『ぼくのゴジラ観』(by ショウエイ)
シンゴジラ、ダメだった方へ。
心中お察し申しあげます。わかんないものが評価されているのは、ときには腹立たしくさえあることでしょう。放射熱線を吐きたくもなるでしょう。
どうか、「フローズンドリンク」でも飲んで心を落ち着けてください。(うまいこと言った!)
私が『シンゴジラ』を観たのは、リオオリンピック最終日であった。
オリンピックは毎回、公式記録映画を制作することが義務づけられている。
1964年、東京開催の際の記録映画『東京オリンピック』を撮ったのは、元アニメーターであり、『犬神家の一族』などでも知られる市川崑監督である。
市川作品に多大な影響を受けたのが、庵野秀明監督。
魂は受け継がれている、ということを意識した結果、この日に観ることにしたのだ。
ウソである。
さした理由なく、ちんたらしているあいだに、けっこうなネタバレを喰らうはめになってしまった。
シンゴジラ、わが心を蹂躙す
『シンゴジラ』についての考証、分析や、ゴジラ史、映画史における意義については知識が豊富な方にお任せするとして。
1998年版を支持するわけ
世界中にファンがいる怪獣、ゴジラ。
それぞれの中に、ゴジラ観があるのだろう。
ゆえに、ローランド・エメリッヒ監督による1998年版は「こんなのゴジラじゃない!」という猛烈な批判を受けた。
だが、私の中に明確なゴジラ観など、なかった。こんなのゴジラじゃない、といわれても、これが「今回の」ゴジラです、ってことじゃんかさー、と思っていた。
で、私はいろいろと感覚がズレているのだが、1998年版の好きなところは、「絶対的な敵なのに、観ているうちに、いつのまにか自分が人類サイドではなく、ゴジラサイドに立っていて、ゴジラを応援していた」ことである。
ズレてるでしょ?
前半の大暴れに、自分が大暴れしているかのような気持ちよさを感じた。終盤の、
横っ腹にミサイルを喰らってるところなんかは、ゴジ君、かわいそう! ゴジ君逃げてー! と悲壮感に近い心情で眺めていた。
考えてみれば、私は、悪役が大好きなのである。そして敗北する悪役に、カタルシスをおぼえるのである。
2014年版がぴんと来ないわけ
ギャレス・エドワーズ監督による2014年版は、人類にとって、さらにやっかいな怪獣、ムートーが存在した結果、ゴジラは人類サイドに立つことになる。
ゴジラ自身にその意思はないのだが、状況としては味方であり、倒すべき敵とはいえなかった。
最強の敵が、味方となって共闘、というのは少年漫画の王道、かつ歓喜の展開だが、私は「孤高の悪」に強烈なカリスマを感じるのである。
ゴジのやろう、都合のいい存在に成り下がりやがって・・・。人間なんて、他者を利用することしか考えない、身勝手な存在だぞ?
むしろムートーとタッグを組んで、絶望感をあおってくれ! 人類を滅ぼしてくれ!
私はそんなことすら考えていた。
だが、ムートーを倒した後、海へと去っていくゴジ。まるでハードボイルドの主人公のようだった。
『シンゴジラ』を支持するわけ
ここまで、あくまでもハリウッド版との比較。本家、日本版ゴジラには、申し訳ないがあまり思い入れがない。
ゆえに、日本だからこそのゴジラを見せてくれ! といった思いは、私にはなかった。
で、である。『シンゴジラ』を、観てきた。友人と一番いい席に陣取って。
最悪だ。最悪の存在が現れやがった。
・・・・・・・・・・・・歓喜!
やつにはなにもかも通じない感。攻撃も、もちろん、感情も。
視覚情報をキャッチする役目のみを果たす、表情のない、死んだ魚のような目!
圧倒的な攻撃力と、無慈悲な姿勢!
まったく整っていない歯並び!
