後醍醐天皇を「異形の王権」と表現、ここで日本の文化の変曲点が見られる、東西文化の違いの変曲点でもある、という主張。そして異類異形の民について、14世紀までは差別対象とはなっていなかったのが、これ以降、徐々に差別対象となっていったこと、その差別には東西における違いが大きかったことなどを上げている。絵巻などから読み取れる人々の「しぐさ」や飛礫などにも着目、女性の片膝立て、扇子格子越しに見るしぐさ、飛礫合戦などの歴史と意味などについても解説している。天皇や将軍がいつ死んだとか、戦争がいつ起きた、などという歴史よりもずっとおもしろい。中沢新一が著した「僕の叔父さん 網野善彦」で書かれていた飛礫合戦に関する、中沢厚の著作も紹介されていて、網野善彦の歴史観を表からも裏からも知るようで愉快であった。
12世紀頃に描かれた絵巻には摺衣を着た人物や婆娑羅と呼ばれる異類異形の人物が登場している。禅僧の中には僧侶とは異なる風体で町を闊歩する輩が現れていた、これらを描いたものらしい。そしてそうした禅僧たちからも異類異形と呼ばれた被差別民たちもいたようなのである。乞食、非人、鉢供、唱門師、猿使い、盲人、居去、腰引、物イハズ、穢多、皮剥、諸勧進之聖などであり、これらの総称を異類異形としたのは16世紀にはいって書かれた豊国大明神祭礼記。12-16世紀のあいだに差別が広がったのではないかと推測できる。異類異形という概念が定まってくるのが南北朝時代であり、日本社会の構造自体を転換させた重要な画期だとしている。
京童という言葉は、童子人形のように子供の姿をすることで聖なる存在とみられ、人ならぬ力を持つと信じられていた存在から来ている。非人達が摺衣を着て放免として処刑に立ち会う、その放免が綾羅錦繍を羽織ったり童子が過差な衣装を着け禁制の対象となっていたことからは、非人と童子の近似性も指摘されるという。宇津保物語では「陰陽師、巫、京わらはべ、博打、翁、嫗」などと併記され、悪人を指名し、祭りの際に美しい服装で現れ自由奔放な動きを示した。いかなる悪口からも自由だったのが童子であり、京童の口遊は時の権力者を批判し風刺、笑い飛ばすことができた。二条河原落書はこうした童子によるものであり、大きな社会的影響力を持っていた。
ルイス・フロイスは日本では女性は夫に知らせず好きなところに行く自由を持っている」と書いた。また、「処女の純潔を少しも重んずることはなく、それを欠いても名誉も失わず結婚もできる」とも解説している。これは中世の女性たちが旅行をしていたこと、遊女や傀儡師などの社会的地位とも関係するのではないかと指摘している。女性の旅行も金目のものを持たなければ安全であり、性的自由も相当大きかったのではないかと推測する。この頃の女性の座り方は片膝立てであり朝鮮女性の現在の座り方にもみられる。絵巻物からよみとれるこうした風俗は歴史的に瑣末なものではなく、中世庶民の生活を知る上で重要な手がかりだという主張である。
扇については、扇売りには女性が多かった、扇が性的呪術的な力を持っていたという説もあり、外からの悪霊、穢を防ぐという考えから、日常見てはならない場面や物に町で図らずもであってしまった場合に扇を目の前にかざす、というしぐさをしたのではないかと言っている。そうすることで人は一時的に別世界の人間になり得た、というのである。絵巻には柿帷子の人物、白い布で頭部を巻いている人物なども登場する。こうした異装も同じ意味を持ったのかも知れないという。しかしそれらが後に非人や乞食の服装となった、これはこうした服装をしていた非人たちが元々は聖なる力を持っていると考えられていた存在から差別される存在に変化したとも考えられる。柿色は江戸時代には歌舞伎の引幕に用いられ黒・柿・白(萌黄)と真ん中に位置づけられている。遊女屋ののれんは柿色であった。
飛礫については中沢厚が次のように分類している。
1. 子供の遊びとしての石合戦
2. 祭礼・婚礼などハレの行事にあたっての石打
3. 一揆・打ち壊し・騒動などにおける石礫
4. 手向けの飛礫、天狗礫など超人的なものに関わる飛礫
