「死ぬべきではない」「悲しむ人がいる」「生きたくても生きられない人が世の中にはいる」「個人的に死んでほしくない」など、
おおむね自殺しないでほしい、自殺するべきではない、という返信がつく。
もちろん、「死ぬべき」「死にたいなら死んだ方が良い」などという返信もつく。
でも、どうして、そう言うのか知りたい。どうして人の自殺を止めるのか、その動機が知りたい。
エゴである事が問題なのではない。それはどのようなエゴであるのかが知りたい。
認めると自分も自殺するべきだと思えてしまう状況にあるからだろうか。
また話したいと思うからだろうか。
どちらかというと、生きていてほしいからだろうか。
そう思った時に、次の行動としてとるべきものはどれか?
私は、自分のことを、死ぬべき人間だと思っているが、自分ではそれを選べている気分にはなれない。
人間、どんな言葉からでも自分の欲しい情報を探そうとするものではないだろうか。
人の言葉で救われる人は、人の言葉に救いを見出す力を持っている人なのではないだろうか。
救われるか、救われないかは、事の当人が既に決めている事で、説得者は、あるいは説得の定型は、本当には無力なのではないか。
そうでなければ、鬱になるべくして鬱になる人がいるのではないだろうか。
相手の言葉をそのまま受け止めようとする気持ちは、ほどほどのスルー力無しでは維持が不可能だ。
相手の言葉をそのまま実行しようと努力する人は、大人数の発言を前に、混乱してしまうがゆえに、憂鬱に陥るのではないか。
つまり、自殺を止める言葉は、説得としては、そのままの意味では、
もし自殺を止められたとしても、発言者の意図では、通じていないのではないか。
あらゆる言葉は、自殺志願者のかすかな衝動を引きだすだけのものではないのだろうか。
そうならば、自殺をやめろという説得は、いったい何故行われるのだろうか。
自殺を止める人は、自分の説得を、有力だと思っているのだろうか。
結局のところ、成功した説得の大部分は、誤解や語弊、拡大解釈で出来ているのではないだろうか。
だとすれば、人の自殺を止める人は、それを無力に感じないのだろうか。
人間、生きるために、自分を保つために、何かしらの無視をしている。
自分が生きるためのルールを発見し、生き延びるために利用できる意味の選定をしている。
その人が放つ言葉の意味から逆算して、その人を知る事は、できると思う。
あなたが日常で感じている、生存におけるルール。つまりあなたの生をあなた自身で規定したものが、あなたの言葉を選定しているはずなのだ。
自殺をやめてほしいと願うのか。
あなたには何故、人の自殺を止めたいと思う欲望、衝動があるのか。
あるいは、ないのか。
多分学問的領域では、社会心理学とか、脳科学だとか、文化人類学とか、生物学とか、いろんな方面から、自殺について語られた論文があるんだろうと思う。
多分、大方の言動は、何がしかの研究に分類されうるものだと思う。
そこにあるものを分類することで、何か進展があるのだろうか。
自ら自己を類型化し、分析した上で、死ぬべきではないという結論が、どうして出るだろうか。
そうは思えない。私は今、何を読んでも、自分は死ぬべきだと思う。
自分は、自殺志願者で、人の自殺を止められなかった事がある。その人は未遂に終わったが。
私は衝動的に、他人の自殺を止めようとした。今でも、今から自殺をすると連絡が入れば、警察を呼ぶと思う。
自分は、自殺したい、自分は自殺しなければならない、と思っている。
自殺という概念は、他者に向けた時、自分に向けた時で、相当意味が違う。
他者の自殺は自分にとっての不快感であり、自分の自殺は解放なのだ。
しかしなぜ、自分を変えられるから、あなたは変われるから、死ぬべきではないと言えるのだろうか。
私はいったい、何に変わるというのだろう。
死にたくない状態で生きていられる、あなたの生存ルールを参考にした身体に変わるのだろうか。
自殺を止めようとしたその人が、死なない事で楽になるなんて、まったく思っていない。
自殺したがる奴をとりあえず止めようとするのは、止めずに死んじゃったら寝覚めが悪いからだよ。 いろいろあるけどこれが一番大きい。 個人的には誰かに言ったら止められるのはわか...
いくら自問しても分からないような疑問は疑問自体に答えがあるのかもしれない。メタ認知。
とりまセンズリこいとこうや ガハハ!!