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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第十七話  第二次アントリム戦役 書籍化該当部分5

 玉座の間にはハウレリアの文武の重鎮が勢ぞろいしている。
 中央には豪奢な装飾を施された玉座に、悠然と腰かけた国王ルイ・フェルディナンが一人の男を見下ろしていた。
 鎧に身を固め、流れるように美しい所作で腰を折ったフランドルは、主君の前に朗々と出陣の誓いを申し述べた。
 「臣フランドル・ガスティンの全身全霊をあげて御身に勝利を」
 「うむ、余の期待に背くな」
 「御意」
 ゆっくりとルイは立ち上がり、その腰に佩いていた剣を抜くと、フランドルの肩へ当てた。
 「余の名においてフランドル・ガスティンをマウリシア派遣軍の総司令官ならびに王国大将軍に任命する」
 「ありがたき幸せ」
 大将軍は軍務卿より格下ではあるが、実戦部隊を統括する総指揮官であり、戦時中においては軍における最高権力者にもっとも近い存在である。
 現場からの叩き上げであるフランドルはその栄光に身を震わせて歓喜した。
 もともと宮中の政治などに興味のないフランドルにとって、大将軍は望みうる最高の地位であったからだ。
 同時にそれは、フランドルが遠征に失敗した場合、その責任からは決して逃れられないことを意味していた。
 「大将軍殿、ソユーズの二の舞にだけはならぬよう頼みますよ」
 国王の女房役として、先の戦役で失脚したモーリス公に代わり宰相に就任したリシュリューは穏やかに微笑してフランドルの手を握った。
 敗戦にも等しい引き分けで失脚した前宰相を知るだけに、彼にとってもフランドルの戦果は決して他人事ではない。
 国王が表だって責任をとることができない以上、こうした対外戦で宰相が詰め腹を切らされるのはごく当たり前の話であった。
 しかし宰相リシュリューが危惧しているのはそれだけではなかった。
 戦役後、ハウレリア王国は軍備の再編を最優先に成し遂げるため、その他の多くを犠牲にしてきた。
 だからこそ現在、ハウレリア王国は宿敵マウリシア王国に倍する兵力と練度を誇っているわけだが、万が一敗北した場合、さらに十年犠牲を強いることは不可能である。
 数十年先までを見通した場合、ハウレリア王国がマウリシア王国に侵攻することができるのはこれが最後の機会になるはずだった。
 「必ずや勝利の報をお届けいたします」
 「おう、フランドル大将軍のげんやよしっ!」
 機嫌良くフランドルを持ち上げたのは満面に笑みを浮かべたセルヴィー侯爵アンドレイであった。
 アンドレイがこの日のためにどれだけの辛酸をなめてきたことか。
 戦役の屈辱を晴らすため、アンドレイは領内の兵力を復興し、王国内に再戦の機運を高め、貴重な家臣を失ってまで敵国の情報の収集に血道をあげてきた。
 その執念の深さを知らぬものはハウレリアの宮中にはいない。
 直系の息子を二人とも失ったとはいえ、まだ庶子の息子が残っていたにもかかわらず、王国でも影響力の強いカロリング公爵家から養子をもらい継嗣としたのは、まさにアンドレイ捨て身の政治工作であった。
 家の血を途絶えさせてまで復讐の執念を燃やすセルヴィー侯爵家に、畏れとも侮蔑ともつかぬ評判が広がったのは言うまでもない。
 「そうあって欲しいものだ。我が国のためにも、な」
 意気揚々とするアンドレイとは対照的に、苦々しそうに吐き捨てたのはモンフォール公ジャンであった。
 すでに六十代も半ば過ぎのジャンは、ついに力及ばず戦争を止められなかったことに打ちひしがれ、十年ほども歳をとったように見えた。
 (口惜しい……復讐の鬼に操られて戦争をしても、遺恨が残るばかりで益などあるまいに)
 ジャンは尚武の国であるハウレリア王国でも異色の存在で、殖産興業に力を注ぎ、軍事費における経費の削減にも手腕を発揮していた。
 王家を除くならば、王国でもっとも資産のある男であると言ってもいい。
 彼は経済活動に戦争はむしろ邪魔であると考えていた。
 もちろん戦争に勝利すれば莫大な利権が手に入る可能性があるが、経費に見合うだけの利権を手にするためにはよほど一方的な勝利が必要である。
 ジャンの見るところ、勝利の確率はそう低いものではないが、経費に見合うかどうかは未知数であり、何よりもリスクがあまりに高すぎた。
 「皆の者! 杯を掲げよ! 勝利を我が手に! 乾杯っ!」
 高らかに宣言された国王の言葉に、参加した重臣たちもまた声高らかに唱和した。
 「乾杯っ!」
 果して勝利を祝い美酒に酔う機会はあるのだろうか。
 極上のワインを喉に流し込みながら、ジャンは勝利を逃した場合の戦後について脳裏に絵図面を描き始めていた。
 間違いなく敗戦となった場合、ハウレリア王国を主導するのは避戦派であったモンフォール公ジャンとその派閥になるはずであるのだから。


 戦いには攻める側、守る側双方に思惑があり、下手をすると攻める側や守る側の思惑もひとつやふたつではなかったりもする。
 往々にして自分が抱いている思惑は、他者からすれば筋違いも甚だしいものであり、双方の誤算と偶然の結果こそが歴史にほかならぬ、などと歴史家は語る。
 もちろんその誤算からバルドが例外であるはずもなく、むしろバルドが想定していた思惑からすれば現実は誤算もいいところであったのだが、バルドがそれを知るのはずっと後のことになる。

 「…………たかが辺境の子爵領を相手に念の入ったことだな」
 配下の斥候からハウレリア軍の陣容を聞いたバルドは重いため息をつかずにはいられなかった。
 アントリムの地政学的な宿命上、その防備に手を抜くことはできない。
 危険があることを知ってそれを放置することは、為政者としてその任務の放棄である。
 しかし防備を固めれば固めるほど相手が警戒して、その戦力を拡充するというのがバルドにとって解決することのできないジレンマであった。
 かろうじて最重要な軍事機密については守られたと思われるが(無論情報漏れの可能性は皆無ではないが)大まかな概要まで完全に隠ぺいすることは事実上不可能である。
 数千人にも及ぶ作業員を入れて大土木工事を行っていればそれも当然であろう。
 「危地と好機は背中合わせとも言います。本格的な侵攻で敗れたとなればハウレリアも早々に諦めるかもしれません」
 「確かにその可能性はある」
 幼いころからのなじみの言葉にバルドは頷く。
 でっぷりと太ったようにさえ見えるほど横幅の広い筋肉に覆われた、典型的な前衛戦士の体形である。
 父イグニスの信頼も厚く、長年の実戦経験にも不足はない。その鋭い眼光と落ち着いた物腰は、経験不足のバルドやブルックスたち若い面々に安心感を与えるには十分であった。
 彼の名はセロ――セイルーンの父であり、代々コルネリアス家に仕える騎士であり、将来バルドの義父になる存在である。
 コルネリアスの防衛に欠かせない人材のはずなのだが、マゴットの勘だけを根拠に急遽アントリムに派遣されてきたらしい。
 軍を動かすには時間が足りないために、彼が部下とわずか十名ほどで馬を飛ばして駆けつけてくれたのはつい先日のことであった。

 「ありがたい――――はずなのに喜べないのはなぜだろう」
 セロの到着をアガサに告げられたバルドはそう嘆いたものである。
 戦力としては喉から手が出るほど欲しい人材ではあったが、要するに戦争の中心がアントリムになることをマゴットに予言されてしまったに等しいからだ。
 戦に関するかぎりマゴットの勘というものを疑う気にもなれないバルドにとっては、いささか複雑な思いを抱かざるを得ない話であった。

 「――とはいえそのためにはまず一戦して勝つ必要がある。頼むぞ、セロ」
 「お任せを。ああ、万が一の時のために、今のうちにお義父とうさんと呼んでいただいてもよろしいか?」
 「呼べるかあああああああああっ!」
 思わずバルドは身を乗り出して声をかぎりに絶叫する。
 どうやら謹厳実直を絵にかいたようなセロも、娘の輿入れを前に平常ではいられないらしかった。
 「それは残念、では式の日まで意地でも死ぬわけにはまいりませんな」
 そう言ってセロはニヤリと歯を見せて笑った。
 ようやく年長のセロに気をつかわれていたらしいことに気づいて、バルドは決まり悪そうに頭を掻く。
 ブルックスやネルソンたちにも、明らかにホッとした空気が流れるのがわかった。
 生まれて初めての実際の戦争を前に、彼らは自分でも気づかないほどに緊張していたのだ。
 知らないうちにじっとりと汗をかいていた手のひらを見つめてバルドは苦笑した。
 「すまない、気をつかわせたな」
 「いえ、並みの貴族ならとっくに逃げておりますよ。まともに戦って勝ち目のある相手ではありません」
 まともに戦うつもりだとしたら、セロはバルドの意志に逆らうことを承知で脱出を勧めるつもりであった。
 直接イグニスやマゴットから言われたわけではないが、二人とも息子を犬死にさせるつもりなど欠片もないと断言できる。
 セロにとってバルドは娘の夫であると同時に、未来のコルネリアスの大切な跡継ぎであるのであった。
 もっとも、バルドがまともに戦うことなど、万に一つもないとわかってはいたが。

 「確かに実戦派として名高いフランドル将軍と三つの騎士団、さらに民兵二個旅団合わせておよそ二万余。まともに戦ったら五分で壊滅する自信があるね」
 こうして口にしてみると敵との戦力差の大きさに思わずバルドは笑ってしまう。
 十倍以上という戦力差は、通常なら防御効果の高い城に籠城しても覆るものではない。
 戦って勝つ、少なくとも彼らに侵攻を諦めさせるためには想定を遥かに超える損害を与える必要がある。
 そのための手段は準備されていた。
 あとはそれを信じて戦うのみ。何より、今必要なものは不安に打ち勝つことができるだけの必勝の信念だ。
 古来より勝つための意志のない兵隊が勝ったためしはないのだから。
 「さあ、まともじゃない戦いを始めよう」
 後世に「アントリムの惨劇」と呼ばれる凄惨な戦闘が幕を開けようとしていた。


