自律と他律 

一筆一論(16)

 ひさびの「論」です。

 友人が取り憑かれたように何かにのめりこんでいる。たとえば株・異性・政治・宗教・健康・ギャンブルなど。
 それがその人を不幸にすると思った場合、「のめり込むな」「そんなもん、やめろ」と反対する。しかし、友人の忠告に耳を傾けようとはしない。逆に、反対すればするほどのめり込んでいく。やがて、音信不通となる。

 こんな体験をした人は少なくないだろう。
 なぜ、友は耳を傾けようとしないのか。それは「意見、考えの押しつけ」と感じるからだ。
 極端な例をあげたほうがわかりやすいだろう。
 たとえば、イスラム過激派は聖戦として・正義の闘いとして、テロを行なっている。
「いかなる理由があろうが、人を殺してはいけない」とテロをやめさせようとする。しかし、同じムスリムの忠告を妨害あるいはアメリカ的正義の押しつけと受け取る。忠告すればするほど、善意は誤解されていく。
 それゆえ、最後には音信不通となってしまう。

 ここまでを読まれれば、私が何を言いたいのか、読者には理解できるだろう。
 このブログでも、他のブログでも、ブログのコメント欄でも、エンドレスな高額献金にはもう協力するなと繰り返し述べている。
 なかには、こう主張する人たちもいる。
「あなたはマインドコントロールされている(=騙されている)。統一教会をやめるべきだ」
「文鮮明はニセメシヤだ。あなたは騙されていたんだ。いい加減に目を覚ませ」
 こう高飛車に言われて、はいわかりましたなんて思う人はこの世にただの一人もいない(苦笑)

 では、どうすれば当人の行為を客体化して考えてもらうことができるのだろうか。
 はっきり自覚しなければならないのは、あなたの考え・価値観を述べることは押しつけと受け取られ、反発されるということである。
「友が間違ったことをやっていれば、意見を述べるのは友人としての当然の責務ではないのか」
 確かにそうなのだが、取り憑かれたようにのめりこんでいる人に、真っ向から反対する意見を述べるのは、あまり意味あることではない。

「お父さん、私は彼のことが大好きです。結婚したいと思っています」(娘)
「おまえは騙されているんだ。あいつは結婚詐欺師だ。いい加減に目を覚ませ」(父)

 耳を傾けようとしない娘に業を煮やし、父親は娘を監禁して懇々とさとそうとする。
 これが、統一教会員への拉致監禁説得の本質である。

 では、どうすればいいのか。
 
 それに応える前に、はっきりさせておかなければならないことがある。
 のめり込んでいること・人に対して、親であれ友人であれ誰であれ(他者、外部)、やめさせることはできないということである。
 やめる・やめないは、当人にしか決めることができない。その主体性(自律)を無視することは百害しかない。

「自律」とは:他からの支配や助力を受けず,自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること。
(同音語の「自立」は他の助けや支配なしに一人で物事を行うことであるが,それに対して「自律」は自分の立てた規律に従って自らの行いを規制することをいう)
「他律」とは:自らの意志によらず、他からの命令、強制 によって行動すること。
(大辞林/Weblio辞書より)


<注>拙著『我らの不快な隣人』と『教祖逮捕』でマインドコントロール論批判を書いた。読んでいただけたら、自律と他律のことがより理解できるはずだ。

に外からの強い影響力によって、やめさせることができたとしても、それは当人の意思ではないため、何らかの後遺症的な症状(主に精神面)が残ってしまう。拉致監禁派はその症状を誤解し、「リハビリが必要」という。滑稽である。

 ある強制脱会者は、脱会宣言してからそろそろ2年も経つというのに、いまだにこんなレベルなのだ。(誤解なきようにお願いしたいのだが、この方を批判しているつもりは一切ない)

「只今、夜中の3時。目が覚めて寝れなくなかったのでFacebookでも色々見てました。Facebookって知らない人でも友達の友達なら知り合いかもって出るし、友達の友達が見れます。私の知り合いかもって人は食口がたくさん出てきます。(略)こんな事を言いたくないけど正直服装がダサい。だって服を買う余裕もあんまりないし、肌も必要最低限しか見せれない、ちょっとでも明るめな服を着ただけで批判のもとだし、女性ならメイクだって本当に最低限って感じだし、髪型だって黒髪だし、皆同じにみえる」

「人は外見ではないって分かるけどあまりにも皆同じような感じで個性も感じれないし、何より暗い感じで、笑顔のつもりだろうけど目が完全に死んでる。死んだ魚の目だし、完全に魂が抜けてる顔。(略)食口の時はキラキラしてるとか、憧れの姿とか思ってたお姉さんや祝福家庭、今見たら憧れの姿でもなんでもない。申し訳ないけどあんな目が死んでる姿に戻りたくないわ

 現役食口との対比でしか「自分の今」を確認することができない。なぜそうなのか。それは自分の信念を外部から剥ぎ取られてしまったからだ。むろん、当人は自分の意思で脱会したと思い込んでいるのだが。

 自主脱会者の青い海さんのブログと比較してみれば、強制的(他律)と自主的(自律)との違いがよくわかるだろう。
 まず、これ(「友達と泣いた日」 )を読んでもらいたい。
(一部引用はじめ)
 私は、18歳の時から、30年間、統一教会畑で生きてきた。今年の2月から、「真実が知りたい!」という衝動を抑える事ができず、ネットで統一教会に対する情報を検索し始めた。
 末端信者達に隠されてきた真実を知った時の動揺は想像を絶する程、大きく、重いものだった。今まで、自分が信じていた事が、捏造による虚偽だったと認識し、天地が全て、ひっくり返ってしまったような衝撃だった。
 善なる目的の為に精誠を尽くしていると信じて忍び難きを忍び、耐えがたきを耐えてきた記憶は実らない努力であったばかりか、反社会的な組織への加担行為として恥ずかしく、申し訳ない記憶となった。
 私は、今、30年間、統一教会という団体に関わってきた事実を本当に後悔すると共に、申し訳なく思っている。
 統一教会という組織が、どんな団体なのか、知らなかったとは言え、そこに長年、所属していた者として、日本の社会に迷惑をかけてしまった事を、心から申し訳なく思う。
(引用終わり)

 真実が知りたい。しかし、知りたくない、知ることが怖いという葛藤、モヤモヤした気分は相当長く続いたと思う。そして、ネットを開き、衝撃を受けた。この心理的負荷は相当なものだったと思う。
 しかし、自分で真実を知りたい(自律)と思ったからこそ、精神疾患に陥るほどの負荷に耐えきれたのである。
 衝撃を受けてから半年が経った。
 青い海さんの記事一覧の中から、どれでもいいからクリックして読んでもらいたい。わずか半年間で統一教会と対峙する精神(強靭だが柔軟)が生まれ、そしてユーモアによって、統一さんとオサラバしつつある。私の推奨記事は「祝福指輪は捨てないで下さい! 」。思わず吹き出してしまうこと、間違いなしだ。

