酸性であることは、培養細胞および動物個体において、マウス線維芽細胞に octamer-binding transcription factor 4 (OCT-4) の発現を誘導する

 私はこういう分野の研究をすることが仕事の一部ですから、この論文もタイトルを見た後は頭から読むのではなく、先にデータに目を通し、この論文が読むに値するクオリティがあるかを判断します。発表される論文はそれこそ無数にあり、自分自身も論文を書いている者ですから、そうしないと時間が足りないのです。そういう点で言うと、この論文のデータは残念なところがあるという印象は否めません

 がん細胞の周辺にいる線維芽細胞に「OCT-4 の発現が誘導された」というのがこの論文のキーポイントなのですが、この論文で使われているがん細胞は、その細胞自身が OCT-4 を発現しているので、ウェスタンブロットや、RT-PCR という基本的な実験をやって、どの程度 OCT-4 が増えたのかを見せてほしかったと思います。

 OCT-4 と言えば、STAP細胞論文の1つ目のデータで、

「GFP が光ったからSTAP細胞が出来た(多能性幹細胞が出来た)」

と断定できないのは、このように、分化した細胞であるにもかかわらず、Oct-4 を発現している細胞が存在する(この論文のがん細胞など)からなのです。また、「OCT-4 は未分化細胞(多能性幹細胞)だけで発現しているわけではない」のも注意しなければいけない点です。

 前置きが長くなりましたが、とりあえず、この論文の要旨を見てみます。

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Octamer-binding transcription factor 4 (OCT-4) is an important marker of cellular de-differentiation that can be induced by environmental stressors, such as acidity. Here we demonstrate that chronic acidic stress in solid tumors induced OCT-4 expression in fibroblasts and other stromal cells in four tumor models. The results have implications for how tumors utilize pH modulation to recruit associated stromal cells, induce partial reprogramming of tumor-associated stromal cells, and respond to therapy.
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 日本語訳しますが、多少めんどくさいところ(例えばOctamer-binding transcription factor 4 などは、最初から OCT-4 と書かせて頂きます)や、そのまま訳すと不自然になるところは意訳しますので、ご了承ください。

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OCT-4 は、酸性環境などのストレスによって誘導される、細胞の脱分化の重要なマーカータンパク質である。我々はこの論文において、固形がん細胞が置かれている慢性的な酸性環境(この論文では酸性の培地で培養された状態)が原因となって、これらのがん細胞が、線維芽細胞および他の支持組織の細胞において、OCT-4 を誘導することを、4つのがん細胞で認めたことを示す。

 この結果は、がん細胞が、自らが生存するために必要な支持細胞を引き寄せたり、これらの支持組織に部分的なリプログラミングを誘導したり、また(抗がん剤などの)治療薬へ抵抗して生存するために、どのように自身の周囲の pH を調節しそれに依存しているかを示唆している。
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 訳してはみましたが、そのままだと意味が通らないところも数か所あり、そこには本来要旨になかった用語を挿入したりしています。

 こういう要旨は、基本的には「データから得られた結論をまとめたもの」なのですが、しばしば筆者がデータの解釈を誤ったり、もしくは複数の解釈が成り立つのに片方の解釈に固執したりして、必ずしも正しくないことがあります。私も、データを先に見ていなければ、この論文を面白いとは思わなかったでしょう。では、私が興味を持った点を含めて、重要な点を、出来るだけ短く箇条書きにしてみます。


①使用された4つのがん細胞は「ヒト乳がん細胞 MDA-MB-231」「マウス乳腺腫瘍細胞 EMT-6」「ヒトすい臓がん細胞 BxC-3」「マウス乳がん細胞 4T1luc」。それぞれに特徴があって、

・ヒト乳がん細胞 MDA-MB-231:OCT-4 が最初から発現している
・マウス乳腺腫瘍細胞 EMT-6:がんの転移に重要(必須)な「上皮間葉転換」を起こすことが出来る。
・ヒトすい臓がん細胞 BxC-3:(筆者らの知る限り)OCT-4 は発現していない
・マウス乳がん細胞 4T1luc:強い薬剤抵抗性を持つ。

 なお、それぞれのがん細胞の名前に、特別な意味はないと考えてもらって問題ありません。名称の付け方に、ルールがないのです。

②マウス線維芽細胞 NIH3T3 を pH7.4 で培養しても OCT-4 は発現しないが、がん細胞の MDA-MB-231 または BxC-3 と共培養(同じシャーレの中で混ざった状態で培養すること)すると、NIH3T3 が OCT-4 を発現する。しかし、ES 細胞や iPS 細胞のような多能性幹細胞のような形状への変化はない。

