寄稿-「非人間的シック大量発生」に関する歴史的考察
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寄稿(2)
ブログ「献金献金で、非人間的食口が大量発生」 で、人格の完成を目指しているはずのシックなのに、いつしか人間性が失われていく-ことを指摘した。統一教会にとっては深刻な話であろう。
作:大隈眞矢 「金・金・金」
それについて、神々の黄昏さんがコメント欄で「信仰自体にある問題について」と題して投稿された。私にとっては新鮮な指摘であった。
そこで、もう少し詳細に述べてもらえないかと、寄稿をお願いした。長文だが最後まで熟読していただきたい。このため5日間は更新しない。構成は以下の通り。
<統一教会=家庭連合に対する一般人の問題意識>
<統一教会=家庭連合の信者の信仰とヘブライズムについて>
<統一教会=家庭連合の宗教的な特異性について>
<原理講論に影響を与えた恨の文化について>
<神を擬人化する教義の問題について>
<教団の中枢幹部の信仰の現実>
非教会員であり、キリスト教にも無知な私だが、2回ほど読んで、とても説得力ある論考だと思った。
キーワードは「ヘレニズム」「ヘブライズム」「神の擬人化」「悲しみの神」「恨」。議論になれば幸いである。
【統一教会=家庭連合の唯一神信仰についての考察】
<統一教会=家庭連合に対する一般人の問題意識>
家庭連合の前身である統一教会は1980年、1990年代にマスコミによる激しい批判報道に晒されましたが、親族らの手による統一教会員に対する拉致監禁・棄教強要が頻発するようになったのも その報道によって一般社会から統一教会が危険団体と見なされるようになったためであります。
もし、統一教会とは世界平和に貢献する宗教団体であり、人格完成を目指した人達の集まりであって立派な公益法人であると誰からも認められ、評価されていたならば、拉致監禁の問題など起らなかったはずです。
そのマスコミ報道は主に霊感商法(=先祖の因縁などを口実にした詐欺的高額物品販売)や教祖の指名した相手と結婚する、いわゆる祝福合同結婚式などを批判の対象としていましたが、その統一教会員の経済活動や宗教行事は信じている教義と深い関わりがあったため、たとえそれらがマスコミから厳しく批判されたとしても、教会員はそれらの経済活動や宗教行事への参加を止めるようにはならなかったのです。
経済活動は特に違法性が高く、大きな社会問題にさえなったのですが、様々に形を変えて現在に至るまで行われているのです。
その教団が行っている霊感商法や合同結婚式は一般社会の人々から見れば犯罪であったり、異常なことであったりするのですが、統一教会信者にとっては「聖業」であり、「原罪の清算」であるので、それらを信仰心を持ちながら真剣に行っていたのです。
教団がそれほどまでにマスコミから厳しく批判されながらも異常な行動を止めないのは信仰が根底にあるからなのですが、教会員は一般的な常識よりも信仰による善悪の判断を優先せねばならないため、たとえマスコミから批判されようと、その宗教活動を止めるわけにはいかないのです。
しかし、信仰が同じではない他宗派の信者や無宗教の人達には、それらの宗教活動は異常でしかなく、とても理解することなどできないのです。
「火の粉を払え」にアップされた「献金献金で、非人間的食口が大量発生」がタイトルの記事において米本氏が以下のように書かれました。
(引用始め)
金がない人間、すぐに金にならない人間を軽視する。人を大切にしない。人の話を聞かない。
本然の人間性に立ち返りたい、個人の完成を目指したいと夢想しているシックたちが!である。
こうした体質のシックにとって、拉致監禁なんて、どうでもいいことなのだ。
修練会で何を教わっているのか知らないが、4位基台の原理は一度棚上げして、小学校の道徳教育を受けたほうがいいのではないか、と厭味ではなく、心からそう思う。
(引用終わり)
米本氏はその記事において統一教会=家庭連合の信者達の矛盾性を指摘し、その神への信仰に対して大きな疑問を投げかけたのですが、そこには信仰と人格というものに対する問題提起が含まれていたように思います。
「ために生きる」を大切なモットーとしていながら、同じ信仰を持つ教会員の拉致監禁問題には関心を示さず、上の者から指示があった時にだけ熱心に反対活動をするという組織優先の信者達の性格、そして他の何よりもお金集めに関心を持つという教会幹部達と末端信者達の異常さ・・・などは、ジャーナリストで良識を備えた米本氏にとって理解し難いのは当然です。
それらの明らかに異常である統一信者達の特性はその信仰に由来しているのは間違いないのですが、その異常な特性の中には他の“カルト”宗教の信者にも共通して見られるものもあります。
一般的に悪い意味で‘カルト’宗教とされている教団の信者などは非人道的なことも平気で行い、実際にテロ行為を行たり、他の人々に虐待を行うことも珍しくありません。
世界に衝撃を与えた米国発祥の人民寺院や以前のオウム真理教の信者達などはその典型ですが、明らかに人道主義に反する行為を信仰を根拠に行っております。
日本人などは一神教の信者は少なく、社会道徳はそれなりに高いレベルにあるので人道主義を尊ぶ人が多く“カルト”宗教信者の行動は普通の日本人にはより一層理解し難いものになります。
一般的には人間や自然を超越した存在を信じているのが宗教信者であるわけですが、いわゆる世界宗教とされている宗教の信者は人道主義を尊び、社会道徳と矛盾するような行為を肯定するようなことはありません。
一般的キリスト教の信者もほとんどが人道主義者であり、博愛主義者であるのですが、聖書にはその根拠となるような聖句を数多く見つけ出すことができます。
新約聖書「マタイ福音書」の5章~7章に記されている「山上の垂訓」はよく知られていますが、その中にはキリスト教徒でなくとも知っている「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という聖句などがあり、内容として究極の博愛思想を説いているのです。
米本氏が人道主義の観点から深刻に問題視している拉致監禁肯定派の牧師などは明らかに少数派であり、米本氏が指摘しているとおり、まさしく“カルト脳”の狂信的信者と言える特殊な人達です。
世界宗教を信じている人達は人を差別するようなことはせず、人権を尊重します。
キリスト教徒などの世界宗教の信者が無宗教の人達と異なるのは 自分の幸福や善の実践などの行為を神の存在と結びつけているところであって、人々と全く異なる価値観を持っているわけではないのです。
勿論、キリスト教でさえ無数の宗派があり、様々な教義の違いなどはあるわけですが、博愛精神を持ち人権を尊重する姿勢には共通性があります。
<統一教会=家庭連合の信者の信仰とヘブライズムについて>
人権を尊重しているとはとても言えない、問題の多い統一教団に関しては、その教義や教団の創始者に問題が起こる根本原因があるのは間違いありません。
その教理を追究してみますと、原理講論の第一章、創造原理や統一思想要網などには非常に優れた内容があるのですが、原理講論 第二章、堕落論以降は論理的な破綻が見られ、宗教思想としては欠陥があることがわかります。
さらに原理講論全体で考えますと、後編になる程文教祖の思想が強く反映されているように感じるのですが、その分だけ創造原理とかけ離れた整合性のない論理展開になってしまい、最初の創造原理と食い違う部分も多くなるのです。
その原理講論の中で、後編、第五章 第一節「宗教改革」、そして第二節「宗教および思想の闘争期」においては近世ヨーロッパにおける思想、哲学の発達について書かれていますが、その発達の大きな流れをヘレニズムとヘブライズムとに分け(注釈1)、独自の観点から歴史論を展開しております。
*注釈1
ヘレニズムとは古代ギリシャに端を発する文化のことであり、「ギリシャ風の文化」を意味しています。
http://gttbediskoleg5511.web.fc2.com/class10.html
古代ギリシャからは哲学や文学から建築、美術に至るまで優れた文化が生み出されましたが、それはヘレニズムとしてローマへ引き継がれ、西洋文化の大きな流れとなっています。
ギリシャ神話で有名なように、ギリシャは元々多神教ですが、その文化の特色としては、「人間中心的な合理的精神」を基本としているとされ、後世に大きな影響を与えた多様なギリシャ哲学も生み出されています。
一般的にはユダヤ教からキリスト教へと続く一神教のヘブライズムと対比して語られますが、一神教の世界観を否定している訳ではなく、世界には超越的で完璧な原型が存在するというイデア論を唱えるプラトンの哲学などもありますので、一神教とまったく相容れない文化とは言えません。
最もわかり易い解釈として、私は ヘレニズムは都市型の文化だと思っています。
そこには多種多様な人々が集まり、いくつもの都市国家(ポリス)を造ったのであり、その都市国家の一つであるアテネでは18歳以上の男子の市民による直接民主政治が行われており、近代の民主政もそこから芽生えたとされています。
そして弁論術の発達が哲学の進歩につながっているとも考えられますから、簡単に言い表すならば、人々が密集した環境に生まれた都市型の文化であるのです。
そのように考えるならば、ヘブライズムは遊牧民による文化と捉えても説明が可能です。
基本的に一族で集団をつくる生活環境では、権威をもった‘一なる神’というのは宗教として適しているのです。
つまり、より団結を強化し、一族としてのアイデンティティーを持つためには権威をもった神が唯一であることが重要になるのです。》
(注釈1終わり)
ヘレニズムについて原理講論においては、「人間の自由、人格の自主性、理智と理性の尊厳性と、自然を崇拝し、現実に重きをおいて科学を探究することなど、人間の本性の外的な追究によるものであったので」(昭和58年版原理講論・518P)と捉え、「カイン型の人生観」であるとしています。
そしてユダヤ教の特徴である、一神教、啓示・経典・預言至上主義を意味するヘブライズムを「より深く内的なもの」として、「アベル型人生観」であると捉えているのです。
西洋文化はヘレニズムとヘブライズムが源流になっていると考えるのは一般的であり、異論はないのですが、それを統一教会独自の解釈である「アベル・カインの関係」(注釈2)と捉えることは決して一般的ではありません。
尚且つ、ヘブライズムとは一つの流れをもった文化性として捉えることが妥当かどうかは疑問になります。
ユダヤ教からキリスト教につながる一神教の流れを指してヘブライズムと捉える場合が多いのですが、歴史においてヘブライズムが独自のスタイルで優れた文化を形成したことなどなかったのです。
ヨーロッパの中世は神学が学問の中心であり、ヘブライズムと深く関係している訳ですが、文化としては否定的な評価がなされており、ヨーロッパを近代化し、発展させたのはルネッサンスとして顕れたヘレニズムだったのです。
*注釈2
原理講論においては、旧約聖書の創世記に書かれているカインとアベルの物語を特別な意味があることとして捉え、神への捧げ物を認められた弟のアベルを「善の表示体」とし、捧げ物が認められず、怒ってアベルを殺した兄のカインを「悪の表示体」と捉えています。
従って、アベル・カインの関係とは善なるものと悪なるものという関係になり、主体と対象、あるいは上位と下位という関係とは異なります。
つまり、「カイン型の人生観」とは悪なる性格の人生観、善なる神を中心としない人生観という意味になります。そして「アベル型人生観」とは善なる人生観、善なる神を中心とした人生観という意味になります。
(注釈2終わり)
原理講論には宗教改革運動にヘブライズムが顕れているなどと書かれていますが(昭和58年版原理講論・524P)、それらのキリスト教新教は多数の宗派に分かれ、教理も様々であり、まとまった文化など作り上げなかったのです。
現代の高度な文明の基礎となる「人間の自由と平等、人権の尊重、合理主義」などはヘレニズムの流れにあり、その文化が発展したものとも捉えられるのです。
アメリカ合衆国などはプロテスタントがその建国に大きく関わったとされていますが、合衆国の建国の理念とされているのは自由、平等、個人の権利の尊重などで、ヘブライズムとは言い難く、ヘレニズムの流れにあると考えられるのです。
結局のところ、ヘブライズムとヘレニズムは西洋文明の二大源流でありながらも、人々に与える影響のしかたが全く異なり、決して対立したものとして捉えることなどできず、二つの異なる文化として同次元にあるというような原理講論の解釈は適切ではないのです。
ヘブライズムとされる一神教などは、キリスト教やイスラム教に受け継がれて世界に拡大したように、基本的な世界観として人類の歴史や文化に関係してくるのですが、具体化された文化を創造する作用は見られず、文明そのものが発展する時には必ずヘレニズムの流れに沿うようになるのです。
それはヨーロパのルネッサンスについて考えれば理解できますし、日本の明治維新などで取り入れられた人権思想もその流れを汲んでいると言えます。
原理講論においては、ヘレニズムを「人間の本性の外的な追究」などと解釈していますが(昭和58年版原理講論・518P)、それは最初の創造原理の説明内容と明らかに矛盾しています。
創造原理においては神を宇宙の第一原因として捉え、無形であって、その内包している全ての要素は人間に形となって表れていると説明されており、人間の「心(精神)」こそが神が作用する中心であり、神の心である「本性相」と相似した内容になっていると書かれているのです(昭和58年版原理講論・48P)。
つまり、人間の心の機能である知・情・意などは神の「本性相」とされる心の機能と相似しており、知性に基づく理性や善の観念が中核にある人権を追究することは「外的な追究」などではなく、「人間の本性の内的な追究」であるはずなのです。
それにも関わらず、原理講論の後編にある歴史論においては「人格の自主性、理知と理性の尊厳性」を追求することが内面的、本質的なことではなく、「外的」であるとして論理を展開しているのですから、全く論理が噛み合わないのです。
原理講論の筆者は「内的」なものとは「神への帰依と宗教的な献身」に向かう心であるという解釈なのですが、創造原理においては知・情・意こそが本心の中身であって、「霊人体」の心とされる「生心」も知・情・意がその機能となるわけですから、それ以外の神秘的な感性がより「内的」なものになるはずなどないのです。
つまり、原理講論は後編の歴史論において、創造原理の世界観、人間観を根本から変えてしまっているのです。
そのような論理的一貫性のない原理講論を書いた劉孝元氏には真理を探究する以外に別の意図があったとしか考えられず、著者の狙いとしては、ヘブライズムとされる一神教、啓示・経典・預言至上主義を優位に立て、最終的には宗教指導者を絶対化するような宗教思想に作り上げる目的があったのだと思います。
つまり、神と人間を完全に分離し、その唯一神から遣わされた再臨のメシアに従うことが人類の最終目的であるという論理を展開する意図が最初からあったように思われるのです。
しかし、後編部分にある近世の西洋文化についての解釈も、創造原理から始まる論理的な筋道も全く的を射ていなかったのです。
<統一教会=家庭連合の宗教的な特異性について>
現在の統一教会=家庭連合の信仰は、出発点が文鮮明氏は再臨のメシアであると信じることであり、メシアの語られることは絶対に正しいこととなるので、ヘブライズムの伝統を一部受け継いではおりますが、一般的なキリスト教と異なり、人間を崇拝し、独裁型の組織が作られるようになります。
米本氏は「献金献金で、非人間的食口が大量発生」の記事のコメントにおいて、「火に油を注げ!」のブログ「非人間的食口とは、基本的人権を分かっていないくせに天国実現と叫ぶ愚民のことである」に投稿された龍丼さんのコメント(タイトルは「”思考アレルギー症状”に効果にあるものは何?」)に刺激されたと書いていましたが、その龍丼さんのコメントには統一教会員の信仰がヘブライズムを正しく受け継いだものでないことがわかり易く書かれていました。
そのコメントに書かれた統一教会の実態で、歴史的なヘブライズムと食い違う最大の問題点は以下の部分に示されています。
(以下引用)
「信仰者は、つまり尊敬される人物とは天的であること。
”この世の制約”=教会用語で”地の事情”に惑わされず、
”天の事情”に相対することが何よりの神様に相対している文先生と一つになる道と教え込まれてきました。」
(引用終わり)
まず、教会員がよく理解せねばならないのは、ヘブライズムの基本としてあるのは無形の神に対する畏れと、謙虚さをもつということです。
つまり、信仰を何よりも大切にせねばならないと思ったとしても、信仰の対象は認識することが不可能な無形の神なのですから、何を考え、何を行うにも謙虚にならなければならないのです。
それは一神教の信仰者であるなら皆同じなのです。
それが基本であるにも関わらず、「天の事情」を口にするなどヘブライズムの信仰ではあり得ないのです。
それは正統なヘブライズムなどではなく、文化的に遅れた民族的シャーマニズムの信仰であり、西洋文化の源流となったヘブライズムとは大きな隔たりがあるのです。
「神の摂理」を具体的な社会活動として解釈する考え方や神を極端に擬人化して捉える信仰はヘブライズムを装った低次元なシャーマニズムの信仰に過ぎないのです。
統一教会は歴史論においてヘブライズムを恣意的に解釈し、自分達の信仰を正当化するため、敢えてそれを自分達と結び付けているのです。
ユダヤ教―キリスト教においては唯一神を信仰する態度として神を畏れ、人間には未知の「摂理」というものを宗教活動に置き換えたりせず、常に謙虚だったのです。
そして人間としては善なる人格を形成することを目指し、他者を傷つけることや嘘をつくことを善しとしなかったのです。
統一教会の信仰の特徴を考えれば、それはヘブライズムではなく 朝鮮シャーマニズムを引き継いでいるのですが、朝鮮半島発生の宗教であるため、朝鮮儒教の影響も強く受けています。
そのため、龍丼さんがコメントに書かれたように地位として下の位置にいる信者の人権など最初から認められないのです。
それは李氏朝鮮王国と全く同じなのです。
ただ、原理講論の創造原理に基づいて神について考えるならば、人権を蹂躙してもよい「天の事情」などある訳がなく、一人の人間のみが「神と相対」しているなどと主張することは原理的ではないのです。
その創造原理はユダヤ教―キリスト教を発展させた宗教思想と表現してもよいのですが、文教祖の「御言葉」などにある宗教の考え方はそのようなヘブライズムとは明らかに違うのです。
ユダヤ教―キリスト教の伝統としては偶像崇拝を排し、無形の神を敬い、畏れるのが信仰だったのですが、統一教会の教義に基づく信仰にはその謙虚な姿勢や敬謙さがないのです。
統一教会においてはユダヤ教の信仰は僕の信仰であり、キリスト教の信仰は養子の信仰、統一教会の信仰は実子の信仰であるなどと訳の分からぬことを唱えていますが、無形で対象として認識できないはずの神との関係など確かめられるはずもないのに、勝手に実子などと主張するのは根本から矛盾しているのです。
創造原理にあるように神は知・情・意の機能を持っていると考え、愛の主体の神として表現するのは理解できるのですが、神を擬人化して(注釈3)、勝手に自分達は神と実子の関係を持つようになったなどと主張するのは何の意味もないし、傲慢でしかないのです。
*注釈3
信仰の対象とされる神の共通の概念は、超越的な存在で人間を超えた力をもち、存在としては隠れていて不可知であるということです。
そのような神の概念を人間がもつようになったのは、人間が生活する環境、そしてその外に広がる世界に、人間に幸、不幸をもたらす人知を超えた力を感じたからであり、人間の本性としてある「永遠」「絶対」に憧れる心がそのような超越した性質をもつ存在を求めたためと考えられます。
神について論じる場合には、対象が超越的な存在であり、不可知であるという前提に立たねばならず、「人格神」という言葉にも矛盾が含まれることになります。
即ち、対象が人間を超越した存在で計り知れない能力をもち、人間には不可知であるにも関わらず、「人格」と修飾するのは人間的次元に引き下げて表現しているということであり、言葉を使って表現すること自体が矛盾を含んでいるのです。
人間が知り得る対象の全てを超越した存在が「神」なのですから、人間が認識し得る概念を用いて形容するのは本来不可能なのです。
それ故、神学、あるいは神に対する定義というものは宿命として神の一側面しか捉えられないことになるのです。
神は人間の能力を超越しており、不可知なのですから、人間に認識できてしまったら、それは「神そのもの」ではないということなのです。
従って、神の存在を追究する場合には、あくまで人間の理解できる範囲でということになり、特定の神学からイメージされるものは「神そのもの」ではなく、どこまでも仮説によるものに過ぎず、人間が信じている内容に過ぎないのです。
そのような限界がある中においても宗教は歴史を通して発達し、一番多くの人々に受け入れられた神についての理解が人格神という概念なのです。
つまり、神は超越的な存在で不可知であるけれども、人間と似た心、知・情・意をもった存在であり、愛や善などを人間と共有すると考えるのです。
ただ、人格神として捉えたとしても、一神教と多神教ではかなり神に対する理解が変わることになり、多神教ではギリシャ神話や日本の神話にある内容の如く、神が人間とほとんど変わらぬ喜怒哀楽をもち、それぞれの神が個性をもっているように捉えられています。
しかし、一神教においては創造主として神を捉え、唯一であることを強調し、偶像崇拝を禁止すると同時に、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(旧約聖書・出エジプト記 20-7)とあるように、神について多く語ることさえ戒めているのです。
つまり、一神教においては人格神と捉えたとしても人間と同次元に考えることはせず、存在内容は人間には理解できないという捉え方だったのです。
その場合、一神教においても 人格神として、最小限の精神的な側面での擬人化はなされておりますが、人間と同質のところまでは擬人化されていないのです。
しかし、多神教では神が人間と全くと言っていいほど同じ喜怒哀楽をもっており、精神的には同質になっています。
それは原初の神の概念である、「超越的存在」、「不可知の存在」とは異なり、擬人化したと捉えられるのであり、一神教のように最小限の擬人化ではなく、存在の内容まで低次元に変えてしまう過剰な「擬人化」であると言うことができます。
そして、キリスト教神学においては、ユダヤ教にあった最小限の擬人化もさらに弱められ、神が形而上学的に追究されるまでになったので、擬人化と逆方向に進歩したと考えられるのです。
(注釈3終わり)
結局、統一教会の信者は間違った教義で神を擬人化することによって信仰者として最も大切なものを失ったのであり、無形であり、人間には全体像を認識できるはずもない神に対する謙虚さを失うことになったのです。
統一教会の主張する偽物のヘブライズムは神を擬人化して幻想をつくり上げるため、ヘブライズムの本来の特徴である謙虚さを失い、信者は傲慢になってしまうのです。
そして人間が勝手に神の意思や「摂理」などを決めてしまうのですが、その「摂理」のためには資金が必要だから、お金を捧げることが信仰者には必要だなどと教え、犠牲を払ってでも巨額の献金をするよう強要するようになるのです。
その統一教会の偽物のヘブライズムを正しく言い表すならば朝鮮シャーマニズムの変形ということであり、信仰している対象も無形である創造主の神ではなく、朝鮮シャーマニズムにある妄想のような「ハヌ二ム」に近い存在だったのです。
もし統一教会で教える信仰がヘブライズムの伝統に適ったものであったなら、人道主義や人権主義と相反する行動をとることなどないはずなのです。