 他律つまり強制説得によって短期間で(つまり効率よく)脱会しても、精神的予後は芳しくない。心的外傷後ストレス障害のことを持ち出さなくても!
 青い鳥さんの場合、自律によって脱会した。確かに長い統一教会時代によって失ったものがあるかもしれないが、一個の自立した人格を勝ち取り、これから豊かな人生の上書きをしていくことができるのだ。

<注>反統一の代表的知識人と評していい全国弁連の代表、山口広弁護士に、「自主脱会をサポートするようなヨーロッパの取り組みを日本でも導入すべきではないのか」と問い質したことがある。しかし、彼はにべもなく「効率が悪い」(脱会までに時間がかかりすぎるという意味)とおっしゃった。15年前の話である。録音テープはどこかにあるはず。「効率が悪い」とインフォーマルな会合(私的カルト研究会)で述べながら、後藤徹さんの拉致監禁の訴えを否定し、逆に後藤さんを攻撃する。なんと、品位高き弁護士さんかと思う。
 紀藤正樹弁護士より100倍はタチがいい弁護士だと思っているのだが。


律は駄目。ならば、友としてどうすればいいのか。
 重要なのは、くどくなってしまうのだが、当人が徹底的に考えるような環境を与えること、そしてなにより自律心を育んでもらうことだ。
 統一教会がいかんとか高額エンドレス献金がいかんとか、説教してもあまり意味あることだとは思われない。

 90年代、統一教会をはじめ顕正会、エホバの証人、ライフスペース、幸福の科学、親鸞会、ヤマギシ会など様々な宗教(的)団体を批判する記事を書いていた。
 それらを読んだ家族から多くの手紙をもらった。一言でいえば、「どうしたら子どもを脱会させることができるか」というもの。しかし、私にはそれら団体の問題点を語ることはできても、やめさせる方法などわからなかった。
 必死な訴え、それに応えることができない自分。しかし、今なら違う・・・。

<注1>『教祖逮捕』を参照。絶版本だが中古で安く買える。宗教社会学会が推奨した本。それほど陳腐化していないと思う。
<注2>カテゴリー「清水牧師の正体」で、詳しく経緯を書いている。

の頃と比べて環境は激変した。インターネットが普及したことである。すごい変化である。
 子どもや知人に「ネットで検索してみて」と話すことができるようになった。今では、自然退会者が「火の粉ブログを読んでみて!」と現役シックに言うことが可能になったのである。
 しかしである。
 こうした物言いは本質的には押し付け。ゆえに、「読んでくれと頼んだのだけど、誰からも相手にされなかった」といったメールがしばしば届く。

 ではどうすればいいのか。それは実に簡単なこと。
「ブログ村-統一教会村に登録されているブログに目を通して」と言えばいいだけのこと。自分の考えはほとんど述べずに。URLはここよ、とだけ。http://philosophy.blogmura.com/uc/
 あるいは「ブログ村」「統一教会」と入力してみて、と。

 改めて「ブログ-統一教会村」を眺めると、これが実に百花繚乱なのである。すばらしき統一クスッだ。

    4747355u.jpg

 統一教会の公職者のブログあり。
 反統一の元信者のブログあり。
 現役シックの統一教会を紹介するブログあり。
 現役シックの統一批判ブログあり。
 文家3男を支持するブログあり。
 文家7男を支持するブログあり。
 統一教会の名誉会長を支持するブログあり。
 第4イスラエル研究会のブログあり。
 駒場グループのブログあり。
 非教会員のブログあり


 ないのは禹グループと中山グループだけかぁ


 日本でも韓国でも、教団はブログを読むなと指導している。
 読まれると、統一教会に疑問を抱かれることを知っているからだ。中国共産党と朝鮮労働党と同じである。話は逸れるのだが、朝鮮労働党のドンから文鮮明死去3周年に弔辞が届いたと喜んでいる統一教会。頭がスパゲッティになりそうだ。

 統一村を読んでもらうには工夫が必要だ。
「ブログ村には統一教会を支持するブログも載っているよ。とくに『いつも私のとなりに神さま』って、感動的よ。一度覗いてみてよ」とか。

 友がいくつかのブログを読んで、「いつも私のとなりに神さま」に共鳴共感したというのであれば、それもよし。「火の粉ブログ」を読んで献金を躊躇するようになったというのであれば、それもよし。
 重要なのは、何を選択したのかということではなく、選択しようとする姿勢(自律)にあるのだ。
 100回でも1000回でも言いたい。他律ではなく自律が大切なのだ、と。

 正直ホンネを言うのですが、私は現役シックに統一教会をやめてもらいたいなんてことは、露ほどに思ったことないのです。やめる・やめないは、当人の問題ですから。

ころで、最後は厭味です。
「全国統一協会被害者家族の会」など反統一教会の団体がいくつかある。そこでは信者家族の相談会を会場を設けて定期的にやっている。
 かっては、相談にくる信者家族に拉致監禁派の高山牧師とかパスカル氏などを紹介してきた。むろん、相談料を徴収して。しかし、それがヤバクなってきたので(後藤提訴)、今は紹介していないと思う。
 どう相談に応じているのかは知らないが、相談にくる信者家族には「お子さんに、ブログ村を読むようにと言ってください」と、アドバイスすればそれで済む話である。
 わざわざ相談会など開かずとも、電話で話せばいいだけのこと。
 しかし、それでは会の収入が途絶えるから、相談会を定期的にやるしかない。このことに自覚あれ!
 