 ――――――幕裏

 「いいかい? お前たち」
 ジルコがアントリムに雇われた傭兵たちを前に、胸をそらして声を張り上げて演説していた。
 その数およそ五百。破格の人数である。
 バルドの財力なしにはありえない数であった。
 しかし、ただ単に給料がいいというだけで傭兵たちは集まったわけではなかった。
 「あたしも元は傭兵だ。というか今でも本当は傭兵だと思ってる。だからあんたたちが生きるために逃げるのは責める気はない。死んでまで戦うってのは傭兵の本分じゃないからね」
 傭兵としては当たり前の話である。
 騎士のように主君のために命を投げ出す、という自己犠牲の精神は傭兵にはない。
 とはいえ彼らにもプライドや思い入れがあり、仲間たちとの紐帯がある。
 長年背中を預けてきた仲間、特に生き馬の目を抜く傭兵稼業のなかで、信頼することのできる仲間に対する思いはむしろ騎士より強いかもしれないほどだ。
 「――でも銀光の姉御に顔向けできない戦いっぷりだけは見せるんじゃないよ!」
 「おおっ!!」
 腹の底から傭兵たちは同意の雄叫びをあげた。
 そう、ここにいる傭兵の大半はかつてマゴットに戦場で助けられたことのある男たちなのだ。
 塵よりも軽い傭兵の命だが、それでも助けられた恩は感じる。
 借りを返すだけの気概がある。
 本来、これほど戦力差のある戦況では傭兵は逃亡を始めても不思議ではない。
 だが、ジルコたち傭兵たちの顔はギラギラした戦意に満ち溢れていた。

 「ま、逃げ出したら姉御が高笑いしながら復讐に来る、と思うと逃げる気もおこらんのだけどね」

 何気なく呟いたジルコの一言に、男らしい笑みを浮かべていた戦場の犬たちは、一様に青い顔をしてハハハ……と力ない空笑いを漏らすのであった。

 最初にハウレリア軍の接近を報告してきたのは、やはり歴戦の傭兵、セルであった。
 アントリムの兵たちも斥候には出ているのだが、勘と経験と、身体強化による視力の向上まで兼ね備えたセルには敵わなかったらしい。
 「……それがどうもなぜか民兵が先陣でして」
 セルの言葉にバルドはアントリムの防御陣地がある程度看破されていることを認識した。
 馬上突撃を得意とする騎士団に、アントリムの防御陣地は致命的に相性が悪いのを知られたとみるべきだろう。
 「先陣は民兵を中心におよそ一万四千でふたつの旅団に分かれております。さらにどうも民兵に隠れるように騎士団がひとつ、くっついているようで」
 おそらくその部隊が実質的な攻撃の主力だな、とバルドは察した。
 事実この騎士団は、ボロディノの青竜騎士団で各騎士団から抽出された魔法士を定員の倍以上も抱えていた。
 「南部の橋は焼いたか?」
 「全て焼き落としましてございます」
 バルドの問いに答えたのはネルソンであった。
 彼は二百の兵を率いて南部から侵攻してくるサヴォア伯爵他の連合軍を迎撃する任務を与えられていた。
 たった二百で足止めを達成しなければならない任務上、侵攻ルートになりやすい国境の橋は、全て破壊するしかなかった。
 ポトマック川は大河とは言わないがそれなりに水量の多い川でもある。
 重い装備品を身にまとったまま渡河をすることは、まず不可能であると思われた。
 機動防御を求められるネルソンは、アントリムの騎馬戦力のほとんどを任されていた。
 すでにかつての学友としての気安さは失せ、戦場に臨む指揮官と部下の姿がそこにあった。
 「斥候を出して奴らの姿を逃すな。戦う前にこちらの数がばれないように注意しろ」
 「御意」
 不敵な笑みとともにバルドに向かって頭を下げると、ネルソンは踵を返して部屋を退出すると、自らの部隊へ駆けだしていった。
 「さて、僕たちもお出迎えにいくとするか」
 「きっと泣いて感激してくれることでしょう」
 珍しいブルックスの皮肉に、バルドは軽く目を見開いて笑った。
 こいつ、僕よりも落ち着いてるじゃないか……。
 「――俺は難しいことは知らん。最後の最後まで騎士らしく戦うまでだ。難しいほうは任せた」
 「気楽なもんだな。脳筋め!」
 そう言って二人は高らかに笑いあう。
 主君をなんの迷いもなく腹の底から信じる家臣がおり、その家臣に支えられて万里に策をめぐらす主君の姿がそこにあった。
 今さら悩んでも詮無いことだ。
 あとは自分の力を信じて戦い抜くしかない。
 「天命を待つ気はない、がすでに人事は尽くした。あとは信じるだけ、ということかな」
 「俺はいつでも信じてるぜ。ご主君」
 すっきりと覚悟を決めたおとこの顔で二人は歩き出す。
 幕舎を出ると、そこにはセロがまとめあげたアントリム正規軍およそ八百名が、今や遅しと命令を待っていた。
 そのなかで、もともとアントリムに常駐していた者はおよそ百名程度にすぎない。
 かつてのアントリムの経済力では数百程度の兵力しか維持することが不可能であったからだ。
 残る者の半分はバルドが金にあかせてかき集めた他領の兵士であり、残る半分はようやく将来の希望が見え始めた故郷を守らんと、進んで兵士に応募してきたアントリム領の農民や商人の息子たちであった。
 ただでさえ故郷とは大切で侵しがたい魂の源郷である。
 しかしその故郷は貧しかった。敵国と隣接し、幾度もの侵攻を受け、家や畑は焼かれ、女子供が槍先にかけられたこともあった。
 ようやく普段の生活を取り戻しても、いつまた理不尽に奪われるのか気が気ではなかった。
 ――――それでも今は違う。
 バルドがやってきて以来、アントリムは目覚ましい発展を遂げていた。
 新たな住人も増え、仕事にも不自由することはなく、給金も増えて店先に並ぶ物産まで増えた。
 場合によっては貯金したお金で、王都に上り一旗あげよう、などという夢が現実的にみることができるようにさえなったのである。
 父が、兄弟がそうした夢を抱くなかで、その夢を守ろうと身体を投げ打つ家族が出てくるのは当然の結果であった。
 守るべき大切なものを持つ兵士の士気が低かろうはずがない。
 バルドが手にしたのはおそらくはマウリシア王国でもっとも士気の高いであろう兵団であった。
 「――――領兵、領主閣下に対し! 傾注!」
 セロの命令一下、流れるような動きで兵士たちの視線がバルドへと集中した。
 一糸乱れぬ整然とした行動は、彼らがどれほどの訓練に耐えてきたかの証明でもある。
 強兵で名高いコルネリアスで、長年兵を預かるセロが驚くほどの練度の高さは、まさにアントリムの士気の高さによって裏打ちされていた。
 全ては家族のために、そして家族に未来をもたらしてくれた領主のために――――。
 「諸君、もうじきここにハウレリア軍がやってくる。その数は二万、我々の十倍以上にのぼる」
 二万という数字にザワリと呻くような動揺のざわめきが広がった。
 覚悟していたとはいえ、こうして確定的な数字を聞くと、改めてあまりの戦力差が実感として感じられた。
 「対する我が軍千三百、しかし恐れることなどありはしない。勝つのは我らだ」
 そう、勝つことは決して難しくはない。
 「我らが守るべき我が民のために、我らは決して負けるわけにはいかない。今一度目を閉じて守りたい存在を思い起こせ。守らなくてはならん。我らはそのためにこそ存在しているのだから」
 期せずして兵士は一斉に頷いた。まさにそのためにこそ彼らは槍を手にとったからだ。
 「敵にも家族がいるだろう。戦友がいるだろう。尽くすべき主君がいるだろう。しかし彼らはアントリムを奪おうとする侵略者である。その事実は決して揺るがない。倒さなければならぬ。殺さなくてはならぬ。これは必然の応報なのだ」
 人が人を殺すのには少なからず覚悟を必要とする。
 士気と練度は高くても、アントリム軍の半数は殺人の経験がない新兵なのである。
 「忘れるな。諸君の槍先には多くの領民の未来がかかっているということを。アントリムを預かる領主ロードとして命じる。躊躇なく殺せ。家畜を襲う害獣のごとく殺せ。夏に飛び回る蚊のごとく殺せ。全ての責任は諸君たちに命じたこの私がとる」
 本来の戦いであれば、槍と魔法で戦う通常の戦争であれば、死傷率はそれほど高くはない。
 左内が生きていた戦国時代でも戦死の大半は、勝敗が決した後の追撃の段階で生じており戦そのものの死傷率はわずか数パーセント程度でしかなかった。
 だがこの戦いは違う。
 間違いなくこの大陸が経験したことのない大量殺人の巷となるであろうことを、バルドとその幕僚は承知していた。
 「死して英雄として名を残すな。敵を殺し、愛するもののために汚くとも生きよ。誰が何と言おうと、私は諸君たちが英雄であることを確信している」
 あるいは、歴史は大量虐殺者として汚名を刻み込むかもしれない。
 しかし誓ってそれはバルドだけが背負うべきものだ。
 故郷を守ろうと槍を手にした民兵が背負うべきものであろうはずがない。
 「今こそ戦争の烽火をあげよう。胸を張れ、忠勇なる兵士諸君。今だけ戦争に身を委ねてしまえば――――それほど居心地の悪いわけではない」
 命の値段が、腐り始めた林檎のように叩き売られる戦場で、正気にどれほどの価値があろう。
 冷静な判断を有したまま、静かに狂った兵こそが戦場では最も強い。
 左内はそれを実体験として知っている。
 殺し殺されることに生き甲斐や誇りを覚えるなど、正常な判断で為せるはずがなかった。
 「領兵、復唱!」
 「領兵、復唱!」
 「これより我らは戦争に全身を委ねます!」
 「これより我らは戦争に全身を委ねます!」
 セロの言葉を割れんばかりの大声で復唱する兵士たちに、先ほど感じた戸惑いや恐怖はなかった。
 戦争には恐怖や絶望ばかりではなく、ひどく蟲惑的な生と勝利に対する渇望がある。
 だからこそ人間は闘争というものから未来永劫離れることはできないのだ。
 なんと愚かな……それでいてなんと愛しい人の業よ。
 恐ろしく残酷で容赦なく無惨でありながら、戦うことは――――楽しい。
 「よろしい。我々は戦争の激流を下る一艘の小舟だ。もはや大海をのぞむまで降りることは許さん」
 「アントリムに勝利を!」
 セロに復唱の言葉をかけられるまでもなく、兵士たちは悦んで絶叫した。
 「アントリムに勝利を!!」


