吉原の妓楼にあがった客は酒宴を経て(あるいはすぐに)、男衆に寝床に案内された。寝床で待っていると、やがて床着に着替えた遊女が現われ、情交という段取りになるのだが、なかなか来ないことがあった。「廻し」という制度があったからである。廻しとは同時に複数の客をつけることで、ダブルブッキングだった。妓楼が売上げをのばすための手段であり、遊女には過重労働といえる。
廻しのとき、遊女は複数の客の間を行ったり来たりして相手をしなければならない。しかし、まじめにそんなことをしていたらとても体が持たない。そこで、遊女は客に「ちょっと待っていておくんなんし」などとささやいて行ってしまい、結局来ないのである。廻しを取った遊女が最終的に自分の寝床に来たとき、俗に「もてた」といい、結局来なかったのを「ふられた」といった。
ふられた客にしてみれば、金を支払いながら独り寝を余儀なくされるわけで、こんな理不尽はなかった。とくに、「割床(わりどこ)」のときにふられるのはつらい。なかには深夜に怒鳴り立てる客もいた。割床とは相部屋である。寝床と寝床のあいだは屏風で仕切っただけだった。視界こそさえぎられるが、紙製の屏風では物音や声は筒抜けだった。現代でいえば、部屋にベッドを多数並べ、あいだをカーテンで仕切っただけと同じである。
下級遊女の「新造」は個室を持たないため、客は廻し部屋という大部屋に送り込まれて割床となった。花魁は個室を持っていたが、廻しのときは先客で自室がふさがっているため、廻し部屋に送られて割床になる客もいた。廻しはとかく悶着のタネだったが、「もてた」「ふられた」も含めて吉原の遊びと達観する風流人や粋人もいた。
客が遊女に夢中になり、翌朝になっても帰ろうとせず、そのまま妓楼にとどまるのが居続けである。遊女とおそい朝食をとり、もう帰ろう、もう帰ろうと思いながらも過ごしているうちに夜になり、そのまま泊まってしまうこともあった。居続けが続くと当然、支払額は雪だるま式にふくらんでいく。息子の場合は親に勘当される事態になりかねなかった。一方、遊女のほうは客を籠絡するために性技と手練手管のかぎりを尽くして居続けさせようとした。
男の心をつなぎとめるため、二の腕に「~命」などと彫り物をすることもあった。「~」には、惚れた男である情男(いろ)や、金づるの客の名が入る。情男と別れたり、ほかの金づるができると、それまでの彫り物は灸を据えて焼き消したが、ひどい痕となった。彫り物は女にとって過酷な慣習だったといえよう。
文/永井義男(江戸文化評論家)
文/永井 義男
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