学にも一言。カルトがわからんからといって、カルト対策を知っていると自認する教授などを重用することなかれ。学生たちに「ブログ村-統一教会村」のアドレスを大学のホームページで紹介すればいいだけのことだ。ブロガーには統一派もいれば反統一派も統一批判派もいる。価値中立的なネット村である。それを紹介したからといって、「信教の自由を侵害した」といった批判を浴びることなど決してない。学生に選択の自由を与え、思考してもらう。簡単なことなのである。

実に興味深いブログ


 それは、「Kotenjiのブログ」の2つの記事である。
「統一ブログ村に希望はあるか?」
「ブログ村から希望へ 」
 とりわけ、後者が面白かった。
 Kotenji さんが紹介している「ある人」の考えの変遷である。
 やや乱暴だが図式化すると、
 「火の粉を払え」→「亨進説教」→「文顯進」
 この変遷はまさに「他律」から「自律」への過程なのである。

 ある在韓の日本婦人シックは、火の粉ブログで紹介した「亨進説教」に感動し、韓国で立ち上げられつつあったサンクチュアリ教会に仲間数人と参加しようと考えていた。ものすごく燃えていらっしゃった。しかし、1カ月後、彼女は参加を取りやめた。
「統一教会にすがって生きていた。その姿勢が問題であったのに、またサンクチュアリ教会にすがろうとしている。そのことに気がついたのです。今後は、しっかり家庭を築いていくことにしました。その結果、夫とも子どもたちともうまくいくようになり、家族みんなが明るくなりました」
 ここにも他律から自律への転換を見ることができよう。
 Kotenji さんの次の指摘は炯眼だと思います。

特に一つの狭い箱の中に閉じ込められたような傾向が強いと思われる「統一教会員」にとっては、ブログ村のような場所を通過することが、狭い箱から出るきっかけになるかもしれないので、とても重要な希望への過程、経路になると思います。


視野が広がるブログ

・ブログ名「医療・福祉・介護関係者がミタ裏日記」
・記事「自律と他律ー正しさは道具じゃない」
・うつ病で精神薬を飲んでいる人は、是非目を通してください。


律の尊重が重要だと思われた方は
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コメント

情的作用と知的作用

米本さん

この記事に、座布団100枚差し上げます。(笑)
なかなか、言葉にできないことを語ってくださり、感謝感激です。

もう一つ、付け加えるなら、
情的作用は人を主体的にし、知的作用は人を受け身にする。
だから、自律を求めるなら、こころで感じるしかない。
理屈で納得させても、受け身になるだけで、主体性は望めない。
教会が「主体的信仰」と長年叫んでも身につかない理由だ。

人に言われれば反発する。でも自分で気づけば、主体的(自律)になる。
気づくというのは心の作用だからだ。
だから言っちゃいけない。これが難しいんですけどね。
ああ、言っちゃった。(^^);

カルト脳脱却は相対化がまず大事

知り合いが言っていた。カルト脳から治癒するには、まず最初にやるべきことは、教義を相対化して考えることだと。

世の中、いろんな考え方があるさ。いろんな宗教がある。一つの宗教でも、賛成もある、反対もある。で、知り合いは、ある悩みが生じたとき、それは教会員の拉致監禁と関係あることなんだけど、文氏の思想もワンオブゼムだと考えることにしたと。それで自分の精神的危機を乗り切ったと。

彼も最初のフィアンセを拉致られたらしい。で、その時、目の前が真っ暗になったらしい。そのころ彼は、再祝福ということを知らなかったらしい。すると、祝福というのは彼にとっては絶対。フィアンセも、永遠のフィアンセで絶対。で、彼は拉致られたフィアンセを救い出すため、頑張ったんだって。

そして、すべての手段で失敗した時、彼には絶望しか残されていなかった。真剣に考えたらしいよ。永遠のフィアンセで絶対なんだから、自分はこのまま、生涯独身?いや、死んでも独身?あの世に行っても独身?結婚できないのかよってね。フィアンセが自分から不信仰で教会を離れ、どうぞ別の人と祝福を受けてくださいっていうんじゃないんだよ。それなら、あっそう、で悩むことはないよね。フィアンセも頑張っているんだってシグナルがあればいいんだが、どうなっているのかさっぱりわからないから、すっかり不安になり、悩みこんで、気が狂いそうになったって。ある時、無差別に人を殺したくなったって。それから、彼の中のもう一人の彼が、これは大変だ、何とかしなくっちゃって思い始めて、それから相対化路線が始まったわけさ。

ま、きっかけはともかく、教義の価値を相対化することで、だんだんものが見えるようになってきた。うん、それはよかったじゃないか。統一教会で、信仰の素養は教えてもらったんだし、フィアンセの拉致監禁は彼にも相当な試練だったかもしれないが、教義の価値の相対化で、統一教会の信仰から一歩先に進むことができたんだし。ま、それはよかった。

なにも統一教会を辞めろというわけじゃないんだ、そこから一歩進めということだ。彼はまだ辞めていないし、いろいろ本を買って、精神世界のことを勉強しているらしい。あ、光言社の本じゃないよ。普通の一般的な精神世界の本だ。で、彼は言うんだ。なんだ、神体験と同じような体験が、宗教以外の方法でもできるじゃないかって。良かったね。そういうことに気がついて。

知り合いの例を少し長く紹介したが、要は自分で考え、自分で模索して、自分で悟りを得なさいということさ。「天は自ら助けるものを助ける」。イエスの言葉でいえば「求めよ、そうすれば与えられるであろう」。求めなくても、要らなくても勝手に与えてくるのがカルト。そこから脱却するには、自分で求めていくのさ。

洗脳を解くには自分を逆洗脳する、というのは洗脳の大家の言葉。苫米地英人氏という脳機能科学者が、その著書の中で語っているのだが、宗教に限らず、テレビのCM、新聞マスメディア、なんにせよ洗脳のないものはない。それを心得て、自分を逆洗脳しろという。洗脳そのものは悪くないんだって。それを相手からされるか、自分の人生の目的に合うように自分で自分に仕掛けるか。相手を洗脳しようというのがカルト。そこから逃れるには逆洗脳を自分で自分に仕掛ける。

拉致監禁だって、監禁した教会員を相手に洗脳を仕掛けているわけだ。だからそれはカルトなんだ。米本氏が言うように、反カルトという名のカルトなんだ。カルト、あるいは反カルトから脱却するには、自分で自分の洗脳を解き、自分の人生設計に都合がいいように、自分で自分を洗脳する。

いいかな。自分でやるんだよ。知り合いの場合には、まず価値の相対化から始めた。誰にも相談しないで、自分でヒーリングサークルを探して、そこに通い始めた。統一教会はよく報告連絡相談、略して報連相(ほうれん草)と言うだろう。あれは相手の支配のためにそう教育する。だから、大事なことはだれにも相談しない。自分で探し求めること。

何かしようと思って、人に相談すると、相談した相手は大体の場合ドリームキラーになる。「うーん、いいことだと思うんだけど、今は天の願いが最優先だからね。それにあなたには難しいんじゃないの、できないことはするだけ無駄だよ」と言われてあきらめるのがだいたいのパターンだ。だから誰にも言わないで、自分で探す。それをやれば、自分の信仰にも必ずプラスになるよ。私の知り合いが身を持って体験し、理解したやり方だ。

米本様

拙いブログを紹介して頂き、ありがとうございました。

記事の行間から
「いろいろ、あったかもしれないけど、
 頑張って新しい人生を生きろよ!」と
背中を押されたような気がして
視界が霞みました。

30年間、失ったものも多かったけれど
収穫できた少量のきれいな実を大切にしながら
これからの人生を実りあるものにしていきたいです。

米本さんのブログ記事は、私の友達も、みんな更新を楽しみにしています。

季節の変わり目、お体ご自愛下さい^^

なぜ教会に残るのか?

