前回には無視した基本的な問題について一言しておきましょう。「資本主義が戦争を起こす」という議論は結局のところ、「資本主義は需要不足が避けがたく、それを埋め合わせるための無駄遣いを必要とするが、その無駄遣いとして最もありふれており効率的なのは戦争である」という議論と考えられます。よくよく考えれば需要不足を埋める無駄遣いなど、戦争以外にもいろいろと考えられる――それこそケインズも言ったように「穴を掘って埋める」だけでもいいわけですし、ピラミッドを立ててもよいし、火星ロケットを打ち上げるのでもいいでしょう――わけですから、この議論は「なぜ無駄遣いとして戦争が最もよく選ばれるのか」の論証をしなければなりません。おそらく直観的には「戦争は人命の無駄遣いという最高の贅沢だから」という回答を多くの人は念頭に置いていると思われますが、この点につき精密な論証を見た記憶はありません。
一応この点につき確認したうえで、我々は本論――「戦争によって埋めようが他の仕方で埋めようが、資本主義経済にとって需要不足は避けがたい」というたぐいの議論の批判――に戻りましょう。
この場合我々が何を論的として想定すべきか、ですが、ローザ・ルクセンブルグ的なラディカリズムはこの際相手にしないことにしましょう。それはある意味でケインズ的な論点の先取りではあるものの、レーニンをはじめとするマルクス主義正統派の、更に言えば古典派・新古典派本流の価格メカニズムを信頼する立場からの批判によく応ええていないからです。「売れないものの価格は下がるでしょう? 下がればいずれはどうにかなるでしょう?」という反論にそれは結局応えられません。
となれば、よき論敵として想定すべき相手はやはりマルクス主義的帝国主義論の、「20世紀資本主義においては市場の自己調整機能が劣化した」という論法の方だということになります。そこでその想定の下に反論を組み立てていきましょう。
まず「帝国主義=独占資本主義段階において、以前の自由主義段階と比べて価格が硬直的となり、市場の調整がうまくいかなくなった」という議論にどの程度の説得力があるのか、について考えてみましょう。この議論が出来上がったのは20世紀前半であり、経済の中心、とりわけ成長のエンジンとなるセクターが重化学工業とみなされた時代の産物でした。そこではたしかに独占的巨大企業の存在感が大きかった。やがて経済成長が進むと、雇用においても生産高においても製造業より商業・サービス業といった第三次産業のウェイトが高まってくるのですが、あくまでも成長のエンジンは重化学工業を基軸とする製造業である、というイメージはなかなか崩れませんでした。しかしながらよく知られるとおり、20世紀末以降、まずはパーソナルコンピューティングの普及、それによるオフィスや生産現場、更には家庭のコンピュータリゼーション(「OA(Office Automation)革命」、「ME(Microelectronics)革命」といった言葉で形容されました)が進みます。成長を牽引する先端産業が、重化学工業からコンピュータ産業にシフトしていくのです。しかもそこで覇権を握ったのはハードウェア(物理的機械としてのコンピュータ)製造業者ではなく、ソフトウェア産業の方でした。
現在世界最大の企業はソフトウェアを主力商品とするマイクロソフトであることは言うまでもありません。むろんマイクロソフトは独占的な影響力を持ってはいますが、完全な独占者ではありません。コンピュータ・システムのすべてを自社で供給しようというのではなく、主力商品は共通規格を支配するOS(Operating System)にとどめ、自社規格をプラットフォームとするさまざまなソフトウェアの開発を、第三者企業に開放しています。そうした企業間の自由競争から生まれる革新的技術をM&Aによって入手することを繰り返すというマイクロソフトの業態は、古典的な帝国主義論の独占資本のイメージからは少々乖離しています。そして言うまでもなく、マイクロソフトが無敵の王者であるわけでもありません。自社ハードにこだわる巨人アップルというライバルが存在しますし、何より近年では検索エンジンから出発したグーグルの存在感は圧倒的です。
