僕はかつて荒らしだった
匿名掲示板に書き込んだ経験はあまりないものの、MMORPGやチャットルームなどにて無秩序に荒らし行為を連続的に行い、人の嫌がる様を見てせせら笑うことを最大の趣味として生きていたことがある。
そうした悪行期間はそうそう長くない。
十三歳から二十三歳ぐらいまでの約十年間。
起きては荒らし、荒らしては寝るの繰り返しで日々が終わった
とりわけネトゲに関しては、日に十時間を越えるプレイをしていたのもあって、他人を激怒させるなどお手の物だった。
ギルドの仲間とラポールを築いてからリアルマネーで数千から数万の値がつくものを、貸して貰うという名目で奪うなんてことは日常茶飯事であった。
語調を荒げて抗議してくる人に、
「ねぇ今どんな気分?w 信用してる人に裏切られるってどんな気分?w」
などと挑発行為を繰り返しながら、執拗につきまとった。
時には集団で詰め寄られて説教されたこともあるが、
「これはゲームです。ゲームのシステムを利用して遊んでいるだけです。チートも利用しておりません。荒らし行為と言われましても、あなたがレア武器を僕の道具袋に移動させたのが悪いのですよ。僕は受け取るという行為をしているだけです。僕はただマウスをクリックして、たまにキーボードを打っていただけなのに、なぜこんなに怒られなきゃならないのですか? あらぬ言い掛かりをつけるのは辞めてください。そもそもこのレア武器があなたのものである明確な証拠はあるのですか? 仮にあったとしてバグやチートを利用していない方法で奪ったものを返す義務などないはずですよね。そんなこと、公式ルールブックにはひと言も書いてありませんでしたよ。無色透明までに純粋な想いでゲームに興じているプレイヤーの僕を、なんの法的拘束力もないのに引き止めていつまでも延々と怒鳴るのはやめてください」
と高速でゲーム内チャットを飛ばして、怒りの燃料を更に投下したものだ。
それから一週間ぐらいしてから、「この前は申し訳ありませんでした……。お母さんにも怒られたので武器を返却させて頂きたいのですが。本当にごめんなさい(>_<)」と謝罪しに行き、「もう二度とするなよ。それだけ返してくれたら俺はこれ以上なにもしないよ。こちらこそごめんな」と相手が言ってきた直後、「それじゃあ交換ウィンドウ開き――って嘘だよバァアアアア~~~~~カ!! 二度も騙されるってどんな気分?w 泣きっ面のカモネギぃぃぃぃいいいwww お前、MMORPG向いてねぇわw 今後のアイデンティティ崩壊を誠に楽しみにしております( ´,_ゝ`)」などと心を抉る発言を再三に渡って放ったものだ。
煽りが天職だと思っていた
そうやって自宅にいながら迷惑行為を働いていた。
寝ても覚めても、どうしたら他人が受ける精神的ダメージを最大化出来るか、だけを考え続けたものだ。
ここまで醜悪な猛撃をしていたものの、僕の心は静かだった。
ニルヴァーナの境地に達していたから、「ただただやるべきことをやるだけさ」と常々思っていたのだ。
悪い敵は全員打ちのめすという勧善懲悪思考でも、逆に悪人になって善人をシバくという狂信的死神思考でもなかった。
楽しい楽しくないではなく、ただひたすらに煽っていた
言ってしまえば無感覚。
そんな心の状態であるから、誰にどんな説得をされようと馬耳東風で、煽ることをやめられなかった。
ネトゲを始めたばかりのころに、共に煽ろうと誓った仲間たちは、一人また一人とやめていった。
でも僕はやめなかった。
最後まで一人、煽ることをやめなかったのだ。
MMORPGを引退するその日、僕は朝から晩まで、「あぁあぁあああああああああああああああああああああああああああああ、いぃぃぃいぃいいいぃぃいぃうふcううcぁぎうfぐしdhflkさdhflksdjlkfchsだlkfksdl;ふぉかdshvklさdhvklsdfskdjhfkjasdh]などと無意味な長文を放ちまくった。
「おい画面見えなくなるだろ」「荒らしウザ……」「ガキだろガキ」
そんな風に罵られても、僕は鬱陶しいウィンドウを乱発し、人々の行動を制限した。
