ぼくらの世代の『エロ』とはなんだろう?そんなことを最近考える。
家にいながらにしてエロ本を買い、秒速で高画質SEX動画をダウンロードできる昨今、手軽に気軽に『エロ』が手に入る時代になったことは疑うべくもないだろう。
通信網の発達と様々なデバイスの登場、文明の発達によって我々はいとも簡単に『エロ』を手にできるようになった。
しかし、『エロ』とはなんだろう?『エロ』は消費するものだろうか?
確かに大人になれば『エロ』は消費するものになるだろう。それは金があるからだ。「金さえあれば何でもできる」とは宇宙開発にご熱心な某右衛門の言葉である。
いま30代以上の男性よ、思い出して欲しい…捨てては拾う夢のリユース・リデュース・リサイクルを。
ぼくより年上(現31歳)の男性であればどの地域の男性でも学校の帰りにエロ本を拾ったと証言してくれることだろう。
かく言うぼくも拾ったクチだ。
落ちている場所は大体一緒だから、その場所を通るときは毎日目がギラつく。行きも帰りもだ。そうだったろう?
そして、腹が立つのが、そんなときに限って女子生徒が後ろにいるんだ。拾いたくても拾えない…それでもわかっちゃいるけど止められない…そんなギリギリをぼくらは生きていたはず。
一本釣りの魚と底引き網漁の魚、どっちがウマいかって話だ。緊張感が快感を生んでいたンだ。
その緊張感を次世代へ…それで同じ場所にみんな捨ててたンだ。
そう、『エロ』は消費するものじゃない、還元するものなンだ。
そうやって大人から子どもへ受け継いできたものなンだ。
古くは鳥獣戯画…じゃなくて春画。ちょっと前ならエロ漫画(レモンクラブ等)や投稿系のエロ本。それでパンティプレゼントに応募しようとして期限が3年くらい前に終わってたなんてことばかりだった。シミ付きパンティのシミがなんのシミなのかもわからないまま…。
コンビニでエロ本を買う、レンタルビデオ店でエロビデオを借りる。ここで男の度胸が試された。明らかに18歳未満なのに売る店もどうかと思うけど、まぁそれはしらん。
そこにコミュニケーションも生まれた。エロ本&エロビデオの貸し借りをすることでこれまで話したこともない人との会話も生まれた。ヤリマンの素養のある女子と話もできるようになった。
それがぼくらの『エロ』だった。
いまじゃどうだ。
Amazonで一部エロ漫画読み放題になり、毎日ぼくは『ピザッツ』を読んでいる。たまにアクションコミックスのエロ漫画を読んでいる。読んでいるしコイている。
便利でいいじゃないか。
たまに『ナマイキッ!』が読みたくなるし、『LO』も稀に読みたくなる。
DMMで毎日エロ動画を観ている。もちろん観ているしコイている。
便利すぎる。
全て家から一歩も出ずに、だ。
なんだったら出先でも気軽にできる。SC(ショッピングセンター)のトイレに入ればそこはぼくの空間。なるはやで終わらせれば誰にも迷惑はかからない(消音必須)
なんだ、圧倒的にいい時代じゃないか。
別にさ、『エロ』に色々ロマンを求めてもしょうがないよね。
500円で見放題だよ?他に観たいものがあれば別で買えばいいんだから。
今後はVRに期待してます。