今回の記事を読んで、今までも考えなかった訳ではありませんが、私はなぜ統一教会に残っているか、自問してみました。

自分が青春をかけて投入してきたことが、間違いだったと認めたくない。
祝福結婚をして子供が出来て、子供たちも教会活動に頑張っているし・・・

正直言って教会や牧会者を見て、そこに希望が持てるかと言われたら、そこには何の希望も見出せません。

それでも、なぜ教会に残っているのか?
私は、原理を聞く前は無神論者で救いの必要性も感じていませんでした。
いろいろと学ぶうちに、神様の存在を信ずるようになり、文鮮明先生はメシヤだと確信して献身するようになりました。

振り返ってみると、自分が一番み言にスパークしたのは、日本はエバ国家であるという一言でした。
み言を聞く前から、私は愛国者でどちらかというと右翼的な人間でした。私の10代の頃は、ソ連の日本侵略の危機が叫ばれていたころでした。この祖国をどうしたら守ることができるのか、そんなことばかり考えていました。
そんなころ、深い意味は分かりませんでしたが、日本はエバ国であるという一言に、強く心が動かされました。(食口でもそんな人は少ないでしょうが)

もちろん、原理は神様を中心とした人類一家族世界を目指していますから、その内容からも日本の生きる道はこれしかないと確信したものでした。

今この瞬間も、人間としての最低限の生存権も脅かされる多くの人々がいて、待ったなしの環境問題、エネルギー問題、食糧問題、戦争、紛争と難民問題・・・世界的規模のこの難題を解決できるの文鮮明先生しかないと思っていました。

そう遠くない未来に、人類は一部の国が資源や食料を独占し続けるのか、それとも先進国の生活水準を下げても、世界が共に生きる道を選ぶのか選択を迫られるようになるでしょう。その選択を正しく導けるのは宗教ではないだろうか。それ統一原理ではないだろうか。私にとって、統一原理は人類の未来の希望でした。

それが今や、身内の分裂も何ともならない体たらく。
おいおい、一体どうなってんのという感じ。

本当に統一教会が、人類を導くことができるのなら、神様の下の人類一家族世界を実現しようとするのなら、まず一つになっていくことが肝要と思うのは私だけ。
亨進様にも期待したけれど、最近は一つになる道を閉ざしてるようで、考え中です。

世界中の人々が幸福になってほしい夢想人の繰り言でした。

これしかないと思った

迷いましたが、私の経緯をあえて少し書きます。
私は高校時代から聖書を読んでました。クリスチャンではなかったけれど、日本キリスト教会のラジオ番組(パクさんの何とか・・・)をよく聞いてました。
ちなみに、その番組の司会者は韓国人でした。キリスト教会に行こうかとも思いましたが、いつも聞く”信じるだけで救われる”という言葉がどうしても納得できず、行きませんでした。

世界中の人を幸福にするにはどうしたらいいか自分なりに祈り始め(1週間後ある声が聞こえた)、考えに考えた結果、できる方法としては「隣人を愛する」でした。そうすればその輪が広がるはずだ!、しかし、これがいかに難しいかと打ちひしがれました(高校時代)。そういう経緯の中で統一原理に出会い、これしかない!、キリスト教を超えていると確信したんです。

統一原理で感動したのは「創造目的」と「創造本然の価値」の2つのみでした。イエス・キリストのような完成者になれる道ができたと、その時の感動がずっと残ってました。
私の場合、多くの一般統一教会員と違っていたことをずいぶん後になって知りました。それは、原研の7日修練会直後に、原理講論の「肉的新生」の意味がどうにも想定ができず(皆はどう理解してたんだろう?)、意味が分からず、執拗に聞いたところ、原研メンバーから、所謂、草創期の「血分け」を説明されたことです。しかも「血分け」という言葉を使って。恐らく、執拗に聞かなかったら説明されなかったと思います。

いろんな経緯、葛藤の末、その10年後に正式に統一教会員になりました。献身者ではありません。(この10年間、渋谷の一般書店で「新天地」をよく買ってました。批判本も読みました)一番驚いたのは、あの「血分け教義」(実体的血統転換)を誰も知らず、公式にも否定されてたことです。やはりあれは、説明した所詮大学生の原研メンバーの思い込みか、反対派の影響だったんだろう と疑問をもちつつも、自分の中では封印してました。(原研メンバーは原理を追求していたという感じでした)
そして、祝福を受けました。祝福直後、勢いで勤め先の会社には統一教会で結婚したことを告知しました。そのあと、バッシングが始まりましたが、20年以上堂々としてました。多少問題はありましたが、その程度でした。

家庭出発時の3日儀式の講義は、どう考えてもあの「血分け教義」を連想させました。でも、文鮮明氏を再臨のメシアであることを一番に考え、最初の7日修練会の感動を信じたんです。
祝福後、確か1か月以内に実家に帰った時、私の知らないうちに妹がある霊能者とのセッテイングをしており、その霊能者と会うはめになりました。長崎で修行した人で、統一教会の壺のことで買った人から相談されたこともあったそうです。
夜明けまでいろいろ話し、文氏はいい先生だ、あなたには守護霊がいると言われました。その霊能者は彼の守護霊から、”心を真っ白にして会え”と言われて、私と会ったそうです。そして、翌日聞いたんですが、私の背後に文鮮明氏が霊的に仁王立ちしており、その霊能者はすごく怖かったそうです。そして、妹の方には古代ギリシャの霊たち数人が降りてきて「あなたも従いなさい」と言われたそうです。(私が言えなかったことを代わりに言いにきたらしい、でも、妹は拒否)

以上のこともあり、血分けが本当だとしても私は信じました。文鮮明氏には多方面にわたり他に類を見ない卓越した言葉もあります。しかし、しかし、統一教会の活動はお金中心で、違和感だらけで、当初の私の感動とはかけ離れたものでした。それでも信じました。20年以上後(原理を聞いてからは30年以上)、いろんな事で教会から遠ざかり、そして、いろんなブログや7男の告白も知りました。それでも奥底では信じようとしました。
しかし、ある時、神様にも事情があることを悟り、教会とか血統とか関係なく、(血統転換:関係ないです)まずは自分の良心を信じ、生きるスタイルはどうでも正しく生きる、ということが一番重要であると思ってます。(いろいろ問題はありますが)