か、かっこいい・・・・・・。
もし『シンゴジラ』の世界に私らしきキャラがいたなら、ゴジラを「神」として崇める新興宗教に傾倒するイタいやつ、かもしれない。
私は、あのゴジラに、最高のカリスマを感じたのである。
人類による攻撃がまったく通用しなかったとき、私は思った。
もう十分だ。人類はよくがんばった。さあ、ともに滅びの時を迎えようではないか。
この映画は、バッドエンドで終わる。庵野秀明作品なだけに、それも可能性のひとつだと思った。
結果的に人類は危機を回避するわけだが、最後まで私は、ゴジラがんばれ! 立て、立つんだゴジィイイイイ! と心で叫んでいた。
(彼を「ゴジくん」と呼ぶ気にはなれない。呼ぶなら、「ゴジ様」だ)
好きなシーンは、ゴジラが映ってるシーンに関しては、すべてだ。
展開も、カメラワークや編集もすばらしかったので、何度でも繰り返し見ていられそう。
ダメだったところ
マイナスポイントは、微々たるものだが、なくはない。
あきらかなツッコミどころは、あえてであるとスルーするとして、私がひっかかったのは、人間の思考や感情の表現方法を、セリフのみに頼っているように思えたところ。
言葉にしなくても、役者の表情や仕草で十分伝わるし、そのほうが実写映画向きだと感じた。
ここは、もとはアニメという、他者(役者)に依存する程度の低いメディアで表現してきた庵野監督だからなのかと思った。
例としては、ひとつには、独り言での感情吐露。
アニメや漫画ならアリの演出法だが、実写作品での独り言は、リアリティを乏しくさせる。
とくに、ラストでの矢口蘭堂 (長谷川博己)がみずからの決意を示すシーン。そこそこの長さのセリフを、誰もいない場所で口にする。
ほかの演出方法で見せてほしかった。
ふたつめは、このセリフ。
「ゴジラより怖いのは、私たち人間ね」尾頭ヒロミ (市川実日子)
人間が一番怖い、というのは、多くの作品のテーマになっている、大きく、かつ普遍的でもある要素なので、明確な言葉にしてほしくなかった。
安っぽくなるし、人によっては説教くさく感じるのでは。
観る側がかってにそう感じるようにしてほしかったし、実際、そうできていたので、不要だった。
批判としてよく目にした、石原さとみのキャラ設定に関しては、私は無問題。
彼女のおかげで、前半の徹底的なリアリティと、後半の人間賛歌的展開が、違和感なくつながって見えたんじゃないかと。
愛を描かなかったことについて
評論でよく目にした評価ポイントのひとつが、家族愛、恋愛といった、安易な感動話になりえる要素を排していたという点。
それはわかる。
普通だったら、長谷川博巳には、最近うまくいっていない奥さんと、明日あたりが誕生日の、小学生の子供がいるといった描写が入るだろう。もしくは、石原さとみとの、恋愛描写。
映画会社は、そういった愛の要素は、観客の満足を確実に得られる保険的な要素として、かならず入れるようプレッシャーをかけてくるという。
監督は、予算を握られてもいるし、その圧力に屈してしまう、と。
屈しなかったのが、庵野秀明監督のすごさだ、ということなのかもしれないが、多くの監督がアクションものにも愛を入れてしまうのは、屈したからではないと思う。
多くの監督が、監督自身、作品に100%の自信が持てなくて、保険を求めてしまうのではないか、と考える。
映画とは、大きな事業だ。とくに、予算の大きなアクション性の高い作品における、監督の肩にのしかかるプレッシャーは、想像を絶するものだろう。
ゆえに庵野監督のすごさは、愛の要素がなくても「絶対に面白い作品を、俺なら作れる」と確信に近い自信を持てたことじゃないかと。自信でなければ、覚悟。
それがけっして「過信」ではなかったため、こうした大成功につながったんじゃないだろうか。
あ、ラストシーンの解釈は、私は、人間に代わるあらたな人類の可能性、といったものだと思っている。エヴァにおける、使徒。
*
とにかく、ゴジラ音痴の私ですら、大満足な出来だった。
今後のゴジラ制作者には、プレッシャーだろうなあ。
アメリカ版ゴジラは、ギャレス・エドワーズ版の続編と三作目の製作が決定している。
続編には、ラドン、モスラ、キングギドラが登場。三作目では、キングコングとの対決が描かれるという。
私はまた、ゴジラ音痴に戻りそうな気がする。
記事終わりの連載4コマ×2
『まぐねっこ』(by 五郎)
・その34
ピップ・エレキまぐねっこ!
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・その66
「ホラー映画を観た夜、トイレに行くの、怖くない?」(小学生の私)