30年前、韓国と米国の貿易摩擦は激しさを極めた。米国は韓国製のテレビなど多くの品目に報復を加えた。しかし、その裏側では交渉と対話が進められた。韓国は水面下の交渉を通じて報復の銃弾を受ける品目を減らすことができた。
米国政府も、レーガン大統領の個人的な依頼をくみ取るよう韓国側に要請した。この要請を受けて、ソウル市江南区にマリオットホテルがオープンした。記者たちの前では怒りをあらわにしながら、部屋の中では満面の笑みを浮かべて食卓を囲み、取引を終了した。
そんな米国が顔色を変えたのは、1997年の通貨危機のことだった。故・金泳三(キム・ヨンサム)元大統領は、対北政策をめぐってクリントン政権ともめた。これが北核問題の始まりだった。首脳会談の途中で故・金元大統領は「もうこの辺で終わりにしよう」という言葉まで口にした。互いに歩み寄りが見られないことに立腹したのだ。
ちょうど貿易赤字でドル不足が深刻化していた。日系の銀行が1、2カ月の間に数百億ドル(数兆円)を一気に引き出したことで、ニューヨークの米国銀行は韓国の救援要請に首を横に振った。そしてワシントンを訪れるよう話した。
結局米国と日本の要求を全て飲んだにもかかわらず、救命のための輸血は受けることができなかった。同年12月、故・金大中(キム・デジュン)元大統領が当選するやいなや、その翌日、米国が派遣した「面接官」がソウルを訪れた。財務部次官だった。同次官は、新任大統領が金泳三政権の約束した開放計画をそのまま履行するという誓約を引き出した。その後1週間でIMF(国際通貨基金)がドルを貸し始めた。多くの韓国人にとって忘却のかなたに消え去った話だ。しかし、米国が怒ればどんな災いがもたらされるのか、当時ほど実感したことはなかった。米国と日本の連動作戦が初めから計画されていたわけではなかった。しかし、癖の悪いじゃじゃ馬に似た韓国を手なずけるために、米日間でどんな秘密の対話が交わされていたのかは、その後多くの証言を通じて確認することができた。