本来ヘブライズムとヘレニズムは相反するものではなく、融合が可能なものなのです。
統一教会の中では龍丼さんが書かれたような実態が当たり前だとしたら、それは正統なヘブライズムの流れにある信仰ではないということなのです。
正統なものでないが故にヘレニズム的な社会文化を吸収することができないのです。
即ち、まがいものの一神教であるがために、人権思想には到達できないのです。
統一教会で教える信仰は「宗教のシステムとして道徳や倫理の問題にそれほど関心を持っていない」朝鮮シャーマニズムの信仰そのものだったということです。
*参考サイト:『統一教会の儀式セックスによる血統転換』抄訳
<原理講論に影響を与えた恨の文化について>
原理講論ではヘブライズムこそ「アベル型人生観」であるとし、それこそが人間社会の中心となるべき文化であると説いているのですが、後編では創造原理に立脚した観点では神について語らず、神を擬人化して語るようになり、内容が著しく感情移入されたものになります。
特に原理講論の後編、第六章 再臨論 第三節 (三)、(3)「この国は神の心情の対象とならなければならない」にある以下の記述(昭和58年版原理講論・591~-592P)はヘブライズムの信仰と乖離した内容であり、重大な問題があると言わざるを得ません。
(以下、引用)
神の心情の対象となるためには、まず、血と汗と涙の道を歩まなければならない。サタンが人間を主管するようになってから、人間は神と対立するようになったので、神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の彼等を救おうとして、罪悪世界をさまよわれたのであった。そればかりでなく、神は、天に反逆する人間達を救うために、愛する子女達を宿敵サタンに犠牲として支払われたのであり、ついには独り子イエスまで十字架にひき渡さなければならないその悲しみを味わわれたのであった。それ故に、神は、人間が堕落してから今日に至るまで、一日として悲しみの晴れるいとまもなく、そのため、神のみ旨を代表してサタン世界とたたかう個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである。
(引用終わり)
私は上の内容が統一教会信者の信仰心に与える影響は計り知れない程大きいと思っています。
たとえ、原理講論の創造原理や、堕落論の神話のような内容を信者が理解しきれず、統一原理に対する確信を持てなかったとしても、「神の悲しみ」を訴えられると、感情が強く反応し、涙するほどに感動してしまうのです。
その原理講論に書かれた「神の悲しみ」は文教祖が講話でも語られる朝鮮民族の「恨」(注釈4)と共通する内容をもっています。
*注釈4
ウィキペディアによれば<朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれる。>とのことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A8
「恨」は朝鮮民族の一つの文化となっており、それに対しては既に多くの研究者が様々に論じていて、朝鮮民族の奥深い部分にはそのような情緒が根強くあることが認められています。
その「恨」は朝鮮半島の歴史を通して社会に存在していた厳しい身分制度の下に虐げられてきた民衆の逃れようもない苦悩や悲しみ、そして宗主国であった中国の体制に国の情勢が左右されるなど、支配者階級であったとしても常に不安定な立場で生きて行かねばならなかった無念さなどから生み出された情緒と理解されています。
その情緒は、自分達の力ではどうにもならない、決して解決されない悲痛な情であるのが特徴で、消え去ることのない被害感情にも似た特性を持っています。
朝鮮半島の人々がそのような「恨」の文化を持つに至った理由は地政学から合理的に説明することができ、外交政策研究所代表の宮家邦彦氏が『Voice』に記事を書いています。
http://blogos.com/article/97530/?p=1
その中で述べられているのですが、朝鮮の地形というものは 隣りの広大な中国との国境には険しい山々がある半島であり、中国が出兵・侵入しても国力を消耗するだけで、征服・支配のコストが高過ぎる為、支配、統合するメリットがなかったのです。中国にとって朝鮮半島は距離が近く侵入し易いが、支配が難しい地形の土地なのです。
ただ、中国の隣りに位置する為、朝鮮半島の人々が攻撃されたことは数多くあったのですが、地政学的な理由から、完全支配されずに済み、中国王朝に朝貢し宗属関係を結ぶ事によって国家を存続させることができたのです。
つまり、地政学から考えても、朝鮮民族は事大主義にならざるを得ず、その中で被害感情を持ち続けながら生き続けてきたため、長い歴史の中で「恨」の情緒が根付くことになったのです。
(注釈4終わり)
原理講論は文教祖を“再臨のメシア”と信じる韓国人が書いた為、朝鮮半島の歴史に関しては、事実とかけ離れた部分が多くあります。
「恨」を生み出す原因ともなった日本の統治時代についても「残虐無道な行為をほしいままにし、…」などと徹底的に日本を非難しておりますが、それを書いた当人が日帝時代に日本が創設した京城帝国大学で、朝鮮にはそれまで普及してなかった西洋医学を学ばせてもらっていたのですから、何故そのように非難できるのか理解に苦しみます。
原理講論に書かれた朝鮮の歴史は脚色され過ぎており、その間違った歴史論においても「真理」とは程遠い架空の宗教論になっているのです。
朝鮮民族の歴史は決して特殊な神がかったものではなく、力が足りない弱小民族であるが故に、何度も他国の攻撃に晒されることになったのであり、それでも民族として滅亡せずに存続してこられたのは、外国勢力が統治するのが厄介な地理的条件にあった為なのです。
つまり神が守護し育てた「選民」なので滅ばなかった、ということではなかったのです。
しかも、大国への事大を長く続けた歴史がある為に、卑屈にも思える「恨」の情緒が民族に根付き、一つの文化にまでなってしまったのです。
過去の長い時代、朝鮮民族にとって現実の世界は不本意な世界であり、その情況は自分達の力では如何ともし難いものだったので、被害感情に常に付きまとわれるようにもなったのです。
朝鮮民族にとって「恨」「悲しみ」はまさに心の底で消え去ることのない不変の情緒となって残っていったのです。
その朝鮮民族の「恨の感情」との関連が認められる上に引用した原理講論の記述では神が擬人化されており、“神の心情”があたかも普通の人間と同質であるかのように書かれていますが、その内容こそが原理講論の致命的欠陥であり、信者の信仰を歪めた最大の原因なのです。
その“神の心情”を知ることができるのは“神の息子”以外にはいないということで、文教祖が神格化され、“神の子・メシア”によらずしては「神の心情」を理解することができないという論旨が出来上がるのですが、その理屈自体が「原理」とかけ離れているのです。
そのかなり情緒的に書かれた原理講論の記述に感動して心を支配された信者は、神の奥義を悟ったように感じ、擬人化された人格神を信じる特殊な信仰をもつようになってしまうのです。
「神の悲しみ」を強調するのは統一教会の最大の特徴であり、ユダヤ教、キリスト教においてはそのように擬人化して神の心情を語ることまでしなかったので、信者にとっては新たな発見として感じられ、それを自分達が知れたのは奇跡的なことだと思い、自分達の信仰を最高視するようになるのです。
そして、その「神の悲しみ」を人類歴史上初めて知り、血と汗と涙の道を歩んで神を慰めた文教祖こそ「神の息子」であり、決して不信してはならない「メシア」であると固く信じるようになるのです。
そのように、文教祖の神格化は、信者の情緒的なものが働いてなされているのであり、「神の悲しみ」を説いた原理講論の「神の心情論」がその根拠となっているのです。
<神を擬人化する教義の問題について>
人間が現実世界を見て、そこに悲しみを感じるか、あるいは喜びを感じるかは当然その人の主観によって異なることになります。
能力があり、努力が実って社会的に成功した人間が世の中を見た場合、大抵の場合は世界を喜びの対象として見る事ができます。
たとえ、世の中に人々の不幸な事件が多くあったとしても、ただ悲哀を感じるのみでなく、それを解決し、悲しむ不幸を無くそうとする意志が湧いて来るのです。
しかし、能力が乏しく、常に受身で成功した例がなく、虐げられてばかりいる人間が世の中を見た場合、世界は無情で、悲しみの対象に見えてしまうのです。
現実世界を見た場合、確かに紛争はどこにでもあり、戦争が全くなかった時代など存在しないのです。
犯罪行為もそうであり、いつの世にも、どの世界でも犯罪がない社会など探すのは不可能でしょう。
神が人格神であるとして、喜怒哀楽をもっていたとするならば、その不幸な人間達の姿を見た場合、悲しみを感じておられるというのはわかり易い説明です。
もし神が傍観者のような存在であるとしたら「悲しみの神」という捉え方は正しいのかも知れません。
しかし、ヘブライズムがそうであるように「第一原因の創造主」という観点で神について考えた場合、それは間違っているのです。
「創造主」にとって、悲しみは不変のものになることなどなく、それを解決しようとする「意志」が強く顕れて来るに違いないのです。
つまりあくまで「喜び」を得ようとする心情が何よりも強く働いてくるはずなのです。
もちろんそのような心情論自体が擬人化されたものであり、無神論者からすればナンセンスなのでしょうが、神を人格神と考えた場合にはそのように考えたほうが原理的であり、矛盾がないのです。
原理講論の最も基本的な理論である創造原理から考えれば、そのような どこまでも喜びを生み出そうとする「神の心情」が想定されるのですが、結局、文教祖も劉孝元氏も韓国人であったために、朝鮮民族の「恨」の文化が反映され、「悲しみの神」がイメージされることになってしまったのです。
そして、他の国々の人々であったとしても、伝統的な朝鮮民族のようにルサンチマンを持つ人達は「悲しみの神」に深く感動することになるのです。
(ルサンチマンについてはウィキペディアを参考にしてください)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3
しかし、上に引用した原理講論の記述をよく読めばわかるのですが、そこには明らかに原理講論の他の箇所との不一致が見られます。
「サタンが人間を主管するようになってから、人間は神と対立するようになった」(昭和58年版原理講論・591P)との解釈は、第二章 堕落論 第四節(四)「善神の業と悪神の業」にある「堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、…」(昭和58年版原理講論・120P)という解釈と完全に矛盾しています。
また、「神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の彼等を救おうとして、罪悪世界をさまよわれたのであった」(昭和58年版原理講論・591P)も、後編の緒論にある「このように復帰摂理は、創造目的を再び成就するための再創造の摂理であるから、どこまでも原理によって摂理されなければならない。」(昭和58年版原理講論・271P)という神の摂理的特性と一致しないのです。
さらに「宿敵サタン」との表現に至っては、創造原理と完全に矛盾する二元論であるかのような的外れの表現であり、第二章 堕落論 第六節(二)「神のみ創造主であらせられるために」に書かれた内容とまったく相容れない表現となっているのです。
即ち、上に引用した原理講論の後編に書かれた「神の悲しみ」は全くの的外れであり、創造原理で説明された「創造の神」とは結び付かない、人間の勝手な解釈であり、朝鮮民族の宗教家が抱きやすい主観に過ぎないのです。
神は「悲しみの晴れるいとまもなく」「恨」を抱き続けるような神ではなく、人間の精神の根底には常に存在していて、精神的価値を創造する原動力として常に人間に力を与えようとする神であるのです。
それが第一原因である創造の神なのです。
文教祖が表現するところの「神の悲しみ」という擬人化された感情は、朝鮮民族の「恨」が人格神に感情移入されたものであり、かなり「人間臭い」ものです。
文教祖が「神の悲しみ」を感じて限りなく涙したという逸話についても、かなり不自然に感じるところがあり、「神の悲しみ」を知った人が果たして貧しい信者から巨額の献金を強制的に集めて、ギャンブルに近いような経済的事業に投資したりするのか?
そしてその事業は成功したものがほとんどなく、赤字の事業ばかりであるのに、自身は自家用ジェットを所有したり、自家用ヘリコプターを平気で所有できるものなのか?
文教祖の実生活や宗教活動は「神の悲しみ」を知った人がしているような類のものには思われず、冷静に考えれば、文教祖が「神の悲しみ」を知ったという逸話自体が脚色されたものと考えざるを得ないのです。
その逸話は原理的に考えても矛盾だらけなのです。
その辺りの教祖の問題が「ルサンチマンをもつ」人々が多いはずの韓国で、統一教会に伝道されてくる人が日本よりも遥かに少ない現状の理由なのだと思います。
結局、そのような矛盾がありながらも文教祖が信者達から再臨のメシアとして認められ、神格化されるようになったのは特別な才能に恵まれていたためだと思います。
日本の特に女性信者が感動するように「神の心情」に通じていると如何にもそれらしく、情緒を込めて語るのが得意だったのだと思います。
特に「恨」の情緒を表現するのは韓国人にはお家芸であるので、世界にいる「ルサンチマンをもつ人々」もそれに感動し、文教祖をメシアと思い、神格化するまでになってしまったのです。
ただ、御言葉には理論的に破綻したものが多く、統一原理と矛盾することまで多く語ってしまうので、統一原理の優れた部分を追究すればする程、その御言葉が「真理」ではないことが明らかとなってしまうのです。
たとえ文教祖の「神の悲しみの説話」はルサンチマンをもつ人々には通用したとしても、原理を真に理解し、創造的精神をもった人々には通用しなかったのです。
それが統一教会が世界的宗教にまではなれなかった理由でもあったのです。
ただ、弱者であるが故の怨恨、無力な奴隷精神の持ち主(ルサンチマンをもつ人々)に対しては、「神の悲しみ説話」は極めて強い感化力を発揮することになり、それに感化されて入教した信者はなかなかその御言葉の間違いを見抜けないのです。
「インテリだが自信がない」(火の粉を払えの読者暗在さんの名言)劉孝元氏が多くの矛盾する表現を原理講論に書き込んでしまったのも、そのような理由からであると思われ、「神の悲しみ」という感情移入のトリックに完全に情が支配されてしまっていたために思考が入り乱れ、原理講論に論理的に一貫しない記述まで書き加えてしまったと考えられるのです。
以前、「火の子を払え」の記事やコメントでも話題になった日本統一教会信者の「借金してでも献金し、それを誇らしげに語る」奇妙な心理は米本氏のような一般人には到底理解できないものだったのですが、「神の悲しみの説話」に感化された信者の信仰が生み出す心理状態と考えれば説明ができるように思います。
つまり信者達は「神の心情の対象となるためには、まず、血と汗と涙の道を歩まなければならない」と考えるようになるのであり、悲劇的な状態にあることが「神の心情」と最も近く、信仰者として誇るべきことであると本気で思い込んでしまうのです。
信者は「神の悲しみ説話」に感化されてしまったために、それが世の中の為になるものであろうが、なかろうが関係なく、血と汗と涙を流すような悲惨な状態であれば、それは「神の悲しみ」の心情に通じるようになると思い、それが信仰の極地だと思い込んでしまうのです。
従って、完全に統一教会の信仰に埋没しているような婦人信者などは、高額献金が韓国人幹部達に騙されて強要されているものだとわかったとしても、関係なく、「自己犠牲」と思ってその要求に従うようになるのです。
そのような自己犠牲の行為は悲劇的な状態になること自体が目的となっているため、一般的に論じられる「自己犠牲」とは別ものになります。
一般的に論じられる「自己犠牲」はしっかりした目的があり、より多くの人々に貢献するという善なる目的があるので、道徳的価値をもった行為となるのです。
しかし、統一教会員が考えている信仰的な自己犠牲はマゾヒズムにも近いような自虐に意義を見出したものであり、異常心理と見なしてもよいものなのです。
そのような信仰はもちろん原理に反しており、「蕩減復帰原理」の正しい解釈とも合致しないものなのです。
つまり、「神は、人間が堕落してから今日に至るまで、一日として悲しみの晴れるいとまもなく、そのため、神のみ旨を代表してサタン世界とたたかう個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである」(昭和58年版原理講論・592P)というルサンチマンをもつ人が感化されやすい「神の悲しみの説話」によって影響され、自虐を肯定するような異常心理が形成されてしまっているのです。
それはいわゆる洗脳やマインドコントロールによる結果として説明できるものではなく、信者自身が統一原理を学ぶ以前からルサンチマンをもってしまっていた結果でもあるので、その信仰も簡単に変えられるような類のものではないのです。
<教団の中枢幹部の信仰の現実>
統一教会員が文教祖を神格化する心理状態が作られるのは、神を擬人化した「神の悲しみ説話」に感化されるのが最大の要因と考えられるのですが、そのようにして統一教会の信仰を持つようになった教会員は神を統一思想要網で定義された心情的な存在としてではなく、「悲しみの晴れるいとまも」ないような感情的な存在として解釈するようになります。
そして「神のみ旨を代表してサタン世界とたたかう個人と家庭と民族とは、常に血と汗と涙の道を免れることがなかったのである」(昭和58年版原理講論・592P)という理解から
『神側の人間になる⇒悲惨な自己犠牲の道を歩まねばならない⇒信仰者は不幸になるのが宿命である』
との考えに誘導されることになり、それが教会組織に根付くようになるのです。
従って、現在の統一教会の教義では教会員はどのような扱いを受けたとしても、「血と汗と涙の道」として耐え忍ばねばならず、文句など言えないことになるのです。
それを教会組織の上層部の者達は上手く利用し、良心の呵責もなく下層部にいる教会員達に犠牲的な献金を捧げるよう要求することになるのです。
上層部の幹部達においては「天地人真のご父母様」と呼んで、形の上では文教祖や韓総裁に服従していたとしても、内面的には神格化などしておらず、これまで「火の粉を払え」にアップされた亨進氏の説教でも明らかなように、信者達が文教祖や韓総裁を神格化するのを利用して、己の利益の為に行動しているのです。
そこにはキリスト教的な信仰などなく、朝鮮儒教や朝鮮シャーマニズムとも無関係なのです。
様々な言動を見る限り、韓鶴子氏や金孝南氏も他の幹部達と同じであり、朝鮮シャーマニズムに近い事柄を語っていたとしても、実際は純粋な信仰など持っているようには思われないのです。
その言動に表れているのは、権力欲であり、金銭欲なのです。
宗教的なスピーチ内容は、その欲望を満たすために考え出したものに過ぎないのです。
なぜなら、統一原理に照らしても、他の宗教思想に照らしても、全く理に適っていない内容しか話していないからです。
そして、組織体制から考えても、それらの幹部達の性格や行動の問題は文教祖の人格や指導力の内容に原因があって生じてきたのであり、もし 文教祖が統一原理では神と一体化した完成人間とされるメシアのような存在だったとしたら、決して起こり得ない問題でもあったのです。
その権力欲、金銭欲を満たそうとする幹部達の利己的な問題を考えますと、統一教会=家庭連合の抱える問題というものは教会全体としての宗教的な特性にある問題以外に、また別の側面においても深刻な問題があることがわかります。
つまり、中枢にいる幹部達が関心を持っているのは理想世界の実現とか宗教の統一とかいう問題ではなく、世俗的な人々と全く同じであり、自分の権益を確保することなのです。
そのように考えれば、文亨進氏が暴露した側近幹部達の政治的行動も日本統一教団の経済活動の問題もすべて説明がつくのです。
ただ世俗的な人々、即ち一般人と統一教団幹部達が異なるのは、一般人は創造活動、またはその一部としての労働を行って価値を生み出し、報酬としての金銭を得るのに対し、教会の幹部達は価値を生み出す創造活動などは一切せず、金銭は信者達から搾取して得ているというところです。
つまり、教団幹部達は詐欺師と同じような犯罪に近い形でお金を手に入れ、生活を送っているということなのです。
そのような教団幹部達が自分達の権益を守るために日本の信者達に行わせているのが以前の霊感商法と呼ばれた経済活動であり、現在では高額エンドレス献金なのです。
それらの教団幹部達の生活形態は明らかに「原理」に反していますから当然教会組織には歪みが生まれ、末端教会員が高額献金などの犠牲を強いられることになるのです。
たとえ高額エンドレス献金が問題となり、社会から批判されるようになったとしても、幹部達がその権益を確保するためには献金は不可欠なので、その要求を止めるわけにはいかず、「為に生きる」自己犠牲を強調してでも献金をエンドレスに搾取せざるを得ないのです。
それは、末端信者達が自虐によって神の心情を知れるというような自己満足の信仰から脱却しない限り、神の摂理の名目でいつまでも続けられることになるのです。
教団の幹部達は 神様の恨を開放するためには神様の摂理を勝利せねばならないと語り、神様が悲しんでいることを思えば 人間が犠牲になることに同情する人情にとらわれてはならず、天情に立って犠牲的な献金をせねばならないと話したりしますが、そもそも そのような心情論自体が原理的ではないのです。
「神の悲しみ」は人間の時空に束縛された感情を無理やり神様に感情移入しただけであり、そのような「天情」は虚構に過ぎないのです。
「神の摂理」が人間に判断できるという考えも間違っているし、それを現実世界の事業活動に置き換えるなど、どのように考えても詐欺行為でしかないのです。
そのような事業活動のために信者が犠牲的な献金を捧げて神の恨が開放されるなど、あり得ない話であり、それによって利益を得られる教団上層部の虚構の宗教論に過ぎないのです。
しかし、虚構は虚構であり、それによって「神の摂理」が進むこともないし、「神の悲しみ」を癒すこともできないのです。
その虚構は教団の中枢部にいる人間が献金を要求するには都合のよいものなので、最大限に利用しているというのが真実なのです。
統一教会=家庭連合の唯一神信仰は、人格神を信仰していながらも、その人格神は極度に擬人化され、民族的感情まで感情移入されています。
それは決してキリスト教の発展したものではなく、その奥義が解明されたものでもないのです。
その最初の経典である原理講論の創造原理には進歩した宗教論が書かれているのですが、その後の論では過去の未発達な宗教の考え方に逆戻りし、ついには一人の人間を神格化し絶対化するような間違った宗教論に変わってしまっているのです。
それは唯一神を信仰しているようでありながら、事実上人間を信仰しているのであり、場合によっては狂信的な反社会的な活動さえ行うようになるのです。
神格化された人間がもし善なる人間ではなく権力欲、金銭欲の著しい人間だったとしたら、あるいはそのような性格に変わってしまったとしたら、「強欲な権威者-盲目的な信者という関係」が構築され、信者は結局利用されるだけの人間となってしまうのです。
しかし、宗教であっても、真理と相反するものが発展したり、半永久的に存続することなどないのですから、そのような偽善者宗教家に騙される盲目的な低レベルの信仰者が世を去って行けば、過去の遺物のような宗教も消え去って行くに違いないのです。
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分かってないな!
