街灯に残されたGINZA

2016年04月20日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。いよいよ真打登場、本誌お膝元の豊橋銀座でございます。
 豊橋銀座については以前も書きましたが、改めてそもそもどこなのかと言いますと、神明町の北端、新川交差点から向山アピタに通じる大きい道の一本北側になります。メインストリートからやや外れた位置にあるため、市民の認知度もあまり高くなかったと思われ、60代の豊橋市民すらも「豊橋に銀座なんてあったかのん?ホイ」と言うほど。ホイは言ってませんが。
 名前こそ仰々しいですが、国道で分断されていることもあって繁華街の一翼を担っていたとは言いづらく、市街東部地区住民の買い物先という位置付けだった、てなことを聞いています。そして現在は、三遠南信ではおそらくもっとも現役商店が少ない銀座でしょう。ある商店主に聞いたところ、4軒とかなんとか…。

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 そんなところが「銀座」とはよう言うた、という感じですが、なぜ銀座を名乗ったかと言えばズバリ、豊橋には他に銀座がなかったからです。先に挙げたローカル銀座4原則のひとつ「早い者勝ち」ですね(→●□)。
 豊橋銀座は来歴がはっきりしており、商店街組織の「豊橋銀座発展会」が発足した昭和23年9月16日に誕生しました。もとは、戦時中まで近隣に存在した劇場の名前から「松竹館通り」と呼ばれていたのですが、戦災復興の機運の中でドーン!と改称したのです。
 昭和29年にはネオン街路灯が設置され、開通式が行われています。また、昭和31年には映画館「銀座東映」が開業しています。

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 左の道を入ったところが銀座東映の跡地。新川交差点の北東、豊橋フロントビルの真裏になります。平成12年までやっていたようですが、僕が愛大生だった90年代前半には成人映画館になってました。

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 商店街の連合団体である「豊橋発展会連盟」が昭和55年に刊行した記念誌「三十年の歩み」に、刊行時に存在したたぶんほぼすべての商店街組織が掲載されているのですが、「銀座通り発展会」の項目には次のように書かれています。

この発展会は昭和32、33、35年の豊橋まつりに元禄風仮装に山車或は、大型トラックを繰り出しての参加の頃が最も充実した時期であった。
年1回の旅行、海水浴、大売出し、特価販売にと種々の催しも行い販促に智恵をしぼったものであるが、道路事情、大型店、スーパーの進出、駐車場問題等のため有力店舗外相次いで転出、数軒の専門店を残し奥様商売となってしまった。現在は対応策もなく、街路灯の維持管理と親睦を目的とした名だけの発展会である。

(原文ママ)

 うーむ、実に正直な記述である。ローカル銀座4原則のひとつ「短命」を見事に証明しています。
 興味深いのが、ここに書かれている 「街路灯の維持管理」が今も生きていることです。2008年には→●□だった街灯が、上の写真のようになんと新しくなっていたのには驚いた。
 商店街としては機能していなくても、街灯さえあればストリート名称が残る可能性もある、というわけです。

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参考資料。昭和31年9月28日付「豊橋新聞」より、銀座東映オープンの広告のコピー。クリックで拡大して、ストリート名称をお楽しみください。

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オマケ、銀座東映入口にあったアーチ。ポルノ映画館だったので外観はさすがに気が引けて撮っておらず…。ちなみに右下にみえる手描きカンバンの映画タイトルは「いけにえ個人授業」「制服半熟いじり」「剃毛教室脱がせて!!」。
(まさ)

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新城におけるストリート名称の件

2016年04月16日
 そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。
 伊那街道に沿って東西に長い新城市街地のうち、銀座は新城駅近くの栄町になります。新城銀座の特徴は、一本のストリート名称ではなく、直角に交わる二本の大通りから構成されていること。なので「銀座通り」のようなストリート名称は適当ではなく、かつて存在したタウンアーチには「銀座街」と表記されていました(その写真は樹林舎刊「東三河今昔写真集」「豊川・蒲郡・新城・北設の昭和」などを図書館でご覧ください)。