統一教会辞めても祝福は残るだろう。

toramaruさん、仏教徒でも祝福を受けることができる。カトリックだって、どんな宗教だって、あるいは宗教信じない人だって、祝福を受けることはできる。ということは、統一教会を辞めても、祝福家庭であり続けることはできるということだね。

私の知り合いが統一教会を辞めないのは、統一教会改革に燃えていたころは、統一教会の中にいなければ意味がないと思っていたようだ。しかし、改革の意欲が萎えてしまってからは、あまり奥さんや子供と喧嘩するのも面倒だ、ということが理由で辞めないという方向に変わったようだ。宗教的なことが理由で家庭内に問題を抱えるのは、面倒くせーということらしい。でも、統一教会を辞めても、祝福家庭であり続けることができるなら、問題はなかろうと思う。でも、女房子供の顔を思い出すと、無理して辞めなくてもいいか、と思うらしい。

自主脱会をサポートするようなヨーロッパの取り組みを日本でも導入すべきではないのか

米本さんの言うことは理想的ではあっても、残念ながら現実は許さないでしょうね。
安倍政権は統一教会、日本会議といったカルトに強力に支えられている政権です。
そのようなプログラムなど、真っ先に潰されてしまいます。
ただでさえ大学のカルト対策は後退に後退を重ねているのですから。

マインドコントロール、ぜひ「科学的に実在するのか?」の再論を

ひさびさにマインドコントロールの話ですね。自分の興味の中心はこちらです。
ところでごく最近の話題だと、こういうことが話題になったのをご存知でしょうか。
http://togetter.com/li/873781
これ自体は実にお気の毒なのですが「マインドコントロールという科学的現象が存在し、それによって人は自由意志を奪われる」というイメージはこういう話によって強化され、「我らの不快な隣人」などで提示された、それへの疑念は知られないままとなります。

そういう点で、あの書の読みどころをバス慰するような形でも「マインドコントロールって、本当に実在が証明されているの?」というエントリーがあれば有益だと思うのですが…
(そこから本の販売につなげるのもいい)
むかしその「MCというのがあるか、ないか」を論じた小生の記事です
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20140129/p2

あと、絶版書籍は現在、各種の電子書籍での復刊がかなり容易になっています。そういう手法もご検討ください。

「自分から行わねば条件にならない」

これは原理の初歩の初歩ですが、強制的な献金は、「する方、させる方」双方何も判っておられないということになります。

なお、私はご自分は超熱心な「火の粉」読者(礼拝でよくネタとして用いているのが根拠)でありながら、ネットを教会員に禁止している教区長のもとに所属しているにも関わらず、コメントを含め全て拝見させていただいておりますが、現役のままです。

お父様がお亡くなりになる前に、「その時は必ず分裂が起こる」と言っていましたが、家族を含め誰も現役さんは信用してくれなかった等「わかってねえな」はあるにはありますが・・・。
なお、現在危惧しているのは、順番からお母様が先に霊界にいかれる確率が高いので、聖和後さらに、どちらが主流かわからなくなるであろうことです。
「UCの風見鶏」徳さん及び取り巻きの皆さま、どうするんでしょうか?

話しはそれましたが、私も家が買えるぐらいの献金はしてきましたが、すべて自分の労働の対価を自律によりおこなったものです。

思うに、この道に限りませんが、行きたい人だけ行けば良いので「耐えがたきを耐える」ものでもなければ、他人を見るものでもないと思います。
全部とはいいませんが多くに感謝できない方には、苦痛でしかないことが多すぎのようですので。

なお、こちらにコメントされる皆さんは、さも教会員のみ異常のような物言いが多いですが、私も長年正社員で一般企業で仕事してますが、どこも「愛のなさ」「非常識さ」は相当と思いますが。

Re: 情的作用と知的作用

>情的作用は人を主体的にし、知的作用は人を受け身にする。
だから、自律を求めるなら、こころで感じるしかない。
理屈で納得させても、受け身になるだけで、主体性は望めない。

 鋭いです。
 問題意識が噛み合うかどうかわかりませんが、強制脱会業界で「資料説得」という用語がありました。

 これは、監禁下(といってもハードではなく、2、3日程度、統一教会に連絡取らず、話を聞いてね-といったソフトなもの)で、資料(聖書と原理書との比較、文鮮明氏を批判する公の活字など)を読んでもらい、それを説明し、ディスカッションすれば脱会する。
 これを「資料説得」と言った。今では死語になっているけど。

 1985年までは、資料説得で、どんなに長くても一週間で脱会した。これは複数の牧師の証言です。

 ところが、それが通じなくなりました。「頭では統一教会の問題はわかったけど、心の底から納得することができない」

 85年頃以前は「知的作用」で脱会した。ところが、それ以降は「情的作用」が働かないと脱会しない。このことを否定する脱会説得者はいないでしょう。

 プームチャイさんのいう「知的作用」と「情的作用」。これは対立するものではなく、相対的なものだと考えています。

 勧誘の歴史は詳らかではないけど、黒板伝道時代は知的伝道、ビデオセンター時代は情的伝道だったのではないかと愚考しますが、どうなんでしょうか。

統一信者の知的作用ってなんだろう?

ト-イツ食口に理屈ってあるんでしょうか?
お金を払えば先祖の霊が解恩される‥
真の御家庭がひとつになれば、世界の問題が解決される‥
韓お母さまが70億人類の空前絶後の希望だ―‥
これってへのへの屁理屈じゃあないんでしょうか!
ト-イツ食口が知的になることなんてあるんでしょうか?
どうがんばって好意的にみたって、最初から最後まで感情、激情、てん点天情じゃないんでしょうか。
ト-イツ食口に知的作用があるなんてとても思えないんですけど。
知的作用があったら、とっくの昔に脱会しているんではないかと‥
今のト-イツ食口が情的に納得しないと脱会したりしないのは、それだけ今のト-イツ食口がもともと知性が乏しかったということなのではないかと‥
文3男派なんか顕進さまが南北統一の夢を実現してくれると上から目線で、進歩派気取りでいますけど、
北朝鮮はいずれ自滅して、自然に南北統一されるなんて常識なんですけどね。
やっぱり分派だろうと知性なんか、どこにもないんだよね。
  • [2015/09/17 21:05]
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Re: 情的作用と知的作用

