知られざる“同胞監視” ~GHQ・日本人検閲官たちの告白 ~
4千人の検閲官名簿 歴史の闇“同胞監視”
今年5月、憲政資料室で見つかった名簿です。
GHQの秘密機関で検閲に従事していた日本人、延べ4,000人の名前が初めて明らかになりました。
名簿に記されていたのは、1948年以降、電話の盗聴や手紙の開封に携わった人々。
その地位や、給与額などが掲載されていました。
名簿を発見した、早稲田大学の山本武利名誉教授です。
日本で行われた検閲の実態解明に、30年にわたって取り組んできました。
山本教授が調査してきたのは、1945年、日本の降伏直後からGHQが開始した諜報活動です。
当時、主な通信手段だった郵便は、4年間で2億通が開封されていることが分かっています。
手紙には検閲印が押されていましたが、誰が何を調べていたのか、詳細は謎に包まれてきました。
今回、直接検閲を行っていた人たちの名簿が見つかったことで、全容の解明が進む可能性が出てきたのです。
早稲田大学 山本武利名誉教授
「DPSというのは、郵便検閲ですね。」
しかし、調査は難航しました。
他人の秘密を暴くという行為を、みずから語ろうという人は、ほとんどいなかったからです。
早稲田大学 山本武利名誉教授
「自分で悪かったという罪悪感というか、恥の気持ちが非常に強かった。」
インターネットで全国に情報を呼びかけて、4か月。
先月(10月)、1人の元検閲官が山本教授の調査に応じました。
川田隆さん、87歳。
当時、大学に通いながら、2年近く検閲を行っていました。
元検閲官 川田隆さん(87歳)
「これ、名前ですか?」
早稲田大学 山本武利名誉教授
「CCDに当時、日本人…。」
元検閲官 川田隆さん(87歳)
「ああ、これですね。」
検閲官だったという事実は、これまで家族にも話していませんでした。
元検閲官 川田隆さん(87歳)
「やはり米軍に協力するのは嫌なんです。
不愉快なんです。
敵国ですから。
しかし、お金がありませんので、しょうがない。
まったく、しょうがない。」
元検閲官 川田隆さん(87歳)
「私の若い時の写真がたくさん。」
陸軍経理学校の生徒だった川田さん。
戦後、食料の確保もままならず、家族を支えるには仕事を選ぶゆとりはなかった、といいます。
元検閲官 川田隆さん(87歳)
「手紙を開封して、(指示された『単語』が)あったら、英文にする。
GHQの当時の最大の関心は、ブラックマーケットと称する『闇取引』が手紙の中にあれば、英訳しました。」
川田さんの職場は、全国の手紙が集まる東京中央郵便局の中に置かれた、GHQの情報機関でした。
ここでは、600人を超える日本人が検閲官として働いていたといいます。
GHQから命じられたのは、“闇市”などのことばが含まれている手紙を英訳し、上司に報告することでした。
こうした情報をもとに、当時、多くの日本人が逮捕されました。
これは、郵便検閲によって、捜査の対象となった案件です。
テロや反米の動きを警戒していたアメリカ。
武器や軍需物資の闇市への流通を摘発していました。
さらに、占領地の物価を不安定にするという理由で、食料や生活用品の取り引きも取り締まっていました。
元検閲官 川田隆さん(87歳)
「もう割り切って、とにかく手早く処理しました。
やはり、やらずにすませられれば…。
戦争に負けたせいです、これも。」
“同胞を売った” 元検閲官たちの告白
みずからの報告で、同胞が摘発されることに苦悩する検閲官も少なくありませんでした。
戦後、英文学者として活躍し、2000年に亡くなった甲斐弦さんです。
アメリカの手先として働いたという苦しみを、日記に記していました。
その内容を、遺族が初めて明かしました。
元検閲官 故甲斐弦さんの日記より
“局の仕事の秘密厳守を宣誓。
いわば「いぬ」となるのである。”
甲斐さんも、闇市ということばを手紙で見つけ、報告していました。
取り引きに関わった、その日本人は逮捕されました。