 目前に見たアントリムの守備陣は、予想していた以上に厄介なものに思えた。
 兵力において圧倒的に優位に立っているハウレリア軍だが、その戦闘正面を極限し数の優位を生かせないように巧妙に構築された陣地は見事の一言に尽きた。
 「敵には野戦築場の名人でもいるらしいな……」
 ボロディノは副官のモールスとともにアントリムの陣地を睨みつけていた。
 かといって敵を褒めてばかりいるわけにはいかない。
 戦って手柄をあげるためにこそ、ボロディノは先陣を志願したのだから。
 「常道に奇策なし。数の優位を利用するしかあるまい」
 ボロディノが掌握する魔法士の数は八百名に及ぶ。
 全軍の七割以上の魔法士を集中することで、敵の防御陣地を無力化するのがボロディノの策であった。
 魔法の援護のもと、民兵が鉄条網を破壊突破すれば、あとは数の力がものをいう。
 気になることがあるとすれば、ここまで立派な防御陣地を構築した敵が、その対抗手段を用意していないはずはないという点にあったのだが……。
 「案じてばかりいても仕方がない。いくぞモールス」
 「行きましょう。なあに、こういう手合いは実戦では役に立たぬことが多いものです」
 確かに全く新しい戦術や、精緻すぎる戦術を立案すると、実戦で生じる予想外の出来事に全く対応できない場合は多い。
 だが、目の前の相手がそれに当てはまるとは、ボロディノには到底思えなかった。

 「旅団前へ!」
 まるで雲霞のごとき大軍がアントリム東部のカリーム平原を動き出した。
 二個旅団の民兵はおよそ一万四千程度であるとはいえ、アントリムの田舎で生まれ育った人間からすれば、想像することすらできない大軍に変わりはない。
 「魔法支援射撃用意――――っ!」
 同時に背後から無数の火炎球があたるを幸いに放たれる。
 「魔法マジック解除キャンセル!」
 対抗魔法がアントリムの陣地から放たれるものの、圧倒的なハウレリア魔法士の数の前に、かき消すことのできた火炎球はおよそ三割程度にとどまった。
 そして大音響とともに火炎球が着弾し、土埃と熱波がアントリム陣地で身を縮ませている兵士たちに降り注ぐ。
 「あちいいいいいっ! あちいよおおおっっ!」
 今年十八歳になるアントリム南部アンデリーの町出身のカーライルは、偶然飛び込んできた火の粉を首筋に浴びて悶絶して叫んだ。
 「落ち着け、小僧。頭を低くして火避けのコートをかぶっておけば命に関わることはない」
 同じ塹壕の古参兵サリル・バレンは吠えるように怒鳴るとカーライルの首根っこを押さえつける。
 迂闊に立ちあがろうものならいい的にしかならないからだ。
 「魔法の射線はほぼ直線だから、この中にいる限り直撃はない。落ち着いて準備しておけ。支援射撃が一段落したら来るぞ」
 普段と全く変わらないサリルの声に、カーライルは痛みも忘れて尊敬の眼差しを向けた。
 人生に男が勇気を発揮すべき時はいくつもあるが、こうした死に近い場所で勇気を見せられる男は数少ない。
 「すごいですね、サリルさん」
 「場数さえ踏めばお前もすぐに慣れる。そのためにもみっともなくとも生きろ。だが一人でも多く敵は殺せ。でないと余計な人間が死ぬからな」
 「はいっ!」
 素直に首肯して笑みを浮かべるカーライルを見て、サリルは肺腑に不可視の毒が沁みていくのを感じた。
 (この小僧をなんとか娑婆に帰してやりたいが……)
 カーライルには両親と二人の姉がいて、一人は結婚を間近に控えていることをサリルは聞いていた。
 家族と故郷を守ろうという無垢な使命感。
 仲間思いで純朴な志願兵の彼らだが、そうした若者こそもっとも先に死んでいくということをサリルは経験上熟知していたのである。

 鉄条網や乱杭の撤去を始めた民兵は、その予想外の困難さに往生していた。
 そもそも戦場という特殊な空間のなかで、まともな土木作業を続けることのできる精神力を持つものは少ない。
 だからこそ戦場工兵という高度に専門化された兵科が存在するのだが、そうした組織の脆弱なハウレリア軍では、もっぱら人海戦術で代用することがほとんどであった。
 「うぐっ……」
 また一人の民兵が弩の狙撃に倒れる。
 数の優位を生かしきれぬままに、ハウレリア軍は塹壕陣地からの弩による狙撃で被害を拡大させていた。
 「なんだよっ! 魔法射撃支援が効いてないぞ!」
 そうなのである。
 塹壕と擁壁に籠ったアントリム軍は、見た目だけは熾烈な魔法射撃から、ほとんど損害らしい損害を受けていなかった。
 威力のあるほとんどの魔法は射線が直線なためで、迫撃砲のような曲射が可能な魔法は今だ知られておらず、面的制圧の可能な爆裂エクスプロージョンは射程が短いため、さらに接近する必要があった。
 乱杭を破壊するのはともかく、鉄条網を撤去するのは専門の工作機械を使わずに行うのは至難の業であり、さらにそれが戦場でということになれば、作業が遅々として進まぬのはむしろ当然のことであった。
 「まずいな……」
 まさかここまで魔法支援射撃に効果がないとは思わなかった。
 ボロディノは顔を曇らせ唇を噛んだ。
 もちろん味方の勝利は動かない確信はある。このまま少しずつ防御施設を解体していけば、アントリム軍の崩壊は時間の問題だろう。
 しかし敵の何倍もの被害を許容することは、戦術指揮官としてのプライドが許さなかった。
 あくまでもアントリムの占領は、対マウリシア王国戦の前哨戦であり、戦いは今後ますます激しいものになっていく以上、被害は極力抑えてしかるべきであった。
 「一旦作業を中止して魔法士部隊を前に出せ。敵の逆襲には十分に備えろ」
 重装備の歩兵を盾にして、魔法士部隊が前進を開始する。
 直線を飛んでいく火炎球の魔法と異なり、空中で爆発して爆風と熱波を浴びせる 爆裂の魔法ならば、塹壕に籠るアントリム軍をなぎ倒すことが可能であるからだ。
 「ちっ! 魔法士の連中を進ませるな! 撃て! 撃て!」
 敵の思惑を察知したサリルは、矢をつがえる手に力をこめた。
 弩は鎧を軽々と貫くほど、貫通力の強い武器だが、速射性に劣る。
 アジャンクールの戦いで、イングランドは長弓ロングボウの大量使用でこの速射性を補ったのだが、アントリム軍には長弓を自在に扱えるものはほとんどと言っていいほどいなかったのである。
 「カーライル、焦るな。まずは落ち着いてよく狙え。お前は外さないことだけ考えていればいい」
 「は、はいいっ!」
 明らかにテンパッてしまっているカーライルを見て、サリルは逆に気が落ち着くのを感じた。
 「狙えるなら壁役の盾持ちの足を狙え。胴体と頭は無理だ」
 「わかりました!」
 そうだ。この若者を殺してしまうわけにはいかない。
 今はできるだけ、冷静に、確実に敵を倒すことだけ考えていれば――あの性格の悪い領主がろくでもないことを考えるさ!

 戦闘正面の全周を捉えることのできる特火点――コンクリートで防御されたトーチカの指揮所で、ブルックスは獰猛に嗤った。
 「そうだよなあ。魔法士で一方的に制圧できれば被害が少なくて済むんだから、使わない手はないよなあ」
 ブルックスは緒戦のリスクを出来る限り少なくしたい、というハウレリア軍の意図を見抜いていた。
 「カタパルト、発射準備完了しました!」
 「目標、敵魔法士部隊、撃て!」
 放物線を描いて丸い球が次々と撃ち出されていく。
 撃ちだしているのはなんの変哲もないカタパルトであり、本来ならば攻城戦などで石を撃ちだすのに用いられるものだ。
 兵力に勝り、速度を重視するハウレリア軍はアントリムへ持ってきてはいないが、それ自体はなんら珍しいものではない。
 「奴ら、何を考えている? 今さら石のひとつやふたつ撃ちこんだところで……」
 ボロディノがそう言いかけた時であった。
 空気をつんざく破裂音とともに、撃ちだされた球が爆発した。
 どうやらそれほど威力の大きいものではなかったらしく、死者こそ少ないものの、貴重な魔法士部隊には負傷者が続出していた。
 「い、いかん! 魔法士を下げろ! これ以上被害を出すな!」
 慌ててボロディノは指示を出す。
 切り札的な存在である魔法士部隊を、こんな正体不明の攻撃で失うわけにはいかないからだ。
 同じころ、戦果を見守っていたブルックスもまた、予想よりも敵に被害を与えられなかったことに顔を顰めていた。
 「やはり導火線はタイミングが難しいな……」
 信管の開発にはそれなりの近代的な工業レベルが必要となる。
 現状バルドに出来たのは、黒色火薬と導火線つきの榴弾をカタパルトで発射することだけだったのである。
 しかしそのために空中で爆発してしまったり、着弾してもなかなか爆発しないものがあったりと思うようなタイミングで爆発しないことが続出していた。
 「とはいえ――――」
 魔法士を下げてしまっては結局はジリ貧は避けられない。
 いくら効果が薄いといっても、魔法士の援護による爆発などの阻害効果や味方に与える心理的な支援効果は馬鹿にならぬものがある。
 それを失っては撤去作業はさらに停滞を余儀なくされるであろう。
 いずれにしろハウレリア軍に都合のいい、被害も少なく短い時間でアントリムを占領するなどという話は夢物語でしかないのだ。
 援軍の到着まで時間を稼ぎたいアントリム軍としては、ハウレリア軍の指揮官が理性的で損害の拡大に消極的であればあるほどありがたい。
 「お次はどうする? このまま帰るってんなら見送ってやるぜ」
 そう言いながらもブルックスは、ハウレリアが撤退など想像すらしていないであろうことを承知していた。

