Facebookから再掲。
「真・善・美」という、プラトンあたりが提唱して、のちに新カント派が確立したという、哲学上の考え方がある。
哲学史ではこれを「等価」でかつ「それぞれ普遍」である、精神(理性)の重大な三つの要素としてきたのだが、それ以降の哲学・美学の議論で、なかなか成立、維持が難しくなっている。
そこで曲りなりにも哲学科美学専攻の僕が、今風に整理したい。
「美」とは、これはもう簡単に言えば「個人の好み」だ。
それぞれの人にとって「美」はそれぞれだし、例えば好みの女性のタイプが全員一致してしまえば、コミュニティは大変なことになる。女性の取り合いになってしまう。
だから「美」とは「個別」のものであり、男と女はそれぞれ上手く当てがわれるようになっている。「人それぞれ」なのだ。
指揮者のチェリビダッケも語っていたが、「美は個的なものにしかならない」ものである。
そして「善」とは、ものごとの善し悪し、それは「社会」「コミュニティ」が決めることである。
有名なテーゼである「どうして人を殺しちゃいけないの?」なんてのは、「真」のカテゴリーでも、まして「美」のカテゴリーでも、説明できるはずがない。
「社会にとって都合がいいか悪いか」でしかない。
集団で安全に生きていくために、社会の要請で、人は人を殺してはいけないのである。
そういう「善」の領域内で、人はいろんな恣意的なルールを作っていく。
「ストーカーは被害者に寄りついてはいけない!」から「非実在青年は児童ポルノに該当する!」までね(笑)。
あくまでその個々のコミュニティが要請する恣意的なものなのだから、「善」と「悪」の議論は刻一刻と変化する。当然だ。
さて、そこで「真」。これはもう、全人類やすべての事象を統括する、究極の「答え」だ。
そこには善悪も美醜も、「なんかムカつく」とか「みんなそう思ってるんやからええやないの!」とか、俗世の陳腐な議論をすべて一掃できるくらいの破壊力を持つ。
だから「真」は、人間の永続を保証したりしない。
コミュニティの維持などハナから念頭にはない。
「真」とは、人間なんて宇宙から見たらチリみたいな存在なのも含めて、この世界・宇宙のすべてを司る「真理」を、看破することである。
これに関しては、結構多くの識者が結論を出している。
『火の鳥』で猿田彦が叫んだ「この世は無だ!!!」も含めてね。
最近「真・善・美」の議論が、恐ろしくがさつになっている気がするので、そろそろまとめないと、理屈の通った議論にはならなさそうだなぁ、と思い、申し上げております。
まぁ、これを読む方々の半分以上は理解できるとは思ってません(笑)。
そんなに難しくはないんですけどね、みんなテキトーで底意地が悪いんでね。
しょうがないか!