例えばサタン主管とかは、自分の罪と正しく血を流す程に戦ったことがあるならば、サタン主管の意味合いが分かるのではないかと思います‼
私がどれ程理解しているかは分かりませんが、理論的に沢山の言葉で説明されているのを読んだら、分かってないなあ!の感想しかありません。
お見事!
つまらない
背景に韓国に対する嫌悪感があるように
思えた。
期待して読んだので少しがっかり。
おおお、
なんか、あっている気がする。
原理講論の後半は
なんか煙に巻く感じなんだよな。。
だから神観エライ違うのか、、
成るほど勉強になりました。
貴重な論
超越していない、擬人化された神に、全てをかけて献身してみれば、どれだけ心を狭められ押し潰され依存的になってしまうか、わかります。
そして神々の黄昏さんが書かれているように、具体的な社会活動や個人の心的過程を神の意志や摂理として決めてしまい、謙虚さを失い、UC特有の傲慢に陥って行くわけですね。
>結局、統一教会の信者は間違った教義で神を擬人化することによって信仰者として最も大切なものを失ったのであり、無形であり、人間には全体像を認識できるはずもない神に対する謙虚さを失うことになったのです。
パソコンが壊れて、慣れないタブレットで見て書いているので、完全に調子が狂っています。何かもうデスクトップとは文化圏が違う感じです。ひとまずこれにて。
異論・反論は大歓迎です。
ですが、「論」になっていなければ、議論にはなりません。
金太郎さん
>原理も宗教的内容も分かっているようには、思えないですね!
例えばサタン主管とかは、自分の罪と正しく血を流す程に戦ったことがあるならば、サタン主管の意味合いが分かるのではないかと思います‼
「自分の罪と正しく血を流す程に戦ったことがあるならば」
自分の罪とは、統一教会でいえば原罪のことだと思います。原罪と血を流す程に戦った」とは意味不明です。
もう少し具体的に言えば、原罪とは淫行の罪のことだと思いますが、淫行と血を流す程に戦ったとは具体的に何を言わんとされているのでしょうか。
そんな戦いを金太郎さんをはじめとする教会員の方々はやっているのですか。
寡聞にして知らずです。
それゆえ、
「血を流す程に戦ったことがあるならば、サタン主管の意味合いが分かるのではないかと思います‼」
-は、意味不明です。
そもそも、「サタン主管の意味合い」とは、どういうことなのでしょうか。
異論・反論を書かれるのなら、最低限、該当する神々の黄昏さんの文章を示した上で、やるべきです。そうでないと、議論になりません。
>分かってないなあ!
というのなら、神々さんの文章を示した上で、これこれこういう理由で、このことについて、神々さんは理解できていないというべきでしょう。
白虎さん
>宗教に対する見解が浅いように感じる。
どこがどう浅いのか。そう感じる根拠を示さないと異論・反論にはなりません。
>背景に韓国に対する嫌悪感があるように思えた。
神々さんは朝鮮儒教、朝鮮儒教的シャーマニズムのことを論じているだけです。
投稿してもらっていて、こんなことを言うのは大変失礼ですが、お二人とも、2チャンネル的な書きなぐりでしかありません。
つまらない?
神々の黄昏さんの労作に拍手を!された方は、いま現在39人にのぼります。
つまらないのであれば、拍手をされず、シカトすればいいのです。
流石、神々の黄昏さんです。文鮮明教祖と統一教会と言う伏魔殿の本質が大分暴かれた様に思います。
原理講論や聖書は5年位前までは毎日祈りながら読まないと気が済まないタイプで日課にしていたので、ある程度の知識はあります。
私の30数年間の不信仰生活と国内外で韓国人牧会者や韓国人相対者と共に生活して来て感じた事等総体的に思い返して考えてみると、私の知識の点と点になっている部分が神々の黄昏さんの解釈によって繋がるのですね!
流石!神々の黄昏さんだと思いました。後ほど、また、コメントしたいと思います。
しかし、金太郎とか白虎?お前達⚫️⚫️か!お前達こそ、全く分かってないと思うぞ。水行断食前線で鷺の道を決死の覚悟でやって見ろ!少しは⚫️⚫️も理解出来る様になるかもしれない。
分かっていない事が分かった
権威欲や金銭欲に打ち勝つという事はそれほどに難しいのだろうと、勝手に解釈していましたが、神々の黄昏さんの寄稿文を読むと、もっと根本的な問題が存在しているようですね。
自分自身を振り返って見ると、文鮮明師をメシヤと信ずることにしてから!思考停止していたように思います。とは言っても、神々の黄昏さんのように深い思索ははなから無理ではありますが・・・。
今までの信仰生活の中で、教会や食口のあまりの問題の多さに「もう付き合いきれない!」と思う事も多くありましたが、いつかはそれも正される時が来るのではないかと期待もしていました。
特に亨進様には大きな期待をしていました。
その是非はいまだ結論が出ていませんが、結論を待つまでもなく教会は瓦解の道を進んでいるような気がしています。
人格神のこと
結局のところ、教義を納得する形で認識することはできなかった。
その中で、割と説得力をもって共感できたのは人格神のことであった。
「私たちが信じている神は、人間と同じように感情をもっている神なのです。タンポポを見たら、なんと可愛いと思う。神様もそうなのです。私たちと同じように可愛いなと思ってくれるのです。神とタンポポを見ながら話をすることができるのです」
実に魅惑的な説明であった。
確かに、これまで言われているようなキリストの神は、宇宙の法則とでも言えるような絶対的なものであり、知覚することができない神であった。
知覚できないのに、陳腐な道徳訓はしゃべる。
その絶対なるものに、ひたすらクリスチャンはひれ伏し、懺悔する。誤解されるような表現をすれば、血の通わない無期質的なものを感じていた。したがって、それまでは神のことなど考えたことがなかった。
しかし、感情を持った神(哀しみの神=ブログ右サイトにもこの題名のブログがある)と聞いて、急に親しみを感じるようになった。
まあ、そうは言っても、思考はそこまで。その後・・・
献金献金で、統一教会が信じる神はなんてお金が好きな神だと思うようになった。
2011年8月に「高額エンドレス献金(経済摂理)は破滅への近道」を書いた。
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-237.html#more
前述した教会員(公職者)の神観は急に色あせてしまった。
それから数年間、神への認識はもやもやしていた。
2、3年前からだと思うが、神々の黄昏さんがコメント欄で「神の擬人化」という言葉を使い、暗在さんと丁々発止でやっていた。2人だけの世界(苦笑)
今回の論考を読んで、つくづく頭の悪さを感じた(泣。
「私たちが信じている神は、人間と同じように感情をもっている神なのです」
これが神の擬人化、人格神だと知った次第です。
このことが理解できると、数年間のもやもやはとてもすっきりした。
統一教会員が信じる「感情をもった神」とは、幹部が「食口を支配できる道具としての神」だったのだ。
献金しなければ神は悲しみ、献金すれば(K勝利で拍手され)神は喜ぶ。
ただし、神が喜ぶのは一週間程度。また「悲しみの献金路程」が始まる。
こんな一般社会、いや一般キリスト教世界では信じられないことを、統一教会では数十年間も営々とやってきたのだ。
このように認識できてくると、神々の黄昏さんの論考にも疑問を抱くようになった。
(引用はじめ)
神は「悲しみの晴れるいとまもなく」「恨」を抱き続けるような神ではなく、人間の精神の根底には常に存在していて、精神的価値を創造する原動力として常に人間に力を与えようとする神であるのです。
それが第一原因である創造の神なのです。
文教祖が表現するところの「神の悲しみ」という擬人化された感情は、朝鮮民族の「恨」が人格神に感情移入されたものであり、かなり「人間臭い」ものです。
(引用終わり)
人格神を否定しているのか、条件付き肯定なのか。
(本日はここまでです)
人格神
理解が非常に浅いですね。聖書を読んだことないですよね?
Re:人格神のこと
未熟な真理探究者であると自覚している私ですが、‘火の粉を払え’に持論を掲載してくださいました米本さんには心より感謝申し上げます。
その米本さんからかなり鋭い質問をいただきましたので、思うところをレスコメントしようと思います。
私は今回の記事の考察において原理講論の矛盾をいくつも指摘しましたが、原理講論の完全否定はしておりません。
特に創造原理に書かれていることは基本的に真理であると確信しており、たとえ言葉の表現に違和感を感じる部分が所々あるにせよ、基本的なところは普遍的な真理であると言っても良いように思っています。
従いまして、米本さんからのご質問「人格神を否定しているのか、条件付き肯定なのか。」に対するお答えは、私の持論というよりは、原理講論の創造原理、そして統一思想要網を学んで理解したことを述べるだけであり、現役の教会員であっても本来は同じ答えになるはずです。
寄稿文が考えていたより長文になってしまいましたので、米本さんへのお答えはできるだけシンプルにするとして、その答えは 神は人格を高次元にした超人格的神になるのではないかと思います。
神は無形で認識できないわけですし、「超人格的」などと表現したところでまったく説明にもならないのは承知しています。
それで、神について語る場合は、相似していると考えられる人間をイメージしながら、その次元を高めたものとして形容する以外ないと思っています。
神御自身は人間と共通性がある人格とも言える内容を持ち合わせているが、人間と同格ではないので、人格と言い切ることもできないのです。
原理講論の創造原理には、神には人間の心に該当する属性として本性相が備わっていると書かれており、その本性相は知情意の機能を意味するとされています。
その知情意の様相は人間と共通しているのですが、働きの程度は次元が違うのです。
知的なレベルにおいて次元が違うというのは割とイメージし易いと思いますが、情的な働きのレベルが違うというのが最もわかりづらいと思います。
人間の感情については喜怒哀楽として表すことができますが、次元が違う感情とは何であるかと考えた場合、それはより高次元の喜びの感情を求めるものとして働いているのではないかと思います。
たとえば、人間は他者に裏切られれば怒ったり、悲しんだりしますが、神の感情と言うものは人間のように怒ったり、悲しんだりせず、喜びがないことの刺激として感じられ、より以上の喜びを求めるように感情が作用するのではないかと思っています。
人間ならば、情は自分の次元で働きますが、神の情は常に発展指向で働くのではないかと思います。
たとえば、人に何を言われようと怒ったりしない人を見て、神様のような人だとか言ったりする場合もありますが、その究極的な情に近いのではないかと思います。
しかし、怒りや悲しみを表に出す人は「自分は神様ではないので我慢できない」などと言いますし、そのような意味で人間を超越した情をもっているのだと思います。
また情は美を感じ取るわけですが、自然世界は美に満ちており、人間はそこに様々な美を感じ取りながら、さらに音楽や美術などの芸術を創造して喜びを感じることができます。
神も同じように、そのような情を持っていると考えられるのですが、例えば、凡人はカラスを見れば美しいとは思いません。
しかし、芸術家は違い、カラスにも美を発見し、優れた絵画なども制作するのです。
つまり、神の情もそのように超越しており、人間の最もレベルの高い情に類似した、超越した情をもっていると考えられるのです。
そのように神は知情意の機能をもっているのですが、人間の持つものよりレベルが高く、超越した次元にあるので、「超人格的」と表現できるのではないかと思います。
別に、いいんじゃない。
確かに統一教会の神様を知って神様が身近な存在と思う様になりました。
私が頭に描いている神様は、勿論、人間と同じ様に感情を持っている神様です(しかし、全ての感情が素晴らしい善の感情です)。
創造する時に頭に描くものは、有って有るものです。全ての創造物を創造される前に有ったのは、無形なる実体の神様の本性相(心)と本形状(体)の内外の二性性相の総体と本陽性(男)と本陰性(女)の二性性相の中和的主体の神様の無形の実体のみです。
その神様の(構想)中に全ての被造世界の創造物の全ての実体の原形が存在していたと考えます。
実体の原形とは無形の心の様な内的性品も有形の実体の姿も含みます。内的性品とは植物の機能や動物の本能や人間の心にあたり、有形の実体の姿とはその通りで様々な植物や動物や人間の姿形です。勿論、地球も様々な天体も神様の頭の中に有ったものが有形の実体として現れたと考えます。
>統一教会員が信じる「感情をもった神」とは、幹部が「食口を支配できる道具としての神」だったのだ。献金しなければ神は悲しみ、献金すれば(K勝利で拍手され)神は喜ぶ。 ただし、神が喜ぶのは一週間程度。また「悲しみの献金路程」が始まる<
上記はちょっとと言うか大分違うと思います。
朝鮮シャーマニズの混淫派(血分け)の流れを組む文鮮明教祖は丁得恩から血分けを受けたとあります。同じく丁得恩から血分けを受けたのが文鮮明教祖より3歳位年上の天父教(伝道館)の朴泰善です。
統一教会が大きくなる前に先駆けて様々な病気等を治したりして聖霊の役事をして教団を大きくして、様々な会社を作って企業グループを作ったのが朴泰善教祖です。
彼は自分は神だ!自分は永遠に死なないと言った人物です。文鮮明教祖は朴泰善教祖の事を洗礼ヨハネと言いました。そして文鮮明教祖の70歳?の誕生日に死にました。と文鮮明教祖は清平で言いました。
要は神様を擬人化した人達の中に朝鮮混淫派の異端カルトから出て来た何人かの自分こそがメシアだ!神様だ!と言った教祖達がいます(文鮮明教祖も含まれる)。彼らは自分がメシアで神と信じている訳で、それらの教祖の意志が神の意志とその教団の信者達は考える様になったと言うか教祖が信者にその様に信じさせたのです。教祖が自分はメシア!自分は神だと言うからです。
神々の黄昏さんが言っているのは、朝鮮人の民族性は中国の属国として頭の上げられない歴史だったり朝鮮儒教の影響で頑なな身分制度の中で多くの人達が虐げられた惨めな生活をして来たので、それが恨の文化(精神)を醸成して朝鮮人の精神の中のDNAとしてしっかり刻まれているので、神様の創造本然のポジティブな精神の部分よりも、人類の堕落によって生まれて来たネガティヴの要素(堕落性本性=恨み、嫉み、etc)が文鮮明教祖初め、朝鮮人メシアや神様と宣言した朝鮮人教祖達の精神の中に深く内在しており、、、、寧ろ、人類始祖アダムとエバが堕落する事によって生じた神様の悲しみの部分の要素が彼等朝鮮人教祖達の精神や思考に大きく影響しているのではないか?そこからは神様の創造本然のポジティブな波動よりもネガティヴな歪な偏った思考や感情から発せられるマイナス思考の波動の方が強力なのではないか?と言われている様に感じます。
摂理や金作りに対する目的達成の為の極端な焦りやその為に日本人教会信者に対して民族的蕩減と言う名で日本国で日本人信者を奴隷の様にして詐欺的金集めをした事は本来の神様の性品とは程遠い感情であり、それが言葉となり命令となるので、歪な思考と精神から発せられた命令故にその様なシステムの中でいつも命令を受ける信者もその思考や感情等の影響を受けて同じ様に歪で偏った思考にいつの間にか染まってしまうのだと言っている様に私には思えます。
>このように認識できてくると、神々の黄昏さんの論考にも疑問を抱くようになった<
米本さんは神々の黄昏さんの言っている事がまだ理解されてないかもしれません。頭が悪く文章力のない私が言って失礼だとは思いますが。
>神は「悲しみの晴れるいとまもなく」「恨」を抱き続けるような神ではなく、人間の精神の根底には常に存在していて、精神的価値を創造する原動力として常に人間に力を与えようとする神であるのです。 それが第一原因である創造の神なのです。 文教祖が表現するところの「神の悲しみ」という擬人化された感情は、朝鮮民族の「恨」が人格神に感情移入されたものであり、かなり「人間臭い」ものです<
まさしく、上記の神々の黄昏さんの言う通りだと思います。
、、、文章力や知識が足りなくて分かりにくくてすいません。
文総裁は、偽メシヤの可能性ありで、真実を教えられない
文総裁夫妻をメシヤ(偽メシヤ)であるという統一教会、早く消え去ってほしい。これ以上、日本に対して、間違った自虐的な歴史を教え込まないでいただきたい。統一教会に入ると、全て、文総裁のみことば中心の考え、天国は韓国の文化そのものだとか、なんでも韓国一番で、日本の文化や歴史も卑下するような傾向になる。洗脳。トインビーいわく「12,3才くらいまでに、自分のたちの神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる。自分の国の歴史や神話、これらについて、何も知らないと、自分の国に対する誇りが持てないからです」日本には、キリスト教、朝鮮儒教、朝鮮シャーマニズムでもない、古代から、神を崇高に奉る信仰がある。その美徳を統一教会によって、これ以上、つぶさないでほしい。文総裁は、偽メシヤというか、メシヤの模擬者だったのかもしれない。本当のメシヤはまだ来てないのかも? Youtube 「三千年以上の歴史をもつ日本」~世界を救う大和の心
解釈・適用・運用の問題
しかしその教義である「統一原理」そのものについての見解、すなわち「創造原理には真理性があるが、堕落論や復帰原理は間違っている」という主張には正直頷けないものがあります。
確かに失楽園の荒唐無稽とも言える物語を解釈しての堕落論など普通に考えても、そんな事実って本当にあったの?と首をかしげたくなる部分もありますが、それも含めての「統一原理」なのではないかと思います。
私の場合は「統一原理」そのものより「堕落論」「復帰原理」といったどのようにでも解釈できる部分で、間違った適用や運用が米本さんのいう「非人間的食口の大量発生」を招いたと考えています。特に朝鮮儒教の影響が大きいことは韓国指導者が実権を握っている限り変わらないことでしょう。
「原理本体論」に続いて整理されるという「原理原相論」には堕落の痕跡もない神様本来の姿を映し出してくれるようですから、その時にこそ「神々の黄昏」さんの主張は大いに反映されると、私も期待しています。
最近はこんなことも考えます。
メシアはユダヤ人として生まれざるを得なかったが、ユダヤ人であったために不幸にして十字架にかからざるを得なかった。ユダヤ人の頑なさによって結果としてイエスをメシアとして受け入れなかったからです。
同じように、統一原理も朝鮮民族から生まれざるを得なかったが、不幸にして朝鮮民族の儒教やシャーマニズムによって歪曲され不幸な実態を晒している。頑なまでに朝鮮儒教やシャーマニズムが影響しているからです。
統一原理そのものに対する朝鮮儒教や朝鮮シャーマニズムの影響については今後の自分の検討課題として置いておきます。しかし統一思想で言うところの「汎神相論」すなわち神の遍在性については高く評価しているところです。八百万の神々を信じる日本人にとっても、そういった(人格)神が身近にいるといった主張には共鳴できた部分ではなかったでしょうか。むしろ統一原理のそういった東洋的な部分が今後の世界にとって、特に宗教間の和解などに対して効果的な考え方であると思っています。それがつまらないことで封じられていることは残念なことです。
信仰と原罪の問題について
ユダヤ教では、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」とする「いわゆる原罪」の概念を採る説もあるが、多数派はそのような見解を否定する(ウィキペディア)というのが真実であり、キリスト教の正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理とすること(教義化)を避けて今日に至っている(ウィキペディア)のが現実なのです。
原理講論の中には人間には原罪があると書かれていますが、寄稿文にあるように「堕落人間」を「中間位置」と捉えた箇所もあれば、「サタンの血統」としてサタンに支配された状態であると捉えた箇所もあり、全く一貫性がないのです。
それは当然であり、創造原理を前提にすれば、人間が「サタンの血統」になることなどあり得ず、「中間位置」と言う表現ですら論理的に問題があるのです。
その原罪についての原理講論の解釈は、何の科学的な根拠もないし、現実世界とも適合するものではないのです。
「サタンの血統」であるとか「サタン主管の世界」とかは創造原理の世界観からは絶対に生まれない概念なのです。
原罪とは何か、悪の起源とは何かを理解するには単なる神話に過ぎない創世記だけを根拠にしても不十分で、科学的な研究と矛盾しないよう心理学などにも通用するような解釈を研究せねばならないのです。
「サタンの血統になったのが原罪」などという宗教論は天動説と同じで、無知の証明でしかないのです。
原理講論においては聖書の「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ人への手紙七章・22~23)を例にあげて、そのような矛盾性を抱えているのは人間がサタンの血統を受け継いでいるためであるとしています。
しかし、そのパウロが言わんとしている内容について考えるならば、それは人間の肉体的な欲望、情欲について語っているとしか考えられません。
キリスト教は禁欲的な性格が強いので、人間の性についても厳しく戒めていますが、そのような性格をもつが故に、却ってその自然な肉体的欲望との葛藤が大きくなるのだと思います。
そのキリスト教の禁欲的な性格を典型的に表現している聖句としてマタイによる福音書5章27~30が挙げられます。
(以下引用)