 「あの爆発はなんだ――?」
 後方から戦線を見つめるフランドル大将軍ともあろうものが、椅子から思わず腰を浮かせた。
 基本的に質、量ともにアントリム軍を圧倒しているハウレリア軍は、アントリム軍の防御のみを問題としてきた。
 もちろんそれには攻勢防御も含まれるわけであるが、高威力の魔法攻撃まで想定することは不可能だった。(この時点でフランドルは、爆発をアントリムの魔法士による魔法攻撃と判断していた)
 「敵が隠し札を投入してきた、ということですかな」
 黒竜騎士団長のランヌが、面白くもなさそうに鼻を鳴らして独語する。
 表情こそ変わらないが、見る者が見ればランヌが非常に厄介なことになりそうだ、と懸念していることがわかっただろう。
 実際すでに前線での死傷者の数は馬鹿にならない数にのぼっており、ここで一旦仕切りなおすとなると、その犠牲が全く無駄になってしまうのである。
 「――――敵の攻撃は魔法ではありません! 正体はわかりませんが、燃える球をカタパルトでぶつけてきた模様!」
 伝令の言葉にフランドルはいらだたしげに机を拳で殴りつけた。
 どうやら考えうる最悪の事態になったらしい、とフランドルは感じた。
 魔法ではない、ということは魔法解除することもできない、ということだ。
 すなわち、あの爆発を防ぐ手段は何もない。
 であるならば――――。
 「黒竜、白竜騎士団及び本営全ての魔法士を前線に送れ。後先考えずに射撃の雨を降らせて敵に頭を上げさせるな!」
 後のことを考えて戦力を温存させるという考えをフランドルは捨てた。
 死傷者を減らすためならば、後先を考えぬ全力で相手を叩きつぶすべきであった。

 魔法士から放たれる魔法の着弾は一層激しさを増した。
 もうもうたる土埃がたちこめ、アントリム軍からの対抗射撃も正確さを欠くようになり、被害を受けつつもハウレリア軍は確実に戦線を押し上げることに成功していた。
 「くそっ! まともに顔をあげることもできゃしねえ!」
 サリルはほとんど狙いらしい狙いもつけずに、勘で弩を発射して毒づいた。
 それでも的確に敵の存在する方向を捉えているところはさすがに古参のつわものであった。
 「いったいいつまで続くんですかねえ……ぶわっっ!」
 口を開いていたところに近くに弾着して巻きあがった大量の砂が入りこんできて、カーライルはむせかえる。
 呆れたようにサリルはカーライルを見て笑った。
 「ぼうやといると現在いまの深刻さを忘れるぜ」
 「げほっ! げほっ! ひどいですよ、サリルさん……」
 カーライルから弩を受け取り、再びサリルは勘で引き金を引く。
 顔をあげて狙いをつけられなくなってすぐに、サリルはカーライルの弩も引くようになっていた。
 経験のないカーライルがめくらうちをしても当たる気がしなかったからだ。
 (こいつはちいとばかしやばいな……)
 カタパルトから発射された謎の物体が、敵の魔法士に大打撃を与えたときには、これはこのまま押し切れるんじゃないか、と思ったものだが、逆にハウレリア軍を本気にさせてしまったようだ。
 ハウレリア軍魔法士の苛烈な支援射撃のために、先刻から前線の歩兵に与えるダメージは半減してしまっているだろう。
 まして数において勝る敵のことである。
 そろそろ前線に動きがあってもおかしくないだけの時間が経過したはずであった。
 かろうじて鉄条網をはじめとした防御陣地に守られているアントリム軍ではあるが、その頼るべき防壁が失われたならば、あとは数の暴力がものを言うに違いなかった。
 「ハウレリア王国軍第七旅団第一大隊! 槍ぃぃ構え! 躍進三十! 前へ!」
 言わんこっちゃない。
 サリルは憂鬱そうに頭を振った。
 ハウレリア軍の一部が前線の防御ラインを突破することに成功したらしかった。

 「どうやら勝ったな」
 ボロディノは配下の一隊が、敵の防御線をこじあけることに成功したのを見てとって独語した。
 魔力配分度外視の飽和攻撃と、数にものを言わせた撤去作業は、予想よりも大きな被害を味方にもたらしたものの、なんとか許容範囲内の損害には収まりそうであった。
 あの防御陣地はあなどれないが、城塞に籠っているわけでもあるまいし、数の暴力に抵抗するには脆弱に過ぎる。
 ボロディノはそう考えていたのだが、塹壕の防御効果はボロディノが考えるほどに甘いものではない。
 攻め手の視界に入らないというだけでも、防御効果としては十分に厄介なものであり、擁壁を乗り越えようとしたところを下から突き上げられるのは、特に白兵戦においては脅威的ですらある。
 塹壕とは異なるが、戦国期の日本にも穴城という城の縄張りがあり、本丸に向かって攻め寄せれば攻め寄せるほど低い方へ誘導されるという城もある。
 高さは絶対的なアドバンテージではないのだ。
 しかし、アントリム軍が期待していたのは塹壕の防御効果ではなく、それとは別の切り札的な兵器の存在であった。
 「……まだだ。あと十歩引きよせろ」
 トーチカの中でブルックスは静かに副官に声を向けた。
 その落ち着きぶりに感心したように、副官は尊敬の眼差しを返した。
 戦役以来、本格的な軍事行動を経験したことのない軍人が多いなか、ブルックスの指揮ぶりはまだ年若い少年のものとも思われなかったからだ。
 「俺の親友がくぐった修羅場に比べれば何ほどのこともねえ。俺はあいつ(バルド)の役に立ちたいんだ」
 今では主君となってしまった友人ではある、が出会ったときから感じていた憧憬は年月を経るとともにむしろ強まったように感じられる。
 マゴットとの正気の沙汰ではない過酷な修行を見てからは特にだ。
 絶対に勝てないとわかっている相手に立ち向かうことは、想像を絶する勇気を必要とする。
 十分に勝てる見込みがありながら怯えていては、自分より遥かに大きな重圧に耐えている親友に合わせる顔がなかった。
 「見ろ! 穴倉から顔も出せない臆病者を蹂躙し、その首を穂先にかけて凱歌を謡え! 突撃ぃ、開始!」
 「うおおおおおおおおおおっ!」
 一番槍の手柄に飢えた男たちが雄叫びをあげるとともに、アントリムの塹壕陣地に向かって突撃を開始した。
 「援護しろ! 撃って撃って撃ちまくれ!」
 ここが正念場と思い定めた魔法士部隊も、重装備の歩兵の後を追うようにして魔法の弾幕を浴びせていく。
 さながら煉獄と化した感のある獄炎の嵐に、カーライルは全身の震えを我慢することができずにいた。
 「う、うわあ……敵が、敵が…………」
 「腹に力を入れて槍を構えろ! 胸を狙うなよ。顔か、出来れば喉を狙え。鎖帷子は槍には弱いからな」
 弩から槍へと武器を持ち替えたサリルは、手加減しながらもカーライルの腹を殴りつけた。
 「うぐっ」
 ぐっと息が詰まったと同時にカーライルはようやく冷静さを取り戻す。
 「す、すいません……サリルさん……」
 「気にするな。あの数を押し返すには俺だけじゃとても手が足りないんだ」
 もっともカーライルがいても全然足りんがな、とはサリルは言わない。
 絶望するにはまだ早すぎる。
 戦場で絶望するのは死んだ後でも遅くはないのだ。
 「あのご領主がこのまま黙ってやられるはずはねえ。きばって生き残ろうぜ!」
 「はいっ!」
 少なくとも手もなくやられるほど自分たちは弱くはない。
 味方が何か手を打つまでは粘るのはそれほど難しいことではあるまい、とサリルは槍を握る手に力をこめた。

 「――――間合いだ」
 ブルックスの右手がゆっくりと上げられ、そして振りおろされた。
 「放射開始」
 「放射開始!」
 復唱と同時に、猛烈な勢いで太い筒先から棒状の炎が飛び出していく。
 射程が短いことだけが欠点の火炎放射器の火箭が、いまや雄叫びとともにアントリム陣地に飛びかからんとしていたハウレリア軍兵士に叩きつけられた。
 「ギャアアアアアアアアア!」
 たちまち数十の兵士が炎に包まれて生きた松明と化した。
 しかし無情な炎はその犠牲にも満足することなく、盾となるべき歩兵の向こうにいる魔法士たちにも向けられた。
 「ひいいいいっ! 解除! 魔法マジック解除キャンセル!」
 「だ、駄目だ! 消えねえ……!」
 「なんでだよ! これが魔法じゃないなんて、そんなはずは……!」
 まるで悪夢のような光景であった。
 燃え移った炎は、いくら大地を転げ回ろうと、戦友がマントで叩こうとも全く消える気配はなかった。
 粘着質のまとわりつくような炎は、通常の炎よりも燃焼温度が高く、ひとたび燃え移ればまず間違いなくその人間を死へと導いていった。
 「ウォーターボール!」
 咄嗟に水で消火しようとした魔法士は、水が炎と接触した瞬間、むしろ水の上を舐めるように炎が燃え広がり、自らも一本の炎の柱と化した。
 「馬鹿な……こんな馬鹿なことが……!」
 絶望に魔法士たちの表情が歪む。
 水で消火できないということは、事実上この戦場であの炎を無力化することは不可能ということであるからだ。
 「退け! 全速力で下がれえええ!」
 指揮官の一人があらん限りの声で絶叫するが、その決断は一歩遅かった。
 「――逃がすかよ」
 そのためにギリギリまで敵を引きつけたのだ。
 ブスブスと肉の焼け焦げる音と、吐き気を催す悪臭が立ち込めるが、ブルックスは射程内の兵士をなぎ倒すように放射を継続させた。
 最も近くまで接近していた歩兵の末路は無惨であった。
 全身火傷で即死できたものはまだいい。
 身体の一部が焼けただけだが、高熱のため炭化するほどに焼けただれてしまい、身動きが取れなくなった者たちは死ぬこともままならず助けを求めて叫び続けた。
 「助けてくれ! 死にたくない!」
 「水を……水を飲ませて」
 「あああっ! 俺の脚が! 脚があああっ!」
 哀れを誘う彼らの姿は同時に生贄の羊と同義でもあった。
 「連中が救出に来たらまとめて焼いてやれ」
 一片の慈悲も見せずに冷たくブルックスは言い放つ。
 単純な数において、いまだアントリム軍は笑ってしまうほど劣勢であることをブルックスは忘れてはいなかった。
 勝てるときに可能な限り敵の戦力を削っておかなくてはならなかった。