米本さん

コメントありがとうございます。

私自身、こうやってまとめたとき、当然、反証も考えるわけです。
知的作用で、主体的(自律)になることはないのかと。

私は知的にみ言葉を聞いて教会に来たのではないか。
科学者は知的好奇心で、研究に没頭するのではないかと。

ですからこれは、参考にはなっても定義するほど強くは言えないと思っていました。ですが最近、いや、知から情が誘発されているのではと思うようになりました。

私が教会に来たのは1984年、ビデオセンター時代でしたが、知的に原理を聞いて来ました。ですがそこには、真理を知った震えるような感激、そのような心の衝動があったわけです。
知的作用が情的作用を引き起こしたとでも言ったら良いのでしょうか。

とすると、昔は知的作用から情的作用が誘発されやすかったが、
今は、知的作用から情的作用が誘発されにくくなったということなのか。

心が簡単には感動(感じて動く)しにくい時代、そんな世相を反映しているのだろうか、そんな風に考えたりします。

訂正:「世相」ではなく、「教会の実情」と言うのが正しいと思います。

面白い食口の歌

(ご存知、『幸せってなんだろう』のメロディで歌ってね)

知的作用ってなんだろう?食口に聞いてみた~

天の秘密を知ることさ、信者ーは答ーえーた~

毎日みことば読んでみて、あたまにお花が、見ーえる~

訓読毎日やったなら、それが-知的さ~


主体性ってなんだろう?食口に聞いてみた~

自分の情で動くことさ、信者ーは答ーえーた~

知的にばかりーなったならー、人は受け身になっちゃう~

情に埋もれていくならば、それがー主体さー


あ~あ、腹が捻じれて、腸ねん転
  • [2015/09/17 23:02]
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  • いつも米本ファン
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Re: マインドコントロール、ぜひ「科学的に実在するのか?」の再論を

>ひさびさにマインドコントロールの話ですね。

 ほんとほんと。すでに結着がついたテーマですが、いまだこの論が似非科学だということに気がついていない、不勉強な元信、反カルト人がいるので、いつか再度論じようと思っています。

Re: 「自分から行わねば条件にならない」

>私も家が買えるぐらいの献金はしてきましたが、すべて自分の労働の対価を自律によりおこなったものです。

 様々な意見、情報を知った上で、献金する。それはそれで尊重されるべきだと考えています。

盲目的信者が自律に至る道

>重要なのは、何を選択したのかということではなく、選択しようとする姿勢(自律)にあるのだ。
 100回でも1000回でも言いたい。他律ではなく自律が大切なのだ、と。


 米本さんが「自律と他律」論を記事に書かれたのは、もちろん統一教会を巡る問題の複雑さを目の前にしたからなのでしょうが、自律を尊重しながら、その本人に「自分の行為を客体化して考えてもらえるようにする」のは 人の性格によってはなかなか難しいことです。
 もとより真理探究の姿勢があったり、社会的成功を目指して生きてきた人などは自己を客観的に捉えて判断して行くようになるのは当然のことで、人から促されずとも様々な情報を集めたり、物事を徹底的に考えたりするようになります。
 しかし、そのような主体的な目的を持たず、感情に流されやすく環境に依存して生きてきた人などは物事に対する探究心といったものが弱く、新しい情報などは積極的に求めて行かないのです。
 そのように情緒的で理性的な主体性を持たない人達は自律性そのものが曖昧であり、知性よりも感情に重きを置くため、一度のめり込んだ感情からなかなか脱却できないのです。

 宗教などはもともと知性に価値を置かないものなので、そこに一旦はまり込んでしまうと冷静に自分を客観的に捉えるのが難しくなってしまいます。
 米本さんが例として挙げたイスラム過激派の信者達もそうなのですが、それは‘統一教会’信者の場合も全く同じです。
 宗教によっては、歴史的に洗練されてきた宗派などの場合であれば そのような弊害は少ないのでしょうが、新興宗教や小規模の民族宗教の場合はそのような反知性の宗教が多いように思います。
 そのような宗教に入り込んで、そこから脱却、進歩できない人達というのは真理を真剣に探究してきたとか、社会的な成功を目指してきた人達でないのは確かで、最も理解し易い説明は‘ルサンチマンを持つ人’ということになると思います。
 ‘ルサンチマン’については既に‘火の粉を払え’でも話題にされたので説明を省きますが、その解釈はかなり説得力があり、‘統一教会’現役信者の場合にも当てはまります。
 そしてその信者達を観察すればわかりますように、そのようなルサンチマンの情念から自分で脱却することは、絶望的なぐらい難しいのです。

 結局、そのようなルサンチマンの情念から開放してあげられる方法を見つけるか、純粋に真実、真理を求める追究心を覚醒させてあげる方法を見つけるかせねば、その人を他律から解放することはできず、他に盲目的な宗教信者に真の自律性を獲得させる方法はないのです。
 米本さんが記事に書かれたように、ネットにある‘火の粉を払え’ブログなどを自分から読み始める自発性が芽生えるようになれば問題はないのですが、世の中にある情報をすべて悪に支配された偽物と思い込むルサンチマンを持つ‘統一教会’信者は その情念によってネットにある客観的な情報さえも敵視してしまうのです。
 ‘統一教会’の指導者は情報操作したり、情報隠蔽したりしますが、それはルサンチマンを持つ‘統一教会’信者にとっては裏切り行為とならず、「世の中はサタンに支配された悪なる世界であり、メシアを信じている自分達こそ正しい」ので世の中の情報をあえて自分から遠ざけたりもするのです。

 この世界は堕落した世界であり、神の悲しみの対象となっていて、その‘恨み’を開放しようとするメシアに従っている自分達こそ正しいのであり、霊界では救われるのだという信仰はルサンチマンを持つ人々の心をうまく捕らえており、反知性でありながらもその情念はかなり根深いものなのです。
 自律、即ち理性的に意思決定し、行動できるようになるためには その生来の情念を超えていかねばならないので、情緒的な性格の人にとって それは容易なことではないのです。
 ただ、如何に情緒的な性格の人であったとしても理性を全く持たない人間はいないので、如何にその理性の働きを覚醒させてあげるかが重要になってくるのです。
 理性が働かずして自律などということはあり得ないのですから、それが働き始める契機が必要なのです。

 人間の精神は独自的に変化することなどなく、変化が生じるためにはきっかけが必要なのですが、そのきっかけを得る最も簡単な方法は新しい情報に接することです。
 米本さんが記事に書かれたように、インターネットにある情報に接するよう盲目的な宗教信者に助言するのは一番簡単で効果的な方法です。
 現代社会でインターネットを利用しないなど、普通にあり得ないことなのですが、‘統一教会’信者はそのあり得ないことを信仰が故に守っているのですから厄介なのです。
 厄介なルサンチマンを持つ人々に理性を取り戻させ、自律に至らせることがインターネットの情報によって可能となるならば、これよりすばらしい文明の贈り物はないのです。
 時代の進歩から取り残されたような‘統一教会’信者にはインターネットの発達は「神の摂理」であり、インターネットに流れる情報の中にこそ神の声(真理の言葉)が隠されていることを知ってもらうしかないのです。
 

