2016-08-26
そのピリオドの先へと紡ぐ物語 / 『君の名は。』 感想
さしずめ、あの彗星が描く軌道はこれまで彼女たちが辿り続けた運命そのものでもあったのだと思います。大都会の波に揉まれ日々他愛もない毎日を送ってきたであろう主人公の瀧。また、山々に囲まれ何もない田舎で己の境遇を呪うしかなかったヒロインの三葉。それは友人である克彦が将来の進路を聞かれた時 「多分、このままこの町にいるんじゃないか」*1 と応えたこととも恐らくはリンクしていたはずで、きっと世に生きる多くの人はその感覚を持ち合わせながら奇跡的な出会いに対する羨望など年を重ねるに連れきっとどこかに置いて来てしまうのだと思います。
そしてそれは夜空に掛かる彗星の尾の如く、逸れることのない道筋となって彼らの前に現れる。真っ直ぐに伸びる光。暗い夜空を照らし眩くひかる光。それは希望の象徴にも視えながらおそらくは絶望の象徴としても機能していて、それは当初、彼らの変えられない運命の象徴としても描かれていたのでしょう。
しかしながら、彗星は幾つもの破片、そしてもう一つの輝きへと分岐し地上に向け落下します。そしてそれは彼女たちにとってもおそらくは物語の分岐として捉えられるものであり、云わばあれは “可能性の分岐” そのものの象徴でもあったのだと思います。歴史の改変。奇跡の出会い。時空を超越する感情の連鎖。普段は “手を伸ばしても決して届くことのない” 数ある事象に対しあの彗星はまるでその多くの願いを叶えるように次々と彼らに可能性を与え出すのです。むしろ瀧が日常に向けた変化への期待と三葉の抱く都会への憧憬。そのたった二つの願いがトリガーになりこの入れ替わりという奇跡はその口火を切ったのかも知れない。
どちらにせよ、この作品はそうした願いが現実のものへと昇華されていく様を力強く描いているわけです。そして、それは新海誠監督がこれまでの作品の中でも描き続けてきた “手を伸ばしても届かないものへの焦がれ” という一つのテーマに向け贈る非常に新しく、よりロマンティシズムの強い一つの答えであったのではないかと思います。とりわけ 『ほしのこえ』 『秒速5センチメートル』 といった氏の作品群においては無理な奇跡は起こさないスタンスがより物語に儚さや切なさを与えていた一方、本作では彼らの感情と物語が同期することでその道筋に光を充て、そうして飛躍的に再構築されていく物語の展開に大きなカタルシスをもたらしている。
そして私が本作に強く感動した理由もきっとそこにこそあるはずで、それは 『君の名は。』 という作品が “手を伸ばしても届くことのなかった” 作品群とは別の、ある種、想いを届ける物語として描かれていたからに他ならないのだとも思うのです。それこそ前作の 『言の葉の庭』 においても “届く” という視点は確かに描かれた境地でもあったわけですが、この作品はそこからさらにもう一つ逸脱し、届けるために必要な想いの強さをよりセンセーショナルに描いていたようにも感じられたのです。周囲の目と思惑を跳ね除けながらそのしがらみの中でようやく手紙を届けた前作に比べ、本作にはそのしがらみを一度解きながらまた再構築し、新たな運命を彼ら自身が創り上げながら物語の終点を模索していくという一つの筋書きがある。
それこそ歴史を改変するという物語を主軸に据えたのは、新海監督にとっても一つの挑戦ではあったはずです。自らが歩んできたその軌跡を背負いながら生きる道を模索し続けてきた既存作にあって、本作はそれを書き変えていくことで力強くそのための道を模索していく。けれど、それは感情に沿った物語の跳躍とその結実そのものでもあるわけで、そうした彼らの想いを汲み取っていく作品の在り方にはやはり新海誠監督のらしさがしっかりと残っていたように感じられた上に、その感情の狭間 (互いの想いが符合した先に生まれる新たな願いとそのための感情の行く末) に奇跡を産み落としていくというこれまでにはなかった作品の方向性も、そう考えればやはりこれまでの作品の中で育まれてきた氏のらしさに他ならないのではと私には思えて仕方がなかったのです。