元検閲官 故甲斐弦さんの日記より
“自分の仕事のために、何人かの犠牲者が出てくる。
新日本建設のためのやむをえぬ犠牲というけれども、なお割り切れぬ、この気持ち。
生きるためにCCD(民間検閲局)に勤めて、人の秘密を摘発する。
果たして、いずれが是、いずれが非か。”
結局、甲斐さんは、2か月で退職。
ほとんどの検閲官が口をつぐむ中、体験を書き残し、家族に託していたのです。
長男 甲斐誠さん
「大半の人はね、黙って亡くなっていって、記憶も歴史からも消えていく。
死んだ人とか、そういう人のことを代弁して書くのが自分の使命だ。」
手紙に押された検閲印。
GHQ秘密機関の頭文字が記されています。
CCDとは、どのような組織だったのか。
アメリカ秘密機関 郵便検閲の目的とは
開示が進む、公文書。
その中に、CCDの日本での活動に関する極秘文書がありました。
資料からは、アメリカの郵便検閲の目的が、時代とともに変化していったことが浮かび上がってきました。
資料より
“私たちの最終目標は、日本人の思考を把握し、政策の立案や占領統治に生かすことである。”
これは、CCDが郵便検閲から割り出した、日本人の思想の傾向です。
終戦直後は政治、教育、食料事情など、あらゆる制度に対して、肯定的か、否定的かを集計していました。
例えば、天皇制については、肯定的な意見が圧倒的だと分析。
こうした調査が、その後の占領統治に生かされたのです。
1947年、GHQの統治下で、日本国憲法が施行。
人権を侵害する検閲は、禁じられました。
しかし、CCDは、その後も郵便検閲を続けていました。
なぜ、CCDは検閲を続けたのか。
当時、日本人の指揮にあたっていた人物に会うことができました。
元CCD職員 エドワード・ナカムラさん(88歳)
「私は毎日、東京中央郵便局のビルに通っていました。」
日系2世のエドワード・ナカムラさんです。
郵便検閲が継続した背景には、国際情勢の変化があったといいます。
元CCD職員 エドワード・ナカムラさん(88歳)
「アメリカの関心は、共産主義の広がりに移っていました。
ソ連との冷戦状態から、緊張関係が高まっていたからです。」
CCDに闇市の情報を報告していた、川田隆さん。
川田さんも、共産主義を警戒するよう命じられていました。
少しでも疑わしい情報は、報告を求められたといいます。
元検閲官 川田隆さん(87歳)
「共産党、左翼の動きですね。
動きと党員の動向。
ことごとく報告しましたね。
ほとんど集会は、ことごとく。
そうではないだろうと思うものまで報告してあります。」
歴史の闇“同胞監視” 元検閲官たちの告白
アメリカは、成果を出した日本人を優遇する仕組みで、検閲の体制を維持していました。
1947年から検閲を行っていた、河野繁子さんです。
当時、検閲官の月収は、平均のおよそ2倍。
より多くの情報を報告した人は、給料が上がるシステムで、優秀な人材が多く集まっていたといいます。
元検閲官 河野(湊川)繁子さん(86歳)
「東大生、京大の方もいらしたし、早稲田、慶応、ああいう世界って珍しい。
あれだけ学生が集まっているのは。」
2年間、検閲官として勤めた河野さん。
その事実を知った友人から、生涯忘れられないことばを投げつけられました。
元検閲官 河野(湊川)繁子さん(86歳)
「CCD(検閲局)ってところに勤めてますって言ったら、『そんなところに勤めてるの』って、とても厳しい声で言われた。
『ひどいことしてるね』って言われて、グサッときて。
とても突き刺さりましたね、気持ちが。」
河野さんは今年、名簿の発見を機に、その体験を共に語り継ごうと、当時、検閲を行っていた仲間に手紙を送りました。
元検閲官 河野(湊川)繁子さん(86歳)
「昔の住所ですから、ダメと思ったのですけど、手紙を出した。」
しかし、返ってきたのは、厳しい反応でした。
元検閲官 河野(湊川)繁子さん(86歳)
「このことは、お断りいたしました。