③マウス線維芽細胞 NIH3T3 を pH6.5 で培養すると、それだけで OCT-4 が発現する。②と同じように共培養しても OCT-4 が発現する。だが、ES 細胞や iPS 細胞のような多能性幹細胞のような形状への変化はない。

④ヌードマウス(免疫不全マウスなので、他の動物種も含めて移植実験をしても移植が成功するマウス)にEMT-6、BxPC-3、4T1luc のがん細胞をそれぞれ皮下(皮膚の下)に移植すると、そこでがん細胞が増殖し典型的な固形がん(固い塊である)が出来るので(これは汎用される実験方法である)、その後その塊を調べると、がん細胞の部分はすべて OCT-4 が発現していた

⑤上記の④で使われた固形がんの塊(組織)で、線維芽細胞とがん細胞が隣接しているか、線維芽細胞も OCT-4 を発現しているかを調べると、両者は近接している他、線維芽細胞の中には OCT-4 を発現しているものも確認された。したがって、動物生体内でも、
がん細胞の周辺の支持組織である線維芽細胞が OCT-4 を発現していることがあることが確認された。


 データはすべて組織染色なので、定性的に「多そう、少なさそう」としか言えないのがやはり残念ですが、

がん細胞との共存によって線維芽細胞は OCT-4 を発現する

というのが、私が一番興味を持った点です。

 細胞は、その表面(細胞膜)に様々なタンパク質を発現しているので、それが相互に刺激を入れ、例えばがん細胞の細胞膜表面のタンパク質が線維芽細胞の細胞膜に接触してシグナルのスイッチを入れたり、その逆もあるほか、細胞は様々なタンパク質を分泌もしているので、がん細胞が分泌したタンパク質が線維芽細胞の細胞膜表面のタンパク質と結合し、その結果 OCT-4 の発現を誘導した可能性もあります

 特に液性因子の影響は興味の大きいところで、例えば腎臓で作られた物質は常に脳にも届いていますから、例えば神経難病のように脳内に異常が起きている疾患でも、他の組織や臓器の異常を治せば、同時に脳の異常も改善される可能性があるのです。再現性がとられたかどうかはわかりませんが、ショウジョウバエを使った実験で、そのような現象を確認した論文は発表されています。


 最後ですが、この論文が「STAP細胞の存在を証明した!」と一部で言われているという話を聞きましたが、この文章を読んで(拙い文章で恐縮ですが、内容は正しいと思います)、これがSTAP細胞の論文であったり、多能性幹細胞の論文だと思われるでしょうか?OCT-4 という用語が出て来なかったら、どうだったか?撤回された小保方氏の論文が引用されていなかったら、どうだったか?小保方氏の論文が引用されたことについては、日本がどうのこうのではなく、この論文の責任著者の論文の引用の仕方に対する理解が不十分なだけです

 すでにこの論文が「STAP細胞の存在を証明する論文がワシントン大学から発表された」という記事が、ネット上のジャーナルのサイトで公開されていると聞きます。

 当たり前ですが、その論文の内容を理解できない人が、その論文についての記事を書くというのは常識を逸脱していると言わざるを得ません。この論文の内容を理解出来たなら、どうしてこれが「STAP細胞と関係がないわけがない」と言えるのでしょうか?普通はここまでの文章を読まれたら、そういう解釈はしないでしょう。この論文はいうまでもなく「がん」の論文です。

 途中で少し述べましたが、この論文で用いられた線維芽細胞は、OCT-4 は発現しても、形状は線維芽細胞のまま全く変わっていませんでした。OCT-4 の発現を確認するのは、多能性幹細胞が出来たかどうかを判断する上での必要条件ではありますが、十分条件には程遠く、「確認しなければいけない現象の1つ」でしかないのです。

 とはいえ、どういう人がそういう記事を書いたのかはよく知りませんが、そういう記事を書くのも、あるジャーナルがそれを受理することも、私たちがどうにか出来ることではありません。

 それよりも、「研究の内容を正しく知りたい(理解したい)」と思われる方は、私どもにご質問下されば、出来る範囲でではありますが、このブログを書いているメンバー一同、出来る限り詳細な説明と、ご質問に対する回答を致したいと思います。