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相模原市の障害者施設で19人が殺害された事件から、1カ月がたった。その…
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相模原市の障害者施設で19人が殺害された事件から、1カ月がたった。その衝撃は今も多くの人々の心を波立たせている。
26歳の容疑者の言葉からは、底知れない闇がうかがえる。「障害者は生きていても無駄」「安楽死させた方がいい」
警察の調べには、「(犯行は)不幸を減らすため。同じように考える人もいるはずだが、自分のようには実行できない」と供述しているという。ゆがんだ動機というほかない。
ただ、この事件は重い問いを投げかけた。容疑者と同じ考えの者などいない。障害の有無にかかわらず誰もが堂々と生きられる社会だ――そう胸を張って断言できるだろうか。
事件のあと、障害者や家族から様々な発言が相次いだ。その多くは、当事者や関係者でなければ見えない冷酷さが社会の中に常在する現実を映していた。
「事件は起こるべくして起きた」。障害のある息子を持つ女性は「障害者に対する一般の感覚を最悪の形で集約したのが容疑者だと思う」と語った。
事件の前、長男に重い障害のある野田聖子・衆院議員は、ネット上でこう書かれた。医療に金ばかりかかる息子は見殺しにするのが国益だ、と。
茨城県の教育委員は特別支援学校の視察後、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(職員も)すごい人数が従事し、大変な予算だろう」と発言し、非難を受けて辞職した。
命の尊さを、社会にとって有意義かどうか、経済的な影響はどうか、といった基準ではかりにかけるような意識が随所に潜んでいることは否めない。
障害者に対する差別の歴史は古く、そして新しい。日本でも戦後に「優生保護法」がつくられ、「不良な子孫の出生を防止する」との趣旨で20年前まで続いた。優生思想は公の記述からは消されても、人々の意識からは拭えていないのではないか。
1カ月前の事件を、常軌を逸した人間による特異な犯罪と片付けてしまうなら、ことの本質を見失う。問われているのは、社会の中に厳然とある差別的な意識そのものだからである。
身体に特徴がある人、会話の手段が異なる人。そもそも人間は誰であれ同じではない。性格も思考も多様なように、一人ひとり違うことが自然なのだ。どんな違いも認め合い、尊重し合える共生の社会を築くには、不断の意識改革をするほかない。
悲惨な事件を二度と起こさぬためにも、身近な差別の芽を見つめることから始めたい。
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