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。…」
以上は1989年に日本聖書教会から出版された共同訳聖書実行委員会による日本語訳です。
そこでは「他人の妻」に情欲を抱いてはならないと説いています。
そして、そのような思いが生じるなら、まさしく血を流す程に戦えと言っているのです。
つまり、結婚していながら、不倫をしてはならないと言っているわけです。
ところが私が統一教会に伝道されて信仰生活を始めた当時、教会で使用していた聖書の訳はそれと違っていたのです。
その聖書では「他人の妻」ではなく、ただの「女」となっていたのです。
もし情欲をいかなる女性に対しても懐いてはならないというのであれば、性欲そのものを否定していることになり、それは人間の生理に反しますから、絶望的な激しい葛藤が生まれてくるのは当然です。
つまり、私が伝道された当時使用されていた聖書では、イエス様が恋愛感情を持つことさえ罪として戒めているように書かれていたのです。
しかし、カトリック教会とプロテスタント諸教会が共同で日本語訳した聖書ではまったく意味が変わっており、その聖句は既婚者の男性に対して語られたイエス様の言葉だったのです。
ですから、統一教会で最初に教えていた性の罪観は本来のキリスト教の罪観とは異なっていたのです。
しかし、現実にはそのような不倫を完全否定するような罪観を教祖の文先生がもっていたとは考えられません。
今まで統一教会内では情報操作され、隠蔽されていた事実を探究すると、そのようなキリスト教のような罪観を文先生はもっていなかったことがわかるのです。
http://ameblo.jp/chanu1/entry-11620724748.html
統一教会で信者が教えられていた罪観とは内部においてかなり極端に解釈されたものであり、「真の父母様」はそのような異性問題に対する罪観など本当はもっていなかったのです。
統一信者の信仰は伝統的なユダヤ教やキリスト教より進歩したものなどとは言えず、教会内においても分裂しており、矛盾だらけなのです。
原罪、そして悪の問題については、たとえ聖書を解釈するにしても、真理であると言えるようもっと科学的な根拠をもたせる必要があるのです。
統一教会信者が非人格者になる理由
まさにその通りだと思います。朝鮮人の自称再臨主の文鮮明教祖が神様の摂理を期間内にやらないと大変な事になる!第三次世界大戦が起こる!とか韓国、日本にソ連や北朝鮮が侵略して来る!摂理を知っているのは統一教会の信者だけなので、何としても定められた期間の摂理を勝利しなければならない!摂理の勝利に必要なのは”お金”!お金=経済の使命はエバ国日本。よってエバ国日本がお金を作らないと日本は神様のエバ国から外されて運勢が落ちて共産国に侵略されて多くの日本人が粛清(殺され)たりユダヤ人の様にチリチリバラバラになったり、はたまた日本は島国だから沈没する!そんな事を文鮮明教祖は言って脅していたのです。飴と鞭を上手に使ってました。よって違法行為でお金集めても多くの信者は日本国の為、義の為と思ってやっていたのです。
よって、人格完成する為の信仰生活と言うよりも摂理の勝利=お金集めが何よりも優先された訳で、統一教会では兎に角、多くお金集めした人は天の前に義人とされ賞賛されたのです。
>その統一教会員の経済活動や宗教行事は信じている教義と深い関わりがあったため、たとえそれらがマスコミから厳しく批判されたとしても、教会員はそれらの経済活動や宗教行事への参加を止めるようにはならなかったのです<
統一の教理自体に蕩減復帰摂理と言うものがあります。アダムとエバの堕落によって人間は万物以下の存在になったと。堕落した人間が神様の元に帰るのに必要なのがまず万物以下の存在から万物の位置に霊的に上がらないといけないと言う事です。その為にサタンの主管下に落ちてしまった万物を神に還すと言う事です。これはお金も神様の摂理の為に使って貰ったら神様の摂理が進む事になり、その万物(お金)も神様(絶対善)に貢献した事になります。よって急がれている摂理の為に目標金額を集める事が何よりも優先され、少々強引な集め方をしても、お金は神様の摂理の為に使われるのでそのお金自体が最高に価値ある使われ方をすると言う事と、統一の教理では信者がサタン世界からお金を集めて天に捧げれば万物である自分の肉体も善化され神に主管されやすい肉体になると考える訳です。自分自身の霊性の位置が高まるとでも言うのでしょうか?また、統一教会信者にお金を払った人も、お金は血と汗と涙の代価と統一教会では言っていて、サタン世界で使うお金を神様の摂理の為に貢献したと言う事になり、その人は何も知らないのだけど、その人やその人の霊界の先祖達の霊性も神様に少し近づいて将来神様に救われる条件になっている。と考えるのです。よって少々手洗い営業(金集め)をしても全てが”救いに繋がる”ので非常識の金集めも抵抗なく出来る考え方になって行くのです。
統一教会信者の信仰は養鶏場のニワトリの信仰
擬人化された偶像を崇拝している訳で、創造性も思考も止められていると私は感じるので、統一教会、特に日本統一教会の信仰は養鶏場のニワトリの信仰の様なイメージが湧いてきます。
もし不可知と言うならば・・・
一つ例をあげれば、神は不可知だと主張されています。
それならば、歴史の背後に神様がどう働かれたかも不可知であるはずであり、神様がこの世をみられてどのように感じらているのか(もちろん無感動の可能性もありますが)、についても不可知であるべきです。
それなのに、韓国の歴史の背後に神様の働きはない、悲しみの神ではないと主張されるのはおかしいのです。
不可知ならば、それらは自分としては分からない、と言うべきです。
他にも指摘する点は多々あります。時間があれば投稿するかもしれません。
Re:もし不可知と言うならば・・・
白虎さんにはよく読んで、記事の文章を理解していただきたいと思います。
「悲しみの神」を問題視しているのは、原理講論の記述がそのように人間的なレベルの感情で神を捉えてしまっているので問題視しているのです。
神様の情が悲しみであるか、ないかを決めつけているわけではなく、原理講論において特定の人間的感情を神に当てはめていること(感情移入)を間違っていると述べているのです。
そして、統一教団の場合は、ただ「悲しみの神」と考えるのみでなく、そのような神の心情を知る為には、血と汗と涙の道を歩まねばならないと強調し、違法でもある高額献金の強要を繰り返し、繰り返し行うのですから極めて悪質なのです。
統一教団が「悲しみの神」という主観的な決めつけを行っていることが最大の誤りだと指摘しているのであって、悲しみのようなものであるかどうかは人間には不可知であり、断定などできるはずがないのです。
教理、文鮮明教祖、マコトの家庭、朝鮮人の人間性と歴史、統一教会の摂理的?歴史と今の姿に祝福家庭の現状等様々なものを包括的に総体的に見なければならない!
神々の黄昏さんはそんな事言ってないと思うけど。因みに私は何処の国の背後にも神様の働きはあるだろうと思っています。ただ、悲しみの神を強調する様になったのは、人類始祖の堕落によってでしょうから、人類始祖が堕落しなかったなら神様の創造本然の平素の心情は喜びを得る為にどうしようか?と思考すると思います。我々人間も普段出来たら悲惨で悲しい事ばかり考えたくないでしょう。神様も同じだろうと考える訳で、文鮮明教祖は朝鮮の惨めなな環境の中で生まれ育ち、多くの朝鮮人達と同じで恨み多い思いをいつも忍ばせていたのではないか?と私は推測するのです。それは朝鮮民族の歴史が悲惨だったからで、まともな独立した王国にもなれず中国の属国として、また、朝鮮儒教の身分制度の元虐げられ貧しい環境で生まれた朝鮮民族を選民にするには、そう言う環境で生まれた朝鮮民族こそ、歴史的メシアを迎える為の民族的国家的蕩減条件を立てて来た民族とすれば、辻褄が合って神様を悲しみの神にする事が出来る訳です。
しかしながら、朝鮮人を見て、神様の様に慈愛に満ちた同情深い平等心を持った立派な精神を持っていると思いますか?
特に選民の中の選民である統一教会(世界平和統一家庭連合)の朝鮮人幹部達の人間性を見て神様の神性を感じられますか?当然感じられないでしょう。
マコトの母の韓鶴子夫人はどうでしょうか?マコトの子女達からサタン呼ばわりされて実の子供達を追い出し文鮮明教祖の遺言を守らず自分を生まれた時から原罪のない独生女でメシア、神様と言っておられる訳です。
また、様々な矛盾が噴出していても子供達であるはずの日本人教会員に何の説明もしない。心を開いてマコトの母として心情の吐露もしないで、神氏族伝道やら2020年摂理やら上から宣言してお金集めのハッパをかけるだけの人を信じられますか?
文鮮明教祖は確かに自分の目標を成し遂げる為に信者をコントロールして動かす為に朝早くからモーターボートで釣りに行ったり、様々な場所で修練会を開いてミコトバを語ったりしました。そう言う文鮮明教祖のカリスマ性や実行力を見て、文鮮明教祖を再臨主と信じて多くの信者が祝福マッチング結婚を最高に尊い重要な儀式として自分の結婚相手も文鮮明教祖に委ねたし、文鮮明教祖の摂理の為に命懸けの道を希望して行く人もいた訳です。
しかし、時と共にマコトの家庭の様々な矛盾が表に露出しました。その前までだったら、まだ、良かったのですが(良かったと言うか今ではもっと早くマコトの家庭の実態を知りたかった)、原罪のない筈の神様の神性と能力を持っている筈のマコトの子女達の実体の姿が見えて来て、文鮮明教祖が言っていた事と全く違う現実を見る訳です。
兎に角、長男孝進の変人の様な人間性が露出し、孝進氏の元妻ナンスクさんの暴露インタビューが99年頃放送され、2000年に入って韓国での世界平和統一家庭党の選挙での大敗北、郭ジョンファン元会長と三男顕進氏の統一教会の資産泥棒して離脱。三男対四男と七男の争い、文鮮明教祖死後はマコトの母の三男と四男の追い出し。仁進氏の不倫、離婚、再婚の略奪婚。朝鮮人幹部達の覇権争い。兎に角、マコトの家庭や朝鮮統一教会幹部達の間にこれまで日本信者が知らなかったマコトの子女の人間性の実態や朝鮮人幹部達の人間性や組織の姿が顕れて来た訳です。
何に応えているのか分からなくなったのでここで終わります。
無人格化させられてしまう2つの基本原理
そこで私が、原理講論の中で、これこそ集金マシン化、無人格化させられてしまう基本原理ではないかと思う点を書いてみたいと思います。
原理講論の中で、私たちが尻を叩かれ、走らされ、人間性を失ってまで活動に従事してしまうようにマインドコントロールされる基本原理が二つあります。ひとつは原理講論 後編 緒論の[1]蕩減復帰原理(1)蕩減復帰の中で示される蕩減復帰の概念と、三つの蕩減条件の立て方(報償法、減償法、増償法)に書かれている。もう一つは、緒論[1]蕩減復帰原理(2)メシヤのための基台 1.信仰基台 2.実体基台 に書かれています。
はじめの方の、三つの蕩減条件の立て方とは、一般的に何かに失敗した場合、あるいは壊してしまった場合、前のものより少ない価値のもので償うという方法、同じ価値のもので償うという方法、より大きな価値のもので償う方法の三つです。三つのうちの最初の二つは、相手が許してくれた場合ですね。近いうちに必要だから、同じものを戻してくれればいいよ、あるいは同じものでなくてもいいから、同じくらいの価値のものでいいよ、というのが報償法。もういいよ、いいから別に何もしなくていいよとか、大したものでなくていいよとか言ってくれて許してくれた場合が減償法。相手が怒って、テメー、どうしてくれるんだ、困っているんだよなどと、とても同じものではすまなさそうな場合が増償法。同じような失敗を何度か繰り返すと、もう償いの方法は増償法以外になくなってきますね。
で、メシアのための基台について。よく教団で、善悪分立のためとか、○○のための条件というのがありますが、それがこれです。このうち信仰基台は、中心人物、条件物、期間の三つの要素があります。例えば、私が、12月に韓女史を日本に迎えたいとすると、私が、12日間とか期間を定めて、1日12分間の祈祷をすると、この3つの要素が入りますね。そしてこの期間中もしくは期間が過ぎても妻と心を一つにして生活すれば、実体基台が造成されることになります。この信仰基台と実体基台が成功裏に終わると、メシアのための基台は造成されます。たとえ12月に韓女史にお会いするという目的は果たせなくても、ほかに何かいいことがあるでしょう、ということですね。
この3つの蕩減条件の立て方と、メシアのための基台造成が組み合わさると、アーラ不思議、「走る、走る、俺たち」(爆風スランプ Runner https://www.youtube.com/watch?v=obRE0CdRrXU&feature=youtu.be」って走らされちゃいますのよ。
「あのさー、今度一人○○万円の献金摂理があるんだよ。●月◎日までによろしく。」「えっ、とてもむりです」「キミんところの○○ちゃん、この頃体の調子悪いね。少し頑張って、条件立てておいた方がいいよ。このところ癌で死ぬ人が多いよね。気をつけてね」なんて会話があったりすると、中心人物は私、一人○○万円の献金摂理が条件物。●月◎日までというのが期間。で、今のところ減償法もしくは報償法の○○万円で済むけど、できなければ増償法の癌発病となるかも。
まあさすがにこんな露骨な話し方はしないと思うけど、例を挙げればこういうことで、気の弱い人は、それじゃ大変だと走り出すわけです。例えば先にあげた例で、12月に韓女史を迎えるための条件が失敗して、実際に韓女史を迎えられないとなると、中心者から、「東海大地震も近いと言われているからね。次は頑張ってね」なんて、ちょっと耳元でささやかれ、次は頑張らねばと気合を入れなおす。増償法という言葉は、怖いですね。これが、マインドコントロールですね。マインドコントロールは怖いですね。それでは、さよなら、さよなら、さよなら。なんていう感じですね。
実際はこんな単純ではないけど、これに、勝利したら○○と景品なりツアーなり、飴と鞭をうまく使い分けて、「走る、走る、俺たち」と人格無視の人たちが量産されるわけです。こういう時に、「それって、本当?」と一回考えてみるのがいいですね。「東海大地震が来る?これを勝利しなかったら大地震が来るって、証明できないよね。来なかったらどうするんだよあんた?」なんてね。
あるいは過去のことでそれらしく言われることがあります。「あ、ご主人がけがをして入院?そういえば、あなたあの摂理勝利してなかったよね?やっぱ、こういうことって、怖いよね」といわれたら、「怖くねーっつうの。因果関係の証明ができないこと言うなっつうの。あんたがこないだ礼拝さぼったことの蕩減が、うちの主人に来たのかもしれないよ。因果関係の証明のできないことをあんたが言うんだったら、私の推測もあながち外れてないかもよ」なんてね、言い返すんだね。心の中でね。口に出してもいいけど、相手と口論する勇気のない人は、心の中でそっとつぶやくと。これが必殺マインドコントロール返しの技です。
むしろ方法論の問題だと思います
>人格の完成を目指しているはずのシックなのに、いつしか人間性が失われていく-ことを指摘した。統一教会にとっては深刻な話であろう。
という観点から考えると、それほど正解に近くもないような感じがします。神々の黄昏さんの論をものすごくザックリ要約すると、統一教会員が人間性を失っていく主な要因は、
>原理講論において特定の人間的感情を神に当てはめていること(感情移入)を間違っていると述べている
>統一教団が「悲しみの神」という主観的な決めつけを行っていることが最大の誤り
ということだと思います。私は、そうでもないと思っています。似たようなものでは北森嘉蔵の「神の痛みの神学」というものもあります。そもそも人間が考えることですから、人間的要素が入り込んでも、大して問題はないと思います。
もちろん、信仰の核になっていく考えであるから、それが統一教会員に影響しないとは言いません。でも、それがあるから統一教会員の人間性が失われるという論理は、少々飛躍し過ぎではないかと感じます。
神観とか教理とかで「これは間違っている」とやっても、まさに「神学論争」と言われるように決着がつくものではないです。今でも聖書のとおりに宇宙は6000年前にできたと信じているメガチャーチもありますが、彼らに対して「それは地質学上間違いだ」と言ったところで、彼らの思考・行動形態に大して重要な影響を及ぼしません。
重ねて強調しておきますが、原理講論の記述が歴史学的にどうだとか、神に感情移入しているとかいうことが、統一教会員の人間性に何ら影響を及ぼさないとは言いません。しかし、それが「最大の誤り」と言い切るのはいかがなものかと思いました。むしろ、
>そのような神の心情を知る為には、血と汗と涙の道を歩まねばならないと強調し、違法でもある高額献金の強要を繰り返し、繰り返し行う
こちらのほうが「最大の誤り」だと私は思います。つまり、神観とか教義とかよりも、それをどう用いるかという方法論が間違っていると見たほうがいいと思います。そのような方法論を用いる組織を運営する側の人間、つまり教祖や幹部という者たちです。あるいは、そういう方法論を取らざるを得なくしてしまう組織そのもののあり方です。私は、そちらのほうが大きな問題であるという気がします。
基本的には、どんな突飛なことを信じていようが、犯罪やそれまがいのことをやって人に迷惑を掛けなければ是とするべきです。もっと言えば、どんな突飛なことを信じていようが、人さまの役に立てばさらによろしいわけです。私はそんなふうに思います。だから、まずはこの組織をつぶすか、現職の幹部に総退陣してもらって組織改革をしていくか、というところから着手することだと思います。
改革をするには、どうしても過去の問題点、つまりかような方法論をなぜ用いてきたのかという客観的な(こちら主観的では駄目)分析が不可欠ですから、現職の幹部がその分析をやる資格はありません。
>もし不可知と言うならば・・・
というのは、存在を認識しなければ、ものがあったって意味がないわけですから。神様がいたって、人が神様を認識できなければ、意味がない。物質があったって、人間の認識を通じて知るわけですからね。
で、今量子力学だったか、もうちょっと最先端の物理学だったかわからないけど、真空という状態は、有るにはあるだろうが、有ったって、それが何?ということらしいですね。空気を抜いて、いろんなものを抜き続けて、プランク定数的な短い時間、例えば十のマイナス何十乗秒という短い時間、真空ができたとしましょう。そこを観測しようとした瞬間、素粒子が現れるそうです。人間が認識しようとした瞬間、物質が現れるというのです。これじゃあ、理論的には真空はあるけど、真空を追及する行為自体は意味ないですね。
神も、宇宙も、神羅万象も、存在論的に有るにはある。だけど、有るといったって、人間がそれを知ろうとすれば、人間の認識がそれに加わるわけですから、存在論的な有は議論しても意味ねーな、ということのようですね。
異論
>統一教会=家庭連合に対する一般人の問題意識
「教会員は一般的な常識よりも信仰による善悪の判断を優先せねばならないため」
一般人の問題意識としては構いませんが、この記事の主旨からみたとき、この部分をこの認識で議論をすすめることは危ういと思います。
信仰による善悪の判断を、組織にアベルカイン観を適用した間違ったことを真理として教え実践させたことが問題の本質だからです。
>統一教会=家庭連合の信者の信仰とヘブライズムについて
「創造原理や統一思想要網などには非常に優れた内容があるのですが、原理講論 第二章、堕落論以降は論理的な破綻が見られ」
原理講論のヘブライズムは以下の流れで語られていると思います。
総序で、聖賢・哲人が人生の根本問題を解決できなかった。
心と体にあたる宗教と科学を統一した課題として解決しなければならない。
創造原理で、心(内)と体(外)が二性性相の関係にあると示し、
堕落論で、アベル(内)とカイン(外)の分立摂理が必要な根拠を示し、
近世の思想の流れで、ヘブライズムとヘレニズムとして展開しながら
内外両面の心霊、知性の回復をしてきたと主張していると思います。
総序で、宗教家の禁欲生活の限界を取り上げ、心霊面のみでは解決しないことは論述済です。
もし、ヘブライズムが統一運動の目指す姿と理解されているのであれば失当だと思います。
※原理講論の内-外の表現は主旨を考えて捉える必要があると思います。
統一思想では、心と体と一言で言っても、霊人体-肉身、生心&肉心-霊体&肉体、などその関係はいくつもあるようにです。
>統一教会=家庭連合の宗教的な特異性について
「「天の事情」を口にするなどヘブライズムの信仰ではあり得ない」
純粋に原理講論を読み、信仰を持った人なら、原理講論のヘブライズムの説明を読み、「天の事情」と口にすることはないでしょう。
教会で使う「天の事情」とは、恨の神様の事情ではなく、教会責任者の事情、教会で信徒に活動をさせるための方便と捉えるべきです。よって、この原因を人格神の解釈に求める点も失当だと思います。
統一思想にあるように、認識は主体と対象の授受作用で成り立ちます。
神々の黄昏さんと私では、その主観が大きく違います。
すでに、これほど違うので、私の意見の主張はこれくらいにしておこうと思います。
原理の「堕落論」、「カインアベルの法則」、「血統転換」に特に感銘を受け、文氏が再臨のメシアであることを確信した私には、貴兄のご論考は分りづらく、疑問点も多くて、ここで質問させていただくことにいたしました。
質問1、堕落論について
(引用始め)
>原理講論 第二章、堕落論以降は論理的な破綻が見られ、宗教思想としては欠陥があることがわかります。
(引用終わり)
堕落論についての批判が無かったように思ったのですが、コメント欄に付け加えてくださったようです。これが貴兄が論理的な破綻とされる根拠ですか?