僕が煽り、他人が怒るという無限ループ
これが無限に続く循環的因果関係の世界を、この僕一人で様々な場所に築き上げてきた。
そんな風に、革命的で誇り高いことを成し遂げているという実感が胸に沸いた。
高校に入学してからは、チャットルームで他人に襲いかかることが増えた。
ネカマのフリをしてターゲットに近づく。
「こんにちわ。打つの遅くてごめんね。文字」
このように倒置法を駆使すれば、あの時代の男は簡単に騙すことが出来た。
あとは相手の話にあえてゆっくり返答し、その中で太鼓を打っていれば、必ずメールアドレスを交換しようという提案をされた。
「なんか、すごいですねー。わたし勉強苦手だったんで。。。すごいなっておもいます!!!」
「努力するおとこの人って、なんか、かっこいい気がする。。。」
褒める際には、「なんで」と「。。。」の多様が効果的であった。
それだけで相手の男は魔術を掛けられたように、すぐさま陶酔境に浸り、いくらでも手の平で転がせた。
直アドに、「実は男なんですが、構いませんか」とふざけて送信してみると、「気にしないです。もう好きなので」というメールが届いたこともあった。
恋煩いってのは全てを覆す力を持った魔術なのかもしれない、と恐ろしくなったものだ。
ネカマ荒らし以外としては、カップルでチャットルームを利用する者を破局させるという遊びも流行った。
たまに女の子側しか入室して来ないときに、「あの人、他の女の子にデートの誘いしてたらしいよ?」などとホラ話を吹き込んで、疑心暗鬼にさせてからじっくりと恋を破綻させて行くというジェンガゲーム的な裏工作である。
これを実行する前に荒らし仲間を募り、プライベートチャットにて綿密に計画を練った。
成功率はそんなに高くなかったものの、四組ぐらいは潰すことが出来たのを覚えている。
チャットを好き好んで長時間やるカップルってのは、ネットで知り合っての付き合いの可能性が高いために、不安を喚起させるだけであとは余計な手を加えなくとも自然と崩壊していくパターンが多かった。
良い素材は最低限の調理で美味しく食べられるのと似ているね。
このように煽ることを人生のメインテーマとして生きてきた僕だからこそ、ネット内で悪さをしてしまう人間の気持ちが痛いほど良く分かる。
であるからここからは、匿名掲示板で誹謗中傷のスコールを降らす荒らしについて思うことを書き殴り、スッキリして締めようと思う。
荒らす者も荒らさない者も大差ない
まずはじめに、なぜ人が誹謗中傷をしてしまうかについてだ。
やはりなんらかの絶望感を抱いてしまっているせいである。
誹謗中傷のような反社会的行為を行う者は、嫉妬だったり不安だったり恐怖に襲われて生きている可能性が極めて高い。
僕自身もそうであった。
中学生の頃はイジメに遭い、努力してもモテないから泣いていると、「努力しなよ。モテないのは努力不足だからだよ?」と女の子に叱りつけられるという絶望的状況にいて、メランコリアな人間となり、そうした終わりの見えない苦しみから逃げるために煽りに走った。
マズローが書籍で、『未来をもたない人は、具体性と絶望と空虚に陥る』と書いているように、最低な状況から抜け出せずに希望を失っている者は絶望し空虚感に苛まれ、空白を嫌う性質のある人間は自分を守るためそれを埋めるために、なんらかの行動に出る。
しかし絶望していると、なぜか破壊的な方面へ向かってしまうのが人間の悲しい性だ。
その結果として、荒らしになってしまう。
荒らしとは、人間性を失ったかわいそうなモンスター
では反対に、どうしたら誹謗中傷などしない良質な大人になれるかといえば、自己の精神内部で生まれた欠乏感を一つ一つスムーズに解消出来る人生を送れるかどうかで全て決まる。
欠乏感の解消――それは、絶望から遠ざかっていく作業だ。
極端な話、人生の中にある運命の分かれ道で、正しい方向へ歩き出せたかで全て決まってしまう。
荒らす人、荒らさない人。
この世界にはこの二パターンのうち、どちらかに属する人しか存在しない。
