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うさるの厨二病な読書・漫画日記

本や漫画、ドラマなどについて語っています。【ネタバレ前提です。注意してください】

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【小説】 無人島で少年たちが殺し合う 暗黒版十五少年漂流記「蠅の王」と子供のころの思い出

小説 うさるごと

 

ノーベル賞作家ウィリアム・ゴールディングの処女作で、暗黒版十五少年漂流記の愛称で親しまれている「蠅の王」の感想です。

 

「蠅の王」あらすじ

未来の大戦中、疎開地へ向かう飛行機が墜落し、乗員である少年たちは南太平洋無人島に置き去りにされる。彼らはラルフとピギーの2人を中心に規則を作り、烽火をあげ続けることで救援を待とうとする。

最初こそ協力し合っていた少年たちであったが、元々ラルフと仲の悪かった少年ジャックは、ラルフが中心であることを気に入らず、また食べ物などにも不自由しない島で自由に生きることを望んで、独自に狩猟隊を結成する。ジャックは狩猟隊のメンバーと共に毎日を好き勝手に漫遊し、豚を狩ることで上等なご馳走を得るようになり、やがてはラルフの一派の少年たちもその魅力に引かれ始める。

そんな中、船が島の沖を通りかかったにもかかわらず、その日の当番が烽火を怠ったのが原因で、少年たちの存在に気付かないまま船は過ぎ去ってしまう。それが原因で、ラルフの一派では対立が巻き起こる。その隙を突くように、ジャックはラルフの仲間たちを引き込んでいくまでのカリスマ性まで発揮していく。狩猟隊の少年たちは次第に、内面の獣性が目覚めていき、泥絵の具を顔に塗りたくった蛮族のような姿となって、ついには仲間の一人であったサイモンを集団で手にかけるまでに至る。

仲間のほとんどをジャックに奪われたラルフは、唯一自分の味方でいてくれたピギーも、ジャックの取り巻きであるロジャーに岩を頭上に落とされて殺され、完全に孤立する。その翌日、ジャックは自らが王でいられる楽園を脅かしうる、一番目障りな存在であったラルフを排除すべく、狩猟隊に木の枝を槍のように尖らせて、ラルフを殺害するよう指示する。ラルフは孤立してしまった恐怖や悲しみに苦しみながらも、森に火を放ったジャックたち狩猟隊から、島中を逃げ回ることになる。

                           (Wikipediaより引用)

 

無人島に漂着した少年たちが、獣性に目覚めて殺し合うという物語です。

 

感想と子供のころの話

主は「蠅の王」が今まで読んだ物語の中でも一、二を争うくらい好きなのですが、理由が二つあります。

 

一つ目は、情景描写が非常にうまい点です。

例えば、灯りひとつない真っ暗な無人島の浜辺で、子供の一人が「獣は海からくる」と泣きながら言ったときの真夜中の海面の描写やそのとき子供たちが感じた恐怖の描写。空からパラシュートを付けた兵士の死体が無人島に落ちてくるときの不気味な描写など、ひとつひとつの描写が美しいうえに、恐怖心や不気味さを的確に煽ります。

「蠅の王」は、日本語訳が余り評判がよくないようなのですが、訳文でこれだけ素晴らしい描写であれば、原文で読むときっともっと素晴らしいんだろうなと思います。

 

もう一点は、これほど子供の生態を的確にとらえた物語は他にないという点です。

「子供が、これほど残酷になるのか」とか「人間の原始的な悪を描く」とかそういうことではなく、もともと子供はこういう生き物だと思っています。

少なくとも、主はこの「蠅の王」に出てくる子供のような心を持った子供だったし、殺したり傷つけたりはなかったにせよ、子供のころの人間関係ってこんな感じだったよな、と思っています。


子供って大人が考えるよりも、ずっと残酷で計算高いし、ずっと狡猾だし、ずっと自己中心的だと思います。

「子供ってかわいいよね。天使だよね」というような言葉は、冗談で言っているんだろう、ずっとそう思っていました。子供時代のそういう記憶が強かったために、長い間、子供が好きではありませんでした。