(引用始め)
>私が伝道された当時使用されていた聖書では、イエス様が恋愛感情を持つことさえ罪として戒めているように書かれていたのです
(引用終わり)
それは原理のせいではなく、聖書のせいでは?
当時は一般の教会もその聖書でしたが。。
(引用始め)
>もし情欲をいかなる女性に対しても懐いてはならないというのであれば、性欲そのものを否定していることになり、それは人間の生理に反しますから、絶望的な激しい葛藤が生まれてくるのは当然です。
(引用終わり)
原理では性欲そのものを否定してないと思いますが。。祝福結婚するわけですし。。
質問2、カインアベルについて
(引用始め)
>*注釈2
原理講論においては、旧約聖書の創世記に書かれているカインとアベルの物語を特別な意味があることとして捉え、神への捧げ物を認められた弟のアベルを「善の表示体」とし、捧げ物が認められず、怒ってアベルを殺した兄のカインを「悪の表示体」と捉えています。
従って、アベル・カインの関係とは善なるものと悪なるものという関係になり、主体と対象、あるいは上位と下位という関係とは異なります。
つまり、「カイン型の人生観」とは悪なる性格の人生観、善なる神を中心としない人生観という意味になります。そして「アベル型人生観」とは善なる人生観、善なる神を中心とした人生観という意味になります。
(引用終わり)
私ペトロは「善の表示体」「悪の表示体」は人類復帰のために便宜上分けられたということで、イコール善、イコール悪ではないと理解しております。また、復帰のためにはカインもアベルも必要との認識です。
キリスト教会で人気がある聖書のたとえ話に、「放蕩息子」があります(ルカ15/11~)。
一般的クリスチャンは、放蕩息子であるどうしようもない弟の帰還を 無条件に喜び迎える父(神)の愛にはいたく感動しますが、弟に対する父の対応に不平を言う兄をいさめる父にはあまり目が行かないでしょう。
しかし原理を知って再度読み返すと、このたとえ話には、兄(カイン)に「減少感を乗り越えて顔を上げてほしい」という神様の強い願いが込められていると感じます。「ぶどう園のたとえ」も同じ。朝から働いた労働者(カイン)は夕方に来て少ししか働かず自分と同じ給料をもらった労働者(アベル)を憎みますが、神の目はいつもカインに注がれているのです。乗り越えてほしいと。だから、カイン=悪ではないのでは? そして、カインの立場とアベルの立場は観点によって変動的なので、いちがいに、ヘレニズム・ヘブライズムだけでは説明できないのでは?
質問3、「神の擬人化」について
(引用始め)
>そして、キリスト教神学においては、ユダヤ教にあった最小限の擬人化もさらに弱められ、神が形而上学的に追究されるまでになったので、擬人化と逆方向に進歩したと考えられるのです。
(引用終わり)
先の例で挙げましたような’聖書のたとえ話’は、神様を擬人化することで成り立っております。
また、「イエス・キリストは神の子である」ということを信じないクリスチャンは居ないのです。これは、神の擬人化にはあたらないのでしょうか?また、一般教会ではイエス・キリストと神はほぼ一体視されていますが、これも神の擬人化にはなりませんか?
以上、神々の黄昏さまのお返事がいただければ幸いです。なるべく短くまとめていただけると助かります。
p.s.尚、現在私はサンクチュアリ寄りのカクレキリシタンです(笑)
>人間的なレベルの感情で神を捉えていることを問題視しているのです。
>神様の情が悲しみであるか、ないかを決めつけているわけではなく、
>原理講論において特定の人間的感情を神に当てはめていること(感情移入)
>を間違っていると述べているのです。
そのように主張するのが正しい場合は、神様が存在しないか、
神様には人間的感情がない場合です。
神々の黄昏さんは、「神様は存在しない」、
あるいは「神様には人間的感情がない」、
と信じる立場でしょうか?
もし、神様が存在し、神様が喜怒哀楽の感性を持たれており、
神様に似せて人間も喜怒哀楽を感じる存在として創造されたとすれば、
神々の黄昏さんの批判はナンセンスとなるのです。
神々の黄昏さんの主張は、「無神論」か「神様には人間的感情がない」
とする立場なら妥当な主張ですが、不可知論の立場では無理があります。
付け加えれば、人間的感情という言葉で否定されますが、神が人間に似ている
のではなくて、神に似せて人間を創造された立場からは、人間的感情が神に
似ていることになり何の問題もないのです。
ですから、もし、純粋に神様を求める立場で考えるならば、実際の神様が
どのようなお方か? ということだけが大事であり、実際の神様が心情の
神様であり、喜怒哀楽の感性を持つお方であるならば、そう主張することに
何の問題もないことになります。
無人格化させられてしまうその他の基本原理
だから、本当は、アベル・カインの原則というよりも、ヤコブ・エサウの原則と言い換えたほうがいいのかもしれません。弟アベルが兄カインに対しどのように接したか、聖書には書いていませんが、カインに殺されるくらいですから、相当居丈高だったんじゃないかということがよく言われます。ヤコブは、自分を殺そうと待ち構えている兄エサウを逆に感動させて、兄弟二人がひしと抱き合って和解したわけですから、アベルを代身する立場を乗り越えたわけで、本当はアベルカインを勉強するより、ヤコブエサウ関係を勉強したほうが良いわけです。
原理講論通りにやろうとすると、カインはアベルを通じて、またアベルの指示を得て、神様に尽くすということになるわけです。しかし、本当にアベルカインの問題を乗り越えたのはヤコブ・エサウですので、アベルの正道というものが大事ですね。しかしこれが教団の聖典たる原理講論に、記載されていないわけです。
このアベルカイン問題が、先ほどのメシアのための基台造成、増償法の蕩減条件と合わさると、本当に非人間的な活動家がどんどん誕生することになります。摂理というものは、いつまでものんべんだらりとやっていればいいわけではなく、必ず一定の期間内に済ませなければならない。そしてそのための条件物はかなりハードで、カインは文句言わずさっさとやれ、ということにもなります。理想を求めて入った統一教会だけど、いつしか理想よりやらなければならない目標の方を重視するようになります。こうして、非人格人間が多数量産されることになるわけです。
Re:ペトロさんの質問
ぺトロさんのコメントはわかり易い質問形式で書かれていますので、即答できますし、最初に書くことにします。
>堕落論についての批判が無かったように思ったのですが、コメント欄に付け加えてくださったようです。これが貴兄が論理的な破綻とされる根拠ですか?
堕落論に関しましては、問題点は明白であり、「サタンの血統」という言葉を使っていることです。
堕落論を全体として見ても論理的な不整合はいくつもありますが、最大の間違いはサタンの血統が堕落した人間に受け継がれたという理屈です。
霊的な存在である天使長に人間に残って行く「血統」などというものがあろうはずがありません。
それは科学とは相容れない妄想でしかないし、性関係を一度もっただけで、子供が生まれたわけでもないのに、人間に血統として受け継がれたなどと、信じる方がおかしいのです。
それを、言葉どおりではなく、象徴的な意味で使うならわからなくもないのですが、「血分け」とも称される性行為が実際に信者に対して行われていることを思うと、それを言葉どおりに解釈していたということですから、議論するまでもないことです。
>それは原理のせいではなく、聖書のせいでは?
当時は一般の教会もその聖書でしたが。。
もちろん、そのように日本語約した人に問題があるわけです。
しかし、聖書の話は元々例え話が多く、それをどう捉えるかは人によって変わってきます。
統一教会の場合は、人間が未完成期に男女関係をもったことを堕落と捉えますから、男女の恋愛などは一切禁止ですし、それと重ね合わせてその聖句を強調したのです。
教理として純潔を尊重するのはわかるのですが、恋愛感情などを原罪と結びつけるのは問題があるのです。
>原理では性欲そのものを否定してないと思いますが。。祝福結婚するわけですし。。
もちろん肉的欲望は本然の世界でも変わりませんから、統一原理で否定されるわけがありません。
問題は、それを原罪と同質のものとして捉える罪観念です。
つまり、自然な恋愛感情であったとしても極度に罪悪視することになり、罪意識を必要以上に加重してしまうのです。
>カイン=悪ではないのでは? そして、カインの立場とアベルの立場は観点によって変動的なので、いちがいに、ヘレニズム・ヘブライズムだけでは説明できないのでは?
この質問は少し誤解があると思います。
ヘレニズム・ヘブライズムの関係をカインとアベルの関係で捉えているのは原理講論の論理なのです。
それで私は、その捉え方が間違いであると指摘しているのです。
もう一度、文章を読み直して欲しいと思います。
>先の例で挙げましたような’聖書のたとえ話’は、神様を擬人化することで成り立っております。
また、「イエス・キリストは神の子である」ということを信じないクリスチャンは居ないのです。これは、神の擬人化にはあたらないのでしょうか?また、一般教会ではイエス・キリストと神はほぼ一体視されていますが、これも神の擬人化にはなりませんか?
ペトロさんはキリスト教の三位一体論を述べているのだと思いますが、キリスト教神学者でさえその論は難解とされており、<「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調>(ウィキぺディア)されているのです。
つまり、それほど単純にイコールとは考えていないのです。
それは神自体を擬人化しているのではなく、逆に、イエス・キリストという存在を神格化していると考えるべきです。
もちろん神について語る場合は、何かに例えなければ表現のしようがないのですが、比喩、象徴という前提で語る分には問題ないと思います。
ただ、比喩、象徴としてではなく、断定的に語るのは問題なのです。
その場合は、必然的に超越した神を引き下げてしまうことになるのです。
Re:原田和彦さん
原田さんの関心を持たれていた問題がそのポイントにあったことを了解しました。
確かに寄稿文は長文になって、その原田さんの直接的な答えがわかり辛くなってしまったのかもしれません。
ただ寄稿文の中心ポイントは統一教会の信仰そのものに焦点を当てて歴史的な宗教、思想の流れと関連させてその本質を追究したので、原田さんが問題意識を持っていたそのピンポイントの回答が論全体の目的ではなかったのです。
つまり、寄稿文の元となったコメントを書いた動機は「人格の完成を目指しているはずのシックなのに、いつしか人間性が失われていく」ことに対する問題意識にあったのですが、今回の寄稿文の中心テーマは あくまで「統一教会=家庭連合の唯一神信仰についての考察」なのです。
是非ご了解いただきたいと思います。
また、原田さんはそのピンポイントの問題に対して、蕩減復帰原理を用いて解説してくださいましたが、確かにそれはその通りで、統一教団の指導者が無理な高額献金を信者達に強いる場合は蕩減復帰原理を口にします。
しかし、大抵の場合、教会の指導者が口にする献金の理由などはかなり嘘っぽいものばかりで、屁理屈としか思われないものが多いのです。
昔、韓国の宣教師が日本人信者に献金を命令したビデオが動画になってブログで紹介されることがありますが、「ちゃぬの裏韓国日記」ブログでも過去にアップされていたと思います。
そこでは「所有権返還」などと強調して話していましたが、よく考えれば、それが理屈として間違っていることは誰でもわかるはずなのです。
しかし、そこに居合わせた信者は異を唱えることもせず、その狂ったような韓国人指導者に従っているのです。
そのように指導者が言っていることは間違っているとわかっていても、それでも必死になって献金に励む信者も多いのです。
その信者達の異常な姿は信仰の内容と深くむすびついているわけですから、その信仰がどのようなものであるかが最も重要な問題なのです。
そこで今回のような寄稿文となったわけです。
原田さんが書かれた蕩減復帰原理を利用した指導が、統一信者を非人間化しているのは間違いないのですが、その蕩減復帰原理を拡大解釈した屁理屈を、正しくないと思っていても信者が信じて教会指導者に従う場合もあり、その場合の信仰というものが今回の寄稿文の中心テーマなのです。
Re:むしろ方法論の問題だと思います
「重ねて強調しておきますが、原理講論の記述が歴史学的にどうだとか、神に感情移入しているとかいうことが、統一教会員の人間性に何ら影響を及ぼさないとは言いません。しかし、それが「最大の誤り」と言い切るのはいかがなものかと思いました。むしろ、
>そのような神の心情を知る為には、血と汗と涙の道を歩まねばならないと強調し、違法でもある高額献金の強要を繰り返し、繰り返し行う
こちらのほうが「最大の誤り」だと私は思います。」
寄稿文は長文になってしまいましたので、さいぞうさんにとってもわかり辛くなってしまった面があったのだと思います。
寄稿文の中で「最大の誤り」としているのは本文の『その朝鮮民族の「恨の感情」との関連が認められる上に引用した原理講論の記述では神が擬人化されており、“神の心情”があたかも普通の人間と同質であるかのように書かれていますが、その内容こそが原理講論の致命的欠陥であり、信者の信仰を歪めた最大の原因なのです。』の部分で、‘神の恨’を訴えている内容を「最大の誤り」として批判しているのです。
それは特に情緒的な信者には大きな影響を及ぼす内容であり、考え方によっては‘愛’を否定するようにもなってしまうのです。
つまり、「神は愛である」が絶対であると思えば、他者に対して非人道的なことなどできないのですが、「神には恨が残っている」と思うと、人間の道徳に反することもできる心理状態になってしまうのです。
そのような「恨」に囚われる心理状態ができてしまうと、愛を実践するよりもその「恨」を晴らす方が優先されるようになるのです。
そして、その「恨」「悲しみ」の心情を知ることが神の心情を知ることになってしまうので、神の心情を知りたいと願っている信者は「血と汗と涙の道を歩まねばならない」という考えに向かうようになり、地獄のような献金路程も甘受するようになるのです。
したがって、さいぞうさんが仰るように、教会の指導者達が宗教論を利用する方法そのものに大きな問題があるのは間違いないのですが、そのような方法を利用できるようになるのも、その信者の中に利用される要素があるからなのです。
つまり、その教会指導者達の無理な要求を受け入れる信者の心理にこそ統一教会の最大の問題があるということにもなるのです。
ただ、統一教会=家庭連合の幹部達は、宗教思想そのものを簡単にコロコロ変えたりするので悪質極まりないのは確かです。
論考の深化を請う
>その統一教会の偽物のヘブライズムを正しく言い表すならば朝鮮シャーマニズムの変形ということであり、信仰している対象も無形である創造主の神ではなく、朝鮮シャーマニズムにある妄想のような「ハヌ二ム」に近い存在だったのです。…統一教会で教える信仰は「宗教のシステムとして道徳や倫理の問題にそれほど関心を持っていない」朝鮮シャーマニズムの信仰そのものだったということです。
まず、ヘブライズムとヘレニズムを宗教的に解釈しようとするところに問題があると思います。ヘブライズムがユダヤの一神教を源流にし、基督教信仰の素養になっているからといっても、時代の中で勝手な解釈が行われて現代に至っています。原理講論や統一思想での簡易な解釈は、アカデミー伝道のためで、韓国の原理講師の中には不可解だ、反論を避けられないとして省略する人もいます。
ですから、「統一教会の偽物のヘブライズム」は、「基督教の偽物のヘブライズム」から構築されたものと言えます。しかし、これを「朝鮮シャーマニズムの変形」とするには無理があるというか、説明不足というか、短絡的というか、無理やり結びつけようとする意図さえ感じられて、残念です。
「朝鮮シャーマニズム」と「恨の文化」の解釈も同様です。日本の教会で語られているものと大差がなく、よって論考に進展が見られません。その真髄に触れていないから、言葉が上滑りです。せめて、断定表現を控え、自分はこう考えた、こう解釈したという表現にしてください。
そして、深化した論考にするために、なぜ、訳の分からぬ「朝鮮シャーマニズム」や「恨の文化」の情緒をもって、多くの日本人が引っかかり伝道されたのか。黄昏さんのような聡明な知性をお持ちの方でも、初めは破綻した原理だと見抜けず、「恨」や「悲しみの神」という語に情緒を揺さぶられたのはなぜか。
以前、何かの折に投稿したことがあるのですが、私は日本の皇民思想と皇民教育の文化的素養がそれを可能にし助長したと考えます。(私はこれに反対したり否定したりする者ではありません)
『天皇の料理番』に見られるような「絶対的忠誠心」、これが上手く利用されていると思うのです。
私が30年以上韓国と関わって思うことは、日本人に、または日本の土壌では「朝鮮シャーマニズム」や「朝鮮儒教」は理解できないだろうということです。文氏もその一族も、韓国幹部も、その意味で日本信徒を信用しないし、重用しません。
日本文化の中に深く自然に溶け込んでいる天皇(御上)への親しみと絶対的忠誠心、この方なくして自分の存在はないという一体感、この感覚と素養が利用されたということです。
日本人の伝道は「朝鮮シャーマニズム」とは全く関係ない形で行われてきました。清平を含めて、日本人用の伝道プログラムなるものが存在します。同様に欧米用のブログラムが存在し、各々の動機の乖離が統一を阻む要因になります。そこには教理の出来など、度外視された現実があることに気づかされます。宗教ではなく政治活動だと言っても過言ではありません。税金を徴収するように献金要請できる組織的風潮が、それを証明しています。
よって、原理や韓国人幹部の素行を説明するのに「朝鮮シャーマニズム」や「朝鮮儒教」をもってすれば、しっかり区別できますから、未だ目覚めぬ日本の信徒には有効でしょう。しかし、それから、どうするのでしょうか。日本人だけの統一教をつくるのでしょうか。それも厄介なものになりそうな予感がするのですが、杞憂でしょうか。
今日はここまでにします。
- [2015/11/22 12:18]
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Re:異論
信仰による善悪の判断を、組織にアベルカイン観を適用した間違ったことを真理として教え実践させたことが問題の本質だからです。
プームチャイさんがそのように書かれるのは誤読です。
また説明不足であったかもしれませんので、改めてご説明しますと、「教会員は一般的な常識よりも信仰による善悪の判断を優先せねばならないため」とは一般論として書いているのであって、統一教会の特定の問題について書いているわけではないのです。
つまり、宗教を信じている教会員であれば、一般的な人々の常識的な考え方よりも宗教的な価値観に沿って行動するのは当然で、強制されずともその信仰に従うようになるのは必然なのです。
もし、そうならないとしたら、その宗教を実際には信じていないということなのです。
>もし、ヘブライズムが統一運動の目指す姿と理解されているのであれば失当だと思います。
上記のプームチャイさんのコメントにも誤解があります。
確かに原理講論にはヘブライズムを目指すなどとは書かれておらず、ヘレニズムがより外的なものでカイン的なもの、ヘブライズムがより内的なものでアベル的なもので、それらが統一されて真の理想的な文化が生まれるという説明になっています。
それは原理講論に書かれた内容ではあるのですが、現実問題として「統一運動」はそれとは違うのです。
再臨のメシアを絶対化している時点で、それはヘレニズムとかけ離れているのです。
それはヘブライズムを選択したのであり、ヘレニズムと逆行することにもなるのです。
もし、再臨のメシアとされる人物が自己を絶対化して血統転換などと馬鹿なことを言わず、科学的にも証明できることを主張するならヘレニズムとヘブライズムの「統一運動」と言えるかもしれませんが、そうではないのが現実ですから、ヘブライズム指向なのです。
しかし、信仰の内容としては朝鮮シャーマニズムとかなり近いものなのです。
>教会で使う「天の事情」とは、恨の神様の事情ではなく、教会責任者の事情、教会で信徒に活動をさせるための方便と捉えるべきです。よって、この原因を人格神の解釈に求める点も失当だと思います。
「天の事情」とはもちろん教会責任者が現実的な事業活動を進めるために教会員に対して利用する方便です。
ただ、そのような理屈を可能にするのは統一原理の「神の摂理」に対する間違った解釈があるからです。
そしてその間違った「摂理」の解釈は「神様の恨」の開放と密接に関係してくるのです。
つまり、統一教会=家庭連合の場合は人格神をかなり低い人間的な次元で捉えるので、「神の摂理」が現実の事柄に置き換えられ、そこに感情移入して「事情」などという言葉も使われてしまうのです。
したがって、「天の事情」という言葉を使う根本原因は人格神を低次元で解釈したその特殊な信仰にあるのです。
賛同と疑問
教義についてニュートラルな立場にある米本さんのブログだから可能なのでしょうけれど、本来なら統一教会こそが、こういった研究や討論の場を提供すべきだったはずです。
神々の黄昏さんの論文には、賛同する部分と、疑問を抱く部分がありました。
統一教会組織に対する批判や原理講論の限界については、ほぼ同じような感覚です。
また韓半島についての歴史認識や、そうした文化・宗教的背景が、いまの統一教会の実態に悪い影響を与えていることも、その通りだと思います。
4研関連ブログにも、同じようなスタンスの記事が連載されています。
ただ、神々の黄昏さんは、統一教会内で流通している間違った原理観を、「原理そのもの」として批判しているようにも見受けられました。
文先生の御言に示された原理と、統一教会内で信じられている「原理」には、大きな隔たりがあります。私が所属する4研では、文先生の御言からのズレが問題だと考えていますが、神々の黄昏さんは、むしろ文先生の御言に影響を受けたためにおかしくなっている、という立場のようですね。
一見、私たちと真逆のようでもありますが、これもまた、文先生の御言をそのまま字義通りに読むと、たしかにおかしなことがたくさんあるので、そう思ってしまうのも理解できます。
しかし実際は、原理講論の問題も、統一教会組織の問題も、文先生の御言をよく理解していなかったからであったというのが私たち4研の見解です。(詳しいことは、ここでは省略しますが、興味ある方は4研関連サイトをご覧いただければと思います。)
また神々の黄昏さんが、キリスト教と統一教会を対比して論じている個所では、統一教会の腐敗した悪い面と、キリスト教の良い面を比較しているというような不公正さも感じられました。
キリスト教が人権を重んじていて、統一教会は人権を軽んじているという決めつけは、ちょっと単純過ぎると思います。キリスト教の主流の歴史をみれば、今の統一教会とは比較にならないほどの人権弾圧があったことがわかります。
たしかに統一教会の今の実態はひどいものですが、その理念には、素晴らしいものもあるのも事実です。キリスト教(第2イスラエル)の腐敗の歴史が、統一教会(第3イスラエル)内でも再現されていると、私は感じています。
前置きはこれぐらいにして、神々の黄昏さんに質問です。
「神は人格を高次元にした超人格的神になるのではないか」という一文がありましたが、「高次元の人格」と「人格を完成した人間」は同じような意味でしょうか。同じであれば、人間が成長して人格完成すれば、神と同格になると思うのですが。それとも、どこまでも人格を高めても、神との間には、越えられない溝があるとお考えでしょうか。
もちろんこれは人格完成者とは、どういう存在かということと深く絡んでくる問題ですね。私たちは、神の実子圏に入った基準を、人格完成といっているので、定義がトートロジー的になってしまいます。
あるいは御言にそって「心と体が統一された人」であるともいえるかもしれません。それが実際にどんな人かは、言葉で説明するのは難しいところがありますが、具体的には、イエス様や文先生がそうであられたと、私たちは信じています。
ただ、人格を完成すれば、神と同じようになれる(もちろん存在論的に同じという意味ではありません)、神の実子、神の家族になれる、ということであれば、神はある意味、複数であると考えられないこともありません。精密にこのあたりのことについて論を進めていけば、文先生の御言には、多神教や汎神論をも包摂し得る深く壮大な神学があると私は感じています。
神が愛の神であるならば、愛の対象として、自分と同質、同格のものを求めるはずです。モノを愛する、ペットを愛するということもありますが、神の愛の中核にあるのは家族愛であったと、私たちは原理で学びました。創造原理では神の愛は三対象の愛(父母の愛、夫婦の愛、子女の愛)であると表現しています。(文先生の御言では四大心情の神。キリスト教でもイエス様によって「子なる神」が実体化していると考えられています)
神が人間を家族として愛するのであれば、その人間は、価値論的には神と同格になるのではないでしょうか。神ご自身と同じような立場に立てる存在がないとしたら、神の孤独は永遠に癒されないということになりませんか。
「超越している神は、そんなことで孤独を感じたりしない」と考える人もいるでしょうけれど、それだと「愛の神」と相いれないような気がします。神の愛は、人間の愛よりも、さらに深く、情熱的で、強いはずだと、私は思います。
創造原理にあるように、愛はそれ自体の性質として対象を必要とします。神1人で愛を満足させることはできません。超越したまま(=孤独なまま)では、愛は成立しないということにもなります。
むしろ超越神は、愛のためにその立場を相対化してでも人間をつくられたとも解釈できるような気がします。
なにものにも揺るがない強靭な意志をもった人でも、いったん誰かを愛してしまえば、その対象に大きく左右されます。愛する相手がつらい状況にあるのに、自分だけ心おだやかではいられません。
そういった意味では、今の人間世界の現実に最も傷つき悲しんでおられるのは、全人類の親であり、人間を深く愛してしまわれた神ご自身であると考えられます。
神々の黄昏さんが考える超人格神は、超越した立場で、静かに、穏やかに、この人間の苦しみを眺めておられるのでしょうか…。
神々の黄昏さんは、神の血統、サタンの血統ということを批判していますが、私も、肉体をもたいない神やサタンの生物学的血統など、ナンセンスであると考えています。
ただ、血統という言葉に込められた意味(つまり親子のつながり)は、とても重要であると思います。聖書にも、創造原理にも(あるいは他の多くの宗教教典にも)神と人間は親子関係にあるというメッセージが込められています。
神と人間が親子であるということを、どうお考えでしょう。
それは象徴的表現であり、そこには実際の親子の情はない、と考えられますか?
