好漢、木村一基の挑戦 その2

王座戦五番勝負で圧倒的な強さを誇る、羽生善治王座。2008年、「絶対王座」に挑んだ木村一基八段の、食事上の秘策とは?


(2008年、王座挑戦中の木村一基八段)

 羽生善治王位に木村一基八段が挑む、2016年の王位戦七番勝負は、木村が初戦を勝ち、その後は羽生が連勝で、羽生2勝、木村1勝となっている。第4局がおこなわれるのは、8月22日・23日。その模様は中継ページで見ていただきたい。
http://live.shogi.or.jp/oui/

 今回の本欄では、2008年、羽生王座に木村八段が挑んだ、王座戦五番勝負を取り上げる。

 当時の羽生は、王座戦16連覇中だった。羽生が強いのは改めて言うことでもないが、特に王座戦五番勝負の勝ち方は、神がかっている。当時はまた、再度の七冠同時制覇をうかがう勢いで、勝ちまくっていた。

 一方の木村には、初タイトルなるか、という期待がかかっていた。このシリーズが特に印象深いのは、対局の内容が劇的であったこと。そして、木村の頼んだ食事が、唯一無二のラインナップだったからだ。

 まずは、その一覧をご覧いただこう。

 バナナ、ヨーグルト、チョコレート、コーラ。こうした食生活を送るのは、考えに考えた末のアスリートか、あるいは天才的なプログラマーか。常人にはなかなか理解しがたい、尋常ならざるものを感じるメニューだ。木村はどちらかといえば、対局中はあまり多くの食事を取らないタイプである。タイトル獲得に賭ける思いが、この選択につながった、ということだろう。

 ともかくも、これは家庭で再現できる。本稿を書くにあたり、筆者は遠足前の子供のような気分で、近所のスーパーに行ってきた。


(写真はイメージです)

 ヨーグルトとチョコレートは明治を選んでみた。ブルガリアヨーグルトは、かつて羽生王座がCMに登場していたブランドだ。ミルクチョコレートは、加藤一二三九段が2枚重ねて食べていたとか、対局中に8枚食べたとか、10枚食べたとかいう伝説があるものだ。

 ヨーグルトとバナナを並べてみると、バナナは切ってヨーグルトと和えてみるのはどうだろうか。食感のよい、コーンフレークも入れたりして。いやそうすると、朝食のイメージか。

 将棋を指すにせよ、観るにせよ、チョコレートとコーヒーは、最高の友となる。王位戦観戦のともには、何がいいだろうか。ミルクチョコレート10枚は、天才加藤一二三なら可能であろうが、天才ならざるわれわれには難しそうだ。他の選択肢もありうる。キットカットは「きっと勝つ」に通じて縁起がよさそう。ついでに、きのこ、たけのこも同じ皿に乗せてみよう。コーラもつけてみよう。

 糖分十二分で、脳内が活性化される感じだ。
 以上、観る将棋ファンの立場になって、おやつをあれこれ再現してみた。

 以下は、2008年の王座戦五番勝負を、各対局ごとに振り返ってみたい。引用する棋譜コメントは、すべて筆者が当時記したものである。

【第1局】2008年9月5日
東京都千代田区・グランドプリンスホテル赤坂


(眼鏡を拭く羽生善治王座)

 角換わり腰掛銀で、先手の羽生が華麗に攻め、後手の木村が頑強に受けるという、両者の持ち味がもっともよく出た展開となった。

 控え室には渡辺明竜王(肩書は当時も現在も同じ)や、佐藤天彦四段(現在は名人)など、多くの若手棋士が訪れていた。

 15時、おやつの時間になった。羽生はフルーツとホットコーヒー。木村はバニラアイスとホットコーヒー。

 ところで、佐藤天彦新名人は、「朝日新聞」のインタビューで、自宅の冷凍庫に、ハーゲンダッツなど、アイスクリームを常備していると答えている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12460477.html

 名人の言葉であれば、真似してみざるをえない。


(ハーゲンダッツのバニラに、ホットコーヒー)

