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初代ゴジラの“呪縛”から逃れた『シン・ゴジラ』 モルモット吉田が評する実写監督としての庵野秀明

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岡本喜八
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東宝
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市川崑と庵野秀明

 一方で、庵野実写映画の最大の欠点となるのが、俳優という自意識を肥大化させた表現者をコントロールできないという問題である。基本的に演技は俳優にお任せで、庵野はカメラアングルや、画面内のレイアウトを作りこむことに専念しているのは映画を観ても伝わってくるが、『ラブ&ポップ』の様なドキュメンタリー的な手法が内容にも合致する場合は成功するものの、『式日』で藤谷文子と大竹しのぶのアドリブ合戦を長回しで見せるなどというシーンになると、過剰な演技を編集で除去できなくなり、映画全体の均衡すらも崩している。

 『キューティーハニー』は実写でギャグアニメ的な表現を再現する意図があったが、これこそ監督による演技のジャッジが重視されるにもかかわらず放置したことで、個々の俳優の資質、作品への理解が如実に反映されてしまう。嬉々として悪役をオーバーな芝居で照れずに演じてみせた及川光博だけがアニメ的演技に合致していることが明白になってしまう。
 
 こうした理由もあり、大勢の俳優を捌かなければならない『シン・ゴジラ』に不安を抱いたわけだが、自身の不得意な一面を自覚した上で状況劇に徹した物語が考えられたように、演技においても庵野は対処法を考えだした。まずは、『進撃の巨人ATTACK ON TITAN』『進撃の巨人ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』(16年)でアニメ的演技を自発的にこなしていた長谷川博己と石原さとみをピックアップして中心に据えることで、アニメの方法論を問題なく演技に持ち込めることになった。

 これまでの庵野実写映画は、アニメの様に細かく決め込まずに、思うままにいかない不自由さを庵野は新鮮に感じていたが、バジェットの大きな『シン・ゴジラ』ではそんな悠長なことは言っていられない。得意とするアニメ演出を実写で駆使し、いかに全体をコントロールできるかに成否がかかっている。脚本・編集・音響設計・画像設計・画コンテ・ゴジラコンセプトデザイン等まで手中に収めて総監督の席は確保したが、さて次の問題は主演以外の俳優たちをどうするか。そこで有効に機能するのが〈早口〉である。情報量の圧縮という表向きの理由だけでなく、早口は余計な感情表現や芝居の間を取らせる暇を与えない作用もある。
 
 ところで、次の言葉は誰のものか分かるだろうか?
「いつもぼくの脚本は二百五十枚ぐらいになるので、会社では百八十枚に短くしてくれという。枚数を縮めなくても会話のテンポを早くして百八十枚分の長さに短縮してみせる。日常生活だって、われわれはずいぶん早口でしゃべっているじゃないか、といってやった」
 
 『シン・ゴジラ』の早口の意図について説明する庵野の言葉と思いそうだが、『キネマ旬報』(1956年夏の特別号)に掲載された『市川崑自作を語る』からの引用である。これは『結婚行進曲』(51年)というコメディ映画について語ったものだが、この映画では登場人物全員が異様なまでの早口で喋ることで狂騒的にテンポアップされていく。
 
 ここで唐突に市川崑の名前を出したのは、『シン・ゴジラ』は岡本喜八の影響が濃厚と語られがちだが、映画全体の構造は確かに喜八映画とは思うものの、細部はむしろ市川崑ではないかと思えるからだ。市川崑と庵野と言えば、『エヴァ』のクレジットに見られた極太明朝体が、市川崑の金田一シリーズからの引用として語られることが多いが(塚本晋也が演じた生物圏科学研究科准教授が両手をポンと合わせて閃く仕草に、金田一シリーズで加藤武が演じた警部の決めポーズを連想したのは筆者だけではないだろう)、それ以前にアニメーター出身で即物的な描写を好む市川崑は、体質的に庵野とかなり近い。

 『ぼんち』(60年)でシネマスコープの画面に煙突を全部入れたいと言い出し、カメラを横倒しにして撮影して驚かせるなど自由奔放なアングルや目まぐるしい編集、『東京オリンピック』(65年)で人間よりも建物やメカニックなものへ執着を見せたところなど、庵野との共通点は少なくない。また『竹取物語』(87年)の特撮部分を市川崑はなかなかOKを出さず、光の加減など微細な注文を出してリテイクを繰り返したところなど、『シン・ゴジラ』のCGカットに庵野がなかなかOKを出なかったことを思わせる。
 

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