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 核の一本は伊那街道。一部が蒲郡の防火帯のような店舗長屋ビルになっており、近所の商店主によるとかつてその中に「喫茶銀座」という店もあったそうな。

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 もう一本は新城駅(前)通り。
 二つの道筋が銀座である理由は、これらがひとつの商店街組織であるからです。伊那街道沿いと駅前通りはともにかつては商店数も多かったので別組織でもよさそうなものですが、駅前通りは明治31年の新城駅開業後に発展した新興地域であり、宿場町時代以来の町割りでいうと栄町の旧名「下町」に含まれます。おそらく、旧下町への帰属意識が強いゆえ分離しなかったのではないか。
 下町がいつから「栄町」と呼ばれるようになったかは突きとめられませんでしたが、想像するに、新城駅の開業により商業地化したので、旧来の中心部である「本町」へのカウンターとして「栄町」の名が起こり、戦後、本町やもうひとつの商業地である「東新町」にさらに差をつけるべく「銀座」と名付けたと思われます。
 ただ、銀座の名はどうやら短命だったか定着しなかったようです。現在50前後の商店主に聞いたところ、もう一世代前の人たちが名付けたもので、自分たちの世代では銀座の印象がないとのこと。
 ちなみに昭和50年発行の市勢要覧に商店街が写真入りで掲載されていますが、これには「栄町商店街」のキャプションが付いているだけで銀座の表記はありません。また、昭和44年発行の「新城市商工名鑑」に載っている広告で、所在地を「銀座」としている店舗もありません。

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 栄町に連なる「中町」も、もとは下町でした。大正13年発行の郷土誌には中町も栄町もなく「下町」だけです。いくつかの資料を検討したところ、どうも中町は栄町のカウンターとして発生したっぽい
 中町には両側に広い歩道があり、栄町と商店街組織が異なることが一目瞭然です。たぶん栄町に対抗して整備したのでしょう。

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 栄町は広い歩道がないかわりに、店舗長屋ビルの下にスペースが設けられ「プチアーケード」状になっています。どうでもいいけど、この古びたビニールテントの配色、こちらの商店街とほぼ同じ(→●□)。

160416-5.jpg※クリックで拡大します

(まさ)

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蒲郡におけるストリート名称の件

2016年04月14日
 まだまだ続く、そう50号連動ネタの「ローカル銀座考」シリーズ。ここから東三河編で、まずは蒲郡。
 蒲郡の銀座は、過去にも少し触れた本町銀座(→●□)です。

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 アーケードが撤去されてはや五年、あれから何軒かが閉店しています。アーケードのあった頃は「ぎんざ」のフラッグが通りに吊り下げられていましたが、最近は商店街名称も前面に押し出していないみたいだし。
 ここが銀座を称するようになったのは、いくつかの資料を検討したところ、どうやら昭和30年に「防火帯」と呼ばれる長屋ビルが完成したときのようです。それ以前は単に「本町通り」だったらしい。

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 防火帯とは、こういう建築物のこと。万が一、町が大火に襲われたとき、このようなコンクリート建築が「壁」となって延焼を防ぐというものです。実際に壁になりうるかどうかは疑問ですが、仮に役割を果たすハメになったら住んでいる人もたまらないでしょう…。
 蒲郡にはここのほか、蒲郡駅北口(広小路)と三谷に防火帯があります。当時は最先端だったのでしょうが、さすがに半世紀を超えるといずれも文化財的な風情が出てまいりました。
 この銀座がどこのカウンターかというと、駅前界隈に対してのものでしょう。「本町」の名が示す通りもともとこのあたりが蒲郡の中心だったのが、東海道本線の開通以降駅周辺が発展して「町の顔」の地位を奪われたため、いちはやく防火帯を建設したついでに銀座を名乗って気勢を揚げたんじゃないかと。
 蒲郡市街地は構造がシンプルなので、ストリート名称も割とわかりやすい。

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 蒲郡駅から銀座までまっすぐ伸びる駅前通り。かつての呼称は「駅前本通」。