 歩兵という盾を失い、脆弱な背中を剥き出しにして逃げる魔法士を追うように、複数の影が走りだす。
 「おいおい、せっかく来たのにつれないことするなよ」
 その影の正体はネルソンたち身体強化を得意とする騎士の精鋭であった。
 ハウレリアの魔法士も同じ騎士団の所属であり、それなりに武器の心得もあるが、専門分野でないうえに火炎放射を前にして心が折れてしまっている状態である。
 踏みとどまって戦うより逃げることに心が向いた魔法士など、ネルソンたちの敵ではない。
 「ぎゃああっ!」
 「早く……早く援護を……!」
 自分たちを守るべき歩兵はすでに炎に巻かれて沈黙してしまっている。
 ようやく新たな歩兵がこちらへ救援に向かい始めるのが見えるが、彼らの命を救うためにはあと少しの時間が足りなかった。
 「――――悪いがあんたらに生きてられると邪魔なんでね」
 無情の刃が振りおろされるのを、魔法士の男はどこか信じられない、とでもいうように呆けた目で見上げていた。

 ボロディノはいち早く目の前の惨劇の衝撃から立ち直ったが、取りうる手段は限られていた。
 あの不可思議な炎に近づくのは論外である。
 魔法解除が通用しないところをみると、先刻の爆発物同様油か何かの類なのであろう。
 かといってすぐに魔法士の救出に即応できる戦力も手持ちにはいなかった。
 戦略予備はフランドル将軍が直率しており、ボロディノが現在動かせる戦力としては、撤去作業を続行している民兵旅団の残存兵のみであった。
 しかし仲間が生きながら炎に焼き殺されるのを目の当たりにして、もともと専業の兵士ではない彼らに、迅速な対応と士気を求めるのは不可能であるとボロディノは判断せざるをえなかった。
 「フランドル閣下に救援を要請せよ」
 「はっ!」
 伝令の少年が一目散に本営へ向かって駆けだしていく。
 しかしボロディノは、フランドルほどの戦術家が伝令が到着するまで傍観していることはありえないことを承知していた。
 おそらくすでに戦略予備が、先陣の退却を支援するために行動を開始しているに違いなかった。
 「――――なんというざまだ」
 先陣の名誉を与えられていながら数で圧倒的に少ない敵に、ここまで完膚なきまでに傷めつけられるとは。自分はこれほど無能であったというのか。
 アントリムの使用した戦術も武器も、ボロディノの想定したものとはあまりにかけ離れていることには同情の余地があるだろう。
 しかしそんな同情がボロディノの経歴になんらの影響ももたらさないことを、彼は父の敗北を通して身にしみて知っている。
 もはやボロディノの軍歴に取り返しのつかぬ汚点が刻印されたことは明らかだった。
 亡き父の汚名を返上し、新たな栄光を掴むはずのまたとない機会であったというのに……。
 食いしばった唇から一筋の血が、顎をつたって大地へと吸い込まれていく。
 そのとき、アントリムの陣地から矢のように飛び出したネルソンたち一団が、撤退する魔法士を刈り取っていくのをボロディノの眼が捉えた。
 「すべてが貴様たちの思い通りにいくと思うな」
 敵の思惑はわかっている。
 この機会に少しでも我々の戦力を削っておきたいのだ。
 それはアントリム軍がハウレリア軍より、今なお戦力で劣っているという事実をボロディノに確認させた。
 「モーリス、俺も出るぞ」
 「――お供します」
 長年の腹心と、精鋭の部下を伴ってボロディノは駆けだした。
 これまでの人生で、どうしても振り払うことのできなかった栄誉や出世といった俗世の垢が毀れ落ちていく気がしてボロディノは哂う。
 何時の間に忘れてしまっていたの心が心地よい。
 ただ一人の剣鬼と化したボロディノは、閃光のような速さで魔法士を殺戮するネルソンの背中に突貫した。
 「しまっ――――」
 「遅い」
 それでも必死に致命傷を避けようと身体をひねるネルソンの背中に、ボロディノは渾身の一撃を叩きこんだ。
 まさに刃がネルソンの背中を貫こうとした瞬間、突如現れた槍先に剣の腹を衝くようにして軌道を逸らされ、ネルソンは九死に一生を得た。
 「貴様――っ!」
 「そう簡単に僕の部下の命はやれないな」
 そこにはセロの反対を押し切って、銀光譲りの神速を発揮したバルド・コルネリアスの姿があった。

 鉄砲が大量使用される近代以前においては、戦場で指揮官が陣頭指揮を執るのはそれほど珍しいことではない。
 左内が仕えた蒲生氏郷なども、指揮官先頭を率先した一人で、配下の武将を採用するときに、「当家には銀の鯰尾の兜をかぶった先手大将がおるが、彼に負けぬよう働くがよい」と語ったが、その先手大将とはほかならぬ蒲生氏郷であったという。
 また、味方の士気をあげ敵の士気を下げるのにもっとも効果的かつ効率的なこととは、指揮官が相手指揮官を討ち取ることであるのは戦国を生き抜いた左内にとっては常識であった。
 バルドは胸の奥で静かに猛る左内の気持ちを感じながら、ボロディノを認めるや本能的に飛び出したのである。
 「やれやれ、絶対に負けないで下さいよ」
 「うん、悪いがそちらは頼む」
 バルドの副官を務めるセロとしては、司令官が自ら最前線に出ることには反対であったが、自分ではボロディノの相手にはならないであろうことも承知していた。
 それにおそらくアントリムでボロディノに対抗できるのはバルドだけで、ブルックスやジルコでは厳しい。
 セロはボロディノを補佐するように控えるモーリスに向かって声をかけた。
 「さて、副官は副官同士と参りましょうか」
 少なくとも加勢はさせない、とセロは油断なくモーリスをけん制する。
 同時にネルソンはバルドに無言で促されて、手勢をまとめて再び魔法士への追撃を再開した。
 「――――年齢の割に辛らつだな」
 「性格の悪さは周りの大人のせいと思ってください」
 ボロディノは一瞬、ネルソンを追う欲望にかられたが、すぐにこれを切り捨てた。
 そんなことをしても結局はバルドをフリーにしてしまい、ネルソンに代わって指揮をとられれば同じことだからだ。
 それよりバルドさえ倒すことができれば戦局は一発大逆転となる。
 今はこの好機を最大限に生かすべきだとボロディノは自然と決断したのだった。
 「ハウレリア王国騎士団長の名を安く思わぬことだ」
 ボロディノが騎士団長にまで昇進したのは、もちろん上級指揮官としての力量を評価されてのことである。
 しかし彼の名をハウレリア王国軍内に知らしめたのは、彼がソユーズの息子であることでもなく、指揮官としての戦術能力でもなかった。
 年に一度行われる騎士たちによる模擬試合――トーナメント式のそれで十年無敗を誇った個人的武勇こそボロディノをハウレリアでもっとも有名な騎士としてきたのだった。
 「もとより手加減するつもりは毛頭ありません」
 バルドにとってはボロディノとの戦いは、ハウレリア王国軍との戦いのなかのワンシーンにすぎない。
 彼に勝ったところで、ハウレリア王国軍との圧倒的な戦力差はほとんど縮まらないのだ。
 その後に続く死闘を考えれば、ボロディノとの戦いなど、あるいは小さなことなのかもしれなかった。
 先にボロディノが動く。
 なんのけれんもない純粋な突き、だが何一つ無駄のない機能美は、見るものが見れば目を見張る美しさであったろう。
 しかしその一撃を、マゴットの神速の連撃をしのいできたバルドは皮一枚で躱す。
 同時にバルドは逆に一歩踏み込んで槍を回転させ、ボロディノの横腹へと撃ちこんだ。
 たっぷりと遠心力がついて迎撃不可能と思われたこの一撃を、ボロディノは全身鎧に身を包みながらまるで羽のように軽々と宙に舞い、後方へと宙返りすることで躱してみせた。
 「――――さすがは銀光マゴットの息子だけのことはある」
 ボロディノは不敵に嗤う。
 確かにバルドの腕は素晴らしい。
 マゴットの薫陶を受け、経験を積んだバルドは大陸一の騎士となるかもしれない。
 しかしそれはあくまでもあと十年先の話だ。
 純然たる実力において、バルドが自分を超えていないことを、ボロディノは先ほどの一撃から見抜いたのだった。
 「――――言っちゃ悪いが、あなたはマゴットより数段弱いな」
 思いもよらぬバルドの返答に、ボロディノは不覚にも我を忘れて赫怒した。
 自分より弱いものに浴びせられる言葉ではなかったからだ。
 「そうか。我が武は銀光殿には及ばぬか。しかしまず自らの武が私に通用するのか考えてから言葉を吐くのだな!」
 時に挑発は何よりも鋭利な武器となる。
 ボロディノの強さが本物であると実感したからこそ、バルドはあえて挑発的な言葉を吐いたのである。
 もっともボロディノの武がマゴットより数段落ちるということは完全な事実でもあった。
 怒涛のような猛攻を前に、たちまちバルドは防戦一方となる。
 このときすでに、ボロディノには戦いの道筋が見えていた。
 高度な戦士の戦いは、ちょうど将棋の詰将棋のように、戦いが理論的に組み立てられている。
 様々な場面を想定し、相手の反撃を限定し、体勢を崩し、体力を奪い、逃げ道を塞ぎ、最終的に相手を対応不能に追い込んでいく。
 ボロディノとバルドの実力差であればそれは可能であった。
 「わが身の未熟を呪うがいい。身の程知らずにも一人で私に立ち向かって来たのが運のつきだ!」
 ボロディノの一撃を正面から受け止めたために、大きく身体を後ろに飛ばされたバルドに決定的な一撃を食らわせるべくボロディノは身体強化された足に力を込めた。
 吹き飛ばされて足が地についていないバルドは、次の一撃を受け止めるだけの踏ん張りがきかない。
 (これで詰み、だ――――!)
 重心が下がったバルドに身体ごと叩きつけようにして、ボロディノは渾身の一撃を放った。いや、放ったはずだった。
 「なっ……!」
 変化は突然であった。
 力強く大地を蹴って駆け出したはずの身体が大きく前につんのめり、身体強化で爆発的に高められたはずの下半身のバランスが崩れる。
 まるで水中を泳ぐかのようにボロディノは身体ももがかせた。
 いったい自分に何が起きたのかまったく理解できなかった。
 「すいませんね。搦め手を使わずに貴方を倒すのは無理そうでしたので」
 ボロディノの視線の先で、すでに体勢を立て直し申し訳なさそうに顔を顰めているバルドの姿が見えた。
 (こんなわけのわからない死に方ができるかっ!)
 せめて致死の一撃だけは避けようとボロディノは必死に全身に力をこめるが、肝心要の足が空回りするばかりである。
 ここにきてようやくボロディノは自分が何をされているかに気づいた。
 往々にして攻撃に集中しているときには、防御から意識が抜けていることが多い。
 たとえばボクシングでボクサーがカウンターを食らって、あっさりテンカウントを聞くように、一点に集中した意識はその外部の情報をいとも簡単に見逃してしまう。
 バルドにとどめの一撃を加えようとしたその瞬間、何らかの魔法をバルドは大地にかけたのだ。
 これが炎の球であったり、氷の槍のような目に見える攻撃であったなら、ボロディノも反応できただろう。
 傍目には一切わからない無詠唱魔法だからこそ、ボロディノはその発動を見逃した。
 そもそもあの絶体絶命な状況でバルドが冷静に魔法の発動のタイミングを図っていたことが驚きであった。
 格下だと思っていた少年は、恐ろしく強かに致死の毒牙を隠していたのだ。
 スローモーションのように流れる景色のなかで、バルドが自分の首めがけて槍を振りおろすのが見えた。
 (ちくしょう。親子そろって同じ親子にやられるとは――)
 死にさえしなければ、もう種の割れた手品に負けるはずはないものを…………。
 じれったいほどに身体が動かない。
 迫りくる槍が、もう首筋のすぐそこまで迫っている。
 それでもボロディノは最後まで諦めなかった。理性では無駄とわかっていたが、抵抗をやめることは父の生きざまと自らの人生を否定することに等しかった。
 (ほんのわずかでいい。神よ! 我にご加護を!)
 頸動脈を断ち切る灼熱の痛みとともに、ボロディノの意識はそのまま闇に塗りつぶされ、永久に停止した。

