NHK貧困女子高生は「美しい国」が生み出した - 一橋を出てニートになりました
読みました。
かなり大雑把で、突っ込みたいところもあるのだけれど、方向性としてはおおむね同意です。
これは日本の再分配政策を議論するうえで基本になる話なのでみんな読んでおくとよいかなと。選挙等で政策を評価する際にも、ここで認識違ってたら話おかしくなるので。
補足としてはこんな感じです。
①日本の再分配政策は消費税に限らず、保険料などの面でも軒並み逆進性になっていること
(※ただし、国全体のジニ係数は改善の傾向にあり、子供の貧困もさすがに再分配後の逆進性は解消されているため、全体でみるとわかりにくくなっている。本当は再分配のほとんどは高齢者世帯への一律底上げである)
②みんなが消費税の話ばかり気にしている間に、国民が抵抗するものだから「見えない増税」がずっと続いていること。
(住宅費・教育費・保険料・車などの生活インフラ代などの上昇ですね。いうまでもないけど、増税拒否してもどっかから財源持ってこにゃならんわけで、その分世代の逆進性が高い年金保険料などが高くなっていってり、教育の公的負担の削減につながるんだけど、なぜかみんなこっちへの警戒心が薄い)
③ほとんどの再分配政策のための原資がもともと小さく(税金が他の国と比べて低い。それでいて法人税は高め。日本は法人税だけならまだ少し高いくらいで済みますが、その他負担を考えると圧倒的にキツイです。ブラック企業の要因の1つなんだよなあこれ)
その結果、再分配のための原資のほとんどは年金と医療に消えているので、それ以外の再分配は割合では小さくなってしまっている。
④高齢者層への再分配は一律であるのに対し、若年者層への再分配は「対象者の絞り込み」がなされることが多い。(これも、若者に回せるお金が絶対的に足りないからね)
という4点を理解したうえで、
・「子供の貧困リスク」は増大していっていること(教育格差など)
・「子供たちの貧困」は政策問題として論じるべきであること
このあたりまでは意識として共有されてほしいなと思う。
ついでに言うと子供の貧困対策については
A:「貧困かどうかを審査して本当に貧困なものだけを支援する」方法のほかに
B:「特定の世代に一律支給が原則で、富裕層だけを除外する」(ベーシックインカムの一歩手前の政策)方法がある
「奨学金」や「負の所得税」といった議論もA側かB側で議論するといいだろう。
もしAではなくBの方法をとるなら、だれが貧困であるか誰が貧困でないかは問題にならない。今「この人は貧困かどうか」をネットの人たちがやたら気にするのは、Aの方式だからである。
これについては以前に簡単にまとめてます。あんまり読んでもらえなかったのでもう一回これ紹介しておきますね。
「自己責任論」がこの国を荒らしまわった結果、「貧困」を語ることが非常に難しくなった
貧困問題は、主要な戦線と局地戦の関係を誤ってとらえると、反動的なものになってしまうことがある。それは貧困問題自体が、きわめて論争的だからである。つまり自己責任論と社会責任論とがせめぎ合う場であり、決着がつくことのないまま、きわどい政治的バランスの上に成り立っているのが、現実に合意された「貧困対策」なのだ。
貧困そのものの対策に向かわずに、「子ども」という部分に過剰に注目していくと、「教育支援による貧困脱出(貧困連鎖の切断)」というスローガンや政策に傾きがちなのである
「貧困の連鎖を断つ」という言い方は「親が悪い」という攻撃にあっさりと変わってしまう危険があるということだ。
今回のNHK騒動はもろにこの悪い点が出ていたと思う。ネットでは貧困問題に対して、「過剰なまでの自己責任論」が目立った。
「わずかでも貧困と親和性が高い」行動をとった瞬間にゲームオーバー。
自己責任派は少しでも遊んだりしたら「大学に行けないのはお前たちが悪い」「それでほんとに貧困なの?」と言い出す。今回は「NHKの報道が疑問なのだ」という免罪符を得たせいか、いつもよりも露骨に、前提として「お前たちが貧困なのはお前たちが悪い」「少しでも遊んだお前たちは貧困を名乗る資格がない」という部分があることをダダ漏れにしている人が多かった。
一方で社会責任派もそれはそれで極端な意見を述べていたように思う。実際問題社会責任だけを語るとそれはそれで反発されるだろう。あるものである。社会責任ということになると、「みんなで」子供たちのために負担をしようという話になるからだ。
「子どもの貧困」という言葉を使うのであれば、親世代の格差が子ども世代に跳ね返らないために、みんなで子育てにかかわり、費用調達も含めて社会全体の問題なのだとしないと、家族責任が強化されてしまいます。「子どもにかけるお金は、世の中全体で負担しようではないか」と考えるべきなのです。そうすることによって、親世代の格差が子ども世代に跳ね返るような仕組みを緩和していくことができます
この問題の難しいところはまさにこの部分なのだと思う。
<ここからは私の勝手な見立てであって根拠のある話ではないので読み飛ばしてほしい>
今の若者世代~ロスジェネあたりは、「自己責任論」を押し付けられ「社会に助けてもらえなかった」人たちだ。生き残ってきた人は自分たちが今恵まれているのは自分たちの努力のおかげだと考えるし、貧しい人たちやニートたちも自己責任を憎みつつもその価値観を内面化している。
「サバイバー(生存バイアス)」→「メリトクラシー信奉」→「ハラッシーハラッサー」 - この夜が明けるまであと百万の祈り
となると彼らにとって「社会責任論」は、自分たちが求めていたが、それが得られなかったものということになる。そうすると、求めていたがゆえにそれに憎悪に近い感情を抱くこともあるだろう。勝ち組も、負け組も、どちらも自分たちは社会から恩恵を受けていないのに、自分より若い世代のために自分は負担を迫られていると感じてしまう人もいるのではないか。
そのせいか、貧困に苦しんでいる人たちが大変だとは思うが、「では彼らに何かをしてあげましょう」となった時に素直に頷けないのじゃないだろか。
社会や政府を問題にしつつも、
社会が貧困者を救おうという話になった時、
あいつらは「貧困なんかじゃない」と人が言い出すとき、
そこにはだいぶ病んだレベルの自己責任論があるなぁと思ったりします。
本来なら反緊縮を全面的に押し出していかなければならない左派の人びとが、政権側以上に緊縮マインドであったりする日本において、これでもかと言うほど反緊縮運動の重要さを訴えるこの書籍は貴重だと思います。(特に)市民運動の人びとは繰り返し読んで、「ん? いま、自分緊縮的な考えにハマってないか?」と振り返ってほしいですね