前回「会社の飲み会がいらない理由」を世界一真剣に下記記事で述べた。
その理由とは、一言で言えば、全体主義運動の中にあらゆる人間を組み込むことで個人の自由を奪い去るからというものだ。
今日は、前回述べられなかったところを中心に飲み会という全体主義運動の危険性をさらに深く知ってもらえればと思い記事を書いた。
今回は、<指導者>による「支配」の観点から書いている。
- 前回のおさらい
- 飲み会文化(全体主義運動)を無限に拡大する組織構造について
- 「行きたくない」と言う人たちに「行く」と言わせるマジック
1.前回のおさらいー飲み会が全体主義運動である理由
詳しくは前記事を見ていただくとして、本論に入る前に改めて押さえておくべき箇所だけここで振り返っていきたい。
まず、飲み会が全体主義運動と酷似している点はどこにあるのか?ということだが、両者が「演繹的イデオロギー」に支えられているというところに私は共通点があることを前回述べた。
これは以下の例を見ていただければ明快だと思う。
例;
俺「あなたが言う飲み会のメリットはそれ以外でもできますよね?!」(2+2=4だと思ってたのですが、、、)
<指導者>「 いや飲み会はいるんだって!アホかこいつ」(2+2=5だから)
イデオロギーは常に、前提からの展開によって全てを説明するためには一つの観念があれば充分であり、全てはこの一貫した論理的演繹の過程の中に含まれている以上経験などは何も教えないという仮定に立つ。
ここでは、イデオロギーが持つ暗黙の前提があらゆる経験や多様性を許容できなくさせるということをおさえてもらえれば十分である。
そしてこのことからイデオロギーがデタラメである場合には悲惨な結果をもたらすという事が分かるかと思う。
だから通常は、上記の例のような争いが起らないために、イデオロギー化に向けては共通認識の構築にかなり多くの経験を吟味することが求められる。
けれども、全体主義運動においては特定個人である<指導者>に権力がすべて集まるという性質のため、その<指導者>の「飲み会は素晴らしい」という個別的経験が吟味される事なく高速で普遍化される。
これこそが現在の飲み会イデオロギーが持つ正体であり、その危険性である。
今日はこのイデオロギーを使って<指導者>がどのように「支配」をするのかというアプローチに目を向けたい。
*補足
ちなみに全体主義運動を通して<指導者>が求めているものは「権力」である。より多くのものを支配し、隷従させることで自らの権力欲を満たそうとするのだ。
権力をなぜ人は求めるのかという問いは難しいので詳細は割愛するが、個人的には、カントとニーチェの言葉を借りれば、「アプリオリな権力獲得への指向性は人間の本性」という立場を取っている。
2.飲み会(全体主義運動)を無限に拡大する組織構造について
では本題に入っていこう。
不毛にもかかわらず続く飲み会の本質を見抜くために、飲み会(全体主義運動)は、どういう組織構造で進められるのかということを知らなくてはならない。
なぜなら、一般的には、権力の本質の理解には、その権力の構造を見なければ何も見えないからだ。(腐敗やパワーバランスなど)
では全体主義運動の組織構造とは何か?
それは、驚くべきことに「全くの無構造である」という特徴を持つ組織構造なのだ。
これは、目的達成において障害となりうる秩序、ルール、ヒエラルキー、道徳といったものは一切無視される事を意味する。
全体的支配機構を市場に知られている多くの国家機構のどれかと比較すると、結局この支配機構の特徴としては無構造性しかないことになる。
・・運動という言葉をナツィのように字義通りに解するならば、運動には方向しかないということ、そして法律的もしくは国家的な構造などはすべて、ますます速度を速めながら一定の方向へ動いていく運動にとっては障害でしかないということである。
彼らはイデオロギーを存続させるためには、法を犯すことさえも恐れない。
だからこそ、裸踊りや宴会芸を「社会のルール」としたり「年次マイナス1日しか1年に休んではいけない」といった犯罪まがいの発言を平然とできるのだ。
某証券会社では確か「日本国憲法より先輩の命令の方が上」という半ば冗談のようなことがネットには書かれているが、あれはアレントの洞察を考慮するならば笑い事ではなくまぎれもない事実である。
では、どうして<指導者>達は、法を無視しても構わないと厚顔無恥になれるのか?
それは、<指導者>たちは、自分たちの言っていることが法よりも優位であることを示すために、自ら身をもって法を破り、その法の実効性がないことを証明するプロセスを踏んだからである。
・・・「非常によく変わるものであるにもかかわらず・・・やはり結局は人々が望んでいる秩序の表現」である法律一般を無視する全体主義者は、自分らの無法性を際立たせる最上の対象物を・・・ヴァイマル憲法の内に見た。・・・彼らの意見によれば憲法や法律・・・・そのようなシステムは無力であり無効であるという彼らの信念を弘めるためには、現行法とか確定した国家の権威とかというものは存在することはするが、しかしそれは見かけだけの存在にすぎないという確証を住民にときいどき見せつけるのが最良の方法だったのである。
ルールは役に立たないというのを自分でルールを破る事で証明するとはジャイアンも驚きである。
3.「行きたくない」と言う人たちに「行く」と言わせる魔術
最後に日本新7不思議に登録されてもいいレベルである「なぜ行きたくないと言いながらあまりに多くの人は飲み会に向かうのか」を解決しなくてはならない。
この問題がなぜ重要かというと、民主主義的世の中(頭数がものをいう世の中)においては<指導者>が支配を確固たるものとするためにも重要な問題となるからだ。
もう結論から言ってしまうと、この「できれば行きたくない層」に「行ったほうがいい」と思わせるために、<指導者>たちは、あえて不明瞭な形で「飲み会に来る」ように迫る手法をとる。(アレントは第6感に訴えると言っている)
「〇〇くん今日は〇〇さんくるよ」
「〇〇さん今日は言っといたほうが将来のためにもいいと思うけどなあ」
「〇〇くん飲み会も仕事のうちだよ」
他方また、指導部が運動のために本当に必要だと見なしている命令の・・・そのような命令は大抵「命令受領者が命令者の意志を悟ってそれに従って行動するものと期待してわざと不明瞭な形で」与えられた。
これをすることで何がいいのか?
それは、「やらされた」とは決して思わせず、あくまで「自分の意志でやった」というたてつけを取れることにある。
そして、この手続きを踏むことで、見事強制する事なく、全体主義運動の歯車に巻き込むことができる。
一度巻き込めば<指導者>にとってはもう勝利は決まったものである。
例えば、「今回の飲み会行かなくてもよかったやん」なんて言おうとも「だって君行きたいって言ったよね」という反論をしっかり確保できるし、二回目以降第六感に働きかけるには「前行かなかったら本当にやばかった」とか言っておけばもう抜け出すことは不可能となる。
4.終わりに
2回にわたり小難しく飲み会という名の全体主義運動の危険性を述べてきた。
これに対処する方法としては、今の所二つしかない。
一つが、全体主義のすべての根幹となる<指導者>の権威失墜させるか追放をする。
二つ目が、「本当は行きたくない人」たちが自分に正直に飲み会に行かないことだ。
一つ目は現実的にはかなりハードルがあることを踏まえれば、二つ目の全体主義運動<指導者>の権威の源でもある「頭数」を切り崩すしかないと考えている。
だから、私としては、「飲み会に行きたくないけど仕方なく行っている人」に勇気を持っていかない決心をしてもらいたい。
この不毛な日本人総奴隷化運動を食い止めよう。
面白き事なき世をおもしろく