CULTURE
独占発掘! 田中角栄・幻のインタビュー「角栄は、米国にハメられた。ロッキード事件は無実だった」田原総一朗
Text by Soichiro Tahara
田原総一朗
1934年滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業。岩波映画製作所、東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て1977年フリーに。現在は政治・経済・メディア・コンピューター等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。著書に『日本の戦争』(小学館)、『日本人と天皇』(中央公論新社)、『塀の上を走れ』(講談社)ほか多数。最新刊『大宰相 田中角栄──ロッキード事件は無罪だった』(講談社プラスアルファ文庫)発売中
ロッキード事件で元首相・田中角栄が逮捕されてから40年が経った。当時、角栄は金権政治の象徴として、集中砲火を浴びることになったが、1人だけ、角栄は無実ではないか? と考えていたジャーナリストがいた。当時42歳だった田原総一朗だ。
エネルギー外交を提唱した角栄は、米国の虎の尾を踏んでしまい、その犠牲者となったのではないか──。田原が保釈後の角栄を説得し、実現させたインタビューは、ある事情で原型をとどめないものになった。角栄は何に怯えていたのだろうか。緊急復刊した『大宰相 田中角栄』とあわせて読みたい衝撃のドキュメント。
田原総一朗氏の新連載「人工知能を見に行く!」をクーリエ・ジャポンで2016年9月から開始します。乞うご期待!
政治にも関心がなかった私がなぜ角栄に?
田中角栄という人物に関心を持ったのは、ロッキード事件がきっかけだった。ロッキード事件によって、田中角栄は「今太閤」から「天下の大悪人」に大転落したからだ。
もちろん、その発端をつくったのは立花隆の「田中角栄研究──その金脈と人脈」という「文藝春秋」1974年11月号に掲載された論文で、立花は田中角栄のカネのつくり方を徹底的に追及し、田中を首相辞任にまで追い込んだ。
このころ、私はこの立花論文にとても共鳴していた。というのは、田中角栄とは金権政治の代名詞で、政治を金で買う、札束ではたいて言うことを聞かせるような人物であると、私はそうイメージしていたからだ。
それ以前の私は、政治にはまったく興味を持っていなかった。当時の私は、東京12チャンネルのディレクターで「ドキュメンタリー青春」という番組をつくっていた。興味、関心は人物をいかに描くかにあり、しかも時代と激しく渡り合っている人物、たとえば学生運動をやっている連中や、サブカルチャーの旗手だった寺山修司、あるいは新宿花園神社などで赤テントを張って芝居をかけていた唐十郎など、ヒリヒリするような同世代の人物で、背広を着ていい車に乗っているような政治家、財界人にはまったく興味がなかった。
ましてや国家とは、などということは考えもしていなかった。
政治にも経済にも関心を持っていなかったが、そんな私でも田中角栄という人間を知らないわけではない。金権政治を臆面もなく行い、甚だ倫理に外れた汚い政治家だと。だから立花論文に私は拍手喝采したい気持ちを持った。
一方、田中は巨大な権力を持ち、その権力の源泉はカネであることを知っていながら、どの新聞も追及できずにいた。
そうしたときに、「文藝春秋」でフリーランスの立花隆、あるいは同じ号でこれもフリーライターの児玉隆也が「淋しき越山会の女王」という田中の金庫番である佐藤昭のことを書き、田中を失脚させた。圧倒的な取材力を持ったメディアがフリーのジャーナリストの後塵を拝したことで、新聞もテレビも相当に苛立っていた。
苛立ちが極限まできていたために、すべてのメディアがロッキード事件では全面的に田中角栄を叩いた。悪の元凶であると、これでもかこれでもかと新聞もテレビも、毎日のように大々的に報道し、田中に十字砲火を浴びせかけた。
その大報道の中で、逆にこてんぱんに追いつめられている田中角栄に対して、私は関心を持ったのだった。これはおかしい。田中角栄は、本当に天下の大悪人なのかと。
というのは、それまでのドキュメンタリー番組をつくっている経験から、ある流れが決定的になるときには逆にあやしいことがある、という勘のようなものを私は持っていた。いまでもそういう考え方をしているのだが、つまり、流れが大きくなるときには、それはどこかにいかがわしいところがある、どこか問題があると疑うのが私にとって自然のことなのだ。だから、田中角栄イコール大悪人という風潮、論調は行きすぎではないかと思ったのだ。
そこで初めて、私は田中角栄という政治家を調べてみることにした。幸か不幸か、ロッキード事件が起こった76年という年は、私は職場から干されていた時期だった。原子力発電という当時のタブーに切り込んだために、自ら辞職するか、さもなくば解雇されるかという立場にいて、私は迷いなく辞職することにした。
反日暴動の糸を操っていた米国
会社を辞めてフリーになった私には、時間がたくさんできた。そのおかげで、詳しく調査することができたのだが、権力の世界を調べるのは初めてなので、非常に新鮮だった。
夢中になって調べていくうちに、実はマスコミは田中角栄がいかに悪者か、いかに汚い人物かということばかり取材をしているけれども、まったく無視しているか、気がついていない問題があることがわかった。
それは、エネルギー問題だった。田中角栄は、エネルギー問題に非常に熱心に取り組んでいたのだった。
1972年、ローマ・クラブの『成長の限界』という本が発行された。それまでの日本の社会的な問題といえば、公害だった。海水汚染や大気汚染、環境破壊は高度成長のマイナスの面、成長し続けるからこそ公害が発生し、それをどう抑え、回復しながらさらに成長していくかが問題だった。
ところが、この『成長の限界』で、もうそんな時代ではないと警告が発せられた。これから食糧がなくなる、資源がなくなるぞと。人口が増え続ける一方で、食べるものがなくなる、石油が枯渇すると。これが成長の限界だった。
日本は石油がほとんど採れない国で、今でも中東に80パーセント以上依存している。特に70年代はアメリカのオイル・メジャーと呼ばれる巨大石油会社が、エネルギー供給をほぼ独占していた。つまり、日本は生殺与奪の権をアメリカに握られていたのだった。
そこで、田中角栄はエネルギーを自前で確保しよう、エネルギーを国民へ安定供給しようという、エネルギーの安全保障を考えた。そのために田中は、日本興業銀行の中山素平、アラスカ石油開発の松根宗一、日本精工の今里広記という資源派財界人と組んで、いわば和製オイル・メジャーをつくろうとした。
ところが、日本が生きるためのエネルギー外交を始めた田中角栄に立ちふさがるものがあった。誰かというと、アメリカだった。
たとえば、インドネシアでサウジアラビアと石油取引を交渉するために現地に飛んだ田中角栄は、到着後、ホテルから一歩も外へ出られなくなった。
自動車をはじめとする日本製品がインドネシアに大量に輸出されている、これは日本の新たな侵略である。太平洋戦争の繰り返し、日本帝国主義の武力を使わない侵略だと、反日暴動が起こったためだ。
実は、裏からこの反日暴動の糸を操っていたのがアメリカだったのだ。
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