あるとすれば、一般的な親の情と、どう違いますか?
私は、むしろ人間の親よりも、神はもっと深く、強く、濃く、その子を愛する神であられると感じています。
神々の黄昏さんは、血統問題と絡んで、神の実子ということも否定されておられるようですが、私は、人間は本当に神の実子になれる――なるべきであると考えています。神の実子となり、神の家族となることが、神の創造目的だからです。
ただ、こうした思想は、人間個人を偶像化し、個人崇拝に陥る危険性もあります。
個人崇拝は、神々の黄昏さんが強く批判しておられる神の擬人化と背中合わせで、大きな問題があることは確かでしょう。
ただそれを恐れるあまり、神を超越した所に置き過ぎるのも、賛同しかねます。
私は、文先生を再臨主として信じる立場にあります。必ずしも文先生を再臨主として妄信しているというのではなく(むしろ、10数年前に統一教会から離れつつあったときは、そのメシヤ性には否定的でした)、4研で御言を研究するうちに、その中に、神学、哲学、科学上の大問題を解決し得る真理があることを発見したから、というのが本当のところです。
少し長くなりました。
こうした議論の場を与えていただいたこと、ブログ主様に感謝です。
中間感想-散文的なというか散漫的感想
4研を思想的にも理論的にも、つまり似非プロガンダ的にも、また肉体的にも抹殺しようとしてきた岡村法務局長、太田朝久教会成長研究院(ダサい名前だこと)の副院長さんの反論コメントを期待しているのだけど、劣化した、具体的に言えば、献金メシを食うことに汲々している彼らは絶対にコメントしない。というよりできない。
岡村氏は天下り先を探すことでも汲々としている。(古田、ひろってやれよ)
哀れ、家庭連合!
神々の黄昏さん、ゆっくり、頑張ってくださいね。
Re:論考の深化を請う
cosmopolitanさんが仰るように、朝鮮シャーマニズムに関しては説明不足であることは認めざるを得ません。
‘火の粉を払え’の前の記事のコメントで紹介したPDFにもありましたが朝鮮シャーマニズムは「発展した教理を持っているわけではないので、容易に多宗教と混合される」ということですし、主に霊的な世界に関心を向けているわけですから、宗教思想として明確な形で捉えることができません。
ただ、その霊界を指向する特徴や朝鮮半島の人々に伝統として伝わる民話のようなものは一つの流れがあり、それはユダヤ教―キリスト教と区別せねばなりません。
ウィキペディア「韓国のキリスト教」によりますと以下のように書かれています。
(以下引用)
自身もクリスチャンである崔吉城教授は、韓国のキリスト教について「キリスト教会にはシャーマニズムとキリスト教が共存あるいは混在するようであり」「多くのクリスチャンはシャーマニズムを迷信だと思いながらその中にシャーマニズムが埋没されている事に気がつかない」と述べている。また、プロテスタントが成長した秘訣は巫俗を受け入れた宗教的熱狂主義に根元を置く心霊復興会にあると指摘した。「韓国プロテスタントの感性的神秘主義運動は知性的神学を前面に出して布教に失敗した日本プロテスタントと対照をなす。韓国プロテスタントはキリスト教が一般的に敵対視したり忌避する傾向があるシャーマニズムを神秘主義に引き込み、巫俗的神秘主義と韓国の風土が合致して教会の急成長をもたらした。神霊的神秘主義を端的に表現する言葉として「通声祈祷」「聖霊臨在」「放言」「三拍子祝福」「治病」「按手治療」「血分け」「接神」「降神劇」などを挙げ、このような新興聖霊運動は韓国国内だけでなく韓国人が住む世界随所に現れている。
上の研究から考えますと、韓国のキリスト教自体が既にシャーマニズムと融合しており、すでに、その時点でヨーロッパのキリスト教から変化していることになります。
つまり、韓国のキリスト教そのものがヘブライズムの本流から外れた傾向をもっていることになります。
文亨進氏の証言からも、統一教会の初期には「血分け」があったことが証明されましたが、それは韓国キリスト教、異端の混姻派から受け継いだものと考えられます。
そのような異端のキリスト教になると、より一層シャーマニズムの影響が強くなっているわけでして、それは内容として「朝鮮シャーマニズムの変形」と捉えることもできると思っています。
統一教会は特に文鮮明氏を神格化していて、文氏の血統を神の血統とするわけですから、イエス・キリストを信じるキリスト教とは根本的に違っていると思います。
つまり、シャーマニズムと溶け込んだ韓国キリスト教よりもさらにシャーマニズムに近くなり、文氏を絶対化することによって、一層シャーマニズムの要素がにじみ出るようになったのだと思います。
さらに一方ではcosmopolitanさんがコメントされたように、キリスト教に対しても「基督教の偽物のヘブライズム」と言えるのかもしれません。
ただ「ヘブライズム」は確かにユダヤ教を意味する言葉でありますが、一般的にはユダヤ教とキリスト教を合わせた観点でもそのように言い表されますし、私としてはそのようにユダヤ教―キリスト教の流れで見てもそれほど大きな問題はないと思っています。
>初めは破綻した原理だと見抜けず、「恨」や「悲しみの神」という語に情緒を揺さぶられたのはなぜか。
cosmopolitanさんは「日本の皇民思想と皇民教育の文化的素養」が大きく作用したと書かれていましたが、韓国よりも日本の方が多くの人が伝道された理由はいろんな要素があると思いますが、第一には人の善意を信じやすい『人の好さ』があるのではないでしょうか。
日本人は外国人と比較しても人を疑うことをあまりしないと言われていますし、そのような良心的な性格があるため、理想を唱える統一教会に魅力を感じ易かったのだと思います。
cosmopolitanさんが言うところの「皇民思想」「皇民教育」と関連付けるならば、日本には島国としての「和」を重んじる伝統があり、天皇制が根付いていたため、イエス・キリストを絶対化するキリスト教は結局日本では広まらなかったわけですが、そこが関係していると思います。
キリスト教が日本に馴染まなかったのに対し、統一教会の場合は文氏を再臨のメシアと主張していながらも、全ての宗教の統一を目指すと唱えているので、「和」の精神と合致したのだと思います。
そして、信仰を持つようになってから「悲しみの神」「神の恨」に共感するようになってしまったものと思われます。
私も統一教会に伝道された当時、最も魅力を感じたのは宗教、思想の統一、そして神を第一原因として捉える「原理」でした。
実を言いますと、私は「神の恨」「悲しみの神」には情緒を揺さぶられませんでした。
それについて書くと長くなるので止めますが、実際の真剣な祈りの中でそのような情緒を拒絶されたのです。
それは決して理論だけで言っているのではありません。
ただ、日本人が韓国人よりも多く伝道されたと言っても、少ないキリスト教信者よりもさらに少ない人数ですから、あまり民族性とは関係ないのかもしれません。
Re:賛同と疑問
>神々の黄昏さんが考える超人格神は、超越した立場で、静かに、穏やかに、この人間の苦しみを眺めておられるのでしょうか…。
>神と人間が親子であるということを、どうお考えでしょう。
それは象徴的表現であり、そこには実際の親子の情はない、と考えられますか?
あるとすれば、一般的な親の情と、どう違いますか?
‘4研メンバーのひとり’さん初めまして、真摯な言葉使いはとても信仰者らしく、好感を抱きました。
どうぞよろしくお願いいたします。
さて、質問に対するお答えなのですが、それらの質問には 統一原理内にある論理よりも違った観点からの論理で説明する必要があり、そこから始めなければ‘4研メンバーのひとり’さんの質問に対する完全な答えとはなりません。
つまり、私自身の創造原理の解釈から述べなければならず、そこから始めさせていただきたいと思います。
創造原理や統一思想要網を理解する上で、一番の核心となるのはご存知『心情』です。
神自体も心情を中心として存在しているとされ、統一思想要網にもそのことが論理的に書かれています。
私は現在の統一教会=家庭連合の統一思想にある『心情』の定義は間違っていると思っています。
『心情』という言葉さえも相応しくないと思っています。
なぜなら、『心情』ですと人間の情緒を意味する一般的な言葉と区別できなくなり、統一思想の中にある概念を正しく表現できないからです。
古くは統一教会内において『心情』は「 喜びを得ようとする情的衝動」と定義され、現在では「心情とは、愛を通して喜びを得ようとする情的衝動である」とのことですが、通常はそのような意味で心情という言葉を使いません。
ただ、その概念を表す適当な言葉を選ぶのは簡単ではないので、とりあえず『』付きで『心情』とすることにします。
‘4研メンバーのひとり’さんはおそらく「心情とは、愛を通して喜びを得ようとする情的衝動である」と考えておられるのでしょうが、私はそれは間違っていると思っているのです。
つまり、『心情』は対象が存在しない状態で、すでに‘ある’ものなのに、対象を前提としなければ発生しない情である「愛」を想定しているのは矛盾しているのです。
それは理論的に破綻しているのです。
対象がない状態は人間には想像できるはずもないのですが、神が第一原因として存在したと考える場合、その原点にあるものなのですからこれ以上重要なものはないのです。
しかしながら、そこには愛が生まれる要素がなかったのです。
それでは、神の中心としてあったものは何か、それは発展を指向する性質、またその目的としか考えられないのです。
発展を指向するが故に本性相と本形状の授受作用(相互作用)から創造活動が始まり、宇宙が造成され、時間を経て人間の誕生となったのです。
もちろんその創造の過程で神のロゴスが形成され、神の形象的実体対象として人間が誕生するようになったので、人間は「神の子」という表現も正しいことになります。
しかし、愛が誕生するようになるのはその人間が誕生してからなのです。
ロゴスが形成された段階では愛が発生する可能性がありますが、それは完全な愛ではないのです。
「神は愛なり」というキリスト教の言葉は正確ではありません。「心情とは、愛を通して喜びを得ようとする情的衝動である」という統一原理の解釈も間違っています。
即ち、神は愛を創造したのです。
第一原因である創造の神は対象となる存在を創造することによって、それまでになかった「愛」そのものを自分の内に創造したのです。
そして、その動機となるのは自己発展によって喜びを得ることだったのです。
‘4研メンバーのひとり’さんは「神と人間が親子であるということ」についてどう考えるか質問されていましたが、人間は神の全ての要素を実体化させた存在であり、神の子という表現は正しいと思います。
しかし、人間世界における親子の関係と全く同じでないのは当然です。
人間の親子は両方とも有形ですし、お互いに相手を実体として認識することができます。
ところが神は無形であり、人間は対象として認識することができないのです。
それについて原理的に考えれば、「心」と「体」の関係ということになるのです。
つまり、神は存在するが、人間とは存在する次元が異なり人間同士のような授受作用(相互作用)はできないということなのです。
それでは神の愛とは何か?
それは神が人間が喜びを生み出すのに必要なものを全て人間に与えたということなのです。
人間の周りには宇宙があり、地球には美しい自然があり、創造活動に必要な資源もあります。
そして人間は一人ではなく、男もいれば女もいるのです。
そこで、愛と美の創造活動を行うことこそ人間にとって幸福であり、神の愛を感じることなのです。
「愛」とは人間同士が互いに愛し合うことであり、そのような人間社会や自然を創造された神に感謝の思いを捧げることなのです。
神を直接愛することなどできるはずもなく、ただ神に感謝して人間同士が愛しあうことが神を愛することなのです。
従って、人格も同じです。
神のレベルなど人間には理解のしようがないのです。
つまり、神は自分と同じように人格を完成することを人間に願っているのではなく、人間が人格を発達させ、より高い人格を創造することを願っているし、それが神と人間の喜びでもあるのです。
以上のような創造原理の解釈が私が理解したものです。
まだ、‘4研メンバーのひとり’さんの質問に対する完全な回答とはなっていないと思いますが、後に時間が許す時に思うところを書きたいと思います。
文氏の悟り
さて、今回のコメント投稿は、変なタイトルだけど、個人の悟りを、他人が完璧に理解できる言葉で表せないんじゃないのということです。統一原理というのは、文氏が聖書を研究して、聖書の中には真理はないと判断し、自分の生活環境の中で得た悟りを文言にしようとしたもの。本人もそういっているよね。
だから、キリスト教ではなく韓国的シャーマニズムなのだという指摘も、確かに一面当たっている。ま、しかし、イエス教がユダヤ教から派生したものであるように、文氏が聖書を探求し、また少年時代の有名な牧師を訪ねて教説を聞いては構築していったものなんだからね、全くキリスト教徒関係がないとも言い切れないが。
イエス教は、イエス個人がユダヤ教を勉強して悟った内容だね。イエス個人の悟りだ。だからこそユダヤ人から排斥されたんだな。イスラム教も、マホメットの悟りから始まっている。仏教も、ブッダの悟りから小乗、大乗が出てきた。そういう意味では、統一原理も、文氏の個人的悟りなんだね。
ブッダが、悟った後、これを大勢の人に伝えようとして、ハタと困っちゃった。「果たして、理解してくれるだろうか」と。下世話な表現でいうと、「うまく伝わるかな、ということですね。うまく伝わらないんじゃないか。わかんねーだろうな。じゃあ、その場その場の状況に応じて、『対機説法』でお話しするか」と。八正道なんかそういうことらしい。だからあれはブッダの悟りそのものではないと。
、
イエスだって、3年間も教え続けながら、今は教えられないけど、やがて聖霊が教えてくれる、なんて言ったわけだね。イエスの悟りを、どれだけ言葉を並べても、教えられない。だから、比喩で話したと。
ま、そんなもんでしょう。悟りを言葉で表すとすれば、どうしても疑似的なものとなり、その表現では包含できない、例外的な部分が出てくるのだ。
統一原理は、宗教と科学を統一するとかなんとか言っているけれども、所詮は文氏の悟りを、そばでよく聞いていた劉孝元氏が、何とか表現しようとしたものだね。不立文字とかいう言葉があるように、悟りというのは、本来言葉で定義することはできない。言葉にしようとすると、どこか誤りが出てくるのだ。
そう考えると、一応キリスト教を勉強した土台の上であったとしても、文氏の悟りは、幼少のころ山野を駆け巡った体験、沼でウナギをたくさん取った体験、何日もかけて鳥と友達になって鳥の巣に近づき、観察した体験、韓国に帰るとき息子の乗った船が沈んだと聞いて、足にくぎが刺さっているのも気が付かないで急いで迎えに来た母。その母を見て理解した神の愛。そういうふうに、悟りとは個人的体験だね。
だから、ヘブライズム、ヘレニズムという視点から論じることができたとしても、それで文氏の悟りを完璧に説明することはできない。神々の黄昏さんの記事のように、ほかの視点も加えて長大なものとならざるを得ないわけだ。ただ、それでもすべて言い表せているかどうかは別だが。
ところで、
> その教理を追究してみますと、原理講論の第一章、創造原理や統一思想要網などには非常に優れた内容があるのですが、原理講論 第二章、堕落論以降は論理的な破綻が見られ、宗教思想としては欠陥があることがわかります。
> さらに原理講論全体で考えますと、後編になる程文教祖の思想が強く反映されているように感じるのですが、その分だけ創造原理とかけ離れた整合性のない論理展開になってしまい、最初の創造原理と食い違う部分も多くなるので
とかかれているが、創造原理の部分もかなり文氏の独創的な視点が入っていると思う。陰陽の思想は旧来からあるが、キリスト教の神に当てはめたのは、ほかの教派ではあるのかな?確か反対派の人が、金百文の教えが非常によく似ており、パクリではないかと書いていたが、そうなのかな。
独創性の問題はこっちに置いておいて、さて、この部分においても、おかしなところがあると私は思います。すべてのものにはペアシステムがあると言いたくて、この陰陽の思想を持ってきているように思える。しかしこの陰陽の視点が、性差の問題にすり替わっている。最初は原子に陽子と電子があるというように陰陽から入りながら、最後は男女の問題に変化している。
陰陽の視点で自然界を見ようとしても、原子でも、陽子と電子だけでなく、中性子、あるいは中間子なんて素粒子もあるわけだね。生物でもペアシステムだけでなく単性生殖もあるんだけど。そういう議論を学生時代しょっちゅうしていた。
だから、科学的知識といっても、1950年代の知識なんだね。それも専門の科学者でもない人が書いた代物だからね。科学的、科学的という言葉に酔いしれて、実はそう科学的でもない。つまり、最初っから間違っているということだね。
ただ、共感を覚える部分はある。従来の聖書解釈に対し、「それ、おかしくねー?」と、一般人の視点から問題提起しているところだ。クリスチャンが、イエスに対して、「私のために死んでくださった、私の罪を背負ってくださった」と、感動するところを、「自分の子供を、殺すために産むなんて、バカなことをする親がどこにいるよー」と疑問視するとか。
あるいは、「死ぬために生まれたんだったら、パリサイ人、律法学者に、そんなに怒りの言葉は吐かないぜ」とかね、「死ぬために生まれたんだったら、死ぬ間際に、神は我を見捨てたなんて言わないぜ」なんてね。その辺りの視点は、パンピーには共感を呼ぶよね。そういうところが人々を引き付けるんだろう。あえて独創性ということを言うならばその辺りが文氏の独創性というところかな。
新・原理原本記録第壱巻
>【神は愛なり」というキリスト教の言葉は正確ではありません。「心情とは、愛を通して喜びを得ようとする情的衝動である」という統一原理の解釈も間違っています。
即ち、神は愛を創造したのです。 第一原因である創造の神は対象となる存在を創造することによって、それまでになかった「愛」そのものを自分の内に創造したのです。
そして、その動機となるのは自己発展によって喜びを得ることだったのです。
(中略)
それでは神の愛とは何か?