「摂理のためなら殺●も許される」と言われた

上コメントの中のイスラム過激派で思い出したんですが、まさに統一も同じだと思います。
今はもうない東京の小さい教会に所属していた時、当時の韓国人教会長が、礼拝中に「私はお父様から新潟県を与えると言われた、だから、新潟はおれのものだ」とか、「摂理のためなら殺●も許される」と言って「もしお父様に命令されたらやれる者、手を上げて」と聞いたんですが、本物の信仰者の証をしたかったのか?、手を上げた人が意外に多くいたんです。驚きました。(小さい教会なのに)
統一教会には、現実に、こういう感覚が、活動においても献金においても全体的に(個人差あるにしても)蔓延してたんじゃないかと思います。献金も何かに背中を押される感じで、やってしまった。2千は超えてるはず。ちなみに、その教会長は教区長になり、南北なんとか組織の事務長になったりしました。

青い海さんのブログを拝見して

生憎アメーバIDの持ち合わせがなく、今後もアメーバIDを持つ気もないので、こちらで失礼します。

「祝福指輪は捨てないでください」
は良かった。米本さんと同様、笑えます。

清平湖のほとりに10人余りが並んで指輪を一斉に捨てるというパホーマンスに、複雑な思いを抱いた人が多い中、売って純金に替えるとは、思い切りのよさを感じます。
他の思い出の品についても全て処分して、確かな決別の思いが伝わってきます。

同じく以下、大きな衝撃とともに決別を明確にした或る家庭の、完全に目の覚めた夫婦の会話です。

ある程度までは処分しても、何かの折にチョコチョコと記念の品が出てくる、また世間話の流れで教会の話になろうものなら、これは「あのエロじじい(敢えて日本語にした場合の適訳)」にもらったものだ、あのとき「あのエロばばあ」の顔はひどいものだった、と言ったぐあいになる。

「エロしじい」の意味するところはわかっても、「エロばばあ」のことはご存じないかもしれません。が、これも秘話の一つ。表で語られるのはいつも同じ内容の繰り返しであるのに対し、文2、文6の夭逝秘話など、隠蔽事項のほうが遙かに豊かで多いのも、統一教の特徴と言えます。
「事実は小説よりも奇なり」

一遍に聞くと、衝撃が大きすぎて頭がヒートアップするので、少しずつ入れていくことをお勧めします。

とりあえず、思い出の品を含め、様々の思い出を処分整理するにあたり、「エロしじい」「エロばばあ」は「反面教師」になっているようです。

青い海さんは、ご自分の日常的口癖「あー、どうでもよくなった」を、内心快くは思っていないでしょう。だから、趣味の油絵や猫さんに癒やしを求めるのでは?

自分に与えられた人生という畑に蒔いたものが、譬え毒の実を実らせても、肥やしにするくらいの気概を持って、残りの生を謳歌しようではありませんか。道半ばで犠牲になった人の分まで、納得できる人生にしなくてはなりません。

いきなり忘れることはできないでしょうから、「反面教師」にして日々を改善し楽しめばいいのです。
これ以上、我が生を侵害するもの許さじ。 

cosmopolitanさんへ

感想と励ましのお言葉ありがとうございます。

こちらは米本さんのブログなので、私のブログの
「祝福指輪は捨てないで下さい!」の記事の
コメント欄で、お返事させて頂きました^^

Re: 「摂理のためなら殺●も許される」と言われた

 殺人を条件付きで肯定する教会長の名前を教えていただけませんか。
 表に出すのはまずいというのであれば、個人メールにでも。

 ぼくが長年取材してきた、ユートピア集団・ヤマギシ会でも「殺人研鑽会」が行なわれたことがあります。似ています。だから、とても関心があります。
 そういえば、オウムの麻原氏も、条件付きで殺人を肯定したことがありましたね。

Re: 青い海さんのブログを拝見して

>「エロしじい」の意味するところはわかっても、「エロばばあ」のことはご存じないかもれません。が、これも秘話の一つ。表で語られるのはいつも同じ内容の繰り返しであるのに対し、文2、文6の夭逝秘話など、隠蔽事項のほうが遙かに豊かで多いのも、統一教の特徴と言えます。
「事実は小説よりも奇なり」

 
 小説より奇なる事実を教えてくだしゃんせ。
 青い海さんでもいいですよ。回答の場所はどこでもいいですよ。

Re: 盲目的信者が自律に至る道

>インターネットにある情報に接するよう盲目的な宗教信者に助言するのは一番簡単で効果的な方法です。
 現代社会でインターネットを利用しないなど、普通にあり得ないことなのですが、‘統一教会’信者はそのあり得ないことを信仰が故に守っているのですから厄介なのです。

 そう、厄介ですが、桎梏になっています。統一教会の伝道路線との絶対矛盾となっています。

 次々回のテーマとさせていただきます。前から書きたかったことです。感謝です。

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ネットを見ていない そして、子供も見てない

ネットを見てないと同時に子供も見ていない。(自分もそうだった)

ネット見るなとか、少なくとも2世たちにとっては何の意味もないです。
私の娘は中学から7年間、韓国留学してたにもかかわらず、子供にもよるでしょうが、そもそも教会自体に関心がなかったです。帰国してから教会のことを言っても、”教会なんか関係ない”と、そんな感じです。留学中は一時、留学組として7男の礼拝によく行ってたようですが、そのうち行かなくなり、冷めた感じでした。
かなり勉強して国立大学に入った子もカープには入ってないと聞きました。ソウル大や東大に固執してた親子もいたようですが、どうなったことやら。

関係ないですが、
ある有名な2世担当責任者が”2世問題の氷山の一角です”と言ってた実話です。
清平に熱心なある母親が、子供を説得して修練会に参加させたら、今度また行きたいと強く言い出したそうです。母親は喜んでたそうですが、しばらく後(何回か行った後だったか?)、子供が打ち明けたそうです。なんと、その子供は修練会中、別の子供と一つの寝袋で男女関係をもってしまい(わけわからず?)、その時の快感が忘れられず、それを求めて清平、清平と言ってたと。子供が言わなかったら気付かないままだったでしょう。親は泣きながら告白したそうです。しかし、この2世責任者は、こういう問題はめずらしくなく2世問題は凄まじいと言ってました。
ずいぶん前の2世父母会(東京)での話です。

貴重な記事をありがとうございます

>特に一つの狭い箱の中に閉じ込められたような傾向が強いと思われる「統一教会員」にとっては、ブログ村のような場所を通過することが、狭い箱から出るきっかけになるかもしれないので、とても重要な希望への過程、経路になると思います。

