数学みたいな能力の優劣がはっきりする分野って出来る側が圧倒的に偉いわけよ。
「学問に偉いも偉くないもない」って考える人もいるだろうけど、数学ができる人間とできない人間を比べれば、出来る側が明確に「正しい」し「偉い」わけよ。
正論大好きなネットの皆さんならわかると思うけど、正しいことは偉いんだよね。
「学問はとても大事なものだから学問を重んじる人は正しい。軽視している大人は馬鹿」みたいなのが成り立つわけ。
だからあのエントリーの意見は正しいし、何も間違ってないだろうと俺は思う。
でも、それってあまりにも出来ない側に対して残酷だと思うんだよね。
例えば、今回の「へらへらしてる大人」のケースにあてはめると、俺にとっては数学も運動もコミュニケーションも同じになる。
どれも思わず出来ないからヘラヘラしてしまうような個人的に苦手な分野だけど、「どれも歴史のある大事なことだから、ヘラヘラせず真剣に取り組め」と言われたら言い返せないんだよね。
出来ない側として非があるのはこっちだから。
でも、数学という学問と違って運動やコミュニケーションだと「得意不得意がある」って感じで、出来ないことも正しいことだと認めてくれる人はより多くなると思う。
運動やコミュニケーションが得意な人は正しいし偉いんだけど、そこだけが個人を決定づける要素ではないという逃げ道が用意されている。比較的。
だけど、おそらく国民全員が一度は習うであろう学問、そして数学となると途端に話は違ってくる。
「数学を出来る人がこんなにいるのになぜ出来ないの?」「学校で一度習ったよね?」「数学の重要性、学問の重要性を知らないの?」というある種マッチョイズムな意見が途端に多くなる。
マッチョイズムではあるが出来る側からの正しい意見ではあるので、馬鹿で不勉強な出来ない側は何も言い訳すらできずに、「自分の努力不足です」「自分が考え足らずでした」と非を認めることしか出来なくなる。ヘラヘラして自己を正当化するなんてことは許されない。
数学という才能に左右されると言っても良い分野ではなおさら出来る側と出来ない側の意識の差が大きくなる。
数学能力という一つの指標で正しさを測ることが出来るような数学という分野は、俺のような半端者には残酷だと感じられる。
俺の地元にも中卒高卒で就職してろくに学校で習った学問を活かす機会も意識もないまま日々を過ごしているマイルドヤンキーみたいな人たちが大勢いたけど、出来る側であるあのエントリーの人やはてなの人たちからすれば、彼らも大人のくせに学問の重要性をわかっておらず軽視しているような正しくない馬鹿な人たちだと言えるし、そう言われても仕方がないと思う。なぜなら学問が重要なのは、まごうことなき事実で正しいことだから。
もしくは彼らがヘラヘラ笑いながら「数式アレルギーだ」と言っても、あのエントリーの人やネットの出来る人たちは眼中にないかもしれないし、彼らも気にしないかもしれない。
俺みたいな数学を頑張っていてもなかなか出来る側の人のように上達出来ないけれど出来る側と接する機会があるような半端者には、あのエントリーの正論は正しすぎるが故に残酷だと感じるんだよなあ。
運動には個体差があるけど、 数式は「勉強すれば誰でも東大に入れる」教徒の多いはてなにおいて 誰にでも公平で優秀なマウンティングツールでしかないってことよな。 できないと...
ほーらこうやって後ろから撃つような誤読詭弁が出てきた だから感情任せの批判なんてするもんじゃねーんだよな