これらソフトウェア企業の覇権の確立の時代は、またOA革命・ME革命の次の段階ともいうべき情報通信革命、インターネットの商業化に伴い、コンピュータの基本的なありようが、スタンドアロンの独立した機械からネットワークの端末、巨大システムの一部へと本格的に転換した時代でもあります。かつては通信産業のみならず交通産業その他のインフラストラクチャー産業は「自然独占産業」と呼ばれており、重化学工業以上に独占化のリスクが高く、強い公的規制下に置かれるか、公共性の高い国策産業として直接に公有公営化されることがむしろ普通だったわけですが、20世紀末以降状況が激変したことは周知の事実です。通信産業の情報産業との融合、ソフトウェア主導の技術革新の日常化は、産業全体を強い競争圧力の下に晒しています。かつての帝国主義論のような「独占停滞論」は過去のものとなったといってよいでしょう。
情報化が帝国主義・独占資本主義にとってどのような意味を持つのか、についてのマルクス主義者の見解は混乱しており、あまり一貫していません。ただ、今現在いったん中断している当面の本題、かつての「産業社会論」においては、情報化は必ずしも市場経済には適合的ではなく、そのトレンドは西側資本主義体制と東側社会主義体制との相違を打ち消していくはたらきを持つ、とおおむね想定されていました。結果的に見ればこの予想は外れ、むしろ情報化こそが社会主義計画経済の資本主義市場経済に対する劣位をはっきりさせてしまったといってよいわけですが、それについては別の機会に論じましょう。いずれにせよ現時点では、かつてのマルクス主義の想定した資本主義の発展段階論、とりわけ帝国主義・独占資本主義段階における競争の停滞論の説得力はかなり低下したといってよいでしょう。独占的大企業による市場支配、という傾向は必ずしも不可逆的ではなかったようです。
それゆえ我々としては、20世紀におけるケインズ的危機については、マルクス主義的な段階論の枠組みによってではなく、現代ケインズ派的に、経済のマネタリーな側面での機能不全が引き起こしたもの、ととらえたいと考えます。つまり複雑な市場経済は、単純な新古典派の交換経済モデルが想定するのとは異なり、実際には貨幣という媒介機構を不可欠としており、この貨幣供給が不十分な場合には、需要不足、不均衡が生じるのだ、と。しかしこう考えたとしても次々に疑問が生じることもまた否定はできません。一番重要なことは「じゃあ貨幣供給不足って、どういう場合に、どうやって起きるんだ?」ということでしょう。
ポイントは、発達した金融システムにおいては、銀行は信用創造、つまりはある限界の中での貨幣の供給能力を持つ、ということです。もちろんこの認識はケインズ派の独占などではありませんが、マルクス派や古典派、新古典派の一部では、こうした銀行の信用供給力が、究極的には実体経済、実物セクターによって制約される、と考えるのに対して、ケインズ派は必ずしもそう考えないのです。
銀行は預金者の預金を(不正確な言い方ですが)担保にして、その何倍もの貸し付けを他の預金者や取引先に行います。乱暴に言うと銀行はお金、貨幣をある限界の範囲内で増幅している、無から創造しているのです。この貸付はもちろん、貸し出した相手の返済能力、突き詰めれば実体経済的な生産能力を予想し、それを信頼して行うわけですが、予想ですから外れることもあります。それでも、たくさんの銀行が多種多様な相手に貸し付けを行っていれば、平均的な予測の成績はほどほどのところに落ち着き、総体としての、マクロ的な貸し付けはそう大きな破綻もなく回収可能でしょう。このような貸し付けによって、アイディアその他の潜在能力があっても、それを実現するだけの資金力がない人々が、とりあえず手元にお金を得ることができるわけです。この貸付がなければ、これらの潜在的な生産資源は休眠したままです。お金自体は直接には何の生産の役にも立ちませんが、このように取引を促すことによって、間接的に生産に影響を与えます。
ところがここで何らかの理由で、個々の銀行の個々の貸付においてのみならず、総体のレベルにおいて予想が外れてしまうとどうなるでしょう? つまり、ある経済の中で銀行からの借り手の大多数が、はじめから悪意で借金を踏み倒すつもりの悪党か、あるいは口ばかり達者で実際には何もできない無能か、あるいはどうしようもない災難に巻き込まれた不幸な人々だったとしたら? こうして、大量の貸付が、回収の見込みのない不良債権に変じてしまったら?