それは神が人間が喜びを生み出すのに必要なものを全て人間に与えたということなのです。】
上記のコメントの内容は『統一思想』の「発展的四位基台」の項を思い出しましたが、もう一つの四位基台「自同的四位基台」についてはどうお考えですか?
「発展的四位基台」の前段階に過ぎないとの解釈かなんか?
説明するのめんどだから(現代詩に説明はいらないっ ヒャッホ~ッ ワラ)統一思想用語そのまま使っちゃったが。もし回答されるときはその説明もよろ。もちはもち屋、ケーキはベーカリ。虫がいいが、霊感詩人だから大目に見てくんろ。
さて明日の雲のカタチが楽しみだわぁ~♪
モロコシくるこさんへ
さて明日の雲のカタチが楽しみだわぁ~♪
おいらが好きなバーボンでも飲んでるの?それとも初物のワイン?
人に質問するときは、丁寧にやるべきだと思います。
ヘレニズムとヘブライズム
劉孝元先生が執筆した原理講論が無謬ではないことは、ずっと指摘されてきたことです。
想定読者として韓国のクリスチャンを対象としているため、東方正教会への記述が皆無だったり、日本に対する配慮に欠けたり、世界的普遍性からすると残念な部分もあります。
それでも神々の黄昏氏が指摘する以下の矛盾については、反論することが可能です。
カトリックやプロテスタント神学はギリシャ哲学から大きな影響を受けており、理性的側面と神秘的側面のバランス感覚が、歴史的な課題でした。
対して東方正教会では、神学は生活原理であり、知的遊戯のような神学構築は、意味をなさないという考えでした。
これは正教会がギリシャで勃興し、ヘレニズムの限界を初めから認識していたことに起因します。
理性的=外的・カイン的・悪、神秘的=内的・アベル的・善という説明について、そもそも理性は創造原理と矛盾しないという指摘がありました。
ここでは、「知的なものは悪である」と誤解されがちな講論の記述にも、問題がありそうです。
確かに創造原理や統一思想では、本然の心の作用は知・情・意の三側面から成るもので、知的=サタンであるはずがありません。
対して霊界を知らない堕落人間にとっては、神秘的なものが全て善となる保証もありません。
神様は確かに不可知な存在なのですが、聖霊のはたらきによって生きた神と出会うことで「知る」ことが可能となります。
このとき理性のはたらきが全く不要かというとそうではなく、神様が義人聖人にどう働きかけて来られたか、キリストが何を教えようとされたのか、学ぶことは理性のはたらきです。
したがって、「カイン的」と分類されるのは知的であることそれ自体ではなく、神など存在しないと初めから決めつけて(その動機は概ね感情的だったりするのだが)、理性を駆使してその思想を伝播する行動です。
同様にスピリチュアルなものが全て「アベル的」かというとそうでもなく、動機が矮小な自己中心だったりすれば、聖霊が役事することは困難です。
まとめると、西欧キリスト教は神学における理性の扱いに失敗してきた歴史があり、多神教を信奉するヘレニズムも同様でした。
対してユダヤ教や初代教会・正教会は信仰と理性が比較的一致しており、霊魂が神に向かう軸が理性によりぶれることがありません。これがヘブライズムをアベル的とする所以です。
清平副苑長の嘘が地区長を通して暴かれた!証拠動画あり
そこには、日本本部の見解がはっきりと記されていた。
副苑長2つ目の嘘発覚!!
日本と韓国で、清平職員による報告書の見解が違うことが明らかになった!!
日本では、「報告書の内容を訓母様が語った。でも狂っているから信じるな。」
韓国では、「報告書の内容を訓母様は語っていない。訓母様は狂っていない。」
真実は、「報告書の内容を訓母様が語った。そして訓母様は狂っていない!!」
(下に説教動画あり)
日本中の各教会内部から、すでに様々な情報と資料がこちらに投稿されてきている。
口を揃えて、「実は責任者が、清平副苑長から同じ話を聞いています。」という内容ばかりだ。
人の口に戸は立てられぬというわけである。
送られてきている録音ファイルを皆様に聞いて頂こうと準備していた矢先に、ある男性公職者の方から動画がYouTubeサイトにて送られてきた。
最近、ある有名ブログにて、このHPが大々的に紹介された。
この男性はそのブログを見て私達に抗議をしてきたようである。
以下は、その男性が私達を説得しようと投稿してきた文章の一部である。
「清平の電話録音内容は信じるべきではありません。清平職員も本当のことを知らないのだと思います。日本本部からは、地区長様はじめ、副苑長様から、はっきりとこのような内容が理論整然と伝えられております。地区長様の語られているこの内容を学んでよく理解して下さいますよう願っております。」
そして一緒に、YouTubeの動画サイトを送って下さった。
私は、この場で皆さんと共に検証することを考え、この動画を紹介することを決めた。
この動画を見て、副苑長が日本に来て語った内容をよく理解することができるだろう。
本部一筋の動画サイトを送ってくれた男性公職者には本当に申し訳ないが、この動画によって清平の職員、そして韓国牧会者達が清平苑長、副苑長に対して確実に疑惑をもつ道が完全にできあがってしまった。
この苑長、副苑長を我々の団体の最も重要機関の一つである清平修錬苑の責任者として、このままにしておくべきではないことを、我々はここではっきりと悟ることができたのだ。
全世界の食口の皆さん、ぜひ自分の目と耳で実際に確かめて頂きたい。
私達が嘘偽りを言ってはいないということを理解して下さることだろう。
そして、真剣に真実を語っていることを理解するだろう。
苑長と副苑長が語っていることが偽りであることをついに立証したのだ!!
もう逃げも隠れもできない苑長、そして副苑長!!!
ちなみに、この動画で語っている責任者は「日本第二地区の地区長様」だと書いてあった。
こちらで確認した結果、本人であることが分かった。
動画サイトを送ってくれた公職者の方には心からお礼を申し上げたい。
それではご覧下さい。(ちなみに動画が勝手に消された場合に備え、音声をすでに保存した)
https://www.youtube.com/watch?v=Sno3Zp38x5E
【第二地区 地区長様のみ言】
(まとめ)
① 自分がまるで訓母様の事を全て知っているかのように話している。
② 自分から宋会長(日本国責任者)に報告して副苑長を日本に呼ぶことをお願いした。
③ 訓母様が食口の面前に出られない理由を副苑長から直接聞いた。
④ この報告書に書かれた内容を狂った訓母様ご自身が語っておられた、と副苑長がはっきりと言った。
⑤ すでに狂った訓母様であると知らず、写真を一緒に撮ってしまいました、と笑いながら語っている。
⑥ 狂った訓母様を真のお母様の所に行かせるために、副苑長が三時間も説得したと直接聞いた。
⑦ 狂った訓母様は言うことを聞かず非常に難しくなっている、と副苑長が言った。
⑧ 裁判が完全無罪で終わろうとしているのに、訓母様をすでに罪人扱いしている。
⑨ ヒョンジン様(7男)と同じく、訓母様も真のお母様の意向に反しているのだと説明している。
http://dendrite.jimdo.com/
清平副苑長の嘘が地区長を通して暴かれた!証拠動画あり
今は家庭連合の誰も金孝南の話なんて聞かないよ?
相当追い込まれているんだね?
「Re:賛同と疑問」への感想
>できないのです。
>それについて原理的に考えれば、「心」と「体」の関係という
>ことになるのです。
>つまり、神は存在するが、人間とは存在する次元が異なり人
>間同士のような授受作用(相互作用)はできないということな
>のです。
まず、全体的な感想としては、神々の黄昏さんの神観は、
「理神論」に近いなと思いました。
それから、「Re:賛同と疑問」では、
①神様の根本について
②神様と人間との関係について
の二点がポイントとなっており、意見の相違があるところだ
なあと思いました。
まず、①神様の根本については、
神々の黄昏さんは、
>それでは、神の中心としてあったものは何か、それは発展
>を指向する性質、またその目的としか考えられないのです。
ここは非常に大切なところなので、できれば、「発展」という
言葉は、どのような意味なのか、あるいは、何を指している
のかをもっと詳しく説明して欲しかった。
続けてみていくと、
>そして、その動機となるのは自己発展によって喜びを
>得ることだったのです。
前のところでは、「指向する性質」という表現を使われて
いましたが、ここでは、「喜びを得ること」と言われてい
ます。
これは、統一原理の「喜びを得ようとする情的衝動」
と大差ない表現に思えます。
そこで、「自己発展によって」と
「対象を愛することによって」の比較が重要となると
思われますが、ここでも、「自己発展」の概念の詳しい
説明が願われるところです。
ただ、対象を愛する為には、自分に似た対象を創造
しなければなりませんので、それを「自己発展」と
表現することにすれば、同じことを言っているよう
にも思えます。
次に、②神様と人間との関係について
見てみると、
>人間の親子は両方とも有形ですし、お互いに相手を
>実体として認識することができます。
>ところが神は無形であり、人間は対象として認識する
>ことができないのです。
>・・・
>つまり、神は存在するが、人間とは存在する次元が異
>なり人間同士のような授受作用(相互作用)はできない
>ということなのです。
まず、人間は「有形」と言われていますが、正確には、
人間は、「有形の肉体」と「無形の心」を持っている
のだと思います。
ですから、人間同士の相互作用には、肉体の
五感を使ったものと、心の共感性を中心とした
ものの二つがあると思います。
それで、神様と人間の相互作用として、
心の共感性が可能かどうか?
というところが論点になると思うのです。
ここで頭に浮かぶことは、お祈り、祈祷です。
「祈祷は神様との会話」とも言われますが、
そのような神様との交流は可能かどうかが
ポイントとなるようです。
それをできないと断定されているところを
残念に思いました。
はじめまして
現役二世信者のラスクと申します。
神々の黄昏さんの論文、大変興味深く拝見しました。人間を信仰しているという結論には、体感的ではありますが強く同意するところであります。
私は同性愛者です。お父様の言葉では同性愛者は滅ぼされるらしいので、今は原理を研究して同性愛者が認められる可能性を探しています。神々の黄昏さんの論文を拝見し、統一原理を学ぶのみでは論理を組み立てるにあたり、不足があると強く感じました。
みなさま、お暇なときに気が向きましたら、みなさまが神学を勉強するにあたり参考にした文献などご紹介いただけたらと思います。
初投稿でありながら大変厚かましいお願いですが、是非お願いいたします。
>清平副苑長の嘘が地区長を通して暴かれた!証拠動画あり
こういう投稿、もうやめようよ。
内容について言っているんじゃないよ。投稿する場所がはっきり言ってまるっきり違うんだよ。ブログ管理者に失礼だよ。
ブログ管理者は、メインの記事についてのコメントをしてほしいわけよ。まるっきり関係ないコメントを投稿して、それに関して議論が始まったら、自分のブログでそれをやられたら、どう思う?はっきり言って荒らし行為だぜ。
火の粉ブログは清平関連のスレッドはもう何本もあるんだから、そこに投稿しなよ、職員及びシンパ諸君。常識をわきまえなよ。こういうのを情報倫理っていうんだぜ。
同感です
カエサルのものはカエサルに、清平のことは清平に任せればいいでしょう。鶴ママが決めたことなのですから。韓国の信徒は金孝南なんか誰も相手にしません。とっくの昔に詐欺師だと見破られています。
日本でも騒ぐのはあなた方だけで、寧ろあなた方のほうが異常に見受けられます。
- [2015/11/24 11:32]
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Re:新・原理原本記録第壱巻
モロコシくるこさんは 「自同的四位基台」について関心を持っておられるようですので統一思想要網も読んでおられ、創造原理についても深く理解されているに違いありませんから、大変すばらしいと思います。
私は統一思想をよく理解している人こそ現在の統一教会=家庭連合には批判的にならざるを得ないと思っています。
統一思想要網などをよく読んでいれば朝鮮シャーマニズムじみた‘御言葉’の間違いなど簡単に見抜けるからです。
「自同的四位基台」は即ち神の存在そのものについて解釈したもので、発展的四位基台のように人間との関わりを持たないため、人間にはその実相を感知することはできません。
まさに神の領域であり、人間には不可知となるのです。
ですので、それを論じる場合は、概念としてあるもののみを用いて説明せざるを得なくなります。
そこでその「自同的四位基台」の中心ポイントとなるのはやはり『心情』ということになります。
前のコメントにおいて、『心情』の定義は簡単ではないと書きましたが、「自同的四位基台」の中心としてある『心情』についても同様です。
しかし、その四位基台の構造を考えてみれば一つの結論に至るようになります。
即ち、そこにある『心情』とは「永遠の存在性」そのものなのです。
「存在」するということは、単一では絶対にあり得ないのです。
物が存在する場合でも同じです。
そこに空間の違い、質の違いなどがあるから「存在」していると言えるのです。
もしすべてが単一であるなら、そこに存在は認識されないのです。
「存在」とは何らかの区別が必要なのであり、神自体についても同じなのです。
神は本性相と本形状という区別があるからこそ存在できているのです。
即ち、神が永遠に自存するために必要なのが本性相と本形状であるという説明よりも 神が存在者であるためには本性相と本形状の区別がなくてはならなかったという説明のほうが適切なのです。
「存在」とは人間が認識できる概念としては最も普遍的なものです。
「存在」することが前提で「発展」が可能になるのであり、様々な現象が結果として現れてくるのです。
私は統一原理を学ぶ以前には「存在」「永遠」について真剣に考え、そして限りなく悩み抜きました。
そして有限なものしか存在しない現実世界に限界を感じ、地獄よりも苦しい絶望感を味わいました。
しかし人間は自分が消滅しないことを願うのです。
そのため、理論的に「存在」の構造を解明し、神と人間が永存することを理論付けた統一原理に出会った時は これ以上ない「救い」を感じたのです。
「存在する」ということはそれ自体が絶対的な価値を持ち、意味があることなのです。
神についてもそうであったのです。
存在できる、存在していることそのものが喜びなのであり、究極的な目的となるのです。
ですから、「自同的四位基台」についても同じです。
「永遠の存在性」そのものが中心であり、目的なのです。
昭和49年版統一思想要網47Pには「自己同一性の中に発展性が、発展性の中に自己同一性があるのである。」と書かれていますが、存在と発展は切っても切り離せない関係にあり、その性質こそが神の中心にあるものなのです。
例えば、人間がイメージする「心情」などは明らかに創造されたものであり、後発的なものです。
それ以前にある、「存在」そして「発展」の性質そのものが本質なのであり、その概念は追究すればするほど深い意味をもっているのです。
「在って」「発展する」ことこそ第一原因としてある神の究極的中心なのです。
Re:新・原理原本記録第壱巻
この四位基台が究極の構造で、発展により被造世界に展開した。
よって、相似形を持って個性真理体として現れた。
朝顔は、種から花、そして種へと絶えず発展(変化)するが、朝顔であり続ける。このように被造物は発展的四位基台と自同的四位基台を備えている。
そもそも、認識は相似だから成り立つ。共通要素がなければ認識出来ない。これが、被造物である人間が神様を認識出来る根拠になるわけですよね。
Re:はじめまして
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B%E3%81%A8%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF
ここに掲載されている「肉体的な観点から行為の道徳性を判断することは不適当」という意見に賛成です。
「ローマ・カトリック教会の聖職者のうち少なくとも 33 %が同性愛者」と推測されているそうです。
ラスクさん、頑張ってくださいね。
テーマが逸れてしまうので、同性愛のことはコメントしないでくださいね。
金孝南派に注意
書くのであれば、前回の記事「祭りだ、ワッショイ 喧嘩だ、ワッショイ。ォ━━(#゚Д゚#)━━!! 」のコメント欄にどうぞ。
また、同種のコメントを書かれるのであれば、一言、このブログのここを読んでください-でいいのでは、そのほうが好感が持たれます。
蛍の光、窓の外
拍手60件以上、アクセス1万以上。
管理人としては満足であります。
「寄稿カテゴリー」を豊潤にしたいと考えております。よろしくペコリです。
米本さんと神々の黄昏さんに感謝!
兎に角文教祖は人類史上初の原罪の無い真の家庭を誕生させたと!創造理想を完成したモデル家庭として祝福家庭が侍る御手本家庭を作ったと!しかし、酷すぎる!惨すぎる現実。神の神性を持った御手本になる子女は何処に?
韓鶴子独生女とマコトの子女達の分裂状態には頭が痛くなる!と言うか”勝手にやれ!状態”
世界に広がる統一教会(現世界平和統一家庭連合)”笑”や世界に広がる統一運動の現状”笑”を考えるだけでも力が抜けてしまう。
原罪(現在)の無い世界平和統一家庭連合祝福家庭の現実。
現在の現状は白く塗られた墓(箱物)と(統一教会幹部達)のみが実在して内輪で揉めてる惨憺たる現状。
教理から何から何まで様々な矛盾や問題を棚上げにして覆い隠していた世界平和統一家庭連合だったので解明する事は大切な事だと思います。
それをしないと先に進めないでしょう。
米本さんには信者でもないのにこの様な場を与えて頂いて感謝です。頭が良く良く分析されている神々の黄昏さんにも感謝しています。
しかし、頭痛いと言うかキツイ!ホント〜に誇るもんが何も無いと言うか信仰の土台の貯金が津波で全てさらわれて何もない状態。神様、感謝!か?感謝しょう!感謝しないと俺の人生虚しくなる!
”生きた?偶像”の命令で絶対信仰従順服従の崇拝信仰生活すると自意識や自己思考能力が減退して無計画性備え無しキリギリスボロボロ人間で晩年期を迎える可能性があるので、今後は私達の様な朝鮮異端反日詐欺ボッタクリ宗教に騙される事がない事を祈願する!
兎に角、米本さんと神々の黄昏さんには感謝!最後は神様の為に、日本国の為に爆発するぞ!朝鮮人の糞は覚悟しておけ!