 当事者以外の視点で見れば、それはほんの一瞬の出来事であったろう。
 モーリスは主人が勝利したと思った直後、何かにつまづくかのように首を差し出したのを悪夢を見るかのように硬直した。
 「若っ!」
 先代のソユーズから仕え続け、ボロディノの成長をずっと見守ってきたモーリスである。
 間違ってもボロディノがそんな致命的な失敗を犯すはずがないと、モーリスは誰よりもよく知っていた。
 何だ――いったい何があった?
 助けに行かなくてはならない。若を――ボロディノを救わなくては。
 「させませんよ? 貴方の戦いはこれで終わりです」
 セロは無防備な背中をさらしたモーリスに槍を突き刺した。
 モーリスの気持ちはわからないではないが、ここは戦場であり、セロもまた娘の夫となる主君を守るためには自らの命を投げ出す覚悟であった。
 腹から突き出た槍の穂先にも目もくれず、モーリスはすでにこと切れたボロディノへと駆けよっていく。
 「若……今助けに……」
 その先は言葉にならかった。
 主人の遺体に折り重なるようにして、忠実な副官はあの世へと主人の後を追ったのだった。

 「ふう……やばかった」
 バルドは予想以上に手強かったボロディノの躯を見下ろして額の汗をぬぐった。
 単純な武勇では完全にボロディノのほうが上であった。
 万が一魔法に気づかれたりしたらバルドの敗北は確実であったろう。
 「……やっぱり、使いどころさえ間違えなければ洒落にならんな、これ」
 バルドの使用した魔法は、実は大地の摩擦係数を零にするというものである。
 見た目は派手さのかけらもないが、その効果は見ての通りだ。
 身体能力に長けたものほど、この罠にかかったときの効果は大きい。
 対マゴット用に編み出したバルドの秘匿決戦魔法である。

 ネルソンの追撃と、指揮官であるボロディノを失ったことで、先陣の兵士たちは大混乱に陥っていた。
 阿鼻叫喚の地獄絵図と化した戦場で、ほぼ一方的にハウレリアの兵士の命が失われていく。
 しかしそのまま手をこまねいているほどフランドルは無能ではない。
 彼は早い段階で予備を投入し、撤退してくる前線兵士を援護したために、ネルソンは魔法士の追撃を断念しなくてはならなかった。
 手ひどい打撃を受けたとはいえハウレリア軍はまだアントリム軍の十倍以上の戦力を保持していた。
 このまま手をこまねいて勝利を失うより、損害は大きくとも攻勢を継続するべきである。
 フランドルは積極果敢な闘将らしく総力戦を決断した。

 ハウレリア王国軍に科せられた使命は必勝である。
 損害を恐れ、次の戦いを危惧するよりも、まず目の前の戦いに勝利することが必要だった。
 仮に損害を抑えることができても、ハウレリア軍がアントリムのような小領に敗北したなどということになれば、マウリシア国内にいる反国王派貴族はハウレリアを見限るに決まっていた。
 戦術的には愚策であっても、戦略的にフランドルは全面攻勢を選択せざるをえなかったのだ。
 「ひるむな! 進めえ!」
 「手柄を立てるときは今ぞ!」
 さすがは強兵をもってなるハウレリア王国軍である。
 先陣の恐慌を最小限にとどめ、逆襲につなげることができたのは、戦術指揮官の手腕と兵の練度の高さによるものであろう。
 「魔法士隊、大盾を詠唱せよ! あの火炎など恐るるに足らぬわ!」
 さすがにフランドルは冷静に戦況を見つめていた。
 魔法士を痛撃した火炎放射器だが、てっきり魔法だと思っていたから対応を誤ったのであって、最初からあれが、なんらかの兵器であるとわかっていればやりようはある。
 減少してしまった魔法士の数だが、それでもいまだアントリムの魔法士の五倍は優に超えており、大盾が魔法解除される心配は少なかった。
 もっとも、アントリムの数少ない魔法士たちは、大盾を解除しようなどと思ってもみなかったのであるが。
 「いかん、年貢の納め時かもしれん」
 「じ、冗談でしょ? 勘弁してくださいよサリルさん!」
 頼みの綱と思われた火炎放射器が、敵魔法士の大盾によって完全に食い止められてしまったのを見てサリルはポツリと呟いた。
 しかしその声に絶望の色はない。むしろ年若い同僚の少年をからかっているように感じられる。
 今にも泣き出しそうなカーライルの頭を小突いて、サリルは叱咤した。
 「覚悟決めろ! たとえ死んでも奴らを通すわけにゃいけねえんだ。お前にも守りたいものがあるだろう? しゃんと腹に力入れな!」
 そうだった。自分は命に代えても守りたいものがいたはずなのだ。
 それで死への恐怖がなくなったわけではなかったが、カーライルは必死に戦意を鼓舞して槍を握る手に力を込めた。
 「……それでいい。なあに、あの領主様が黙って指を咥えているわけがねえ。それまで気張るだけさ」
 「はいっ!」
 火炎放射器の炎から身を守らなくてはならないため、大盾の後ろに身を潜めたハウレリア軍は少しずつではあるが確実に前進していた。
 弩の攻撃による多少の犠牲はあるが、大勢に影響はない。
 「ふむ、まだ隠し札があるかと思ったが……」
 フランドルはもう少しで敵の陣内にとりつくことが出来そうな兵たちを見守りながら、沈黙を守り続けるアントリム陣営に違和感を覚えていた。
 このまま勝たせてくれるならそれにこしたことはないが――――。
 フランドルの第六感は、まだアントリムに余力があることを予感していた。

 「火炎燃料、残量ありません! 今使っているので看板です!」
 「遠慮しねえで最後の一滴までぶちかませ!」
 ブルックスの迷いのない言葉に、うろたえていた部下たちは安心したように作業を再開する。
 ハウレリア軍が突撃せずにいるのは、火炎放射から守るために魔法による防御が必要であるからで、もしも火炎が停止したならば全軍が一斉に突撃してくることは明白であった。
 もしそうなったならば兵力で圧倒的に劣るアントリム軍に阻止する術はない。
 しかし燃料の消費速度は当初の予想を超えるもので、ブルックスも内心では冷や汗をしたたらせていた。
 (信じているぜ、ご主君!)
 もうすでにハウレリア軍は半ば以上策に落ちている。
 あとほんの少し、あとほんの少しだけ奴らを足止めさえできれば――――。


 「さて、連中、ようやくみんな入り込んだね……」
 戦場からやや離れた場所では、望遠鏡を覗きながら薄笑いを浮かべたのはジルコである。
 彼女は傭兵の仲間とともにポトマック川の堤防の上にいた。
 「いよいよあたしらの本番だ。気を抜くんじゃないよ?」
 「へっへつ、奴ら驚くだろうな」
 「俺達でも話を聞いてなければ腰を抜かすぜ」
 口ぐちに減らず口を叩く彼らの顔は、例外なく楽しそうな明るさに満ちている。
 今や敗北寸前かに見えるアントリム軍の窮状を目の前にしているとは思えぬ明るさであった。
 彼らの見るところ、死地に飛び込んだのはアントリム軍ではなく、優勢に見えるハウレリア軍のほうなのである。
 「バルブ回せぇっ!」
 「了解!」
 巨大なバルブを屈強の男たちが四人がかりで回していく。
 そのバルブの動きに連動して、ポトマック川の堤防に設置された水門が徐々に上へと上がっていった。
 水門が開かれるのと同時に、ポトマック川の豊かな水が平原を滑るように流れ出した。
 「気の毒だけどそろそろ決めさせてもらうよ!」