 対局者や控え室の関係者がおやつを食べている頃、モニターテレビに映る木村が動いた。

>(45手目)羽生が考慮中のおやつ時、木村は記録係の方にコップを置いて、お茶を注いであげていた。優しい。

 特にそう記したのは、筆者にとって、印象深い光景だったからだ。記録係とは、対局者にお茶を入れる立場である。その逆は見たことがない。記録係は、田嶋尉三段。その後惜しくも四段昇段はならなかったが、名記録係として知られていた。

 夕食は、羽生はおにぎりセット(香の物、味噌汁)。木村はバナナ、ヨーグルト、チョコレート、コーラ。ネット上ではもちろん、木村の食事内容に、驚嘆の声が上がっていた。

 終盤、形勢は木村挑戦者が優勢に思われた。しかし……。羽生王座の対局における、何度も見た終盤の流れなので、その典型として、棋譜コメントを並べてみたい。

>(76手目)「さすがにこれは木村君の方がいいでしょう」(行方八段)
 木村は1分を使って、残り26分。控え室では▲4四角を検討中。……。……。あれれ、▲4四角が好手か?
「木村さんの方に勝つ手が見えないのですが……」(佐藤康光棋王)
 佐藤棋王が中心の継ぎ盤も、若手棋士たちの継ぎ盤も、▲4四角が置かれたままで固まっている。
「▲4四角に全員フリーズです」(勝又六段)。
 木村ファンからすれば、ここで羽生に時間があるなんて、という展開。夕食休憩前に挑戦者よしの声→いつの間にか羽生王座よし。16連覇ロードの間に、何度繰り返し見られた光景か。

>(77手目▲4四角)ああ、やっぱり……。羽生王座の何という強さか。
 羽生は28分を使って、残り1時間1分。
「いやあ、もうダメです。やっぱり僕が応援した方は負けるんです」(行方八段)

>(78手目)佐藤棋王も「羽生勝勢」の声にうなずいた。
 それにしてもここで羽生に残り1時間あるとは……。

>(79手目)「ぐりぐりが出たよ……」。控え室からはため息。羽生が盤にめりこませるかのようにぐりぐりと駒を押しつけたときにはもう、相手は逃れようがないとされる。これが将棋界の常識だ。

 そして結果は、羽生王座の勝ちだった。敗れた木村挑戦者は、肩を落とす。


(終局後の木村挑戦者)

 実戦で羽生に勝つのも大変だが、感想戦で羽生に勝つのもまた、大変である。誰が見ても、羽生の方が形勢がよくないように思われるが、いつの間にか負かされてしまう。木村は最後、行き場所のなくなった自分の玉を、盤上から取り上げて、自分の駒台の上に乗せてしまった。

 これもまた、あまり見ない光景だ。
 対局が終わって控え室に引き上げてきた木村は、親友の行方尚史八段に向かって、開口一番、こうぼやいた。

「ナメちゃん、おれ弱かった? 勝ちだと思ってたのが負けだったんだよ」

 木村の無念が伝わってくるようで、胸が詰まるシーンだった。

【第2局】2008年9月17日
兵庫県神戸市・有馬温泉「中の坊瑞苑」

 今度は木村先手で相矢倉。後手の羽生が先攻して、木村が駒を得しながら受ける。形勢は、木村よしに思われたが、いつの間にかあやしくなってくる。

 夕食の注文は、羽生は天ぷら定食と、温かい緑茶。木村は前局に引き続き、バナナ、ヨーグルト、チョコレート、コーラ。その夕食直前のことである。

>(77手目)ここで木村が担当者を呼ぶ。「何事か?」と控え室に緊張が走るが、木村はお腹が空いたという。担当者が食事のメニューを木村に渡す。木村の夕食の注文はバナナ、ヨーグルト、チョコレート、コーラとともに、そば定食(さんま押し寿司、細巻)が追加された。

「うん、それがいい。何か栄養になりそうなものを、おなかいっぱい食べた方がいいよ」

 控え室からも、ネット上からも、そんな声が聞かれたのを覚えている。

 終盤、木村は決め手を逃したようだ。形勢は逆転して、羽生勝勢となった。そしてそこからまた、ドラマが起こる。木村の側に、再逆転を呼ぶかもしれない、勝負手があったのだ。

