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【社会】

<記憶 戦後71年>(上)極寒の地 極限の苦 シベリア抑留3年・宮嶋孝吉さん

シベリアでの抑留体験を酒井翔平記者(左)に語る宮嶋孝吉さん=東京都荒川区で

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 戦争を生き延びた兵士はさらなる悪夢を見た。初年兵だった宮嶋孝吉さん(91)=東京都荒川区=が、三年間抑留された旧ソ連のシベリアで強いられたのは、極寒と飢餓、過酷な労働という三重苦だった。

 一九四二年、故郷の滋賀県長浜市の商業学校を卒業後、新天地で職を得ようと旧満州(中国東北部)の企業に就職。四五年二月になって召集され、東部の満ソ国境の警備に就いた。二十歳だった。

 部隊の主力は三十〜四十代の兵士と初年兵。関東軍の精鋭は本土決戦に備え、続々と内地に送られていた。武器もほとんどなかった。ドイツ降伏以降、国境付近のソ連軍は日に日に膨れ上がり、一兵卒の目にも日本の敗北は必至だった。

 八月九日、対日参戦したソ連軍が満州に侵攻。再編された歩兵第三七〇連隊に所属していた宮嶋さんは、約三十人の兵士とともに牡丹江(ぼたんこう)の本隊と合流するために後退した。ソ連軍と遭遇したらひとたまりもない。日中は山中で息を潜めた。十五日、上官から日本の降伏を教えられた。「助かった」と正直ほっとした。

 敗戦から十三日後、仲間とともに捕虜に。列車に乗せられ、「帰国できるのか」と喜んだのはつかの間だった。着いたのは沿海地方の森林地帯。いつ終わるか分からない強制労働の始まりだった。

 午前八時から午後五時まで働き、休みは週一度。森林伐採やアスファルトの舗装、農作物の収穫−。あらゆる肉体労働を経験した。食事はゆでた大豆やアワ、トウモロコシ茶わん一杯分が一日三回。「家畜が食べていたようなものを人間が食っていたんだよ」。農場で豚や牛の世話をしていた時、あまりの空腹にふらつき、見張りの目を盗んで家畜のエサを口にした。生きたい、という本能が人間の尊厳を上回った。

 後に送られたコムソモリスクの収容所では、病気で亡くなった抑留者や脱走を試みて射殺された仲間を埋葬した。冬には氷点下四〇度になる。先端を尖(とが)らせた鉄の棒でも凍った地面に穴を掘るのは困難だった。「こんなところで死んでたまるか」。遺体を見て帰国の思いは強まった。

 四八年五月、港町・ナホトカを経由し京都府の舞鶴港に到着した。紺ぺきの海と青々と茂る木々を見て、四季の豊かな祖国に戻ったことを実感した。「日本が美しいと思ったのは初めてだった」

 過酷な戦争体験の中で、胸を張れることが一つあるという。「一人も殺さなかったんだよ」。殺さなければ殺される苛烈な戦場。命に手をかけなかった幸運をかみしめている。

 「お国のため死ね、上官の命令は絶対と教えられ、それが当たり前だと思っていた。平和な時代を生きて、価値観が変わった。たとえ上官の命令であっても、殺したら一生後悔していただろう」

 取材中、私に「翔平」と名付けてくれた祖父のことを思い出した。「平和な世を翔(かけ)抜けてほしい」。戦争体験者だった祖父は一昨年に亡くなった。記者になるまで戦争に関心が薄く、直接話を聞けなかったことを悔やんでいる。

 「若者に自分の体験を語ったのは君が初めて。みんな関心もないし、想像できないんだろうな」と宮嶋さんは語ってくれた。想像がつかなくても忘れてはならない現実がある。一つでも多く伝えたい。 (酒井翔平(26歳) したまち支局)

 ◇ 

 終戦の夏から七十一年。ことしも若い記者たちが、体験者の証言を通じ、戦争のむごさ、おろかさを見つめた。彼らの過酷な「記憶」を受け継ぐことで、今の平和をあすにつなげられると信じて。

<シベリア抑留> 1945年8月、対日参戦した旧ソビエト連邦が、旧満州に侵攻。駐屯していた日本の陸軍将兵らを旧ソ連領内やモンゴルの収容所に送り、強制労働させた。厚生労働省の推計では約57万5000人。劣悪な環境によって約5万5000人が死亡した。

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