 「閣下! 水が……水がポトマック川からこちらに……!」
 「何っ?」
 まさか水攻めか、とフランドルは困惑した。
 そんなことをすればアントリムの味方ごと呑みこまれてしまうであろうからだ。
 さらに水量がそれほどでもないとわかると困惑はさらに増した。
 「な、なんだ? 川の水が……」
 「これっぽっちで気でも狂ったのかよ?」
 兵士たちの間でも困惑が広がったが、どうやら逆に士気を高める方向に作用しているらしい。
 すなわち、敵は策を誤ったのだ、と。
 もともとポトマック川はそれなりに水量は多いとはいえ、川幅三十メートルほどの中級河川にすぎない。
 それをたったひとつの水門から流れ出す量で、起伏の少ない平原に流し込んだところで、足元を濡らすのが精いっぱいなのだ。
 「……らしくもない。上流で川を堰き止めるなりして解き放てば、もう少し効果はあったかもしれんのに」
 陶器の榴弾や火炎放射器を繰り出した敵にしてはあまりにも浅はかなミス――その違和感はフランドルの胸の中でますます大きくなっていく。
 心なしか火炎放射の勢いが小さくなっている気がした。
 もはやアントリム陣地は目前だ。多少の反撃ではこの流れは止められない。
 もし何か隠している札があったとしても、対応できぬうちに一気に叩き潰してやる。
 「全軍! 全力躍進!」
 フランドルの言葉に白竜騎士団長マッセナ・ランパードは勇躍した。
 配下の騎士団を突撃させ乗り崩しをかけようと、槍を手に馬を進める彼の顔は奇妙な笑みに歪んでいた。
 彼にとってボロディノの戦死は将来のライバルの脱落を意味しており、さらに手柄をあげれば彼の目指す栄光の座につく日もそう遠くはなくなるはずであった。
 「蹂躙せよ! 敵にはもう打つ手は残っておらん!」
 しかし――――。


 「……やれやれ、ハラハラさせやがる」
 周囲を埋め尽くす広大な水面に、ブルックスは密かにほっと溜息をついた。
 火炎放射器の燃料は完全に底をつく寸前であったからだ。
 早くもハウレリア軍は全軍が水に浸されていた。
 足元が少し濡れる程度の、見た目にはなんの障害にもならない濡れただけの大地である。
 まあ、多少は歩行の邪魔になるかもしれないが、それによって戦闘力が削がれる可能性は皆無であった。
 洪水にでもなれば話は別だろうが、天気は青天のままブルックスたちを照らし続けていた。
 ――――ふと、その照りつける太陽を遮るように、いくつかの影が空を飛んで行った。

 「全軍、衝撃防御姿勢!」

 反射的にサリルはカーライルを押し倒してその上に覆いかぶさった。
 抗戦していたアントリム軍兵士も、次々と同様に大地に伏せて衝撃に備える。
 「なんだ? いったい何が――――」
 「ふん、今さら何発か爆発した程度で何ほどのことやある」
 マッセナは宙を飛ぶ物体が、先ほど投擲された榴弾であると信じた。
 突然のアントリム軍の奇行に困惑するハウレリア軍を、空間が白く靄がかかったと思う間もなく衝撃が襲った。
 いったい何が起こったのかもわからないまま、マッセナもまた理不尽なまでの暴虐の風に高々とその身体を吹き飛ばされていた。

 ドサリ
 パラパラと降り積もる砂に頭を真っ白に染めていたカーライルのすぐ前に、見事な装飾を施された白い騎士が落ちてきたのはそのときだった。
 よほど強く身体を打ちつけたのか、騎士は低くうなったまま苦しそうに身体をよじらせている。
 「小僧、そいつは敵の騎士だ。楽にしてやれ」
 「ぼ、僕がですか?」
 カーライルは思わず逡巡した。
 意識もなく負傷した騎士を、問答無用で殺してしまうことに罪悪感を覚えずにはいられなかったのだ。
 「――そいつはおそらくお前の何十倍も腕がたつ。ここで見逃せばお前も死に、俺も死に、何十人もの味方が死ぬ。それでもいいのか?」
 初陣で最初の殺人を経験することがどれほど困難か、古株のサリルは熟知していた。
 人が人を殺すという極限状態は、いかに訓練された兵士といえど乗り越えることは難しい。
 だからこそ新兵は戦いの始まりから、ほんのごくわずかな間にその命を散らす者が多いのだ。
 無抵抗の相手にその経験がつめるのは実は非常に稀少で幸福なことなのであった。
 「で、でも……」
 「さっき俺が言ったように、狙うのは顔か喉だ。早くれ。それとも俺に殺してもらいたいのか?」
 初めての殺人に戸惑っていたにせよ、カーライルは自分だけが安全な場所から仲間に手を汚させるのをよしとするような男ではなかった。
 愛する家族を守るため、今ではお互いに命を預け合う仲間を守るために、果たさなければならない責任から逃げることは誰よりも自分が許せないことをカーライルは自覚した。
 たとえそれによって一生消えない痕が残るとしても。
 ブルリと武者ぶるいに身体を震わせて、カーライルは渾身の力とともに槍を衝き通しした。
 鎖帷子を断ち切って、槍は男の首から脊髄を貫き、大地に深々と突き刺さる。
 ビクリと手足を痙攣させ、騎士は口から鮮血をゴポゴポと溢れさせて何かを呟いた。
 「ごふっ……ば、ば……かな……この……わたし……が」
 白竜騎士団長マッセナ・ランパードはこうして栄光をその手に掴むことなく、みじめにも新兵によって未来を奪われたのだった。


 「違う……これは……先ほどの攻撃とは……」
 次々と起こる爆発に、ハウレリア軍はすでにその半数以上が大地に叩きつけられ戦力を喪失していた。
 フランドルは自分がもはや勝利の見こみを永遠に失ったことを悟らずにはいられなかった。
 全軍の半数が戦闘力を喪失してなお勝利できた軍隊など歴史上存在しないのだ。
 「わからん……火も出んというのに、なぜあのような爆発が起こる?」
 ハウレリア軍が大盾の魔法に集中するなか、アントリムの魔法士がまったく解除の魔法を使用しなかったのには理由がある。
 彼らは鉄を極限まで熱することにその魔力の全てを注いでいた。
 すなわち、ハウレリア軍を壊滅においやった正体不明の爆発は――――水蒸気爆発であった。

 水蒸気爆発とは、水の中に金属の溶融体が落ちた時に発生する薄い水蒸気の膜が、急激な膨張で破れたときに発生する連鎖的な衝撃波である。
 雅晴はチェルノブイリや安房トンネルなどで発生した水蒸気爆発事故の概略を承知していた。
 (福島原発は水素爆発だが、作者の家は原発からわずか三十数キロの地点なので本気で洒落にならなかった)
 どろどろに溶けた鉄が水と接触し、瞬間的に膨張する水の膨張速度はたった十万分の一秒でおよそ千倍に達する。
 この膨張速度の速さと、水が気化するときの莫大な体積の変化が、水蒸気爆発に恐るべき威力を与えるのだ。
 「しっかりしろ! 見た目ほどの威力はないぞ!」
 フランドルの目はすぐに水蒸気爆発の弱点を見抜いた。
 榴弾などと違い、破片などの殺傷効果が薄い水蒸気爆発は、その威力の割に意外なほど死者が少ない。
 日本国内の製鉄所でも、同様の水蒸気爆発事故が数件発生しているが、工場が屋根ごと吹っ飛んでも中にいた作業員は重傷にとどまった
 致命傷となるには程遠いはずだとフランドルは考えたのである。
 しかしバルドの目論見は、単純に水蒸気爆発による殺傷効果を狙ったものなどではなかった。
 「――――放て」
 次に投擲されたのは燃え滾る油であった。
 さすがに焼夷油脂の残量は残っていなかったが、足元が水に沈んでいればただの油で十分事足りる。
 水面を滑るように燃え広がった油は、爆発の衝撃でいまだ立ち直れず呻いてる兵士たちを呑みこんだ。
 「ぎゃああああっ! 火がっ! 火がああっ!」
 「慌てるな! 魔法士は落ち着いて火を消せ!」
 さすがに実戦経験のある士官は立ち直りも早いが、それを実行できるものが少なすぎた。
 無理もない。彼らの大半は職業軍人ではなく徴用された民兵なのだから。
 ハウレリア軍は万を超える大軍であるがゆえに、水蒸気爆発による混乱で指揮命令系統を一時的に喪失していたのである。
 炎という視覚的な恐怖は、ただでさえ爆発の衝撃で混乱する彼らの戦意を情け容赦なく打ち砕いた。
 「だ、駄目だ! 逃げろおおおっ!」
 「いやだっ! 俺は死にたくないっ!」
 戦う気力が折れ、統制からはずれた軍は全面的な潰走に移る。
 もはやこの段階に達した軍を立て直すのは、神話の世界の英雄にしかできない。
 さらに始末の悪いのは、万を超す大軍勢が逃げようとしても、統制を失いごった返す味方が邪魔で、その逃走すらままらないことであった。
 ちょうどそのころ、極わずかな数ではあるが、ハウレリア軍の背後に忍び寄る影があった。
 「さあて、楽しくなってきたじゃないか!」
 満面に笑みを浮かべて、ジルコはその大きな身体に力をこめる。
 「ぶっとびなあああっ!」
 身体強化されたジルコの身体が、引き絞られた弓の弦から放たれたように勢いよく飛び出していく。
 ジルコの走り抜ける延長線上にいた兵士たちが、ボロ雑巾のように真っ二つの両断された。
 「ひいいいいっ! 化け物だ!」
 「退路が……退路が絶たれたぞ!」
 「はっはあああ! 右も左も獲物ばっかりだ!」
 水を得た魚のように、ジルコと精鋭の傭兵たちは無防備なハウレリア軍の背後を獰猛な狼のように喰い散らしていった。
 水蒸気爆発、油の炎、そして伏兵の攻撃――いかなる軍隊といえどもこれらの複合した恐怖の前に組織を保つことは不可能であった。
 「アントリム子爵は悪魔か――こんな、こんな戦いが戦いと言えるのかっ!」
 震える声でフランドルは激怒した。
 もはやハウレリア軍の敗北は誰の目にも明らかである。見事、天晴れな敵よと褒め称えてもよかろう。
 しかしこんな戦は知らない。否、戦人として絶対に認められない。
 将も兵も塵芥のように、その練度や士気すら問題にせず、正体不明の怪しい物の威力が全てを決する。
 そうなれば槍一筋に生きてきた戦人になんの価値があるというのだ。
 「お退きください、大将軍殿」
 何かを決意したような低い男の声が、フランドルを現実に引き戻した。
 (退く――――だと?)
 今さらどの面さげて逃げるというのだ? フランドルは新たな怒りに身を震わせて声の方向を睨みつける。
 そこには端然と佇む黒竜騎士団長、ランヌ・ベルナールがいた。
 「卿こそ兵をまとめて退くがいい。私は殿として最後まで戦うつもりだ」
 「――ハウレリア王国が滅亡することになっても、でございますか」
 「何っ?」
 冷静そのもののランヌの言葉は、正しくフランドルの意表をついた。
 「私のような平凡な武人には、あれが何なのか説明はつきません。しかしこれだけはわかる。あれがマウリシア全土に普及し、我が国が対応できなければハウレリア王国は滅亡するしかありません」
 肺腑をえぐるランヌの言葉に、フランドルは息を呑む。
 認めたくない、こんな戦があってたまるかという思いは変わらないが、もしこの戦がマウリシア王国全土に普及するようなことがあれば、ハウレリア王国は累卵の危機に立たされることは明らかであった。
 「私ではあれが何なのか、我々はどうするべきなのか、陛下にお伝えすることは適いません。それが出来るのはフランドル大将軍閣下おひとりのみ」
 死を覚悟しながらも、なお悠々としてひたむきに戦おうとするランヌは、ハウレリアが世界に誇るべき武人の体現者だ。
 それでもなお、彼を見捨てていかなければならない自分の無力さに、フランドルは歯噛みした。
 「卿の死戦を無駄にはしない。この命かけて卿の名誉は保障しよう」
 「もったいないお言葉にて」
 いつも何を苦しんでいるのか、というくらい渋面ばかりの表情のランヌが莞爾と笑った。
 その透徹な笑顔を生涯忘れまい、とフランドルは心に誓う。
 そしてあの憎いアントリム子爵に復讐を果たすまで、絶対に死ぬわけにはいかない。
 そう決断すると、たちまちフランドルは踵を返した。
 「殿は黒竜騎士団に任せる! 民兵の収容を最優先に退却するぞ!」