このように大規模な返済不能が生じると、当然貸し手の銀行は経営危機に陥りますが、問題はその波及効果です。手元のキャッシュフロー(自由にできる現金その他流動資産)が足りなくなり、バランスシート(資産と負債のバランス)が悪化するのを恐れて、銀行としては急激に返せる負債は返し、回収できる債権は早めに回収して現金化しようとするでしょう。その場合、優良債権、本来なら貸し倒れがないはずの優良な借り手も、急に返済を促されたりするかもしれません。そうするとこうした借り手は、自分では何も悪いことはしていないはずなのに、資金不足に陥るでしょう。また当然、銀行に対する貸し手(厳密に言うと法的には違いますが)に当たる預金者たちもまた危機に陥ります。銀行が健全な時は、銀行預金は手元の財布の中にある具体的な現金とほぼ同様に、自由に使って取引を決済できる「現金」として機能しますが、銀行が経営危機に陥ると途端にそれは「不良債権」に変じてしまいます。つまり銀行の経営危機とは、銀行が創造していた信用、借り手に対して供給していたはずの「現金」が急激に消えてしまうことを意味します。
更によく知られているですが、このような銀行の経営危機は、上に書いたような実体的根拠、つまり具体的な貸し倒れ、債権回収の失敗といったわかりやすい失敗や災難によってのみ起こるわけではないのです。経営上全く問題のない銀行についても、いったん危機の噂が広まると、その噂が健全な経営実態の事実が確認されることによって消滅するのではなく、逆に現実の危機を引き起こしてしまうことがあります。いわゆる「取り付け騒ぎ」です。
発達した資本主義市場経済における急激な貨幣供給不足とは、まずはこのような形で起きることが多いと考えられます。ただここで問題となるのは、銀行の信用創造によって、貸出によって生み出されたのではないもともとのお金、最初の預金者たちが預けたお金はどこから来るのか、です。
20世紀以降に、まさにこうした不況への対応の中から確立してきた管理通貨制の下では、言うまでもなくこれらは一種の政府機関(とはいえ狭義の政府、内閣や大統領などの管轄下の他の行政機関からは一定の独立性を備えているという意味では最高裁判所にやや似ています)である中央銀行が発行する中央銀行券です。しかしこの中央銀行券はご存知の通り新しい仕組みですし、ぶっちゃけてしまえばそれはもともとは、普通の民間の銀行が発行する、お金として機能する証券たる銀行券の真似をして出てきたものです。復習しますが、歴史的に言えば、人々の信頼を得て、国境をも超えた取引に用いられる貨幣の中の貨幣とは、金や銀を用いた貴金属貨幣であり、銀行券とは、その預かり証であり引換券だったと言えます。
金融危機から来る信用の急激な収縮とは、つまるところ貨幣として機能していたはずの様々な証券の類がいきなり価値を失うこと、つまりは急激に貨幣供給が減少することを意味しますが、それは必ずしもゼロになるわけではなく、もともとの貴金属貨幣までが消え去ることはありません。この意味で貴金属貨幣は貨幣収縮に対するセーフガード機構、信用崩壊と不況がどん底までいかないためのセーフティーネットになっていると言えなくもない。また貴金属貨幣は国境を超えた通用性を持ちやすいため、国際通貨制度を安定させる(典型が国際金本位制)のにも役立ちます。
しかしながら「急に消滅することはない」という貴金属貨幣の利点は同時に「急に増やすことはできない」という欠点と背中合わせでもあります。つまりそれは貨幣制度の全面崩壊を防ぐには便利でも、市場における取引を円滑に行わせるためには、マクロ的均衡を実現するには不向きなのです。中央銀行の銀行券と金との兌換性(いつでも一定レートで交換できるという約束)を断ち切り、中央銀行が独自の裁量で発券してよい、という管理通貨制度においては、この難点が克服されています。
では、すべての銀行が、そこに貴金属貨幣だの中央銀行券だのの預金なしに、自分の勝手で発券させれば、よりスムーズに、市場の需要に合わせた貨幣供給ができるのではないでしょうか? これがハイエクらの貨幣発行自由化論ということになりましょう。ただこの場合、勝手に発券する銀行は、中央銀行ではなく民間の営利企業である普通銀行ということになります。自力で採算をとって生き延びなければならない民間銀行は、自分の最大の商品である自行の銀行券の価値を維持しようと努力するでしょうから、その経営は健全であればあるほどデフレ基調に――自行の銀行券の発行は控えめになるでしょう。そして各銀行が独立採算の営利企業である限りは、そうした自己利益を超えて、経済全体のために適切な貨幣を供給するよう誘導することは難しいでしょう。そう考えれば、マクロ経済の均衡を確保し、有効需要を満たすために適切な金融システムは、貴金属本位制でもなく、さりとて貨幣発行全面自由化でもなく、政府機関としての中央銀行にのみ、政策的観点からの貨幣発行権を与える――というものになります。
このように考えたとき、管理通貨制度の下での中央銀行のマクロ経済のコントロールのメカニズムは、案外と迂遠なものであることが分かります。実はそれは経済全体の中で流通する実質的な意味での貨幣の総量を、直接に操作しているわけではないのです。実質的な意味での貨幣、お金として機能しているものの中には、銀行その他民間の経済主体が膨らませたお金の等価物――各種の証券その他――が含まれている。総量としてはむしろそちらの方が多い、ということが肝心です。中央銀行は経済の中の貨幣全体を操作することはできず、いわばその首根っこを掴まえる、という形で間接的にそれらをコントロールしています。その辺についての技術的な細部に立ち入る余裕は、ここではありません。
やや長い復習となってしまいました。次回以降はまた村上泰亮に、そして産業社会論に話を戻していきます。
(第12回・了)
この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年9月27日(火)掲載