それはかたわれ時に沈む陽の光が二人の刹那の出会いを祝福するのと同じように。運命に抗い、懸命に生き、届かないものに向け必死に手を伸ばし続けた者たちにはやはりそれ相応の幸福や奇跡が訪れることがあってもいいじゃないかというそれは氏の変化の表れなのかも知れませんし、横たわる強大な現実の壁を我々が越えていくために必要なのは “想いの強さ” であり “向かい合える相手の存在” なんだという痛烈なメッセージがそこには多く込められていたのかも知れません。
何よりそうして分岐していく物語の象徴となった彗星の如く、自らの道をそれぞれで選び取りその運命を分岐させたラストシークエンスには私自身、強く心を打たれました。それぞれがやり遂げた行いの代価として記憶を消失し、再び決められたレールの上を運ばれていた二人がそれでも一瞬の間に煌めいた “予感” を勝ち取り、“とてもあやふやな何か” を求め合うように電車から飛び降りながら、自らの足で各々の道を駆けていく様はまるで軌道から外れ落ち往くあの彗星のようで。奇しくも彼らの奇跡の引き金となった彗星の落下が彼らの軌跡の軌道と重なるというのも残酷なものですが、むしろ瀧と三葉の背を押すためにあの彗星が人類の予測を越えたのだとすればそんなにも心熱くなる話はないでしょう。
そしてそれは、いつだってこの世界は “彼ら” を見ている、ということの裏返しでもあるのです。だからこそ新海誠監督の作品は “彼ら” が切に何かを想った時、その光をその頭上に掲げ、風を追い、虹を掛け、桜を散らし、雨を降らせ、言葉を届けてくれる。故に氏の作品においては、むしろ “その先にあるここより向こう側の物語” にこそ彼らの踏み出すべき道は広がっているのだと私は強く信じています。言葉を掛けず踵を返したあの 『秒速5センチメートル』 からおおよそ9年。これは振り返り言葉を交わした二人にとっては “始まりの物語” であり、それはメモワールでもエピローグでもない、ただの序章だと言い聞かせる様に描かれた終幕のピリオド。『your name.―― 君の名は。――」 その言葉で終わり、その言葉から始まっていくこの物語は、そうして先の未来へと進み “運命に抗い生きた” 者たちへと贈られた賛歌そのものでもあったのでしょう。
そしてこの作品は他でもなく、新海誠という一つの軌跡とその足跡に向け寄せられた御旗そのものでもあったのだと思います。『言の葉の庭』 においてその幕を下したモノローグの物語。その想いの強さをさらに研ぎ澄ませ、“届かなかったものに手が届いた瞬間” を究極的に描いた本作はそれこそ氏にとってのピリオドとなる作品でもあったのでしょう。まただからこそ、ここは新海監督にとっても終わりの地であり、また始まりの場所でもあるのではないかと今は強く思えますし、そういう想いを強めることが出来ただけでも本当に素晴らしい作品だったのではないかと思います。新海監督の信念と物語が携えた情念のリンク。瀧と三葉が懸命に走る姿を観て感動した今日という日を私は決して忘れません。まさに新海作品の集大成。素敵な作品を本当にありがとうございました。
それと余談ではありますが、花澤さん演じる古典教師の登壇から 「ユキちゃん先生」 へと紡がれたクレジット。本当に嬉しかったです。重ね重ね、本当にありがとうございましたと、心から。
- 作者: 新海誠,東宝,コミックス・ウェーブ・フィルム,角川書店
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‹参考›
*1:台詞に関しては全て覚えているわけではありませんので、多少ニュアンスで書いています。