>(98手目)羽生王座の何という強さか……。 しかし谷川九段が「あっ!」と大きな声。(1手前の)▲6八角で▲3一角だと?! 逃げ道をふさぐ絶妙手か。(中略)
「もしかしたら木村八段は……2度勝ちを逃したかも知れません」(谷川九段)

>(99手目)興奮が収まらない控え室。終局後▲3一角があったと告げられると、羽生と木村は何というだろうか。

 結果はまたしても、羽生王座の勝ちだった。

 一方の木村挑戦者は、愕然としていた。

>終局後、▲3一角の筋を聞かされた木村は
「……いやっ!! そうか!! なんだよ、逆転もいいところじゃないか!! なんだよ、ひどいね……!!」
 手ぬぐいで目を覆い、しばらく顔をあげなかった。
「聞かなきゃよかった……。なんだよ、ひどいね……」(木村)

【第3局】2008年9月30日
 新潟県南魚沼市・龍言

>(40手目)関係者一行は前日、JR東京駅から上越新幹線で越後湯沢駅まで行き、あとはマイクロバスで六日町温泉まで移動。バスが出る前、「いない人は手をあげてください」と担当者がお約束の声をかけると、木村は律儀に「はーい」と答えていた。

 移動の際に、全員が乗っているかを確認するのは定跡手順。立会人の先生がいないことになぜか誰も気づかず、バスが発車してしまったこともある。

 第3局は相矢倉。先手の羽生王座が先攻して、優勢となった。

>(76手目)控え室では、第4局がおこなわれる陣屋で、名物のカレーを食べたかったとの声。

 鶴巻温泉の陣屋は、数々の対局がおこなわれてきた、将棋のタイトル戦の定宿。そこで出されるカレーの美味しさは、関係者にはよく知られている。

 夕食の注文は、羽生はおにぎりセット(小鉢、味噌汁、香の物、デザート)とオレンジジュース。木村はバナナ、ヨーグルト、チョコレート。

 夜になって、木村の粘りが功を奏し、形勢は逆転。逆に木村が優勢になる。しかし、そこからの羽生がまた強い。

>(107手目)羽生の王座戦五番勝負での成績は、実に50勝10敗。こうした少し苦しめの局面を逆転した例は、それこそ枚挙にいとまがない。

 形勢は、何度も入れ替わった。
 そして最後に勝ちになったのは……。またもや、羽生の方だった。

 「よくわからない将棋が多かったです」

 羽生はそう言って、シリーズを振り返ったが、結果は3連勝。ストレートでの王座防衛を果たし、連覇記録を17に伸ばした。さらに先の話をすれば、羽生は王座20連覇を目前にして王座から失冠したが、再び王座に返り咲き、2016年8月現在も王座である。もはや何と言っていいのか、よくわからない。

 一方の木村は終局後、潔くこう言った。

 「勝ちきれなかったのは……。実力です」

 その後木村がタイトル戦で、「バナナ、ヨーグルト、チョコレート、コーラ」というセットを注文した、という話は聞かない。試行錯誤の末に、他に最善手が見つかっているのだろう。

 木村は色紙に「百折不撓」(ひゃくせつふとう)と書く。何度敗れても、何度くじけても、何度でも起き上がって、何度でも挑戦するという意思表示だ。木村はいまもなお、史上最強の棋士・羽生善治に、真っ向から挑んでいる。木村ファンの暑い夏は、まだまだ続く。王位戦七番勝負のゆくえに注目したい。

※追記。王位戦第4局は、木村一基八段が、羽生善治王位に勝ち。七番勝負は、羽生2勝、木村2勝と、五分の星に戻った。

角川新書

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棋士とメシ

松本博文

あの大一番を支えた食は何だったのか――
現在における将棋対局のネット中継の基礎をつくり、食事の中継の提案も行った松本博文氏がつづる、勝負師メシのエピソード。

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minadukiakane ご家庭で再現できるレシピ(?)まである((( ФωФ))) 約14時間前 replyretweetfavorite

itumon 【おすすめ】「 約14時間前 replyretweetfavorite

GonGoose |松本博文 @mtmtlife |棋士とメシ このタイミングで更新してくれるmtmtさんが好きだ。 https://t.co/aWCgZWOSe8 約18時間前 replyretweetfavorite