断りました。」
元検閲官 河野(湊川)繁子さん(86歳)
「“検閲”は、すでに公然たる事実であり、それ以上、“作業”に関する解明をする必要はないと思っています。」
元検閲官 河野(湊川)繁子さん(86歳)
「あのころの人って、仕事について偉くなってますわね。
さみしいですね、こうやって戻ってくると。」
アメリカの戦略と時代のはざまで、同胞監視を続けた検閲官たち。
一人一人の記憶に刻まれた歴史の闇は、今も明らかになっていません。
発見・GHQ新資料 “同胞監視”の実態
●検閲に関わった人々が抱える心の闇
当初は、この日本人の検閲官の方々も、それほどの罪悪感がなかったかもしれないんじゃないかと思うんですね。
と言いますのは、戦争が終わってまもなくのことですし、戦時中は、陸軍、海軍の検閲もありましたので、日本はアメリカに占領されてましたので、当然かなと思われたかもしれないんですね。
ところが、新しい憲法が制定されて、その中で、特に通信の秘密というのが、憲法21条で定められているわけなんですね。
だんだんと憲法が身についてきて、民主主義が自分たちの生活になるにしたがって、やはり、時がたってみると、あのことはよかったのかなと、あのことはまずかったんじゃないかなと、そういう悩みとか、トラウマが大きくなっていったんじゃないかなというふうに思いました。
●日本国憲法制定後も続けられた検閲 アメリカの目的は?
やはり、アメリカは終戦当初は、日本の民主化を進めようとしてきたわけですね。
しかしながら、占領の統治の政策、民主化なんですけども、そのことと、やはりインテリジェンス活動というのは、全く次元の違う問題だという捉え方を、アメリカはしているというふうに、改めて思いました。
アメリカは、冷戦の時代は、反共産主義ということで、アメリカ国内でも、中国やソ連に対して手紙を送った場合、あるいは手紙がソ連、中国から来た場合、いずれも検閲していたということが知られているわけなんですね。
やはり今、そういう形で、アメリカのインテリジェンス活動が進められてきたというのは、現実の実態だったというふうに思います。
●アメリカの諜報活動 日本への影響は?
やはり、アメリカにとって、まずい情報は、メディアに対して検閲をして、報道させない。
このことは、報道の現場で、GHQの新聞課長との戦いというのが、現実にあったわけですね。
それとは全く別に、アメリカは、アメリカの明るいムード、あるいは、すばらしい生活を教えるために、日本に対して、民法の揺らん期ですね、発足したばかりで、ソフトがない時代に、ソフトを作って、完全パッケージの形で提供していたと。
その中には、例えば、5月の母の日にカーネーションを渡すという風習は、日本にはなかったんですけれども、そういう風習を日本に植えつけていったと。
アメリカ好きを、そういう形で助長していくということもやっていた、ということだと思います。
(検閲によって、アメリカが日本の思考や考え方を、数量的につかんだ。
政権や国会、共産党、デモ、あるいは占領政策や天皇制、さまざまことについて傾向を知ろうとした。
このやり方について、どう見る?)
そうですね、アメリカは、この量的に、できるかぎり大量の情報を集めるというやり方なんですね。
それは今でも、NSA=国家安全保障局がやっている手法と似ているわけなんですね。
やはり、こういった形で、相対的に、例えば世論調査をやるような形でやってるわけなんですが、それとは全く別に、さっきも、ちょっとした証言があったんですけれども、例えば重要な情報があった時には、それを抜き取って、それをさらに深く調べていったということもあったんじゃないかと。
戦後、戦後史の中で、出来事とか事件とかいろいろあって、いまだに未解明のところがあるわけですけれども、そういうところを、個々の情報を突き止めていくことによって、戦後史の解明につながる可能性もあるのかなという期待感も持てたというふうに思います。