5. 忍者の飛礫
6. 目明しの飛礫(銭形平次)
後醍醐天皇の時代、天皇の地位は危機を迎えていた。鎌倉幕府成立後、天皇家の支配権は東国には及ばず、モンゴル襲来以来、九州でも幕府の支配が強くなり、公家の勢力は西日本に限定され、古代以来の天皇制瓦解の可能性すらあった。しかし同時に10世紀以降12-13世紀は摂関政治、院政であり天皇の存在は軽かったとされるが、公卿合議体の機能低下に対して、天皇家と摂関家の主導権が相対的に強化された。この頃呪術的な威力を持つ供御人、神人、寄人などの商工民、金融業者の活動は活発化し、異類異形を排斥する勢力に反発する動きと勢力復活を狙う後醍醐天皇を始めとした天皇家が結びついたのが異形の王権である。密教の呪法、異類の律僧、異形の悪党、非人などを動員して天皇専制体制を確立しようとした。洛中の神人に対する寺社の公事賦課を停止、神人の供御人化のための神人公事停止令を発した。京都に集中していた商工民を天皇の直轄下に置こうとした。大寺院はこれに抵抗、第一次倒幕計画は挫折するが、1331年の挙兵まで不撓不屈のあらゆる手段を講じて権威の回復と誇示に努めている。配流された後にも倒幕を目指し実現、天皇の地位を復活させたとも言える建武の新政が始められた。しかし3年でこの王権は没落、東の鎌倉幕府と西の王権が瓦解、社会は大混乱に陥った。南北朝動乱であり、60年にわたって日本中が混乱した。
東国社会は鎌倉から江戸幕府への流れの中で時代区分されている従来の歴史観でまとめられるが、西国の公家社会の歴史区分はこれらと異なるのではないかと指摘している。新井白石は公家については後醍醐天皇までで一旦区切り、南北朝動乱は西国以外では大きな混乱ではなかったとする。東国においては供御人、神人、寄人などの活躍も見られず、穢に対する忌避観も東国では西国に比して希薄であるという。被差別部落の分布が沖縄を除く西国中心であり、東国や北海道には西国ほどの分布が見られないことはこうした歴史と無関係ではないという分析である。
「東と西の語る日本の歴史」でもこのような歴史観は示されている。被差別部落の歴史と中世社会の東西相違と南北朝動乱を境にした東西分断についてはさらに突っ込んだ研究を期待したいのだが、網野善彦はもういない。
異形の王権 (平凡社ライブラリー)
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12世紀頃に描かれた絵巻には摺衣を着た人物や婆娑羅と呼ばれる異類異形の人物が登場している。禅僧の中には僧侶とは異なる風体で町を闊歩する輩が現れていた、これらを描いたものらしい。そしてそうした禅僧たちからも異類異形と呼ばれた被差別民たちもいたようなのである。乞食、非人、鉢供、唱門師、猿使い、盲人、居去、腰引、物イハズ、穢多、皮剥、諸勧進之聖などであり、これらの総称を異類異形としたのは16世紀にはいって書かれた豊国大明神祭礼記。12-16世紀のあいだに差別が広がったのではないかと推測できる。異類異形という概念が定まってくるのが南北朝時代であり、日本社会の構造自体を転換させた重要な画期だとしている。
京童という言葉は、童子人形のように子供の姿をすることで聖なる存在とみられ、人ならぬ力を持つと信じられていた存在から来ている。非人達が摺衣を着て放免として処刑に立ち会う、その放免が綾羅錦繍を羽織ったり童子が過差な衣装を着け禁制の対象となっていたことからは、非人と童子の近似性も指摘されるという。宇津保物語では「陰陽師、巫、京わらはべ、博打、翁、嫗」などと併記され、悪人を指名し、祭りの際に美しい服装で現れ自由奔放な動きを示した。いかなる悪口からも自由だったのが童子であり、京童の口遊は時の権力者を批判し風刺、笑い飛ばすことができた。二条河原落書はこうした童子によるものであり、大きな社会的影響力を持っていた。