しかも、片側は片側に共感出来なくなる。
なぜなら荒らす人は荒らさない人との会話が少なくなり、荒らさない人は荒らす人との会話が少なくなる。
こうした逆比例が進行するために、自分と真逆の性質を持った人の内部に存在する心の動きなど、想像しようとしなくなってしまうのだ。
荒らさない者は、荒らす者の持つ絶望を知ろうとしない
これが荒らしの心を逆なでし、人を煽ることだけをしようという覚悟を持たせるキッカケになってしまい、レベルを上昇させてしまうことになっているのだ。
彼ら荒らしから見れば、僕たち荒らさない善人のような人間は、経験値をごっそり稼げるモンスターにしか見えないのである。
煽ることでスキルを上昇させてネット世界を旅しようとする冒険者を気取っているのだ。
このように発車ベルが鳴らされると同時、別々な方面へと歩んでいるから、荒らしと荒らさない者は分かり合えない。
似たような見た目をしていて、似たように生きているが大きく異なる。
ポケモンとデジモンのようなもので、デザインもシステムも似通ってはいるが、深い交流など不可能なのだ。
自分が生きていない人生のことなどは、分かったつもりにはなれても分かりはしない。
絶望からの異常荒らしが、悪意からの始まりとは限らない
たとえばネット掲示板での誹謗中傷などにしても、ある一定のレベルまで絶望を味わった人間生命が見せる、自動反応なのかもしれない。
今荒らさない者だって、絶望に陥れば何をしでかすか予測不能だ。
ネットリンチやリアル陰口は、どちらも卑怯な行為と呼ばれる。
しかし、この二つを一度も経験したことのない者など殆ど存在しない。
「あいつさえ消えてくれれば」
このような怨念まがいの気持ちを持って、飲み会など敵のいない場でしこたま貶してしまうのは、多くの人間が日常的に行う行動だ。
そう考え始めると、ネット内で誹謗中傷を行う人も、異常者ではないことが分かる。
ごくごく一般的な心の動きなのだ。
誰にも見られていなければ、赤信号を渡ってしまうは人たくさんいる
人間とは醜い生き物なのだ。
正義だとか善行だとか道徳だとかは、全ては一時の装備品に過ぎない。
ルールを守ることで利益になるから、それらを着て生きている。
人間社会という相互監視が機能している世界だからこそ。
この世に偽善以外の正義は存在しない
もしもマジョリティのことを正常と呼ぶのだとすれば、純粋な想いから社会正義をするマイノリティな者たちは頭が狂っているということになるだろう。
人間というのは愚かなんだよ。
街を歩いて方々を観察すれば一目瞭然のはずだ。
人の不幸が売り裁かれているから。
雑誌から雑談まであらゆるメディアでだ。
人間が住んでいる限り、どんな世界も暴力が物を語るスラム街と化すのである。
以前のブログでも言ったが、地球は円形のゴミなのだ。
だから、僕ら人間というクズが繁栄している。
クズの蠢く世界に生きる自分が、どう奴らを打ちのめし勝ち上がるか。
それだけを考えて生きるべきだよ。
誰かを変えるなんて不可能だ。
蛆虫に優しくしたって美少女に成長しない。
無理な事に力を注ぐな。
匿名掲示板は、クズな蛆虫が群がる集会場
スレというのは腐った死体であり、レスは蛆虫の吐瀉物なのである。
ブスが笑いになる、貧乏がギャグになる。
そういう世界なのだ。
僕は個人を特定した悪口だけはやらないと心に誓っているが、それでも自分よりブサイクの集まる職場で働くことになれば優越感が沸き上がるし、感謝さえしてしまう。
それはなぜか、ブサイクだと不幸とは言えないが、少なくとも容姿で勝っている僕のほうが幸福になれる機会に多く直面し、豊かな人生を送れるであろうと秒速で考えるからだ。
合コンで美女が、微妙な女を連れ立ってやってくるのもおなじこと。
人の不幸は、人の幸福を決定づける。
みんなが幸福な世界は、みんな不幸なのだ
格差が人を喜ばせる。優越が人に生命力を与える。
だから僕は、人の不幸に心底感謝して生きている。
本当に冗談抜きで、彼ら不幸な人々のおかげで、僕は幸せに過ごせているのだ。