今は、そういうこと全部をひっくるめて好きになりましたけど。

 

「蠅の王」では、一人だけ現実的な考え方をするピギーの言葉を、ピギーが眼鏡をかけて小太りで滑稽な外見をしているというだけで、誰も真面目に聞こうとしません。

主人公であるラルフでさえ、ピギーの言うことを取り合わず、ピギーが困らされている様子を笑ったりします。

そうそう、子供のときの力関係ってこういう感じだよなあとおおいに頷きます。

ゴールディングって、本当に子供のことを良く知っているなと思います。

同じ理由で藤子不二雄の「少年時代」も大好きですが、あれも子供の中で序列がはっきりしていますよね。

 

子供も大人も、人間が持つ残酷さというのは一緒だと思います。

大人の場合はそこに長期的な損得勘定や打算が加わるので、あからさまには残酷さを出さないだけだと思います。

社会の中で残酷さを出しても、結果的に自分が損をすることが多いと分かっているためです。これが、社会性と呼ばれるものかもしれません。

エネルギー量が、子供に比べて少ないということもあると思います。

でも子供はその場の状況判断だけで、エネルギーの暴発するままに残虐な行為を行ったりします。先のことを考えられないというわけではないんでしょうが、目の前の現実で頭がいっぱいになってしまうのかもしれません。

 

子供というのは、その場限りの状況判断をすることが多い、力関係に敏感な、自己中心的で残酷な生き物だと思っている主にとっては、「蠅の王」の子供たちこそ「そうだよな、子供ってこういう感じだよな」と思います。

 

物語の中で犠牲になるのは、滑稽な外見でいながら聡明な言葉を発するピギーと、勇気をもって一人で悪の象徴である蠅の王と対峙するサイモンです。

これも、子供社会の縮図ですね。

正しさや真実が称賛されるのは、大人が作った理屈の世界です。

子供の世界では、大人の規制さえなければ、そんなものは一顧だにされません。

子供の世界で重視されるのは、どれだけ空気が読めるかどれだけ楽しいか、そんなものです。

ピギー(聡明さ)やサイモン(正しさ)の存在が重んじられるのは、社会というものが形成されている大人の世界においてです。子供たちだけの無人島では、そんなものは何の役にも立ちません。

ピギーは小太りで運動音痴の間抜けな奴、サイモンは空気の読めない変わった奴、子供の世界では真っ先に淘汰されて駆逐されるか、もしくは残虐性の標的になる存在です。

「蠅の王」の中では露骨ですが、似たような光景を子どものときによく見ました。「蠅の王」を読むと、そんな子供時代の記憶がよみがえってきます。

子供のころの自分は「人間未満」でした。

大人になってようやく、自分のやりたいことができ、自分の時間を自由に使え、色々な人に接することによって、他人の気持ちを想像できるようになりました。

「自分が行きたくもない場所に行き、いたくもない人間といて、やりたくもないことをやることが、当たり前のことだ」と思っていた子供のときには、戻りたくありません。

 

というように、主にとって「蠅の王」は自分が子供だったときの気持ちや残虐さや環境を思い出させてくれる、そしてそんな自分を分かってくれる本です。

この本を読んで「人間の根源的な悪が書かれている」という感想を言う人は、無邪気で心優しい友達と温かい友情を育んだ、天使のような子供時代を過ごしたのかもしれません。

果たしてそんな絵に描いたような子供時代を過ごした人がいるのか? 

みんな、子供のときは、「人間未満」じゃなかったのか?

少くなくとも、ゴールディングの中の子供像は、自分の子供のときと同じものだ、ということにほっとしています。


人間の原型である子供のこういう姿を描くことによって、人間が本来持つ残酷さや愚かさを認めた上で、人間や社会というものを考えていかなければいけない。

ゴールディングが言いたかったことは、そういうことかもしれません。

頻発する未成年の残酷で痛ましい事件を見ていても、そう思います。


蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)

 

 

蠅の王 (集英社文庫)

蠅の王 (集英社文庫)

 

 主が持っているのは、新潮社版です。両方、同じ訳者なのか。

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