ルイス・フロイスは日本では女性は夫に知らせず好きなところに行く自由を持っている」と書いた。また、「処女の純潔を少しも重んずることはなく、それを欠いても名誉も失わず結婚もできる」とも解説している。これは中世の女性たちが旅行をしていたこと、遊女や傀儡師などの社会的地位とも関係するのではないかと指摘している。女性の旅行も金目のものを持たなければ安全であり、性的自由も相当大きかったのではないかと推測する。この頃の女性の座り方は片膝立てであり朝鮮女性の現在の座り方にもみられる。絵巻物からよみとれるこうした風俗は歴史的に瑣末なものではなく、中世庶民の生活を知る上で重要な手がかりだという主張である。
扇については、扇売りには女性が多かった、扇が性的呪術的な力を持っていたという説もあり、外からの悪霊、穢を防ぐという考えから、日常見てはならない場面や物に町で図らずもであってしまった場合に扇を目の前にかざす、というしぐさをしたのではないかと言っている。そうすることで人は一時的に別世界の人間になり得た、というのである。絵巻には柿帷子の人物、白い布で頭部を巻いている人物なども登場する。こうした異装も同じ意味を持ったのかも知れないという。しかしそれらが後に非人や乞食の服装となった、これはこうした服装をしていた非人たちが元々は聖なる力を持っていると考えられていた存在から差別される存在に変化したとも考えられる。柿色は江戸時代には歌舞伎の引幕に用いられ黒・柿・白(萌黄)と真ん中に位置づけられている。遊女屋ののれんは柿色であった。
飛礫については中沢厚が次のように分類している。
1. 子供の遊びとしての石合戦
2. 祭礼・婚礼などハレの行事にあたっての石打
3. 一揆・打ち壊し・騒動などにおける石礫
4. 手向けの飛礫、天狗礫など超人的なものに関わる飛礫
5. 忍者の飛礫
6. 目明しの飛礫(銭形平次)
後醍醐天皇の時代、天皇の地位は危機を迎えていた。鎌倉幕府成立後、天皇家の支配権は東国には及ばず、モンゴル襲来以来、九州でも幕府の支配が強くなり、公家の勢力は西日本に限定され、古代以来の天皇制瓦解の可能性すらあった。しかし同時に10世紀以降12-13世紀は摂関政治、院政であり天皇の存在は軽かったとされるが、公卿合議体の機能低下に対して、天皇家と摂関家の主導権が相対的に強化された。この頃呪術的な威力を持つ供御人、神人、寄人などの商工民、金融業者の活動は活発化し、異類異形を排斥する勢力に反発する動きと勢力復活を狙う後醍醐天皇を始めとした天皇家が結びついたのが異形の王権である。密教の呪法、異類の律僧、異形の悪党、非人などを動員して天皇専制体制を確立しようとした。洛中の神人に対する寺社の公事賦課を停止、神人の供御人化のための神人公事停止令を発した。京都に集中していた商工民を天皇の直轄下に置こうとした。大寺院はこれに抵抗、第一次倒幕計画は挫折するが、1331年の挙兵まで不撓不屈のあらゆる手段を講じて権威の回復と誇示に努めている。配流された後にも倒幕を目指し実現、天皇の地位を復活させたとも言える建武の新政が始められた。しかし3年でこの王権は没落、東の鎌倉幕府と西の王権が瓦解、社会は大混乱に陥った。南北朝動乱であり、60年にわたって日本中が混乱した。
東国社会は鎌倉から江戸幕府への流れの中で時代区分されている従来の歴史観でまとめられるが、西国の公家社会の歴史区分はこれらと異なるのではないかと指摘している。新井白石は公家については後醍醐天皇までで一旦区切り、南北朝動乱は西国以外では大きな混乱ではなかったとする。東国においては供御人、神人、寄人などの活躍も見られず、穢に対する忌避観も東国では西国に比して希薄であるという。被差別部落の分布が沖縄を除く西国中心であり、東国や北海道には西国ほどの分布が見られないことはこうした歴史と無関係ではないという分析である。
「東と西の語る日本の歴史」でもこのような歴史観は示されている。被差別部落の歴史と中世社会の東西相違と南北朝動乱を境にした東西分断についてはさらに突っ込んだ研究を期待したいのだが、網野善彦はもういない。
異形の王権 (平凡社ライブラリー)
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