だから僕はいずれ、今よりずっと豊かな生活を手に入れられたら、不幸な物に恵みを授けて行きたい。
不幸な者たちこそ、僕を支えてくれた保護者だと思っているからだ。
もはやおんぶに抱っこに近い。
不幸な人がいなければ、幸せになんてなれなかった
こんな僕のブログも時折ではあるが、2chやまとめサイトのコメ欄などで人格批判をされることがある。
そんな時、神の光に包まれたような優しい気持ちになる。
彼らのお陰なのだ、彼らが存在するからこそ、今の僕がここにいる。
豚も食わない捻りのない退屈極まるコメントばかりしかなくても、自然と手を合わせてありがとうと口にしてしまう。
書き込むクズも、書き込まないクズの僕も、同じくクズなのだ。
全く変わらない加減で腐っているクズ同士なのに、どうしてか勝者と敗者に二分される。
運命とはなんて残酷なんだろう。
そして残酷な世界で恵まれている僕は、なぜこんなにも神に愛されているんだろう。
そう思うと、喜びで涙が溢れてくる。
生き別れた親と感動の再会をしたような、言語化不要の高揚感に包まれて行く。
これも全て、わざわざ匿名で書き込みをしなくちゃならない絶望の淵にいる不幸な者たちのおかげなんだよ。
不幸さまさま。
果たしてこうした考えは、僕という人間が偏屈だからこそなんだろうか。
年金は現役就業者が支えているように、幸福は不幸な者が支えている。
縁の下の力持ちを叩く人々が許せない。
不幸な人が絶望によって暴力ピエロになって荒れ回っていたとしても、僕は最後までその人に感謝を忘れたくない。
人は本当に傲慢な生き物
家族と美味しいご飯を食べる生活、犬と笑い合う生活、仲間とPS4を楽しむ生活。
そのどれも、どこかの誰かのお陰で成り立っている。
コンビニのレジもそうだ。
お前らに作ることが出来るか? 材料はなにか知ってるか? 込められた想いに気づいているか?
ちゃんと感謝して商品を置いているだろうか。
僕はとてつもない数の人間が、商品を上から落とすような乱暴さでレジと接しているのを見てきた。
そのたび、「やっぱりこの程度かよ人間ってのは」とため息が漏れて止まらなかった。
人間は本当に傲慢な生き物だ。
汚れているすべり台は拭いてやれよ、枯れている花のお墓を作ってやれよ、寂しそうな石ころがあったら仲間の元へ連れて行ってやれよ。
怠惰で醜く舌先三寸っぷりは、どこまでいっても変わらないんだ。
まともな人間なんてこの世に存在しない。
僕は人生の中で、ぐちぐちうるさい奴、女の腐ったような奴、口ばかりの舌先三寸と散々罵られてきた。
だがな、それは口が良く回るからそう評されているだけであって、お前も無口なだけで心の舌先三寸なんだよ。
人間は一人残らずクズ性を持ち歩いて生きている。
それがどこで発揮されるかは人それぞれなんだ。
文章力があれば、その文章にクズ性が付随し、恋愛が好きなら、その恋愛にクズ性が付随し、人を従えるのが得意なら、その指導にクズ性が付随する。
人は必ずなんらかの形で、クズっぷりを露わにしていく。
結婚をして一緒に住み始めると、相手の嫌な部分がたくさん見えるものだ。
クズと共生すればそうなるのも当然。
結婚生活ってのは、そうしたクズ性の披露会としての一面も持ち合わせている。
我々は総じてクズなのだ
ありとあらゆる悪質な行為は、人間的な、あまりに人間的な行為なんだよ。
普通だ。通常だ。当然だ。
言ってしまえば、自然の摂理なのだ。
天然の行いなのである。
良い悪いじゃない。
ただただシンプルに、これが人間生命というものなのだ。
みんなで傷だらけになる、汚泥の殴り合いこそが人生
これが人間社会という物語の一ページから最終ページまで続く。
我々の人生は、起承転結の全てで誰かをぶん殴る。
殴ることで伏線を張り、殴ることで回収する。
縦軸で殴り横軸で殴り、深い傷跡を残し、クライマックスで心を揺さぶる鉄拳をたたき込む。
戦ってなんぼなんだよ。
人間という汚れは、どんなにシャワーに入ろうと綺麗にならない。
汚れどもは開き直るしかないのだ。
みんなで振り上げようぜ。
誰かをぶん殴る拳を。