 「――出るぞ。連中が二度と戻ってこれないように叩き潰す!」
 バルドと側近の精鋭が一斉に飛び出したのは、ハウレリア軍が退却の決断を下した時とほぼ同時であった。
 「鬨の声をあげろっ! 領主様に続け!」
 これまでじっと陣地で耐えてきた兵士たちに、セロの檄が飛ぶ。
 積もり積もった鬱憤を爆発させて、兵士たちは勝利の予感に歓呼した。
 「うおおおおおおおおっ!!」

 サリルは初めて人を殺した感触に震えているカーライルの肩を抱き、苦笑いしながらその手を引く。
 「どうやら勝ったぜ? これでお前もお手柄って奴だ」
 「そ、そんな……俺、ただサリルさんに言われたとおり動いただけで……」
 「そう、言われたとおりに動くのが兵士の仕事さ。責任やら罪悪感やらは領主様に任せようぜ?」
 いくら鈍いカーライルでも、サリルが自分を気遣ってくれていることくらいはわかる。
 おそらく今日人を殺したことを生涯忘れることはないだろうが、それが間違ってはいないのだ、とカーライルは信じることにした。
 バルドやサリルがそう信じさせてくれたのだ。
 「さあ行くか。もう一仕事待っている」
 「はいっ!」
 勢いに乗るとはいえアントリム軍わずか千数百名、殿を引きうける黒竜騎士団の数だけで、その兵力はほぼ互角である。
 しかも完全に職業軍人だけで構成された騎士団は、敗北の混乱から立ち直るのも早かった。
 「――――命を惜しむな。我ら一人の命が十人の仲間の礎になると知れ。今こそ騎士の華を咲かせる時!」
 「大輪の華を我が骸の上に咲かせん!」
 騎士団の大半はどこかしら身体を負傷したものばかりである。
 しかしすでに死を覚悟した彼らの戦意は天を衝くばかりに高かった。
 『そうどう(とても)ええ戦人じゃ、男じゃ』
 思わず口を衝いて左内の感嘆の声が漏れてしまうほどの、見事な殿ぶりであった。
 だが、見事だと感心してばかりはいられない。
 彼らの決死の姿は美しい、が、美しいがゆえに彼らは手段を選ばず倒さなければならない敵であった。
 「手榴弾、着火ぁ!」
 投石器で投擲していたものより遥かに小さな、陶製の手榴弾の導火線に着火すると、バルドたちは情け容赦なく一斉に投擲した。
 まだ油の火がくすぶる戦場に再び紅蓮の華が咲く。
 爆風と破片になぎ倒され、騎士たちは否応なくその隊列を崩された。
 「目標敵騎士団長! 総員、突撃にぃぃ移れええ!」
 いかに忠誠心の高い騎士団といえど、その紐帯の中心にいるものは騎士団長であろう。
 恐らくは熟達した老練な軍人であろう騎士団長を倒しさえすれば、死を恐れぬ騎士たちの心も折れる。
 心が折れれば死を覚悟した兵士も、限界以上の力を発揮することはない、ただの兵になり下がるのだ。
 「……よく戦というものを心得ている。これが初陣の若者の指揮とは思えんな」
 ランヌはアントリム軍の攻撃の呼吸、そして的確に自分めがけて突進してくるバルドの手腕に舌を巻いた。
 まるで自分よりもさらに老練な武将を相手にしているような、そんな不思議な感覚であった。
 「止まるな! ひたすら走ってかき回せ!」
 もちろんバルドにそれほど余裕があったわけではない。
 味方の半数以上は戦争の経験のない民兵であり、職業軍人である騎士を相手には一歩も二歩も譲る実力である。
 少数の精鋭が騎士団長を仕留めるまで、撹乱に徹しさせようというのはむしろ当然の作戦であった。
 乱戦に陥り入り乱れた両軍の間を縫うようにして、バルドとブルックスやネルソンたちが奥へ奥へと進んでいく。
 泰然として槍を構えるランヌのもとへ辿りつくまでそれほど時間はかからなかった。
 「騎士団長殿とお見受けする」
 バルドに尋ねられたランヌは目の前の少年が、味方を苦しめたアントリム子爵であろうことに気づいて驚愕した。予想していた以上に若く、幼い。
 「いかにも。貴殿がアントリム子爵殿か?」
 「左様。未熟者ながら、その首頂戴つかまつる!」
 「黒竜騎士団長ランヌ・ベルナール。そう簡単に首を取れると思わぬことだ!」
 そう一喝してランヌは暴風のように槍を振るった。
 年齢を感じさせぬ槍筋はあくまでも合理的で、彼がこれまでどれほどの研鑽を積んできたのかを感じさせた。
 ボロディノのように天性の才は感じないが、バルドは一気に防御一辺倒に追い込まれていた。
 『としょりが死ぬときゃわやくさ強え(年寄りが死ぬ覚悟を固めたときはむちゃくちゃ強い)』
 歳とともに肉体は衰える。しかし死を覚悟して限界を突破した老人は、ときとしてその膨大な実戦経験を生かして暴れまわることがあるのだ。
 人取り橋の戦いの鬼庭左月などはその良い例であろう。
 だが限界を突破するということは肉体の許容限界を超えさせることであり、永続するほど手軽なものではありえない。
 短い一瞬の、ろうそくが燃え尽きる瞬間の大きなゆらめきのようなものだ。
 ぜんまいの切れた人形のような老醜を、晒させるには惜しい。
 この老人をなんとか戦えるうちに殺してやらなくてはならない、と左内は当然のように心に決めた。
 『悪いが坊ん、身体借りるで』
 バルドがボロディノに使用したような魔法を使えば、あっけなくランヌは負けるであろう。
 老人はかつて経験したことのない新しい技術にはめっぽう弱い。
 だが左内はランヌをそうした手段で殺したくなかった。
 『――岡越後守定俊参る』
 まるで人間が入れ替わったかのような苛烈な槍さばきにランヌは瞠目した。
 戦った人間にしかわからないシンパシーが告げている。相手は自分よりさらに経験の長い戦人である、と。
 「よき敵、本望なり」
 それが何を意味しているのか、疑問には思ったが考えようとは思わなかった。
 こうして人生の最後に全身全霊の力を発揮して戦えることが、何よりも尊いことであった。
 できうるならば、こうしていつまでも槍を合わせていたい――。
 『裏合わせ二番、針返し』
 左内の胸板めがけて突きかかるランヌの槍先を、槍の石突で抑えこみ、下に打ち払った力を利用して上方から遠心力をつけて叩く。
 この点ではなく線の攻撃カウンターを、ランヌの対応速度ではもはや避けることはできなかった。
 咄嗟に差し入れたランヌの左手を撃砕し、左内の槍はランヌの肩先に叩きこまれた。
 骨が折れ、肉が裂かれる破滅の音とともに、ランヌは楽しかった至福の時間が終わったことを自覚した。
 最後の力を振り絞って、ランヌは膝をつくことなく堂々と胸をそらす。
 「我が生涯最後の相手が卿であったことを誇りに思う」
 死に場所を得た老武者とはかくも美しきものか。
 なんとも素晴らしい。
 そしてなんともうらやましい。
それは死に場所を失い畳の上で死んだ左内の埒もない感慨であったかもしれぬ。
 いつしか左内は双眸から涙が毀れ落ちるのにも気づかず、晴れ晴れとしたランヌの笑顔に見入った。
 『まっこて(真に)見事、美事也!』
 ――――そして血を吐くような咆哮を上げて、左内はランヌの心臓を貫きとおした。

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