「喜びの神」か「悲しみの神」かは人間次第
親として、潜在的に自分よりも優れた存在となるような人間を創造しながら、人類はその期待を裏切り反逆しました。
たった一人信頼できる息子を送った人類の答えは、「拒絶と処刑」でした。
超越した存在は悲しんだりしないという解釈もありますが、「親」だとすれば「悲しみ」だけではなく、喜びも怒りも落胆も、人間に対して抱くことになります。
宇宙を創造する力がありながら、子どもの選択を絶対的に尊重すると誓った以上は、手も足も出ないからです。
再臨論の「虐げられた民族は神の心情の対象となる」という説明が、日本人に自虐的信仰を植え付けるのに一役買っているという説明は、かなり説得力があります。
講論のこの箇所が悪用されているとするなら、後に続く記述「その苦難の道が結果的に韓国民族をどれほど大きな幸福へ導くものとなったかもしれないのである。」(原理講論p592)が、正しく解釈されていないことに起因します。
すなわち、選ばれし民は苦難を信仰によって昇華させ、世界のために犠牲となることで、自分たちも幸せになるというシナリオがありました。
ところが現実には、隣国に対する恨みを昇華することもできず、世界はおろか北の同朋すら助ける余裕もありません。
家庭連合では、「世界を養うのは母の役目」という名目で、「犠牲」は日本に丸投げでした。
そのような犠牲を甘受される日本食口の中には、神の心情の対象に立つような個人的出会いをされる方もいらっしゃるのかもしれませんが、韓国のこのような姿勢は、「負いきれない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本も触れようとしない(ルカ11章46)」ものであり、責任分担不履行を端的に示しています。
従って、日本と同等かそれ以上の犠牲の道を韓国が率先して行くようになったときは、原理講論は支配の道具ではなくなり、神様は「喜びの神」として顕現されるというのが私の解釈です。
残念な論考
「恨」を生み出す原因ともなった日本の統治時代についても「残虐無道な行為をほしいままにし、…」などと徹底的に日本を非難しておりますが、それを書いた当人が日帝時代に日本が創設した京城帝国大学で、朝鮮にはそれまで普及してなかった西洋医学を学ばせてもらっていたのですから、何故そのように非難できるのか理解に苦しみます。
なんと、恩着せがましや。同じ日本人として恥ずかしい。日本が植民地化しなければ、もっと自由に西洋の文物が入っていたかもしれません。名門の延世大学は130年前に宣教師によって創設され、多くの優秀な人材を養成してきていますけれども、アメリカが、クリスチャンたちが「韓国のために大学をつくり、教育の資金援助をしてやった」などと言うのを、聞いたことがありません。
それに「日帝時代」の朝鮮の人々は日本人として扱われたのですよ。創氏改名を強要され、日本の軍隊に徴兵され、日本の地でも労働力になりました。マラソン選手の孫基禎さんはベルリンオリンピックで金メダルを取りましたが、日本のメダルとしてカウントされました。
能力のある人が自国で医学を学んだ。それなのに、「…を学ばせてもらった(くせに)」という恩着せがましさは何なのでしょう。
孫基禎さんにも「日本の選手として走らせてやった」と言うつもりですか。
人道的に話にならないことをしてきた負の歴史があること、これは現実なのです。この負の遺産を曖昧にするから、未来に希望が見出せない。
いまだに日帝統治下を懐かしんで「第三国民」などと、見下す国会議員がいるようですが、同類ですね。
「恨、恨、」と軽く語っているところも問題です。日帝の40年は本当に酷かった。文氏が、古参の韓国幹部が、搾っても搾ってもまだ足りないと、尽きない怨恨を露わにするほどのことをやったのは確かです。(誤解無きよう、高額献金に賛同するわけではありません。)
現代に至っても、在日を蔑視する日本の人気(じんき)が証明しています。
神々の黄昏さんは、統一教の韓国幹部を批判する資格のない人だと思います。
根底に差別意識と優越感があるようです。その優越感は劣等感の裏返しでもある。黄昏れて夕闇迫り、足下が見えなくなっているのではないですか。
失礼ながら、その他の論も形而上学的展開で、堂々巡り。深化発展など望みようもありません。残念です。
- [2015/11/25 18:35]
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Re:残念な論考
>神々の黄昏さんは、統一教の韓国幹部を批判する資格のない人だと思います。
つまらない。
熱心な投稿者であられたけど、もう投稿されなくていいです。
なんでもcosmopolitanさんが一番、cosmopolitanさんは何でも一番。cosmopolitanさんは何でも知っている。知ったか有田みたいだ。
三時のおやつはcosmopolitanさん。
またなぁ。
真実の歴史
この文章からにして、このお方は、歴史を深く知らない方のようにお見受けいたします。
浅く偏った歴史認識だけではなく、公平な歴史を直視していただければ、このような文章はでてこないはずです。
私たちは、偏ったうわべだけの歴史を学んできた現実があるということを認識しないといけません。
公平であるべきです。そこから、全てが出発いたします。
真実の歴史を公平に直視しなければなりません。
浅はかなうわべだけの受け売りの歴史認識ではなく、自分で学び、公平に真実に直視し学ばないといけません。
その土台の上に現実を見つめていただければ、真実が見えてきます。
真実に勝るものはありませんから。
真実を知り悟るには忍耐と包容力が必要です。
米本先生、cosmoporitanさんの様なハイレベルで歯に衣を着せないで直言される方はそうそう居ないので宜しくお願い致します。cosmoporitanさんの様な方のコメントで火の粉を払えブログは非常に幅が広く内容も深いブログになっていると思います。
>残念な論考
私も、統一教会の日韓近現代史解釈については、神々の黄昏さんの考えに近いものを持っています。が、それを述べるにおいては原理講論との関連において述べなければ、神々の黄昏さんのメーン記事とは関係のない投稿になってしまいそうなので止めておきます。
うーん、内容が難しい
私は、原理講論、聖書、ヘレニズムとヘブライズム、朝鮮の宗教的背景のいずれも理解が浅く(もしくはまったくなく)、今回の内容は難しかったです。
そこで、寄稿文ではなく、元々のコメントの方を読ませて頂きました。
>結局、統一教会の創始者は人間にとっては特別な力をもつヘブライズムをうまく利用することを考え、反知性、非理性的精神の‘絶対服従者’を生み出そうとしたのであり、組織を世界に拡大できたならば 己を人類の絶対王として君臨させ、国や世界を支配できると妄想を抱いたのだと思います。
>
つまり、創始者のそもそもの目的が、多くの人を自分に服従させるという非人間的なものなので、原理講論の内容も語られる内容もその目的に従ったものとなり、それを学んだシックも非人間的になるということでしょうか?
私は、日本人シックが、「神様は悲しんでいらっしゃる」、「真のご父母様は、十字架を背負ってご苦労されていらっしゃる」という情緒的な訴えに影響されやすいという話は、そのとおりだなと思います。
もしかしたら、日本人の中でも情緒的な話に弱く、同情心の強い人が伝道されているのかもしれませんが。
自身の信仰生活を振り返ってもそうでしたが、情緒的な話をモチベーションにするのは、一時的にはやる気がパワーアップしますが、継続性はなく、すぐに疲れてしまいます。
“神の悲しみの説話”が栄養ドリンクなのか麻薬なのかは分かりませんが、注入し続ければ、シックたちはいずれ燃え尽きるしかないですね。
以上、感想めいたことを申し上げましたが、“非人間的シックが発生する原因には、信仰(教義)自体の問題があるか否か”については、何とも言えず、肯定も否定もできません。
今回の文章からすると、神々の黄昏さんは、創造原理と統一思想に基づいた、正しい(?)統一原理を探求していらっしゃる方なのでしょうか?
寄稿者の簡単なプロフィールがあればよいと思いました。
そして、最後にかなり余計な話ですが、最後にまとめの結論が書いてあれば、皆さんのコメントが、各論が正しい、正しくないという話に分散せずに済むのではと思いました。
原理講論の日韓近現代史は再検証されなければならない。
<引用開始>
それでは韓国民族は、どのような経緯を経て、日本帝国のもとで四十年間の苦役を受けるようになったのであろうか。韓国に対する日本の帝国主義的侵略の手は、乙巳保護条約によって伸ばされた。すなわち一九〇五年に、日本の伊藤博文と当時の韓国学部大臣であった親日派李完用らによって、韓国の外交権一切を日本帝国の外務省に一任する条約が成立した。そうして、日本は韓国にその統監(のちの総督)をおき、必要な地域ごとに理事官をおいて、一切の内政に干渉することによって、日本は事実上韓国から政治、外交、経済などすべての主要部門の権利を剥奪したのであるが、これがすなわち乙巳保護条約であった。
西暦一九一〇年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし、一九一九年三月一日韓国独立運動のときには、全国至る所で多数の良民を殺戮した。
さらに、一九二三年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。一方、数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、臥薪嘗胆の試練を経て、祖国の解放に尽力したのであった。日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。このように、三・一独立運動で、あるいは満州広野で倒れた民衆は主としてキリスト教信徒たちであったのであり、さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、八・一五解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。しかし、日本の天皇が第二次大戦において敗戦を宣言することによって韓国民族は、ついにその軛から解放されたのである。
このように韓国民族は、一九〇五年の乙巳保護条約以後一九四五年解放されるときまで四十年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。そして、この独立運動が主に国内外のキリスト教信徒たちを中心として起こったので、迫害を受けたのが主としてキリスト教信徒たちであったことはいうまでもない。
<引用終了>
私は戦前、戦中に生まれて生きたものではないので、実際の生活面においてどうだったのかというのはわかりにくいが、この部分、もう一度歴史的に再検討されなければならない。というのは、原理講論の中に語られている統一原理とは、宗教と科学を統一された課題として解決しなければならないとされているので、社会科学的研究、歴史学に合致した研究成果を盛り込まなければならないからである。
原理講論は、文鮮明師や劉孝元氏のように、歴史学専門家でない人たちが書いたもの。日韓近現代史のみならず、すべて歴史学の専門研究成果を盛り込まなければならない。そういった意味で、専門家による専門的知見が盛り込まれなければならない。
日韓近現代史においては、定説がはっきりしないものや、検証の難しいものもある。例えば従軍慰安婦の問題などは、現代でこそクローズアップされているが、原理講論には一言も書かれていない。つまり全然歴史的確実性のない項目だといえる。
また朝鮮という国では我が国が教育に力を注いだという事実も、ここには紹介されていない。歴史的事実の取り上げ方が極めて偏っている。やはり、原理講論の記述は、再度検証されなおさなければならないものと言える。
さらに、原理的解釈という点から見ても、原理講論における日韓近現代史は、大事な点で記述が不十分と言える。それは、原理講論に言う日帝40年、あるいは36年が何に起因するものかという分析が欠けているという点である。
イスラエル民族のエジプト苦役がアブラハムが鳩を割かなかったことに起因しているという点、ユダヤ人のローマ帝国迫害が、イエスを殺してしまったことに起因しているという点から見ると、日帝40年にもまた何らかの韓民族側の原因があるべきだ。が、その分析が原理講論では欠けている。私の勝手な解釈だが、李氏朝鮮の大院君がクリスチャンを迫害したこと、開国して近代国家を形成すべきであったが、それをしなかったことなど、いろいろ考えられると思うが、原理講論ではその分析が欠けている。
ま、選民思想というのは、自身の反省というものを阻害してしまうのかもしれない。
歴史的事実は信仰上重要
例えば自叙伝で独立運動家の金九を金九先生と称えていますが、実際は単なるテロリストです。食堂で日本人商人を自分より先に飯を出されたことに立腹、殺害。彼の自伝ではミンピの恨みを晴らしたとして、日本軍人を殺害したと嘘を書いています。しかも上海臨時政府時代、コミンテルンから資金援助を受け、猫ばばした共産党員を殺害。安重根と同じく国を思う心情で人を殺しても善とされる朝鮮儒教の考え方です。
呉善花さんの日本統治時代の生き証人のインタビュー記事では、ほとんどの人が仲良く暮らしていた。私の知り合いで朝鮮鉄道に勤務していた人の話を聴いても、日本人は気を使って朝鮮の人々と付き合っていたとのことでした。
当時の多くの朝鮮の人々は、ロシアの植民地になるよりは、日本と併合したほうがよいとの意見が大半でした。当時の朝鮮は経済的にも借金を払えず破綻国家だったのです。
創氏改名も満州にいる朝鮮人が朝鮮名だと馬鹿にされるとのことで、日本名を名乗りたいとの要望で始まったものであり、しかも許可制でした。改名しなくても罰せられることはなかったとのことです。神社参拝もしなかったからとして逮捕されることもなかったのです。
私は韓国人の事実を知っている方がたの本を多数読みましたが、ほとんどの人が日本に感謝していると述べています。
韓国の反日は米国の政策であり、反日の李承晩大統領を据えて、歴史をねじまげたもので、歴史的事実を積み重ねて判断する必要異があると思います。
文師も当初は、韓国復帰の為に反日を強調していたものと思っていましたが、どうも違っていたようです。私もお笑いあほう鳥さんと同じ心境です。
失礼しました
cosmopolitanさんへ
http://yeoksa.blog.fc2.com/
もし良かったら参考までに読んでください。
米本様、失礼しました。
短歌一首
付け足しがデリケートな部分だったようで、
皆さま、お騒がわせしました。
殊に海鳥さんには、ご心配をおかけしました。
千尋さんがご紹介してくださったサイトの記事は読んだことがあります。
伽耶は秀吉の朝鮮出兵のとき、日本に引き揚げないで朝鮮に残留した日本の武士たちの村だそうです。金氏を名のり、現在も韓国社会と調和して暮らす人々です。
『白磁の人』というノンフィクション作品からも、教養と慈愛に満ちた日本人の姿に感動させられます。人それぞれだったということでしょうか。ヘイトスピーチのような過激な行為からは、教養の欠片も見られないように。
よって、日帝の時代模様はグレー。
韓国は限りなく黒に近いグレーを主張し、日本は限りなく白に近いグレーを主張して、お互いに平行線のままというのが現実です。
ただ、このような時代に生まれ合わせた者が未来に向かって、どのような歴史を紡いでいこうとしているのか。自分史を含めて、過去を話題にするのは未来のためでなくてはならない、と思いませんか。
- [2015/11/26 09:54]
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常識を飛び越えることが信仰です
模範とすべき、信仰者は誰ですかと。
いろいろな答えが返ってきそうです。
アブラハム、ノア、タマル、ヨセフ、マリアなど。
そういった人たちに共通していることは、原理的な観点からみると、社会的な常識を超えて、信仰によって勝利した人たちです。
食口たちは、その偉大なる信仰者と自分自身を重ね合わせて、信仰の勝利を目指すのですから、反社会的要素を是認しているともいえます。その要素を表出させてしまうのが、アベルや上層部からの指示ということでしょう。
食口は、それらの指示を、自分に任された摂理的使命と信仰的に捉え、それを果たそうと懸命になるのです。
ところが、問題になってくるのは、どうみても信仰的な摂理とは無関係なことを数理的な説明やエバ国家の使命、うさん臭い原理的説明と関連付けて、●●路程と称しながら、エンドレスの献金を要求する家庭連合本部です。幸いにも、徐々に、化けの皮がはがれてきているのですが・・・。
6500TFさんの仰る通りと思います。問題は誰が原因なのか?です。
アブラハム、ノア、タマル、ヨセフ、マリアなど。 そういった人たちに共通していることは、原理的な観点からみるという、社会的な常識を超えて、信仰によって勝利した人たちです。 食口たちは、その偉大なる信仰者と自分自身を重ね合わせて、信仰の勝利を目指すのですから、反社会的要素を是認しているともいえます。食口は、それらの指示を、自分に任された摂理的使命と信仰的に捉え、それを果たそうと懸命になるのです<
>ところが、問題になってくるのは、どうみても信仰的な摂理とは無関係なことを数理的な説明やエバ国家の使命、うさん臭い原理的説明と関連付けて、●●路程と称しながら、エンドレスの献金を要求する家庭連合本部です。幸いにも、徐々に、化けの皮がはがれてきているのです <
まさに仰る通りだと思います。ただ、化けの皮は何時から誰が化けの皮を着ていたか?です。①文鮮明教祖が亡くなってからか?②文鮮明教祖が呆けてからか?③文鮮明教祖が元気で存命中から本部の幹部達がやっていたのか?④最初から文鮮明教祖の命令でされていたのか?です。
私は個人的には④と思っています。
それと社会的常識を超えて勝利した歴史的偉人達の信仰を見習って頑張れたのは、文鮮明教祖を再臨主と信じ切っていたからです。真の家庭を原罪のない神様の血統の神様の神性をお持ちの御一人御一人と信じていたからです。堕落人間でなく神様の唯一の神聖なる家庭の方々と信じていたからです。
今は、文鮮明教祖が仰っていた人類史上初めて現れた神様の血統と神性をお持ちの真の家庭の人々と言うのは、幻想だった!と思わざる負えない現実を目の当たりにして目をパチクリした訳です。真の家庭の分裂や真の母や真の子女達に様々な矛盾や問題が露出した時点で、アレレ〜と頭を傾け初め、再臨主であった文鮮明教祖の過去のミコトバやちゃぬさんが訳して下さった様々な日本信者に隠されたミコトバ等を知るにあたり、今は逆立ち状態で非常にキツイです。
日本の経済摂理について雑感
私が記憶する限り、日本の経済問題が始まったのは、1978年ごろ、文氏が日本は伝道の摂理から経済の摂理に転換したと宣言した時から始まります。その意味では、経済重視の経営方針は文氏から始まっています。が、何をどうするのか、内容についてはHW社のF社長に一任されていたようです。文氏は霊感商法以外の方策として、F社長にいろいろ進言していたようです。細かいことは記憶にありません。どこかの天一国ネットというSNSに、誰かさんが投稿した一連の記事があるそうで、それにはその内容が記されているそうです。ただし私は読んでいないので、今も削除されずにあるのかどうかは確認していません。私の認識としては、文氏から経済摂理を一任されたF社長が、自分の考えで霊感商法を推し進めたようです。
霊感商法からエンドレス高額献金へと、資金集めの方法が変わっていったのは、私の感触としては、霊感商法が使えなくなったことへの代替案だったと思います。献金なら、商品を仕入れる経費も掛からず、100%収益になりますから、効率的と言えます。
ですから、経済摂理への転換指示ということにおいては文氏から日本教団の経済問題は始まっていると言えますが、具体的に何をどうするかということについては、F社長や日本教団の発案によるものが大きいと思います。ただし、そこに清平献金、聖本摂理、チョンボッカン摂理、八大経本や、その他韓国本部企画が入ってきて、今ではてんこ盛り状態になっているのではないかと思います。
私が統一原理に出会った1976年ごろは、原研のホーム生活も、今から思い出すと、牧歌的でしたね。それが78年ごろから長期休暇には万物復帰路程が組まれるようになり、ワンボックスカーに寝泊まりしながらひと夏、ひと冬行商生活をするようになりました。でも、まだ伝道を中心としていました。が、F社長のもとに経済体制が組まれるようになってからは、「伝道なんてららーらーらららららー」(吉田拓郎「人間なんて」https://youtu.be/xUp-noF8LJI)なんて言葉が心に浮かんで。
私がことあるごとに提案している、企業収益による資金集めについては、魚屋さんの一心天助や、井口氏のかかわったHW社関連のマグロの摂理、アメリカでの寿司チェーンなどが展開されていましたが、今もあるのかな?そこの部分を有田芳生氏らが週刊文春などでガンガンたたいていたので、かなり痛手をこうむったのではないかと思います。あ、宝石関連の企業もありましたね。絵画関連も。しかし、いずれの企業も、営業力が弱くて、結局は教団に集客力を依存していたので、また資金移動の不透明さもあって、霊感商法とほとんど同じ構造になっていました。そういうところから脱却して、個人で経営力のある人が自分で会社経営をするようにしないと、今後は立ち行かないでしょう。
Re: 日本の経済摂理について雑感
非教会員が異を唱えることのお許しを。
まだ研究検討中なのですが、「日本の経済問題が始まった」のは、1978年を遡ること10年前からのことだと推測しています。
黒板伝道・リヤカーでの廃品回収・親泣かせの原理運動-いわゆる草創期の頃です。
この論を展開すると、テーマががらりと変わってしまうので、また今度にします。必ず書くつもりでいます。覚えておいてください。
自分の非を認めない考えない民族性か?
1年程前でしょうか?代理店を集めた会議でF田元男社長が霊感商法全盛期の時が1番経済も伝道も進んだと自慢されていたそうです。、、、ワタシャ、ビックリしました。霊感商法と言う悪徳ボッタクリ詐欺大金集め全盛期当時に独裁者の様に権力を振るって日本人信者を奴隷の様にこき使って文鮮明教祖からヨチヨチ褒められて鼻高々に自慢されていたオジンが統一教会悪徳霊感詐欺商法が問題になり全国的に訴訟を起こされマスコミから叩かれる様になると海外に逃亡された。と聞いていた人が、反省もなく今頃そんな事を仰るとは?
F田元男社長は独裁者の様な立場で教会員の将来の事も考えず奴隷の様に使ってその霊感商法の悪徳詐欺大金集めのツケが拉致監禁や全国での統一教会霊感商法訴訟に繋がり悪名とどろき日本における統一教会員の社会的信用丸潰れで犯罪者の様に見られて家族一族社会から総スカンされていると言うのに。それだけでなく、その後のエンドレス強制献金に繋がり、日本統一教会員の中に多くの破産者や生活保護者を出し、多くのシュクフク家庭が地上天国生活ではなく、地上地獄に似た生活を送っており、様々な病気を引き起こし短命の教会員も増えていると言うのに
先輩家庭の方がコメントで在日朝鮮人のF田元男社長は人間性が違うと仰っていましたが、まさに、日本人の感覚からすれば良心も常識もない人だと思いましたし、顔の皮がワニの様に厚いくないと出来る事ではないと思います。
韓国人の人間性からして自分から謝りませんからね!自分が悪く無くとも謝る日本人とは根本的に違いますね。しかし、酷すぎる。
米本さん
アドバイス通り、カトリックの論争をまずは追いかけてみようかと思います。
テーマ違いの記事の、いきなりのお願いに対応してくださりありがとうございました。
次の記事の更新も楽しみにしております。
Re:米本さん
ネットで検索してみてください。いろいろありますよ。
若い人ほど賛成、ジジババになるほど反対という傾向ですね。
小生は年代的にはジジババですが、精神は若いようで安心しました。
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