「自律」と「他律」というテーマは最近妻とも話しておりました。

狭い目でみると、たしかにブログ村は「恐ろしい」ところです。たとえば、「私の子供がブログ村を知ったことにより、信仰を失ってしまった」というようなことが起こりえます。

「信仰を失った」というのが、「教会組織に対する信仰を失って教会に行かなくなった」程度ならいいのですが、「文先生に対する信仰を失ってしまい、祝福子女という自分のアイデンティティを失ってしまった」とまでいってしまうので、恐ろしいとなります。

まあ、しかし、そのくらいで失われるような「信仰」であれば、それだけのものだったということであり、むしろ自分が持っていると思っていた「信仰」というものの実態が暴露されるわけですから、人間として成長していく上では必要な過程であるとも言えるかもしれません。

そういう意味では現在の状況は、われわれが持ちたいと思う本来の信仰とは何なのかということを正直に追求せざるを得ない、まさに「後天時代」において神様が愛する子女たちに下さったチャンスであるとも言えると思います。

何らかの縁があってこの道に関わってきた人々に対して、たとえ難しくても何とか人類にもっと貢献できる人々となり、幸せになってくれよ、という神様の親心を感じる時もあります。

そこに米本さんの火の粉ブログの神業性を感じている次第です^^

マインドコントロール論について

マインドコントロール論は科学かどうか?ということについては、科学ではありませんが、似非科学的手法を用いて人をコントロールしようとする人がいることは事実です。

例えば、人を騙す人、人に騙される人というとき、騙すということは、語ったことは嘘なわけですが、嘘が見破れなければ、騙されるということがあるわけです。

マインドコントロール論も同じで、似非科学ではあるけれども、コントロールしようとする側がいて、コントロールされる側がいるということは現実にあるわけです。

だから、私は、現実としてマインドコントロールの手法を使っている人はいると思います。罪感を徹底して教え込んで、そう思わせる。心理学的手法かもしれませんが、罪感が徹底して入り込んだ段階で、高額の商品や献金で救済されるような話をする。似非科学ではあるけれども、そういうふうな心理操作をするということはあり得ます。

ですので、マインドコントロール論というのは科学としては成立しないけれども、実践的手法としては現実にあると思っております。

科学というのは、一つの事象があると、必ず別の特定の事象に導かれるというのが科学であると思います。同じ伝道をされかけても、多くの日本人が統一教会に入っていない、むしろ入って活動をしている人はほんの一握りにすぎません。ですからマインドコントロール論は科学ではありません。科学であれば、理論を適用された人はみんな会員にならないとおかしいわけです。

しかしながら、現実的にはほんの一握りであったとしても、コントロールされる人はいる。ですから実践的手法としてはマインドコントロール論は有効だろうと思います。

そういうわけで、人間だれしもがマインドコントロールに引っかかる可能性を秘めているわけで、これを自分で解くということが必要なわけです。多くの人は自然解消的に溶けていくのでしょうが、ごく一部の人に限って言えば、自覚的に解いていく努力が必要でしょう。

その際に、どういうことが一番根底にあれば、ときやすいか? それは、完全無欠な絶対的真理などありはしないということです。物理学における真理も同様ですが、いまだにすべてを解明しうる法則は解かれていないのです。アインシュタインの相対性理論、量子力学、4つの場の理論、いろいろあるようですが、すべての現象を統一的に説明しうる理論は、ないのです。今一番注目されているのがひも理論らしいですが、一つの学説にすぎません。将来的にはどうか。将来的にも現れないでしょう。

ゲーデルが自然数という狭い範囲で不完全性定理を証明し、1980年代にグレゴリー・チャインティンが超数学という、あらゆる定理を包含する世界に拡大してそれを証明したわけです。


皆さん、伝道された時に、神の存在証明と言われて驚き、聞いてみたけど、何のことはない、循環論法にすぎなかったでしょう?宗教学者のグリムがチャインティンの証明を使って、次のような証明を行いました。
1.神は完全である。
2.チャインティンの定理により、完全は存在しない。
3.依って、神は存在しない。

ここでいう神とは、キリスト教でいう、全知全能で完全なる神のことを言います。しかし、それでも神を信じる人はいます。それはそれでいいのです。ある人は宇宙のエネルギーととらえ、ある人は「気」ととらえ、またイエスに現れた神、マホメットに現れた神、ブッダに現れた仏法、そういったものを自分の肌で感じ、心で感じるということはあるでしょう。それはそれでいいのですが、完全無欠の絶対的真理というものはあり得ないということが証明されたわけです。

どこかにほころびがあります。完全無欠の絶対的真理はないということを心に銘記して、さまざまな角度から人の話を聞く、それがマインドコントロールされない一番いい方法です。

あの阪神淡路大震災の時にも、東北大震災の時にも、日本が責任分担を果たしていないからとかなんとかよく言われたでしょう。でも、本当にそのことが証明できるのですか?蕩減復帰というのは大変便利な言葉で、なんにでも適用、応用できます。しかし、ということは、特定の原因を突き詰めることはできないということです。原因というところに何か入れると、なんにでも当てはまってしまうのです。

大塚元会長の子供が脳の病気で倒れた時、日本の責任、日本の責任と言って献金を要求されたでしょう。で大塚元会長自身は、いろいろ考えてみたけど、思い当たる節がない、だからこれは日本の蕩減を背負ったに違いないと言ったでしょう。その言葉を利用して責任者たちが、皆さんに献金を要請したでしょう。でも、本当にそうか?これは私の友達の言葉の受け売りでもありますが、堕落人間が、メシアの一族に入ることができるということ自体、大変なことなのです。ものすごい蕩減条件が必要なのです。だから、子供が倒れたのは、大塚家から文氏一族に入籍するということに見合った条件が必要だった、とみることもできるのです。このように、蕩減条件という言葉は便利な言葉で、何を原因にしても当てはまってしまうのです。完全無欠な心理などないということをしっかり念頭においておけば、大塚ひろたか病気日本原因説のほころびが、見えていたはずです。みなさん、責任者から説明を受けたらまず、別の説明はできないか、ほかのことが原因である可能性はないのか、あらゆる角度から考えましょう。唯一絶対完全なる真理などないわけですから。

視野が広がるブログ

●ブログ名「医療・福祉・介護関係者がミタ裏日記」
●記事名「自律と他律ー正しさは道具じゃない」
●URL:http://ameblo.jp/seven-grassa-herb/entry-12076166886.html
●うつで精神薬を処方されている方は、是非読んでください。

※本文の末尾にも掲載しました。

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