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 蒲郡駅北口、線路と並行する「市役所通り」のうち、防火帯ビルのあたりは通称「広小路」。これは昭和33年の完成。

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 駅前通りの西を南北に貫くのは「中央通り」。なお、現行の商店街組織としては銀座通り・駅前・中央通りの三つにわかれています。
 あと、蒲郡にはもうひとつ、蒲郡駅南口の海岸銀座(→●□)がありました。ここはごく近年の区画整理事業で一掃され、往時の街路は消滅しています。
 海岸銀座は映画館と歓楽街から成り、商店街というより遊興地だったようです。古くは「楽天地」という名称でしたが、昭和37年に街路灯が竣工したのを機に「海岸銀座」を名乗ったと思われます(突っ込んで調べていないので、詳しいことを御存知の方がおられましたらご教示ください)。

160413-8.jpg※クリックで拡大します
(まさ)
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柱に再会

2016年01月27日
 また年末の蒲郡に戻りますが、とある取材で約10年ぶりに竹島の「海辺の文学記念館」に行ったところ、館内で意外なものに遭遇。

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 休憩ルームの入口に古い柱があしらわれているのだが、よく見るとこの柱、高架化前の蒲郡駅の跨線橋の柱なのである!

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 「明治四十四年」「鉄道院」「川崎造船所兵庫分工場鐡道部製造」の銘入り。この文化財がまさか生き長らえているとは思わなかった。この柱の現役晩年だった平成一桁代、これだけを撮りに蒲郡駅へ行ったことが懐かしく思い返されます。昔の恋人に再会したような気分…というか、モノが古すぎるので取材でお世話になった老郷土史家と再会した気分だ。
 そんなわけで昔の蒲郡駅の写真を。

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(1995.03.20)

 蒲郡駅のホームは駅舎にくっついておらず、必ず跨線橋を渡る構造になっていました。鉄道院の柱は改札を抜けてすぐ、跨線橋登り口の右側。写真を見ると、左側の柱には銘がありません。また、跨線橋を支える12本の脚もこの柱がありましたが、ホーム降り口にはなかったようです。

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(1994.07.22)

 跨線橋の柱だけでなく、ホームの柱も木製でよかった。

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(1994.07.22)

 北口の駅舎は特にどうということもない地味な鉄筋一部二階建てでしたが、いま見直すと味わい深いく感じられなくもない。庇や正面の一部を茶色に塗っているのは、没個性な国鉄標準型に少しでも風格を与えようという計らい…なのかな?

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(1995.01,.27)

 駅舎内には「きしめんコーナー」「コーヒーコーナー」のカンバンを掲げた喫茶軽食店もありました。その入口左右に、公衆電話と蒲郡競艇の出走表スタンドが置かれているのがまるで跨線橋の鉄道院柱のようでまたなんとも。
(まさ)

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カンバンの手帖ブログ版0325

2016年01月21日
 その蒲郡を4歳児と徘徊していて見つけたカンバンをいくつか。

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 神ノ郷町にて。ホタルの新しい表現法。いいネ!

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 JR蒲郡駅前にある蒲郡名店街ビルのシャッター。GMBのロゴもフォントも秀逸である。そういえば、もう取り壊されてしまった岡崎の「セルビ」のロゴやフォントもこんな感じだった(→●□)。商業ビルが栄えたいい時代があったのだなあ。

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 蒲郡駅前から北へ伸びる駅前商店街(→●□)にある肉屋さん。キュート&ポップ!肉屋のキャラはけっこう逸品が多いと思うのだが、どうか。食材なんだけど愛があるというか。

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 駅前商店街から本町銀座に出ますと、閉店した酒屋さんの素晴らしいキャラがタバコ販売スタンドのシャッターに残されております。昔から気になってて、このキャラの誕生エピソードなんかをぜひ聞いてみたかったのだが…。オリジナルじゃないかもしれないけど。

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 てな具合にどうでもいいことばかり気に留めていたら、しまいにゃ子供から愛想を尽かされたのであった。家に帰ったあと4歳児は「ボク、あんまりいきたくなかったんだけどネ」と母に耳打ちしていた。
(まさ)
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